コモリトピア
柳なつき
ここは楽園
おうち時間は、楽園だ。
三咲は今日も今日とてゆっくりと起床した。
お気に入りのシルバー製のコーヒーメーカーでこぽぽとコーヒーを淹れると、メタリックピンク色のソファに座る。甘えてくる三毛猫のヒトデを撫でながら、ひとさし指を上から下に動かすと、ぷにぷにの素材でできた水色のテレビがぱちんと点いた。
テレビに映ったアンドロイドキャスターは語る。
世界の人間すべてに例外なく、世界政府から緊急かつ強制の「ひきこもり命令」が出されて、まだ三日だが――命令を守らずに外出する人間は、あとを絶たない。すでに全人口の三割がすくなくとも一歩は外へ足を踏み出してしまったことが確認されている、と。
やはり、ひとりでは生きられないひとが多いのかもしれませんね。アンドロイドキャスターはそうコメントして、ニュースを締めくくった。
へええ、と思いながら三咲はコーヒーを啜った。
よく、理解できないな。
ひきこもれって言われれば、わたしなら、いつまでだって、ひきこもれるのに。
仕事も人間関係も、ほんとは、きらい。外に出るのが、そもそもきらい。
でも三咲のずっと夢だった空を飛びまわるピザ配達員は、外に出て働くタイプの仕事だった。
実際に、ピザ配達員になってみて。最先端の宇宙服みたいな制服はとってもかわいくて満足だったけど、スカイストーン――浮遊石の乗りものに乗ってあちこちの空を飛びまわるのは、思ったより楽しくなくて。三咲はいつのまにか空が嫌いになっていた。ずっときれいだと思っていたのに、青空も、曇り空も、雨の空も、夕暮れの空も、ぜーんぶ。
だから三咲は、もうすでに気づいている。
ほんとは、おうちにいるのが大好き。
ピザ配達の仕事も停止命令が出た。家にこもっているぶんには、娯楽も含めて生活は充分に保障される。世界政府によって保障されたおうち時間、万歳。
「ヒトデだって、わたしがいっつも家にいたほうが、いいよねえ」
膝に乗るヒトデを撫でると、にゃー、と彼は緑の瞳で三咲を見上げて鳴いた。
さて、今日はなにをしようかな。サボテンでいっぱいのお風呂を手入れするのもいい。高校生たちの通信を傍受してラジオ代わりに楽しむのもいい。好きなことばっかりできる。
空はもう嫌いだから、シャッタータイプのカーテンは固く閉ざしていたけれど。三咲の心は、今朝も晴れやかだった。
家から、一歩でも外に出てしまうひとびと。
毎日、毎日、報道されるその人数は増えていった。
三日目には三割だったのが、五日目には五割に。一週間もすれば、七割に。日数に割合が、ほとんど比例していませんか。ええ、そのようですね、笑えない冗談です。アンドロイドキャスターとロボットコメンテーターは、ばかみたいにシリアスな雰囲気で、そんなことをテレビのなかで語りあっていた。
へええ、と三咲はやはり思った。
信じらんないな。わたしなんか、一週間経ったけど、いまだに一歩も外に出たいだなんて思わない――ふと、おまえには社会性がないよと、ピザ配達員のやったら明るい先輩に、どうしてか何度も言われたことを思い出した。
あのひとはもう外に出ちゃったんだろうな。派手なラメのメッシュをカラフルに入れた金髪の彼が、いえーいと家から足を踏み出すところをふと想像すると、なんだかちょっと可笑しくて、苦さよりも
三咲の完全なるおうち時間が、二週間に到達するころ。
午後だから、アールグレイの紅茶を淹れて、ホワイトのローテーブルの上に置いて。レトロタイプのテレビゲームマシンを起動させて、
ふわり、と腰が浮いた。目の前の紅茶もテーブルも浮いて、紅茶がこぼれてしまうと思ったけれど、そうはならなかった。紅茶はティーカップと分離して、球体となってその場に浮き続けた。その隣でティーカップが浮いている。テレビゲームマシンもソファもテレビもコーヒーメーカーも、ミニラフレシアの植木鉢もピザ配達員用の制服も、なにもかもが、ふわふわと浮いていた。
ヒトデが、ぎゃーっと叫んだ。部屋の隅のキャットタワーのいちばん高いところで疑似太陽光を浴びていたはずだったのに、いきなり浮いたことに驚いている。前足も後ろ足もじたばたと暴れさせている。
三咲は慣れないながらも泳ぐように部屋の天井に向かっていき、ヒトデを抱きしめた。
「だいじょうぶだよ、わたしがいるよ」
三咲が優しくその頭を撫でるうちに、ヒトデはやがて落ち着いてきたようだった。
天井に頭が当たるほどの高い位置で、飼い猫を抱きしめる――異常事態だと頭ではわかるのに、なんだか、たいして驚きもなかった。ヒトデの身体が、いつも通りに温かかったからかもしれない。
部屋のなかが無重力空間になっても、ひきこもり生活は続いた。テレビは点かなくなってしまったし、外部への通信は遮断されてしまったけれど、ほかのマシンは問題なく動いた。呼吸の苦しさもないし、飲食もできた。ただ単に、何もかもが浮遊するようになってしまっただけだった。
