第5話
引っ越してきて二日後、僕は椿村唯一の学校に通い始めた。
父に事前に学校までの道を教わっていたけど、それがなかなかの勾配の坂道を子供の足で二十分もかけて登らなくてはならず、これまで平坦な道を十分程度歩けば登校できてた身としては初日の朝から足腰にも精神的にも負担がかかっていた。
それに学校とはいえ非常に小規模で、全校生徒僅か二十名――それも今年の入学生はゼロだという。そんな学校が日本に存在して、しかもそこに自分が通うことになるのかと思い知らされ唖然と聴いていたが、僕以上に暗い顔をさせて「数年後には廃校になっているんじゃないかしら」と、隣を歩く朋子先生はため息混じりに呟いていた。
案内される教室までの廊下は全て板張りだった。いったい何人の子供たちに踏みしめられたのだろうか、黒く変色し痛んだ箇所を踏むと耳障りな音が寒々しい校舎に響く。
みしみしと音をたてる廊下は、いつか足元が抜けやしないかとひやひやさせられスリル満点だった。
昔はこの廊下も数多くの生徒が駆け回っていたんだよ、と過去の話を聴かされるとなんとも言い表せない心境になる。
「和夫くんは東京から来たんだよね。初めて椿村をみたときはあまりの違いに驚いたでしょ」
「え、はい、まあ。赤ん坊の頃に一度来たみたいなんですけどさすがに覚えてなくて、でもこうしてみると自然豊かだなとは思います」
そうはいったものの、窓ガラスの外に望む光景は前日まで降り続いていた雪の影響でただ白しかなく、誉めるべきところがなにもなかったからこその当たり障りのない返答を返すしかなかった。
「はは、優等生らしい返事だね。でも先生の前では無理しなくていいよ。先生も元はといえば都会出身だからさ」
「そうなんですか。それなのにどうしてこの村に来たんですか?」
朋子先生の歩みの速度が若干落ちた気がした。
なにか気に障るようなことを口にしてしまっただろうか。
「うーん。まあ大人には色々あるのよ」
あくまで明るく話していたけど、その表情のなかに一瞬井戸の底のような暗い影をみた気がした。
それっきりその話題は続かず、四の一と書かれた教室の前に到着すると、先生は小さな声で囁きかけてきた。
「いい?教師じゃなくて人生の先輩からのアドバイス。田舎ではすました態度は厳禁だからね。特に男の子の前では」
「はい。気をつけます」
「よろしい。はーい!席につきなさい!転校生の挨拶があるわよ!」
軽くウィンクして引き戸を開く朋子先生は良い意味で先生っぽくなくて茶目っ気があり、なんだか仲良くできそうな気がした。
やはりさっきの表情は見間違い立ったのだろうか。
「はい静かにして。東京から転校してきた支倉和夫くんです。今日からみんなのお友達になるんだから、困っていることやわからないことがあったら教えてあげてね」
「「はーい」」
教室で待ち構えていたのはたったの三名だった。
男子が二人に女子が一人――それと空席の机が一つ。
朋子先生の呼びかけに答えたのは二人だけだった。
もう一人は祖父のような目で、いや、それとは別の負の感情がこめられた眼で終始僕を睨みっぱなしだったのが酷く居心地が悪かった。
もちろん初対面だし彼に何かしたわけでもないのにどうしてそんな眼を向けられるのかわからなかった。
そして授業中もずっと視線を感じることになった。
「東京ってやっぱ人多いん?」
「姉ちゃんが平日なのにお祭りやっとるみたいっていってたで」
「僕が住んでたところは静かだったし、繁華街には行っちゃダメって禁止されてたからよくわからないんだ」
昼休みになると唯一の女子の
矢継ぎ早にあれこれと質問攻めを受けたけど、小学五年生の僕に答えられるのはテレビで見聞きした程度の知識だけだとわかると途端に興味を無くされた。まったくもって心外だ。
「なんだー東京人っていってもたいしたことないじゃない」
「だなー。どうせ東京ディズニーランドも行ったことないんだろ」
「あ、ディズニーランドは何度か行ったことあるよ」
「「あるのっ!?」」
そんなにあのネズミを見たいのか、ただの着ぐるみだろと不思議に思っていると、それまで会話の輪に入ってこようともしなかった流星が突然怒鳴ってきた。
「うるせぇ、そんな余所者に尻尾ふってんじゃねえよ!気持ち悪い」
「はいはい、ほんと流星って東京嫌いは相変わらずよね」
「本当だよ。少しは大人になったら?」
「ほっとけ、それとその名前で呼ぶなっていえば何度わかるんだよ」
いつの間にか会話の輪から僕は外れていた。ごく自然に。
三人のやり取りは僕が立ち入れないくらいに長年培われてきた関係性が窺えた。引っ越してきたばかりの人間に入り込む隙がないようにみえた。
