暇を埋める一杯を

ラクリエード

暇を埋める一杯を

 自宅にいる時間がすっかり増えて、早くもひと月が経ってしまった。

 テレビを点けようが、ラジオをつけようが、新聞だろうが、メディアはまぁ飽きもせず緊急事態、緊急事態、とハチの巣をつついたようにブンブンと騒ぎ立てている。むしろ捕食者から逃げるためにバシャバシャと跳ねるトビウオだろうか。

 だが切り抜き窓越しの会議に、つい挟んでしまう雑談によれば、ぎゅうぎゅうのすし詰め出勤時間もなくなって万々歳だと皆一様に口にする。

 そんな中、一人の上司は飲みに行きたい、とそばかすだらけの顔をしゅんとさせている。それに同意するのは、こちらから見て上司と隣合わせの同僚で、家族サービスも大事っすよ、と明るく笑っていた。

 彼の一言が効いたのか、どうにか笑顔を取り戻した酒好きの上司は会議をまとめると、そそくさと退室してしまう。もしかすると、現実を忘れさせてくれる酒よりも、画面の外にいる家族のことを想ったのだろうか。だとしたらほほえましいことである。

「じゃ、お疲れさまでした」

 退室ボタンをクリックして、同僚の返事がぶつりと切れてしまう。回線どうにかしろよな、と思いつつ、会議で出たタスクを整理しようと立ち上げていたテキストエディタを見返して追記する。あれと、これとそれと……。

 一通り打ち込み終え、キーボードから離れた右手は脇に置いていたマグをとる。書き上げたばかりの、そこそこの文字群に視線を這わせつつ、すっかり湯気も落ち着いてしまったコーヒーをすする。

 ズズズ。香りのない、苦みと酸味ばかりを舌は伝えてくるが、これはこれで、うまい。


 やがて定時時刻を迎え、パソコンを落とす。同時に私用のパソコンの電源を入れ、マグを手に席を立つ。今日は何をしようか。

 ひとまず退勤後の一杯。自室から出て居間に出ると、家族全員が揃っていた。

「今日はもう終わり? お疲れー」

 台所に立って手を洗っているところの妻は真っ先に気づいてくれる。そうだよ、と返事をしつつソファを見やれば娘が占領し、息子はカーペットに寝転んでいて、二人ともスマホをいじっている。宿題やったのか、おまえら?

 そんなことが口から出ようもんなら、手厳しい嫌味が待っているというものだ。触らぬ反骨心の塊に祟りなし。台所にまわって、マグにインスタントコーヒーの粉を。ついでに夕飯のことを聞いてみれば、良くも悪くもいつものレシピだった。

 できるまではあと一時間はかかるだろう。その間にブログの確認でもしておこうか。

 くるりと振り返って、いつもそこにある、桜のプリントがされたポットのつまみに力を込める。カチッと音を立てたことを確認して、湯気注意、と書かれた大きなボタンを押し込めば、ブスブスブス……と鼻を詰まらせたような音を立てて、トポトポと細いお湯がマグへと吸い込まれていく。

 トプトプと、ポチャポチャと。いつもの半分しか満たされなかった。

 毎晩、翌日一日で使い切る量のお湯を沸かしていて、いつもなら最後の一杯があるはずだが今日はそうではないらしい。きょろきょろと見回してみても、どこにも使ったらしい場所は見当たらない。妻に尋ねてみれば、ついと指さす先には、娘。先ほどは気づかなかったが、その近くには彼女の使っているかわいらしいシールの貼られているマグがある。その口からふわりふわりと湯気を吐き出していることから、先ほど淹れたのだろう。

 居間に出て娘に声をかけ、使ったんなら沸かしておけよ、と注意する。いいじゃん別に、と口をとがらせ、スマホばかりを叩いている。

「カフェイン中毒なんだから、これを機に控えたら?」

 親父のことなど意識の外だ、と言わんばかりの様子。

 ならいっそのこと、空にしておけよ。どうすればいいんだよこの半分のコーヒー。視線を落とせば、普段の倍はあるのだろう苦みの闇が揺れている。というか、粉はいつも通りだし、カフェイン量は変わらないよな?

