第16話
登校途中、鼻が曲がるほどの湿布の臭いに気分が悪くなった。腫れと痛みは顔中に貼った湿布で緩和できるにしても、この臭いだけはどうにもならない。
側溝には雪解け水が流れていて、触れると指先の感覚がなくなるほど冷たかった。
一日湿布の臭いに堪えられる自信もなかったので、その場で全て剥がして冷水で顔を注ぐと、熱を持った顔の腫れがすぅと引いていくような気がした。
これはいいやと、その場でうずくまりながら顔を注いでいると、背中に複数の視線を感じたので振り向くといつもの三人が立っていた。
三者三様話しかけてくるわけでもなく一定の距離を保ったままじっと見つめて。
「なんだよ。この顔が珍しいか?」
少し皮肉っぽい言い方になってしまったが、このくらいが話しやすいかと思って喋りかけると、流星が気味悪そうに口を開いた。
「お前んちの父ちゃんどないなっとんねん」
「父さんがなんだって?」
真琴が話を引き継いで続ける。
「あのね、昨日の夜中に和夫君のお父さんが変な声出しながら村中を走ってたの。最初は獣か何かかと思ったんだけど、あんまり煩いもんだから窓から外を覗くと……よくわからない言葉を叫びながら走り抜けてったんだ」
「近所の老人もたくさん見たらしいよ」
「そんな……父さんが?なんでそんな」
父のおかしな行動は今に始まったことではないけど、話を聞くとどうやら常軌を逸してるの間違いなかった。まるでヒトをやめてしまったような――
「知らんけど、もうこの村にはいられなくなるで
。もう父ちゃんからはもう関わるな言われとったんやけど、真琴があんまり煩いもんやから忠告しといたる」
「な、なんだよ」
「あんな気味悪い家さっさと捨てぇや」
じゃあな、とすれ違い様に手を降り三人はそのまま学校へと向かっていった。
いつもなら始業時間になる頃、どうしたことか朋子先生は姿を現さなかった。刻一刻と過ぎていく一時間目の授業は本来なら喜ぶべき自由時間なのだろうが、どうにも気分が落ち着かなかった。
それは三人も同じようで、おのおの暇をもて余していた。
すると存在を主張するように引き戸が開かれる音がし、一同視線を向けるとやってきたのは教頭先生だった。
――なんで教頭先生が?もしかして朋子先生が休んだからかな。
教頭先生は黙って教壇まで歩を進めると、僕たち四人を見回して重い口を開いた。
「今から話すことは誰にも話さないでほしい。ご家族には既に連絡してある。くれぐれもご近所に言いふらしたりしないように約束できるか?」
それは内容にもよりそうだが、と口を挟む前に話は進められた。
「実はな。朋子先生が音信不通なんだ」
「家で寝込んどると違うんですか」
流星の疑問は子供でも思い当たるが、同僚の先生が自宅まで様子を伺いに行ったらしく、不在にしていることは確認がとれたらしい。
「なので、様々な可能性を鑑みて君達には早引きしてもらうことに決まった。なので親御さんに迎えに来てもらうように連絡してあるから、それぞれ離れないで帰るように。あと――」
ちらりと僕の方を見た教頭先生が言わんとすることはわかる。
「僕は一人で帰るんで大丈夫です」
それから真琴、崇、流星の順番で帰宅していった。僕を迎えに来る人は生憎いやしない。
誰もいない教室で深くため息をついた。
僕は顔の怪我を見られても何も問い質されないくらい触れたくない存在のようだ。まさに椿村の腫れ物になった気分だ――
寒々しい校舎から脱出すると、いつもより村人が多く出歩いている気がした。
この村に祭りという祭りは確か無いはず――そんな暢気に考え事をしながら歩いていると、僕の存在に気づいた人達が次々に視線を逸らしていく。
――そこまであからさまに避けるかよ。
やりきれない気持ちを抱えつつ自宅近くまで辿り着くと、田舎にしてはやけに騒がしい空気が満ちていた。それとやたら焦げ臭い匂いが立ち込めている。
