第三十九揺 虚言の応酬


「久しぶり、煌」


 煌と対峙した女は、艶然と微笑む。


 豊満な胸と引き締まったウェスト、細長い脚。蠱惑的なプロポーションだが、男口調もあってか凛々しい印象が強い。なお、眉目秀麗を極めたような面貌をしているのに頭脳までも世界最高レベルとかいうバグみたいな性能をした女だ。息子ながら実在を疑ってしまう。


「……凛」


 それは、母と子の望まぬ形での邂逅だった。少なくても、煌にとっては。

 久々の再会ではあるが、状況が状況。感傷に浸る間はない。気を緩めないように心構えをしながら、煌は凛の姿をしっかりと見据えた。

 凛が座っているのは大理石製の高級感あるデスクだが、部屋を一見したところでは全体的に豪華な部屋というわけでもない。家でもそうだが、凛は不必要なものをあまり置かないタイプなのだ。インテリア等を嗜まない凛らしく、だだっ広いだけで飾り気のない部屋だった。

 とはいえ、軽くビルの一フロアぐらいありそうな巨大な空間だ。そこに一人でいるというだけで充分に凛の権力の強さが分かる。


 そして、同時に実感した。

 今、目の前にいる凛は煌の知る凛ではない。

 悪夢ナイトメア症候群シンドロームの情報漏洩を防ぎ、クレイドルの隠蔽を目論む政府側の要人。『門番』としての役割を十全と果たす、電子世界を支配している怪人。


 間違いなく、


「……本当に、凛なんだな」


「―――――。この期に及んで、まだ疑っていたのか?」


「いや、まさか。ただ……現実感が増したって、それだけだよ」



 ――――願わくば、嘘であってほしかったが。



「……そうか。なら、この私の一面を始めて見る煌には自己紹介をしておこう」


 デスクから立ち上がり、凛は髪を掻き上げた。


「私の城へようこそ、叛乱軍の叛逆者リベール。私は情報統制局局長、石見凛。第一級機密情報管理区『スカイフロント』の管制を任ぜられた、政府の番犬だ」


「っ……!!」


 私はお前の敵なのだ、と。

 名乗りによって間接的にそう伝えてきた凛に、思わず煌は顔を歪めた。


 叛乱軍と政府。

 相容れぬ二つの勢力にそれぞれが属する者であることを宣言され、線引きされたのだ。親と子ではなく、敵同士と認識しろと遠回しに言われている。


 そのどうやっても越えられない隔たりが、元の関係には二度と戻れないことを暗示しているようで。


「……あぁ、そうなんだな。もう、そういう段階なんだな」


 後戻りは出来ない。駄々をこねる暇もない。


 ―――今はただ、目的を完遂するのみ。


「さぁ、聞かせてくれ。君は一体、何を望む?」




 斯くして、夜野煌と石見凛の会談は幕を開けたわけだが。

 水を差すようで野暮になるとはいえ、ここはあえて言っておくべきなのだろう。


 そう。言っておくべきなのだ。

 違わぬ結論を、目を背けられぬ因果を、互いの抱えた罪の独白を。

 それらを鑑みて、断言するべきなのだ。



 ――――この戦いの結末に、




 ***




「……どうすればいい」


 ロアナは小型リフトを隠蔽していた仕掛け扉の前で、静かに立ち尽くしていた。

 だが、呆けているわけではない。その脳内では、現状打開の為の策を高速で講じているところだ。


 煌が凛に連れ去られた。

 その事実は、叛乱軍が煌を守りきれなかったことを示している。

 この戦いは、煌を預けるに足るか、そして煌を守り切れるかを凛が判断する為の試練だ。それなのに、煌を連れ去られてしまった。これが致命的であることは火を見るより明らかだろう。


(考えろ……考えろ……アタシに出来ることなんて、それくらいなんだから……!)