「大体さ、この時間で飲むってどうなの? 早く寝ろってうるさいくせに夜更かししてさぁ」

 はい、その通りでございます。会社だと残業ばっかりでコーヒー飲んでないとやってられないんです。今は、在宅勤務をごりごりと推し進めた会社のおかげで、残業時間を一気に削減する方向に舵を切っている。この一杯は二月前の名残みたいなものだった。

 こういうときにケトルがあると便利なんだろう。だが後ろで家事をしている彼女が、それなりに手入れをしているあのポットを手放すかどうか。

 見た目も、数世代は前だろう、家電売り場に並んでいるごく普通のポットであるにも関わらず、飽きもせず使い続けている。たしか新婚のときに買ったんだっけか。冷蔵庫も炊飯器も二代目なのに、よくもまぁ生きてるもんだと思うが、それこそ機械オンチの彼女の手入れの成果なのだろうか。

 次からは気をつけろよ、と娘に釘を刺しても返事は帰ってこない。小さくため息をつきつつ、足元にいた息子の背中に足を乗せてみる。

「宿題、しとけよ」

 グゲ。そんなカエルのような音を器用に鳴らした彼は、分かってるし、とスマホに意識を向けなおす。忘れんなよー、おまえら。

 おっと、パソコンをつけたところであることを思い出す。自室に戻ることにしよう。忘れないうちに、ケトルを注文しとくか。


 数日後、昼食を食べるために居間に入る。

 そこには開梱済みの段ボールが一つ置いてあり、中には梱包材にまみれたケトルの箱が一つ、ちょこんと居座っている。

 なんで開けてないのだろう。学徒たちは学校に行けなくなり、部屋で勉強中。折角だし食卓についていた妻に尋ねてみた。

「やっぱり犯人はアンタかっ。電気代かかるけど、まだポット使えるのに」

 じっとケトルを見ていてことに気づいたのだろう彼女は、おかしそうに笑う。ちらりと台所の隅にたたずむ年長者の姿を見やり、改めてこちらを望む。なにか特別なものだったっけか、と尋ねてみれば、覚えてないの、と目を丸くする。

「だって、私が欲しいって言って、唯一買ってくれた家具が、あれだったんだもの」

 クスクスとおかしそうに笑えば、そうだっけか、と返すしかない。

 冷蔵庫、テレビ、洗濯機の、昔で言えば三種の神器。レンジにオーブン、電子コンロにクーラー、ストーブ炬燵、果てには電灯まで。どれもこれも同じに見える、と目を回していた彼女が、コレがいいと指さすのはいつも、我が家にはオーバースペックなものばかりだったか。

 その頃にはケトルなんてものはなくて、お湯といえばポットで沸かして、貯めるものだった。残りの湯量を確かめつつマグを置いて、必要な分だけ押して注ぐ。なくなれば蓋を開いて水を注いで、スイッチオン。

 ただそれだけの機能だから、こちらとしては逆にどれでもよかった。価格もなべて、全て同じ。そんな中から彼女が指さしたのは桜のプリントされたポッドだった。

 ああなるほど。それ以降も、家具や電化製品を探すのはこちらに一任していて、彼女が管理するのは予算だけだ。言うならば、思い出を手放せない、といったところだろうか。

 だが、これは十何年前の遺物だ。毎日かかる電気代は馬鹿にはできない。こうなれば、電気ケトルの力を、彼女に伝えねばなるまい。

「よし、捨てろとは言わない。でも、買っちまったもんは仕方ない。これの便利なところ、見せてやる」

 パチパチと静電気を鳴らしながら、箱から取り出されていく新品の箱。

「そういえば、ケトルって何?」

 そこからか。後ろポケットに入れていたスマホの画面を三回タップして、パスワード。ブラウザを立ち上げケトルの意味を調べ始める。画面に映し出された文字を見て、少しばかりやる気を失ってしまう。


 平日の真昼、昼食を食べ終わる頃には業務再開の時間をゆうに過ぎていたのは、また別の話。

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