なにか事故でも起こったのだろう。三咲はそう考えて、軽い気持ちでいた。食糧も水分も無限で生成できるマシンがあって、ヒトデのごはんもそれで作れる。高校生の通信傍受ラジオは聴けなくなってしまったけれど、それ以外の娯楽は、無重力による移動の面倒臭さを除けば従来通りに楽しむことができた。
そして、無重力空間での生活も三日目を迎えたとき。
「三咲ちゃん、三咲ちゃん。ぼく、しゃべれるようになったのだニャー」
浮遊しているミニラフレシアの写真をレトロカメラでさまざまな角度から撮影していると、抱っこしているヒトデが唐突に人語をしゃべった。さすがに驚いて、レトロカメラを手放してしまったけれど、カメラは手から落ちずにそのあたりを漂いはじめた。
「驚かせて、ごめんなさいなのニャー。でも、ぼく、頭がとっても良くなったのニャ」
ヒトデは、えっへん、と胸を張る。
三咲はぽかんとしたが、すぐに満面の笑顔になって――ヒトデを抱きしめていた。
「えー、うそー。ヒトデ、言葉覚えたの?」
「嬉しいのニャ?」
「もちろんだよ、えー、すごーい、ヒトデ!」
「……喜んでもらえなかったらどうしようと、ちょっと思ってたのニャ」
「どうして?」
「三咲ちゃん、他の人間としゃべるのが、あんまり好きじゃニャいから……」
「それは、人間だからだよお。ヒトデは猫だし、わたしの家族でしょう?」
「それなら、よかったのニャ」
ヒトデは、ふと真剣な瞳で三咲を見上げた。
「ぼくは『ひきこもり命令』の真実を知ってるのニャ。人間以外の生きものが、もしここまでくれば、知的能力が一瞬で劇的に向上して――かつ、その真実を理解するように仕向けられていたのニャ」
「どういうこと?」
「たぶん、ぼくが説明するよりも見たほうが早いのニャ。シャッターカーテンを開けてもらっても、いいかニャ?」
三咲は数年ぶりに、指をパッチンと鳴らしてシャッターカーテンを開けた。
すると。
三咲の家は、宇宙に浮いていた。
ふわふわ、ふわふわ、ふわふわと。
地球はもうはるか遠くて――どこを目指すでもなく、浮いていた。
「……え、なにこれ」
「ここは、宇宙ニャ。ペットとして飼われていた生きものの知能は宇宙のここまでくれば、粒子の影響を受けて、一気に上がって、事前にその粒子に刷り込まれていた真実を理解するのニャ」
「ちょっと思ったんだけど。ペットのいない家は、どうなるの?」
「どうなるんだろうニャ。ずっと真実がわからないまま、なんじゃないのかニャ。……そもそも地球人が生き残ることが例外的な温情なのニャし」
「え、なあに、それ、ヒトデ」
「あのニャ。実は、地球は全宇宙会議で消滅させることが決まったのニャ」
「どうして?」
「宇宙水準で見れば、地球人は社会に依存しすぎているのニャ。数百年にわたり観察を続けていたニャが、地球人のそういう『群れる』という性質がある以上、地球のこれ以上の宇宙的発展は望めないと判断されたのニャ」
社会性、社会性とうるさかった、ピザ配達員の先輩の顔が浮かんだ。
「家から一歩でも出た地球人は、あつあつの炎で、本人も気づかないうちにこの世からサヨナラだったニャ。でも宇宙水準的に『孤独耐性』の充分な人間だけは、助かることになっていた。三咲ちゃんの『孤独耐性』は充分だったのニャ。生き残った地球人は、宇宙政府に保護される。でも宇宙は広いから、三咲ちゃんがいつ保護されるかはわかんないのニャ。数年後かもしれないし、数十年後、もしかしたら一生発見されない可能性もあるニャ」
「ふうん……ねえヒトデ。もし知ってたら、教えてほしいことがあるの」
「なんニャ?」
三咲は、ヒトデの頭をいつも通りに、愛しく、撫でた。
「宇宙にきても、食糧も水分も無限に生成できるってことはわかったんだけど。いままでのように、植物を育てたり、通信を傍受したり、ゲームをしたり……そういうことって、楽しめるの?」
「できるのニャー。サボテンもミニラフレシアも育てられ続けるニャ。それに、植物は途中途中の小惑星で拾えばいいのニャ。通信の傍受は簡単なのニャ。地球の高校生のおしゃべりなんかより、宇宙のおしゃべりは、もっと、もーっと楽しいのニャ。ゲームも宇宙電波から傍受すればいいのニャ、地球人が遊べるタイトルもあるニャ。賢くなったぼくが、いろいろ教えてあげれるのニャ。三咲ちゃんの快適なおうち時間を全力でサポートしてあげるのニャ」
「……なんだ」
三咲はそっと微笑んで。
もう遠く離れた地球を、青いところだけ残して緑の部分は真っ赤に染まったその星を、眺めた。――これが、宇宙の空。
「わたしは、いつのまにか、ほんとうの楽園に来ていたみたいだ」
仕事も人間関係も、外に出るのも、他人も。
ほんとはきらい、だいきらいだったから。
空を、ひさしぶりにきれいだと思った。
コモリトピア 柳なつき @natsuki0710
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