 思考回路が焼き切れてしまいそうなほどに考えを巡らせるロアナ。


 そして、時間にして数秒ほど。

 ロアナは結論付ける。


「……無理だ。打開策なんて存在しない」


 今から煌を取り戻す。凛の叛乱軍に対する評価を変えさせられるのは、多分それくらいだ。しかし、それは現状において実質不可能なのだ。


(コウはリフトで連れ去られた。行き先は分からないが、音からして上に向かったのは確実だろう。もし煌を戦闘に巻き込ませないことを意図したなら、石見凛は戦いの起きていない最上階に近いところまでコウを運びたいはず……つまり、リフトの行き先は16階か17階だ)


 最上階である17階、もしくは最上階に近い16階にまで煌を運ばれていた場合、現段階で煌を取り返す手段はない。叛乱軍の部隊は毒ガスによって11階で足止めを食らっている。16階と17階に到着できるのはかなり後だ。しかも、煌を取り返すだけの時間があるかも怪しい。

 つまり、正攻法での煌の奪還は厳しいのだ。


(もう一つのコウの奪還法は、このリフトを使ってコウが運ばれた所まで行くことだけど……これも難しい)


 仕掛け扉に手を添わせ、軽く材質や仕組みを分析するロアナ。


「……おそらく合金だね」


 向こう側だって、実力行使で仕掛け扉を突破される可能性は考えている。ただの鉄などではなく、簡単には破壊できない金属で扉を作っているに決まっているだろう。


「合金となると銃じゃ壊せないし……材質がタングステン系の合金とかだったら尚更だ。本格的な爆弾が必要になる」


 耐熱・硬度共に金属トップクラスと謳われるタングステンは、合金として混ぜ込まれると更に耐久性を高める。銃で突破できるものでも無い。

 しかし、ロアナの手元にあるのは低破壊力の対人武器のみで爆薬は持っていないため、この扉を破壊することもできないのだ。


(というか、この扉を破壊できるだけの爆発なんて起こしたら、それこそ周囲に被害が及ぶ。情報室にある機械を壊しかねない。いずれにしろナシだね)


 レオノールとの戦いでもそうだったが、情報室には繊細な機械が多いが故に容易に爆発などは起こせない。直接の爆炎によるものでなくても、物によっては爆風だけで壊れる可能性がある。


「それに、運良く扉だけ壊せたとしても……それが『施設破壊禁止』のルールに抵触しないかが不安要素だ。線引きが曖昧だから、何がルールに抵触するか分からない」


 つまり、仕掛け扉の破壊による追跡は不可能に近い。

 ならば、それ以外なら――――


「……あとは、コンソールパネルをハッキングで操作して仕掛け扉を開けるかだけど……」


 力で強引に突破することが危ういのだからハッキング、という手もあるにはある。あるのだが。


 電子キーボードをコンソールパネルに接続し、仕掛け扉の開閉をハッキングによって図るロアナ。

 何度か試行するが、どれも結果に『Error』や『Locked』と表示されるばかりで、一向に制御を奪える兆しが見えない。


(やはり弾かれる……制御ツールを16階の中央演算装置CPUに隠してるね。つまり、CPU自体をハッキングするしかないけど)


 無論だが、CPU自体にもプロテクトは掛けられている。しかも、石見凛の最高傑作とも言える代物だ。容易に突破は出来ない。というか、不可能だ。


「八方塞がり……ってわけだね。厄介極まりない相手ばっかりで嫌になるよ、ほんと」


 扉も壊せない、システムの乗っ取りも出来ない。


 ――――よって、煌の奪還も現状では難しい。


「どうすれば……」




『行き詰まってるな、叛乱軍のハッカー』





「―――――ッッッ!?」


 突如として響いた声に肩を震わせ、声の発生源を探すロアナ。

 周囲に視線を巡らせるが、スピーカーやらは見当たらない。広い空間も相まって音が反響してどこから聞こえたかが分かりづらかったため、正確な位置が特定できなかった。


『こっちだ、こっち』


「こっち、って……」


 声と共に振動が体に伝わり、ようやくロアナは気づく。

 振動のもとはロアナの左手。携帯していた腕輪型のデバイスからだ。想像以上に近い音声の発生源に、ロアナは顔を顰めた。

 どうやら、凛はロアナのデバイスをハッキングして通話してきているらしい。


「……アンタは人のデバイスをハッキングしないと気が済まないのかい」


 最初に叛乱軍と傭兵団へ話しかけてきた時も、凛はロアナ達全員の携帯デバイスをハッキングしていた。使う電子機器には全てプロテクトをかけているはずなのに、この女はあまりに易々とハッキングを行ってくるのである。同じハッカーとしてロアナが渋い顔をするのも当たり前だ。


