コロナの終わりに……
はやしはかせ
コロナの終わりに……
世界中を苦しめた感染症が、ワクチンが出回ったことでようやく収束を迎えようとしていた時期のことだ。
一人の男が自宅マンションで死んでいると真夜中、警察に通報があった。
俺と部下の中尾は現場に出向いて現場検証を行ったが、大量の睡眠薬を飲んだうえの自殺だとすぐに理解した。
遺書はなかったが、ありとあらゆる状況が自殺であると物語っていたのだ。
運ばれていく死体に手を合わせたあと、俺と中尾はなぜ男が死んだのか、ぼんやり話し始めた。
「こんな立派なタワマンに住めるエリートサラリーマンが、なんで自殺なんかしたのかねえ。コロナもようやく終わるってのに」
俺からすれば信じられない話だ。
距離感やらマスクやら自粛やら、長いこと俺たちを苦しめてきた足かせからようやく解放されるときが来たってのに。
酒、美味い飯、スポーツ、映画、演劇、音楽、俺たちを助けてくれた全ての快楽と抱き合える日が来たというのに。
なんで死ぬのかねえ。
だが、しかし。
死んだ男とたまたま同い年だった中尾は男の気持ちがわかるというのだ。
「おやっさん。死んだ男がSNSで残してきたメッセージを追いかけてみたら、彼が何故死を選んだのか、わかりましたよ」
俺は舌を巻いた。
中尾はいつだって優秀で、頼れる部下なのだ。
「頼む、教えてくれ」
中尾は男の遺品であるノートパソコンを開いて俺に見せる。
「まずこの文を見て下さい」
『おうち時間がしんどい、やることないとか言ってる奴らいるけど、俺からすれば普段の生活とほとんど変わらないんだよなあ。何がそんなに窮屈だって言うんだ』
「いや窮屈だったろ、家で酒を飲んでもちっとも楽しくないってのに」
「おやっさんはそうでしょうが、男は酒が一滴も飲めなかったそうです。会社の同僚によると、仕事は出来るけど付き合いは悪く、飲みの誘いはほとんど断って、仕事が終われば家に直行だったとか。唯一の趣味はゲームだとか」
大きな部屋の広い壁に貼り付けられた特大テレビの下には、俺の知らない最新ゲーム機がずらりと置いてあった。
「次にこのメッセージを見て下さい。時期的には二度目の緊急事態宣言が出たあたりです」
『いいんだよ。ずっとこれでいいんだよ。いやわかってはいるよ。でも俺はこれでいいんだよ』
「なんだこりゃ」
何かの暗号なのかと俺は思ったが、
「これが男の本心なのでしょう。皮肉なことに、彼にとってはコロナによって生じた自粛生活の方が居心地が良かったんです」
「そうなの?」
「はい。彼は内向的な性格です。自粛生活は全ての人間に内向的であることを強要します。耐えられない人間もいれば、そうでない人間もいる。死んだ男は後者だったんでしょう。むしろ、おうち時間という奴が、彼が待ち望んでいた生活そのものだったのかもしれません」
俺にはさっぱりわからない。
人と会わないことでどれだけ魂がすり減ったか。
あの疫病のせいで苦しい思いをしたことで最悪の選択をした人達を俺は仕事柄、何人も見てきた。
何一つ良いことなんかなかったのに。
「おやっさんの言うとおりです。だから男にも葛藤があったのでしょう。コロナで全てを奪われた人がいる。命がけで最前線に立つ医療関係者もいる。彼らの苦しみをわかっていながら、彼は居心地の良さを感じてしまっている。その葛藤です」
そして中尾はタワマンの最上階の部屋から外の景色を見つめる。
コロナに奪われたネオンの光は、少しずつ輝きを取り戻している。
そのきらめきは人の欲望だ。
欲望をさらけ出し、分かち合ってこそ人は美しいと俺は思ってきた。
「おやっさん。人間には一人でないと生きられない奴がいます。一人でいることで、自分らしくいられる奴らがいるんです。それを知らずに、皆で苦しみや笑いを酒に混ぜ、時間を共有しようと誘ってくる奴らがいても、それは重荷でしかない」
「そうなのかなあ……」
「ではこのメッセージを見て下さい」
『いよいよ俺等の世代にもワクチンが出回るらしい。全てが元通りだ。良かったんだろうけど、うーん』
「これが男の最後のメッセージになりました。三日後、つまり今日、男は自殺したということになります」
俺は必然的にある答えに辿り着いた。
「元の世界に戻るのが嫌だから死んだのか?」
「そう思われます。夏休みの終わりの日に自殺者が増えることと、なんら変わらないでしょう」
そして中尾は言った。
「コロナロスともいうべき感情が一部に出回って、悲しいことが連鎖するような気がしないでもありません。コロナは社会の歪みを私たちに容赦なく見せつけましたが、ウイルス自体は収束させても、歪みを消すことは出来ませんでしたから」
俺は改めて部下の顔を見た。
中尾はいつだって優秀で、頭が良すぎるくらいだ。
俺はその日から、中尾を飲みに誘うのをやめることにした。
コロナの終わりに…… はやしはかせ @hayashihakase
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