またしても僕に気が付いた人達がモーゼの十戒のごとく二つに割れ、自宅までの道が開けたのは幸だった。
「え?」
自宅に辿り着くと、《立ち入り禁止》と書かれた黄色いテープて囲われていた。その周囲を取り囲むように小蝿のような村人達が埋め尽くしている。三人の同級生達もなんとかして覗きこもうと躍起になっていた。
焦げ臭さがより強くなっているようで、誰もが皆鼻を抑えていた。
――まるで焦がしすぎた肉の臭いだ。
ではなにが焼かれたのか。気づいたときには駆け足で立ち入り禁止のテープをくぐっていた。
「あ、コラッ!関係者以外勝手に入っちゃダメだぞ!」
「僕はこの家の子供だ!文句あるか!」
何処かから飛んでくる声を無視して敷地内に入ると、庭にドラマのなかで見るような鑑識の人達やトレンチコートを着た刑事らしき人も立っていた。
だが、僕の視線が止まったのは刑事の足元のブルーシートだった。
ちょうどヒトにブルーシートをかけたらそうなるような輪郭に恐る恐る近付くと、侵入者に気づいた刑事が止めようと両手で制してきた。
「この家の坊主か」
「はい……」
「なら見ないほうがいい」
アレはもうただの炭だ。感情を感じさせない声で刑事は淡々と呟いた。
「もしかして……亡くなったのは女性の方ですか?」
朋子先生が行方不明になったタイミングでの焼死体の発見は否が応でも最悪の事態を想像させる。
「いや、いかんせん仏さんが真っ黒焦げだから鑑識に回さないとわからない。ただ一つわかっていることは、どうやら君のお父さんと君の担任の先生の二名が同時に姿を消したことだ」
「え……父さんもいなくなってるんですか?」
もう訳がわからなかった。先生に続いて父までも行方不明になり、僕の回りで何が起こっているのか理解が追い付かない。
「君、和夫君っていうんだよね」
「あ、はい」
「どうやら君のお父さんは息子の担任に好意を持っていた。しかし無下にされて逆恨みした。痴情のもつれという線も考えられる。それとだが、あの仏さんの身長は女性にしては少々大きすぎるんだ。焼かれて皮膚が縮むことを考慮してもね」
「……つまりアレは父だと?」
「あくまで私の見解だ」
刑事はそういうと持ち場に戻っていった。
後で知った事実だが、なんと祖父は庭で被害者が生きたまま燃えていくのを
燃え盛る人間を助けることなく、生き絶える様をじっと見つめていたと警察で語っていた。
理由をいくら尋ねても答えることなく、病気の予後が悪化した祖父はそのまま入院することになり、結局は「父」の自殺と断定された。
そう。あの焼死体は父のものだったのだ。
その日の夜。警察から連絡が届いた母が久しぶりに椿御殿に訪れ、僕を見つけるなりこの地を離れることを告げた。
誰とも挨拶を交わすことも許されず、母は父の死にも一切触れることはなかった。着のみ着のまま僕は車の後部座席に乗せられ、椿村を後にした。
終始無言の母に投げ掛ける言葉もなく、ただぼんやりと遠ざかる山々を眺めていると、果たしてこれで良かったのだろうかと思うところもあった。
確かにあんな事件が起きた家で暮らすのは現実的ではないかもしれない。
だけど、この一件は様々な糸が複雑に絡んでいるような気がしてならなかった。わからないことが多すぎて後ろ髪を引っ張られる思いがあったのも事実だった。
ふと――あの女の顔が甦る。
何百年も生きてきたような妖怪じみた存在は、きっと今でもあの椿御殿を呪ってるんだ。
そんな突拍子もない空想に頭が支配された。僕もいずれは犠牲者の一人になるのでは。
そして思った。
きっと忘れることのないあの微笑みは、僕をずっと責め立て苦しめ続けるのだろう。毒のように――
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