『いや、ハッキングこれは趣味だ』


「……そーかい。素敵なこって」


『だろ? よく「いい趣味してる」って褒められるんだ』


「いやそれ絶対ほめてないよ」


 天然なのかなんなのか知らないが、おちゃらけた様子の凛に調子が崩されかけるロアナ。

 しかし、彼女の発言に気を緩めることがあってはならない。なんせ、彼女は世界トップランクのハッカーであり、叛乱軍に立ちはだかる強大な敵なのだ。当たり前だが、脅威として警戒を常にすべきである。


「……それで? 政府の番犬がなんの用だい」


『いや、煌がいなくなってさぞかし混乱しているだろうと思ってな。とりあえず、挨拶とお礼を兼ねて適当な人間に回線を繋いだってだけだ』


「とりあえず、で人のデバイスをハッキングするんじゃ――――……お礼?」


 神経を逆撫でするような発言を無意識にしてくる凛に辟易としていたロアナだが、その発言の中にあった奇妙なワードに首を傾げる。

『お礼』と凛は言ったが、敵から感謝されるようなことは何も―――



「……な」


 凛の述べられた感謝の内容に、ロアナは驚愕を隠せない。


 凛の人柄については多少なりとも煌から聞いていた。

『絵にかいたような正義の人で、自分にとっては憧れの存在だった』と。いつもは自分に関することを多く語りたがらない煌が、凛の正体を知った後に漏らした言葉だ。未だ事実を捉え切れていない様子の煌が吐露した言葉だったためか、その悲愴さも相まってロアナの記憶に深く残っている。


 しかし、ロアナはその言葉を信じていなかった。

 なにせ、悪夢ナイトメア症候群シンドロームを行っているハッカーだ。まさに悪逆非道、正義なんて言葉からは最も遠い人間だろう。

 ならば、おそらく煌に見せていたのは仮初めの在り方だったのだ。猫をかぶっていたに違いない。

 叛乱軍に煌の情報を政府より先に流したのにも別の訳があっただけであって、息子を慮ってのことではなかったはずだ。


 だから、石見凛は本当は冷酷で残忍な極悪人なのだ、と。


 心のどこかで、凛の中の善性を否定したがっていた。


「……」


 しかし、触れてしまった。

 息子のことになれば、敵にすら感謝を述べてしまう彼女の姿を。


 息子を守ってくれてありがとう、と。

 その彼女の言葉に、嘘偽りない息子への心配と慈愛が詰まっている気がして―――


「……はぁぁぁ」


 ロアナは深くため息をしながら天を仰ぎ、心を決めて腕のデバイスに向き直った。


「あー、うん。白状する。正直、驚いた。そこまで入れ込んでいるとは思わなかったよ」


『……あの子は私の全てだ。だからこそ、私の全てをかけて守る』


「へぇ、そりゃまた……。どうしてそうまで言えるんだい? コウは実子じゃないんだろ?」


 石見凛は夜野煌の実母ではない。煌は、凛は実母の妹だと言っていた。

「自分は小さい頃に両親を亡くしたらしく、それ以降は石見凛が煌を育てていた」というのが、叛乱軍が煌から直接聞いた話だ。そこまで一緒に暮らせば実子ではなくとも情が湧くことはあろうが、それにしても凛の愛はかなり重い。異常なほどである。


「それが愛の力ってやつかい? たいそうなもんだね」


『……そう、だな。愛だよ。間違いなく愛だ』


「……?」


 どこか言い淀んだような様子の凛に、ロアナは怪訝な顔をした。てっきり「愛だ」と即答するものかと思っていたが、何か思うところがあるのだろうか。

 煌への過保護は間違いなく愛が為せるものだと思っていたロアナにとって、凛の反応は意外なものだった。


「なんだい。愛じゃないってのかい?」


『いや、煌を愛する気持ちは本物だよ。1秒だってあの子を忘れたことはないさ』


 だが、凛は「けれど」と続けた。


。私はあの子を愛し続けることで、ずっと償い続けているんだ』


「償い……」


 それが何に対しての償いであり、彼女は心の内に何を背負っているのか。


(……けど、それを知ろうとしている暇はない。現状は刻一刻を争う)


