第4話

 煙草の灰が膝の上にポトリと落ちた。いつの間にかフィルターまで達していたようだ。五分も経っていない間にいろいろと思い出したものだと外を眺めると、こころなしか雪の勢いが増している気がした。自宅の玄関を出たときはまだ粉雪だったというのに。

 そもそも、この悪天候のなかで雪囲いを施すなどあり得ないことだ。

 通常は天候を見計らって雪が降る前の十一月頃に、遅くとも十二月頃に低温に弱い植物や雪の重みで枝が折れるのを防ぐ目的で施すわけであって、観賞用の為に藁で囲ったりすることもあるがその必要がない植物も存在する。

 あの椿にしたって本来は放置して構わないほどに頑丈なの木なのだが、躊躇はしたものの断ることはしなかった。いや、しなかったのではなく、断れなかったのかもしれない――

 そうこうしている内に仕事の時間が差し迫っていた。


 日帰りの仕事とはいえ、この勢いで雪に降られると帰り道が心配だった。山道はあっという間に雪で閉ざされてしまう。平地のように除雪車がまめに訪れる場所でもないので簡単に孤立してしまうが、有名な土地でもないのでニュースで報じられることもない。

 簡単に世間から隔絶された世界となる。

 一度足止めを食らうと孤立してしまうのが山間部の村の宿命だが、宿泊施設もないこの村で足止めされるなど考えたくもなかった。

 最悪の事態にならない為にも、施主には申し訳ないが最低限の仕事をこなしたらさっさと帰らせてもらおう。それに、なによりもこの村の空気を一秒でも長く吸っていたくはない。

 車中泊など真っ平ごめんだと考えをかき消すように灰皿に煙草を押し当て、施主宅へとサンバーを走らせた。


 椿村の中心地に到着すると、やはり辺りは白一色の世界に覆われていた。あそこにあるはずの畑も、むこうにあるはずの溜め池も、村で一番の高台に建つはずの学校も、記憶に辛うじて残っている村の風景はどこも同じように雪の下に姿を消していた。

 車道の両側は除雪した雪で壁ができ、民家の屋根には若いやり手がいないのか下ろされないままの雪が残っていた。

 この地域は県内でも特に降雪量が多かったようで、雪の重みに耐えきれず潰れた空き家も点在した。そのなかには知っている家もある。



 それにしても――徐行運転を続けながら思ったのは不気味なくらいの人気ひとけの無さだった。

 いくら過疎化が進んでいるとはいえ、椿村に到着してからというもの未だ一人も村民を目にしていない。というより生者の気配がしない。


 これが限界集落というやつなのだろうか――


 ポツポツと建つ民家のなかで全員息絶えているのではと、そう思わせるほどの静寂に恐怖すら覚える。

 実際そんなことはあり得ないのだが、もしかしたら支倉造園と書かれた軽トラックをみて近所同士で電話でのやり取りくらいしているかもしれない。

 村人にとって忘れることのないあの事件以来、再び支倉家の人間が訪れているのだから。



 この村を初めて訪れたときも逃げるように去っていったときも通った一本道はそのままだった。

 あの椿御殿が近づくにつれ胸が苦しくなる。

 思った以上にあの女は俺の躯の内に病巣のように巣くっているらしく、今も暴れまわっている。

 ――ここからはもう覚悟を決めるしかない。

 緩やかなカーブを抜け民家を数件越えた先に椿御殿がみえてきた。

 あの家にはまだあの女がいるのだろうか、もしかしたら俺も、父と同じような結末を迎えるのではないだろうか――

 ハンドルを握る手は震え、いうことを聞かない。

 そしてとうとうたどり着いた。

 シートベルトを外して忌まわしき地に降り立つと、あの頃より幾らか小綺麗になった屋敷が目についた。

 どうやらリフォームされたらしく、以前のみすぼらしさは微塵も感じられない。そして門扉には、カフェ『カメーリア』と控えめな看板が掲げられていた。何を意味するかは学がない自分には見当がつかないが、こんな辺鄙な村にカフェを開店したり意味がない雪囲いを頼むあたりよっぽどの変人だということは理解できる。

 しばらく店の前で立っていると、ドアベルが鳴りスコップを片手に外に出てきた刑部おさかべと対面を果たした。



「ああ、支倉造園の方ですか。遠いところからわざわざすみません」

「いえ。本日はよろしくお願い致します」

 出迎えた刑部からはこの村特有の卑屈さは感じられず、柔らかな物腰と仕立ての良さそうなシャツを着こなしてるところからそれなりに学と金はありそうに見える。

 だからこそ何故こんなところでカフェを経営しているのか分からない。


「失礼ですが刑部様は地元の方ではないのですよね」

「はは、今流行りの地方移住者ってやつですよ。以前は東京で勤めてました」

 流行っているのかどうかは知らないが、呵々かかと笑うたびに女受けしそうな笑顔を見せる。

 よほど女には困らなそうな人生を送ってきたようなそんな笑い方だった。


「佐久間さんが仰ってましたよ。この村の殆どの庭木は支倉造園さんが仕事をなさったと」

「ええ、まあ」

 会話に餓えていたのか、初対面である俺にさえ物怖じせずに話だし、さっさと仕事に取り掛かりたいところを早速出鼻をくじかれた。

 施主の機嫌を損ねるわけにもいかず適当な相槌をうちながら横目で庭を覗くと、以前はなかった小さな池や飛び石が敷き詰められ、まだ若いが楓、躑躅ツツジや松が景色よく植栽されそこそこ見ごたえのある日本庭園となっていた。

 どこかの職人が良い仕事をしたらしい。

 そして、己の存在を忘れるなというように真っ赤な花弁を咲かせている椿がその存在感を放っていた。まるでこちらを見つめているような、そんな錯覚も異彩な雰囲気を放っているのも昔と変わらずだった。


「おや、つい話し込んでしまいましたね。天候も悪化しそうなんでそれでは椿をみてもらえますか」

「はい、わかりました」


 とうとう足を踏み入れた――もう逃げられない。

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