第三十二揺 忘我の狭間
「それじゃ、始めようか」
一人の女と一人の少年が、椅子に座ったまま向き合っていた。
普段は間に挟んでいる机も、今は端に押しやっている。
二人を遮る物は何もない。互いの座っている姿が、頭のてっぺんから足のつま先まで完全に見えている状態である。
洒落たシーリングライトが二人を照らし、流れる沈黙が独特の雰囲気を醸し出す。傍目から見れば中々に異様な光景であろう。
ちなみに二人の様子はというと、女が美麗な顔に微笑を浮かべているのに比べ、少年の方はやや不満げだった。
「……なー。これのどこが遊びなんだよ」
「遊びだよ。私考案のれっきとした遊びだ」
「えー……」
尚も不満そうな顔をする少年に、女は揶揄うように笑いかける。
「なんだ、何か文句があるのか?」
「そんなの、あるに決まってるだろ。だって絶対おかしいもん、
相手の表情、仕草、姿勢など、あらゆる視覚情報を駆使して、相手が嘘をついているかどうかを見抜く。
それが、女の提案した遊び。およそ小学生の息子にさせる遊びではない。
はぁ、と溜息を一つして、少年は眼前に座る女を眺めた。
顔面の黄金比率とでも言えそうな整った容貌に、清流のように美麗な黒髪。見る人全てを虜にするであろう、ボンキュッボンの完璧な扇情的プロポーション。眉目秀麗の体現者のような人物。
身内視線から見ても、かなり魅力的な女性なのは確かだ。
しかし、女は少年に関することだと唐突に頭のネジが外れる。通常時の彼女の麗人っぷりを知る人からすれば絶句モノだ。
この奇妙な遊びを思いついたのだって、きっとそうしたことがきっかけだろう。こうなってはどうしようもなく、いつも渋々ながら彼女の要求を受諾するのが少年の日常なのである。
「んで、何か言えばいいんだっけ?」
「あぁ、なんでもいいぞ。嘘でも真実でも、どちらでも構わない。その発言が本当なのか嘘なのかを相手に見抜かれなければ勝ちだ」
そう言われて、暫く熟考する少年。女に見抜かれないようなリアリティのある嘘か、はたまた嘘に見える真実を言うべきか、どちらを取るかを悩んでいるのだ。
悩むこと30秒ほど。少年は意を決したように、女に言い放った。
「『夜野煌には好きな同年代の女の子がいる』」
「嘘」
「はっや」
殆どノータイムで解答した女に頰をひくつかせながら、少年は観念して正解を述べる。
「……いや、嘘だけどさ。早過ぎない?」
「煌にそんな子がいるとは思えないし…何より私が信じたくない」
「とりあえず後者が本音の90%なのは分かった」
冷や汗をかきながら、女は咳ばらいを一つ。「まぁ、冗談はさておき」と言うと、少年の目をじっと見つめてゲームのコツを伝授し始めた。
「いいか。人間の嘘っていうのは、基本的にどこかしらにボロが出る。訓練されている政府直属のエージェントでもない限り、これは絶対だ。どんな形でボロが出るかは人それぞれだが……分かりやすいところで言えば、目の泳ぎ、手足の不自然な動作、声帯の揺れ、喉の動きとかだな。こういうのは人の癖が出るから、万人に通ずる一貫性っていうのは大して存在しない。その人ごとに見極める必要がある」
「へー……じゃあ、凛にもそういう癖が?」
「あるだろうな。私は割と隠せている方だと思うが…もしかしたら、自分でも気づかない部分でサインが出てるかも」
「それを探るのが、このゲーム?」
「そう。言い換えれば、人の癖を見極めるゲームだな。どうだ、面白そうだろ?」
相変わらず小学生男児にさせるゲームではないような気がしたが、今は置いておくとしよう。
さっきは少年のターンだったので、続いては女のターンだ。女は姿勢を正すと、少しトーンを落とした声で少年に出題する。
「『石見凛はトマトが嫌いである』……さぁ、どっちだと思う?」
「トマト……それは、生のトマトってこと?」
「そうだな、ケチャップとかは別だ」
先ほどの少年とは異なるタイプの出題に、やや戸惑った様子を見せる少年。
ふと思い返してみるが、女の作るご飯にトマトが入っていたことは多々あった。しかし、それは生トマトというより、ミートソースパスタなんかに入っている形を変えたタイプのトマトだ。生トマトのジェルっぽい食感が嫌いという人は多いが、そういう人は加工したトマトなら結構食べられたりするものだ。生のトマトが無理な人というのは、やはり一定数存在する。
「……って、そういうゲームじゃないのか」
彼女が言うには、これは相手の癖を見抜くゲームだ。背景知識から真偽を推測するのは趣向が違うだろう。