 こうしている間にも、実働部隊の隊員達は傭兵と戦っている。凛の内情が気になるとはいえ、長話で時間を潰すわけにもいかないだろう。

 気持ちを切り替え、ロアナは凛の通信の意図を尋ねることとした。


「それで、要件は? 流石に礼だけを言いに来たんじゃないんだろ?」


『……そうだな。本題に移ろう』


 やや精神的に弱っていたようにも見えた凛だが、当人もロアナと同様に気持ちを入れ替えたらしい。最初の印象の通り、男勝りの凛々しい石見凛がそこにいた。


『煌の身柄だが、私の方で預からせてもらった。流石に寝たきりの状態で戦場にいるのは見逃せないからな』


「……まぁ、それはそうだろうね。そうするのが普通だ」


 煌の身の安全を本当に願うなら、実力も定かではない犯罪組織に託すよりも自分の手元に置いて保護するのが普通だろう。至って当然の思考であり、そこに疑問点は存在しない。

 だが、凛が煌を回収しに来るという発想がなぜ浮かばなかったのかと聞かれれば、それは―――


「ルール6……『夜野煌へ危害を加えた陣営は敗北とする。人質にとるのも同様である』。あのルールがある時点で、叛乱軍はコウを守りながら戦えって意味かと思ってたけど……なるほど、あれは誘導だったってわけか」


『ご名答』


 ルール6の内容は、煌の安全を強制させるものだった。強制させるぐらいなのだから、煌を守りながら戦うことで叛乱軍の力を示せ、ということだと全員が思っていたが、そう思わせることこそが凛の狙いだったわけだ。

 つまり、ルール6の存在が凛による煌の直接奪取という可能性を排除しているように見せていたのである。


『煌の身自体が私にとっての人質のようなものだし、君達も自陣営を有利に進めるカードを失いたくないはずだからな。私が「煌の身柄を引き渡せ」って言った所で君たちは従わないだろう? だから、やや姑息な手段ではあったが、不意打ちで身柄を引き取らせてもらった』


 叛乱軍にとって、煌というのは最重要の切り札だ。

 叛逆者リベールという役職ジョブであることもそうだが、石見凛の親族という点も大きい。彼が手元にいるだけで、彼自身を利用して盤面を有利に進める手はいくらでも生まれ得るのである。

 だとすれば、煌の身柄を叛乱軍が易々と手渡すわけがない。強引に奪おうとすれば抵抗もされかねないし、その際に煌が巻き沿いを食らって負傷しないとも限らない。


 煌が眠っていて自力で抵抗を行わない状態にあり、叛乱軍も彼から目を離しているという状態がベストだ。その状況を作り出すためのルール6だったわけである。


「なるほど。煌が時間内に最上階に辿り着けなかった場合はどうするのかと思ってたけど……そもそも回収するつもりだったわけかい。ならルールは適応外になるね」


『そうだ。煌の身柄は最上階で預かっているから、彼は既に最上階に到達した扱いだ。言わずもがな、これは君達の勝利条件にはカウントしていない。司令官が煌を除く隊員全員に「生贄」宣言をしたところで、君達の勝利とはならないからな』


「するわけないだろ。それじゃ、アタシ達が全滅するじゃないか」


『生贄』宣言は、ルール4に定められたものだ。叛乱軍の勝利条件は『隊員全員が最上階に到達すること』であるが、司令官が『生贄』宣言をすれば、最上階に到達できていない人間を見殺しにする代わりに隊員判定から消すことができる。

 つまり、全員が最上階に揃っていなくとも、オズウェルが『生贄』宣言をすれば、叛乱軍側の勝利に出来るのである。


『それとだが、別に煌を奪われたことは君達の評価に関係しない。元々奪取する予定だったからな。気に病む必要はないぞ』


「……そりゃどーも」


 煌を奪われてしまったこと自体がロアナの自信の喪失に繋がっているのだが、凛はそれに気づいていない。ちょくちょくロアナのメンタルを削りにきていることを本人は自覚しているのだろうか。


「ちなみに……この仕掛け扉を爆破して、リフトで最上階に行くのはありかい?」


『爆破で強引に突破されるのは本意ではないな。それは君も分かっているだろう?』


「まぁね。ダメもとで聞いてみただけさ」


 この戦い自体が叛乱軍の実力を測るためのものなのだから実力を測れない手段で最上階に到達されるのは凛の思惑から外れるし、叛乱軍がそれで凛に認めてもらえるのかと言ったら間違いなくNOである。


