第3話

 タイヤが石に乗り上げた。サスペンションから伝わる振動は退屈しのぎで眠りに落ちていた僕を現実へと目覚めさせ、寄りかかるようにうたた寝していた窓ガラスは曇り頬の跡がはっきりと残っていた。

 そこから外を覗くといつの間にか外は銀世界となっていたことに驚き、自分が見知らぬ土地に来てしまったんだと改めて思い知らされ惨憺さんたんたる気持ちにさせられる。

 湿り気を残す肌に触れると氷のように体温を失っていた。



 眠気を誤魔化すように大げさに欠伸あくびをし、同じ態勢をとり続けて凝り固まった体をほぐそうと伸びをすると両手が天井ルーフにあたりここが車内であったことを改めて思い出す。

 どうやらまだ寝惚けているようで、どうせなら転校も夢であったら良かったのにと鼻唄混じりに運転をする父の背中をみて思った。



 後部座席にはお別れ会でクラスメイト一同から貰った色紙と花束が無造作においてあった。

 急遽間に合わせた感が否めないプレゼントだけど、それでも五年間過ごした小学校はそれなりに思い出もあったし、涙こそでなかったけど離れがたいと思えるほどに寂しさも感じた。

 当たり前のように六年間通って卒業して地元の中学校に進学すると、なんの疑問も思わなかった。

 それが一人暮らししている祖父おじいちゃんが急病で倒れたことをきっかけに思わぬ方向へと運命は転がっていくことになる。

 祖父はなんとか一命はとりとめたものの、退院をしてからも実家を離れることはなく介護施設に入所することも希望しなかった。


「死ぬときはこの家で死ぬ」


 そういっては親族の声には耳を貸さなかったらしい。

 そんな祖父を一人残すわけにもいかない父は一家を引き連れて実家に戻ることにしたのだ。

 母は最後まで断固反対の姿勢を貫いていたけれど。


 母は結婚して以来、数える程度にしか義父母に顔も見せていなかったらしく、僕が生まれたときですら帰省するのに渋ったと父はいっていた。

 都会生まれ都会育ちということもあって、田舎暮らしが相当嫌だったようだ。僕だって母に賛成票を投じる。

 かたや父は聞く耳持たない母をなんとか説得して、実際母が納得したかどうかはわからないけど母は渋々その提案を受け入れた。

 でも、僕は聞いてしまった。

 夜中にトイレにいこうと目覚めたとき、リビングで父と母が言い争っているところを――


「この通り何度でも頭を下げるから、な?どうか頼むよ」

 そこにはテーブルに額をあて懇願する父の姿があった。

「ちょっと……やめてちょうだいよ。なんでそんなにに帰ろうとするの。結婚するときに約束したでしょ?もう帰らないって」

「それは……だから親父の面倒を」

「だから施設にいれなさいって何度もいってるでしょ!嫌なのよ、あの家……気持ち悪い」


 母は真っ直ぐ過ぎる性格だから、物言いがやや直球ストレート過ぎることがこれまでもあったけれど、それでも吐き捨てるように父を罵る姿は初めて目にしたし、そこまでいわせる父の実家がとても怖かった――




 家を出たときから母は終始無言だった。助手席で頬杖をつく姿は外を眺めているようで何もみていないようにもみえる。

 話しかけても返事は期待できそうになかったので父に訊ねることにした。


「お父さん。そろそろ着きそう?」

 運転中のためバックミラー越しの会話だったが、それでも父は浮かれているようにみえてなんだか気持ちが悪かった。

「あと三十分ってところかな。それより和夫、お祖父ちゃんにはちゃんと挨拶しておきなさい。礼儀に五月蠅いからちゃんとしないと雷落とされるぞ」

「わかってるよ。一つ屋根の下で暮らすんだもんね」

「なんだ、難しい言葉知ってるんだな。そうだ、一つ屋根の下で暮らすんだ。親しき仲にも礼儀ありってやつだ。なぁママ」


 不貞腐れている母は話を振られても返事をすることはなく、相変わらず外を眺め微動だにしなかった。

 僕も父の言葉には納得出来ない。

 なにせ記憶のなかに祖父の思い出など存在しないのだから赤の他人も同然だ。


 そうこうするうちに玄関先を雪掻きしている住民の姿がちらほら見受けられるようになった。

 フロントガラスの向こうに連なる山々は、その茶色が目立つ山肌に雪化粧を施し、これから迎える厳しい冬の到来をぼくに伝えた。

 山道では人の姿はなく、猿や鹿などといった獣の方が多かった。どうやらよほどの辺境に向かっているらしく、都会に慣れ親しんだ身としては母の言い分が改めて理解できた。

 獣が道路を我が物顔で横断していく光景はテレビを通して観るぶんにはほのぼのとしていいかもしれないけど、実際に見てみると人の世界から切り離されたような心許なさと孤独を感じてしまう。