余所者か――確かに余所者であることに否定の余地はなく、どうしようもない疎外感を感じた。
「お前よ。あの椿御殿の子供なんやろ」
「その椿御殿ってどう意味なの?」
また出てきたその名に苛つく自分がいた。
「さぁな。ただこの村ではその名前を知らない人間はいないぞ。知っとるか?あの家は呪われた家だってな」
「呪われた家?なに馬鹿なこといってるんだよ」
「それアタシもいわれた」
「僕も」
「そんなアホみたいな話、村人が全員信じてるの?どうかしてるよ」
これから住まなくてはならないところが、まさか呪われていると噂されているなんて思ってもいなかった。
そもそも父はそのことを知っているのだろうか――
学校が終わり帰宅すると、母はどこかに出掛けているらしく車がどこにも見当たらなかった。
そういえば携帯の電波が入らないとしきりに愚痴をこぼしていたので麓まで降りていったのかもしれない。この村に越してからというもの母は気が休まらないようでいつもピリピリしていた。
きっと麓にある喫茶店で時間でも潰しているんだろうと父はいっていたが――
もしそうだとすると、またあの祖父と二人っきりになる。そんな事態を考えると胃がきりきり痛み出した。
引っ越してからというもの、まともに口を利いていない祖父は何を考えているのか全くわからない。
病気で倒れるまでは庭師という仕事をしていたらしいけれど、病気で倒れてからはそれも控えていると父はいっていた。
そういえば初めて祖父と会ったときに、父に向かって罵っていたけれど、あれは一体なんだったのだろうか――
引っ越してからというものの僕は僕なりに悩んでいるというのに、よく出掛ける母とラヘラ笑って聞き流す父に失望もしたけど、逃げるなと自らを叱咤し意を決して玄関を開こうと手をかけたとき――声が聴こえた。
「あら、お帰りなさい」
その声を聴いた瞬間、背筋に電気が流れた。どこか懐かしく、それも感じたことのない快感を伴って。
たった今帰宅した僕にかけられた挨拶なのか、はたまた聞き間違いなのか、母の声ではないことは間違いなかったけれど、まだ挨拶を交わすほど親交のある住民はいないはずだった。
「こっちよ」
どうやら庭の方から聴こえてくるらしく恐る恐る振り向くと、雪の上だというのに椿の下で雪駄を履いてこちらを見つめている女性が佇んでいた。
その人は椿に負けないような真っ赤な着物を着て、さながら一枚の日本画のように美しく、ほんの少し微笑するだけで心臓を鷲掴みされたように息苦しくなった。
齢十一にして初めての感覚に戸惑いと恐怖を感じた。
こんな日に来客かな――
「ほら、こっちにおいで」
「はい……」
何故かはわからないけれど、その見知らぬ女性のいうことに体が逆らえなかったように思う。本能が自分を呼ぶ鈴を転がしたようなその声に従っているといって良いかもしれない。
「坊や、名前は何て言うんだい」
「えっと、支倉和夫といいます」
「和夫――良い名前だね」
じっと見つめてくるその視線に全身の毛が逆立つ。ただの人間にみられただけで体が動かなくなり、三日月のように吊り上がる真っ赤な唇に吸い込まれてしまいそうな、そんな妄想で頭がおかしくなりそうだった。
女性はゆっくりと手を伸ばし僕の頬に掌を添える。
その掌は氷のように冷たく、体の芯までその手が潜り込んできた錯覚に襲われ、怖くなった僕は家のなかに駆け込んだ。
「あら、残念」
「ただいま帰りました」
あの人がなんなのかはわからなかったけれど、玄関を閉めても心臓は激しく脈打ち、起きながら悪い夢を見ていたような気分だった。
靴を脱ぎ家に上がると居間には今朝からずっとそこにいるように新聞を開いて読んでいる祖父の姿があった。
理不尽極まる祖父の性格に早速ついていけず、最低限の挨拶だけ交わしてあとは無視しようと心に決めていた。
与えられた自室は前の家よりも広く、たてつけの悪い窓ガラスは強く吹き付ける北風でカタカタと音を鳴らしている。
ランドセルを放り投げ机に座ると、途端に先程の女性のことが頭に浮かんだ。
一体自分は何をみたんだ――人の家の庭に立ちっぱなしで客なのかと思いきやそうでもなく、近所の人かと思えば、あんな派手な着物を着ている人がいるとも思えない。
それに、話しかけられただけであんな奇妙な感覚になるなんてどうかしてる――まるで狐に化かされたみたいだと苦笑いをし、部屋をでて廊下から再び庭を覗き見るとあの女性の姿はいつの間にか消えていた。
代わりに真っ赤な椿がこちらを見つめている気がした。
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