(やっぱ、爆破はダメか。このリフトを使おうと思うなら、CPUのハッキングしかないね)


 そうして思案を始めるロアナだったが、ふとデバイスの画面に目がいった。

 まだ通信が途絶されていない。凛との回線は繋がったままだ。


「……? まだ何かあるのかい?」


『え? あー、いや。大したことじゃないんだが……いやしかし、これを確認するのは親の義務というか……』


 煮え切らない態度の凛にますます疑問符を浮かべるロアナ。通常時のハキハキとした喋り方が嘘のように、モゴモゴと通信機の向こうで喋っている。


「なんだい。時間がないんだ、率直に言ってくれ」


『あ、あぁ。そうだな。率直に聞くべきだよな、うん』


 すぅーはぁー、と深呼吸をして、凛は意を決したようにロアナに問いかける。


『叛乱軍のハッカー。君に問おう』


「!」


 いつになく重々しい雰囲気を醸し出す凛。通信機越しで凛の緊張が伝わってきたのか、ロアナも身を強ばらせる。

 政府最高のハッカーである石見凛。怪物のような能力を持った彼女の口から発せられる、何よりも重大な問いかけとは――――





『君、煌に手とか出してないよな?』




「………………………………は?」





 フリーズ。

 数秒の間のフリーズ。


 殺伐とした戦場、命のやりとりが今も行われている現状において、問いかけられた質問だ。


「手を出したか」。

 手、というのはあれだろうか。人間の腕に一つずつ備え付けられている、人間を道具の使える動物たらしめた母指対向性を持ち合わせた五指という部位を兼ね備えた人体上極めて興味深い部分とも言えるであろう、あの手だろうか。いやしかし、そんなわけがあるまい。ここで言う「手」というのは、おそらく比喩的な意味だろう。諺、いや言い回し的なやつに違いない。とすれば、「手を出す」というのは、二択の捉え方ができる。一つ目が、殴る蹴る叩くなどする肉体的攻撃によって当人に危害を加え損傷を与えるという意味での「手を出す」だが、それは凛の遠慮がちな反応によって棄却されるので、恐らくはもう一方の意味で――――


「…………それは、性的な行為に及んだか、って意味で?」


『…………あぁ』



 成る程。

 つまり、石見凛はこう聞きたいわけだ。


『お前、うちの息子とヤッたりしてないよな?』と。


 結論から言おう。

 答えはNOである。


 勿論、煌自身がそんな行いを自発的に迫るわけがない。彼はあくまで更科紅葉一筋だ。彼女が死んだ今でも、それは全く揺らいでいない。

 そして、ロアナが強引に彼に迫ったかと言われれば、それも違う。煌が精神的に傷ついているのは誰の目から見ても明らかで、そこにつけ込むような真似はロアナとてしない。よくモラルとかデリカシーとかを疑われるロアナだが、流石にそれくらいの常識は兼ね備えている。


 だから、その返答はNOであるべきだ。

 


 今、この状況。

 ロアナに石見凛が問いかけるという特殊な状況において、ある衝撃の事実が浮上する。


 なんと、ロアナが凛に対して優位な立場にあるのだ。


 思えば、ロアナはこの戦いが始まってから、いつも凛の策に翻弄され、ルールを敷かれ、実力差を見せつけられ、常に彼女の掌の上で踊ってきていた。


 しかし、だ。

 今は違う。今、この問いかけにおいてはロアナと凛の立場は対等。なぜならば、凛は真実を知らない。

 煌が憔悴していたのは凛も推測できているのだろう。だからこそ、その心の弱りを癒すためにロアナとの性交渉に及んでいないのかを確認しにきている。この点では、凛は確信を持っていない。