 本当にこんな山奥に人が住んでいるのかはなはだ疑問だった。


「ねえお父さん。本当にこんな山奥に人が住んでるの?」

 父に訊ねると一笑いしてから答えた。もちろん前を向いたままで。

「そう思うのも無理はないな。麓の街さえお父さんが子供の頃よりも過疎化がすすんでるようだから、椿村はもっと高齢化が進んでいるかもしれない。でもごみごみした都会よりよっぽど健康的に暮らせるぞ――おっと、もうすぐつくな。準備だけしとけよ」


 曲がりくねった道を抜けると、山間やまあいに集落が見えてきた。

 山間部に無理矢理あつらえたような椿村は昨日から降り続ける季節外れの大雪に埋もれ山と同化していた。

「この椿村はな、その昔宿場町として栄えていただ。宿場町って学校で習ったか?」

「ううん。知らない」

「宿場にはな、文字通り旅人を宿屋に泊めたり、休ませたりするという役割があったんだ。隣の宿場から運ばれてきた荷物や今でいう手紙とかを次の宿場まで運ぶ中継地転の役割を担ったり。本陣、脇本陣、旅籠はたごのような宿泊施設と、問屋が中心となって次第に栄えていったのが宿場町なんだ」

「ふーん」


 父は饒舌に語っていたが、正直内容は頭に入ってこなかった。昔がどうであれ僕と母がこれから過ごさなくてはならないのはこの過疎化した村落なのだ。

 引っ越す前から感じていたが、父はこのところ誰の目からみても明るく振る舞っていた――というより、「そう」状態だった。

 普段はどちらかというと大人しい人で母の表情を窺うような人だったのに、実家に戻ると言い出してからは母の鉄壁の守りを崩すほど強固になったかと思えば、誰に聴かれてもいないのに一人上機嫌で延々と話続ける。ちょうど今のように。

 鬱陶しく感じるほどの笑い声は母を酷く苛つかせ、父はそれに気づく様子もなかった。


 今思えばあの時から家族間にひびが入っていたのかもしれない。そう後になって後悔した。


「さあ、着いたぞ。あれが今日から住むことになる椿御殿だ」


 父は確かにいっていた。「椿御殿」と。

 実際目の前に現れたのは御殿というにはこじんまりとした大きさではあったものの、木造平屋のいかにも昔ながらの日本家屋といった佇まいだった。

 築百年以上は建っていそうな歴史を肌で感じる。


 土地自体は広いようで庭もテニスが出来るくらいに面積があった。そのなかで唯一目をひいたのは、屋根よりも高そうな巨大な庭木だった。木の枝は整えられ、降り積もった雪が濃緑の葉と真っ赤な花弁はなびらをベールのように降包み込みその存在感を際立てていた。

 たった一本そこにあるだけで、真っ白な庭の主役になっていて思わず見とれしまった。

 なんの花だろうかと近寄ろうとすると、母に腕を掴まれさっさと家のなかに引きずりこまれてしまったが、引き戸を閉めるときに庭の方から視線を感じた気がした――山から下ってきた獣だろうか。そのときはその程度の認識だった。


 ようやく到着した僕達を祖父は難しい顔で出迎えた。介護施設に入れたらどうかなんてはなしをしていたけど、そんなことはない。

 背筋は真っ直ぐだし腕を組んで仁王立ちしている姿は健康体そのもので、ゴツゴツとした手の指先は黒く染まっていた。

 上りかまちの上から見下ろす様は遠足で見た浅草寺の阿行像と吽行像のように不遜な態度にも見える。

 テレビに出ていた高倉健をもっと老けさせたらこうなるのかもしれないと、どうしようもないのとを考えていると頭のなかを読まれたのか、じろりと睨まれてしまいその迫力に思わず後ずさりしてしまった。



「久しぶりだね、父さん。この子は息子の和夫だよ。和男、この人がお祖父ちゃんの貞吉だ。ちゃんと挨拶なさい」

「あ、お久しぶりです。これから厄介になりますがよろしくお願いします」

 深々と頭を下げ挨拶をした。ちゃんと礼儀正しくできたつもりだったが、まともに目を合わせることもなく祖父は父へ暴言を吐いた。


「本当に来ちまうとはな。馬鹿な息子だ。都会むこうで適当に暮らしていればいいものを」

「そんな言い草ないじゃないか。父さんが心配で家族一同こうやって――」

「もういい、口を開くな。職人としても半人前、いや、それ以下なお前は結局全てを棄てて出てったもののこうして再び戻ってきた。お前は負けたんだよ。椿の呪いにな――」

 そう厳しい口調で父を罵ると、暗い居間へと姿を消した。

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