 真実を知らないから、ロアナに直接聞きにきたのだ。


 正直に答えるのも別にいいだろう。


 だが、ロアナは我慢の限界だった。


『至高の知能犯』と称された彼女が、ことごとく凛に敗北しているのだ。彼女の自尊心プライドはもはや崩れかける寸前だったのである。


 堪忍袋の緒も切れかけ。はらわたも煮えくり返りかけ。激おこぷんぷん丸になりかけ。

 そんな状態にあったロアナがどうするのかなんて、なんなら自明とも言って良い。



 ここまでで約0.1秒。



 凛の返答に対して、ロアナが出した答えは―――――




「はッ」




 鼻で笑うことだった。




『……えっ』


 ロアナの反応にあからさまに動揺した凛。

 それはそうだ。凛としては、「流石にないと思うけど気になるから一応聞いておこうかな」ぐらいの勢いで聞いており、すぐさま否定の言葉が返ってくると思い込んでいた。

 しかし、返答はまさかの鼻笑い。


『え……? 嘘、だよな? そんなわけないよな?』


 そこに冷静沈着の面影は無くなっていた。ただ声を震わせて戦慄わななくだけの非常に珍しい凛の姿である。

『キャッチボールで8歳の息子に軽い気持ちで野球ボールを投げたら時速140kmのストレート剛速球を返してきた』。心境としてはそんな感じであった。


「いやぁ、はっはっはっ」


 対して、ロアナは笑うだけである。狼狽える凛を横目に見ながら余裕の笑みを浮かべていた。明言化しないことが、より一層に凛の不安を掻き立てる。


『か、からかってるだけだろ? まさか、あの子が更科紅葉以外の女性を選ぶわけが……』


「お、更科紅葉を知ってるのかい。いや、それは当たり前か。全知全能のアンタが知らない道理はないね」


 ふふん、と鼻を鳴らすロアナ。そして恥ずかしい思い出に悶える様に、体をくねらせて頬を赤らめて一人語りを行い始める。


「彼女を失ったコウは酷く傷心していてね……その心の傷を癒すためか、はたまた少しでも更科紅葉のことを忘れるためか、コウを慰めようと近づいたアタシをベッドに押し倒して、動くな、本当に慰めるつもりなら受け入れろ、って、そのまま……」


 


『や、やめろ……生々しすぎる……っ!』


 しかし残念なことに、凛は信じた。


「最初は抵抗しようかとも思ったけど、涙で目が腫れたままに女の体に貪りついてくるコウが段々かわいく思えてきて……なんというか、うん。意外と


『おい煌! なんでコイツなんだ! コイツ性癖歪んでるぞ!』


 不可視の円柱を使ってポールダンスをしているのかと思うぐらいにグネグネ変態的に動いているロアナ。

 一方で、画面の前で頭を抱え込みながら床上でブレイクダンスをしそうなほどにジタバタしている凛。


 状況は混沌を極めかけていた。


「一度体を許してしまったら、その後は歯止めが利かなくなってね。コウが自暴自棄気味に体を求める度、アタシもなし崩し的にそれを許してしまって……。いやぁ、青年期の性欲の強さを舐めてたよ。あれ以来、腰の痛みが中々引かなくて困っちゃ――――」



『黙れぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇえぇぇぇぇぇえぇぇぇぇぇぇぇえええ!!』



 吠えた。

 眉目秀麗。頭脳明晰。泰然自若。

 常にクールなデキる美人、というイメージ像が完全に崩壊した瞬間だった。


『さっきから聞いていれば意味の分からないことを! あの草食系の極みでヘタレで意気地なしな煌がそんなことをできるはずがないだろう! 傷心中だったとしても、それはあり得ないッッッ! まぁ百歩、いや五千歩譲って、なんらかの間違いがあってそれらしきことになったとしてもだ! それでもたかが一か月半だろ! そんな短い期間のことで思い上がるんじゃない!』


「へぇ? たかが、とは言ったもんだね。それともなんだい、このいじらしくも美しい日々よりも素晴らしいことをアンタが経験していたとでも?」


『あ、あぁ! 当たり前だろ? 聞いて驚くなよ?』


 こほん、と一つ咳払いをして腕を組むと、やや誇らしげに凛は言ってのける。



『何を隠そう、んだからな!』


「な……ッ、なんだって――――――!!!」



 ロアナに衝撃が走る。今度はロアナが驚愕する番だった。


「下の処理、っていうと……あんなことやそんなことを……?!」


『ふ……ご想像にお任せする、とだけ』


「ぐはぁッッッ!!」


 思わせぶりな笑みを画面の先で浮かべる凛に対し、大きく仰け反るロアナ。

 ロアナに対抗心を燃やしていたのか、衝撃を受けるロアナを見て、凛はどこか勝ち誇った表情をしていた。いや、勝ち誇っていた。


 ちなみに、下の処理と凛は言ったが。

 まるでつい最近まで処理をしていたみたいな言い方をしたが。


 


 下の処理とやらをしていたのは、15年近く前の話。煌は当時1歳。

 つまり、だ。

 『下の処理』というのは、オムツ替えのことである。

 変な対抗心を燃やした結果、その事実を曲解させるために時期を伏せた上で意味ありげに『下の処理』とのたまったのである。決して性的ニュアンスを含んだものでは無い。ロアナに敗北感を味わせるために叙述トリックを使っただけであった。そして何度も言うが、煌は紅葉一筋である。


「そんな……そんなの……!」


 口をわなわなと震わせ、鼻の頭を押さえるロアナ。体はプルプルと震えている。自分に負けた(?)ことが悔しいのだろうか、と凛は思い、追い打ちを兼ねて煽ることにした。


『ふふん、どうだ悔しいか? 君と煌の関係は、所詮その場しのぎの関係性だ。しかし、私のは違う! 何物にも代えがたいという点で異なっているのさ! だから、私と煌の絆はポッと出の女にどうこうできるもんじゃ――――」


「……チ……る」


『……今なんて?』


 声が小さくて明瞭には聞き取れなかったが、とんでもない発言をロアナがした気がして、凛は思わず問い返した。

 大きく息を吸い込んで、鼻の頭を掴んだまま、ロアナは思いっきり叫んだ。



ッッッ!!!!!!!!!!!!」


『…………は?』



 石見凛は、理解ができなかった。

 義母と息子が密接な関係になるという極めてイレギュラーな状態にあるとロアナは誤解しているはず。そんな歪んだ関係は一般的に許容されない禁断のものだ。世間では異質とされ、なんなら忌み嫌われそうなものである。当然、ロアナもそうした反応をするものだと凛はタカを括っていた。


 しかし、残念なことに。

 ロアナは、異質にこそ萌える性癖タチだったのである。


「なんだそれは! エッチだ、エッチすぎる! くそ、押さえてないと鼻血が止まらない!」


『待て待て待て! 私と煌だからな?! その意味を理解してるのか?!』


「美男美女じゃないか大好物だよありがとうございますッッッ!」


『え?! いや、義母と息子なんだぞ?! 許されざる禁断の関係で―――』


「バカ野郎ッッッ!! だからこそ推せるんだろうがぁ!」


『推せ……どういうことだ?!』


 ロアナの勢いに圧倒されっぱなしの凛。

 てっきりドン引くか関係の深さの差に絶望するかの二択だと思っていたのに、蓋を開けてみれば相手は鼻血を噴出しながら大興奮で食い気味に詰め寄ってくるのである。自分もかなり変人の類にいるという自覚はあったのだが、ロアナはそれ以上だ。もう恐怖以外の何物でもない。


「世間から疎まれる愛の形に閉塞感を感じながら同時にその関係性と感覚をお互いが共有できているが故に二人は相手と自分だけでも肯定し合おうとより一層激しく燃え上がるという穢れつつも気高い相愛の在り方がそんじょそこらのカップルの関係よりも美しいからこそ推せるんだよ分かるだろ!!?」(※個人の感想です)


『……えっ、もしかして同意を求めたのか今?!』


「禁断の関係だからなんだ! かつてデカ〇トもこう言ったそうだ……『手を出しちゃいけないものにこそメッチャ興奮する』と!」


『デ〇ルトがそんなことを言うわけない!!』


 興奮して暴走ジェットコースター状態になり、情緒と思考がおかしくなっているロアナ。これには流石の凛も対応しきれない。


「勿論アタシとしてもそんなのはまやかしで二次元の世界にしか存在しないと思っていたけど、まさかホンモノが目の前に現れるとは! 普段は無神論者なアタシだけど今だけは神に感謝するよ!」


『え、いやその』


 グルン、とホラー顔負けの首の動きで通信機の方へ向き直ると、ロアナは顔を真っ赤にして凛に詰め寄った。


「さぁ! を! 滅多に聞けない禁断の関係の実録を頭のてっぺんから足の爪の先まで余すことなく全部聞かせてくれッッッ!」


『は?!』


 通信機越しでも伝わるロアナの熱気に思わず肩を縮こませる凛。冗談ではなく、本気でこの女は凛から情事を聞き出そうとしている。それも、一部とかじゃなくて全部丸々だ。先ほど、時間が無いと自分自身が言っていたのに。


「さぁ! さぁ! さぁ!!」


 凛は冷や汗を滝のように流す。当たり前だが、処理どうこうは誇張なのでロアナの期待の眼差しに答えられるだけの内容は全くない。嘘で誤魔化すとしても、この手の嘘はボロが出やすい上に、ロアナの勢いを受け流せる自信もない。かといって、やっぱり嘘です、と言ったらロアナに負けを認めるようで癪でもある。

 本当のことを言うべきか、それともこのまま突っ張るか。二択の間で悩み、内心焦りまくる凛。ロアナの性癖が、着実に凛を追い詰めていた。


『えっ……と……その……』


 凛がそうして逡巡する間にも、ロアナは怨霊のように「早く!早く!ハヤク!」と繰り返し、鼻血と涎をダラダラ垂れ流している。


『あのぉ……えっとぉ……』


 凛は段々涙目になっていく。もう気丈な麗人の面影はどこにもない。そこにあるのは、狩人によって袋小路に追い詰められた小動物のような凛の姿であった。


 目を血走らせるロアナ。目をぐるぐる回す凛。

 混沌を極めた戦況において、


「おら何もたもたしてんだいッッッッッッ!!!」


『ヒェッ』


「とっととアンタらの蜜月についてつまびらかにさせやがr」


 ブツンっ。


「……あ?」


 その音と共に凛の気配が途絶え、ロアナは恐る恐る通信機を覗き込む。

 表示されていたのは『No Signal』の文字。その羅列は、ある事実を示していた。


「おい……嘘だろ……」


 膝から崩れ落ち、腕輪型デバイスを抱え込むようにして小刻みに震えるロアナ。

 予想だにしなかった戦いの結末を、彼女は嘆く。


!!!」


 そう。

 凛はロアナの圧に耐え切れず、逃げ出したのであった。


「ああああああああああ!!! 話聞けなかったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああ!! ちっくしょぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおお!!」


 大興奮のレアなシチュエーションを聞く機会を逃してしまった事実に、ロアナは盛大に泣き叫ぶ。地面に額を叩きつけながら大号泣する姿はとても人に見せられたものではない。




 一方、凛。


「こわい……叛乱軍、こわい……」


 世界トップランクのハッカーは、デスクの下でぷるぷると怯えていた。


「なんなんだよアイツ……人間じゃない……変態という名の新しい人種だ……」


 情報統制局局長の威厳はどこへやら。今まで関わったことのないタイプの人間に邂逅したことで、凛は恐怖で震え上がっていたのである。

 加えて、凛の心を侵食していたのは――――


「こ、煌の貞操が奪われてしまった……」


 ロアナと煌が蜜月にあったという(嘘の)事実に、凛は少なからず衝撃を受けていた。

 煌を溺愛していた凛だが、『いつかその日が来てしまって、息子は大人の階段を上るだろう』とは思っていた。覚悟はしていたつもりだったのである。

 しかし、このような形になるとは思ってもいなかった。心の準備も何も出来ていなかったがため、喪失感も半端なものでは無い。愛娘がいきなり結婚を持ち出してきた時の父親の心境にも似ているだろう。




 このように両者とも意気消沈していたのだが、何の因果か、二人は同時に閃く。


「「……待てよ?」」


 ロアナは思う。


「石見凛から聞けなかったとしても、コウから聞けばいいじゃないか……!」


 凛は気づく。


「その関係が事実だと決まったわけじゃないんだ、真偽を確かめる必要がある……!」


 故に、両者は方針を決めた。




「「煌に直接聞くしかない!」」




 二人の意志が初めて一致した瞬間だった。









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はい、ギャグ回です。続くシリアスに作者が耐えられませんでした。ちょっとセンシティブすぎるかな?とも思ったので、苦手な方はお申し付けくださってもいいですし、まぁ飛ばし読みしてくださっても本筋にはあんまり関係ないのでオッケーです。楽しんでいただけたら、それはそれで嬉しいですけども(笑)

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