そう思い、少年は女の姿をくまなく見つめ始める。体全身が見えている状態なので、いろんな所から情報を得ることが出来そうだ。
「ちなみに本人としては、どっち?」
「好きか嫌いか、ってことなら…生トマトは嫌いだな」
「例えば、どんなところが?」
「食感を体が受け付けない」
「……本当に?」
「本当さ」
質問をしながら女の全身や顔を見ているが、どこにも変なところはない。トーンも普通、表情も自然、姿勢も綺麗。仕草も特筆すべき部分は無く、嘘をついているようには見えない。
しかし、本人が『隠せている』と言っていたことから、逆の可能性もなくはないのだ。それを踏まえて、少年は結論を出す。
「……嘘」
「残念。本当だ」
「うわ、まじかー……。っていうか、そうだったんだ。知らなかった」
「まぁ食卓には出してないし、知る機会はないからな。知らなくて当然だよ」
そんな感じの緩い雰囲気で、二人は交互に出題をしながらゲームを続けていく。
最初はおかしなゲームだと思っていたがハマってみると案外楽しいもので、終盤になるにつれて盛り上がっていった。普段は女の仕事が忙しくて遊ぶ機会が中々なかったというのも、少年が素直にゲームに熱中した理由の一つにあるだろう。
大人びているとはいえ、遊び盛りの小学生。親と遊ぶのは楽しいものだ。
「まぁ、結果は惨敗なんだけど…」
「はっはっはっ!私は強いだろ!伊達に何年も局長やってな――……」
「……局長?」
「……あー、ごめん、今のナシ。さ、次がラストだ。最後は私の出題だな!」
「えー!もう終わりー!?」
その単語を出した後、掘り下げられないように女は強引に話題を転換した気がしたが、そんなことは少年にとって些事だ。事実、次の日には忘れていた。
そんなことよりも、女がゲームを終わらせようとしたことの方が彼にとっては重大だったのである。
「明日も学校だろ?ならもうすぐ寝る時間だ」
「……」
不満そうに黙り込んだ少年を見て、女はニヤニヤとしながら少年を見つめた。
「どうしたー?そんなに私との遊びが終わるのがイヤかー?」
「……そりゃ、そうだよ。いつもはあんまり遊べないし……できるなら、ずっとこうしていたい」
「――――—」
普段はツンとしている少年の、ポロリと零れた年相応の本音。
彼も、いつもは気丈ぶっているが、本当は寂しがり屋な男の子なのだ。
母と遊んで過ごせる貴重な時間。それを惜しむ子供の姿が、そこにはあって。
「……凛?」
俯いた顔を上げ、いきなり喋らなくなった女を見上げる少年。
つい数秒前まで、普通に見えていた全身。
今は何故か、迫り来る大きな胸部しか見えていなかった。
「へっ?」
「こぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおううう!!!」
「ふぁぼぁっ?!」
突如として視界全てを女の豊満な胸部で覆い隠されたと同時、柔らかいモノを顔に押し付けられた少年は、思わず変な声を出してしまう。柔らかいからダメージは無いはずなのに攻撃力は一級品だ。不思議である。
そんな風に思考回路が混乱する少年に対して、女は途轍もない興奮状態で彼を意のままに抱きしめていた。
「本ッッッ当にお前は可愛いなぁぁぁぁあああ!!!なんで、そう、こうも愛らしいんだ?!たまらない、たまらないよ最&煌だぁぁぁぁあああ!!!」
「うるっさいな!?つか抱きつくな!離れろぉ!」
「ああ、どうしたものか!この滾る愛情をどうすれば…はっ、そうだ!!お風呂だ!!お風呂に一緒に入ろうッッッ!!」
「嫌だよ!小学生にもなって一緒に入るわけないだろ!?それに、まだゲーム終わってないし!」
大興奮で熱暴走している女を必死に押しのけようとしながら、少年は必死にそう叫ぶ。
小学生が母親と一緒にお風呂に入るとか恥ずかしすぎる上に遊びが強制終了しそうな空気だったので、少年は少年で必死だったのだ。
「ん?それもそうか…なら、次は点数1億点な。正解したら勝利だ!」
「むちゃくちゃだよこの人!?」
「異論は認めんファイナルクエスチョンッッッ!」
有無を言わさず始まった最終問題。女は少し両腕を緩め、少年の顔を覗き込むようにして問い掛けた。
「『石見凛は、夜野煌を愛している』」
「」
「『どんなものよりも、夜野煌が彼女の中で一番の宝物である。彼が幸せであれば、彼女も幸せ。例え彼がどんな道を選ぼうと、彼女は彼を心の底から未来永劫愛し続けている』」
「……さ、嘘だと思うか?それとも、本当?」
優しい笑みで、彼女はそう言う。
彼女は意地悪だ。そんなの、分かり切っているだろうに。
「……本、当」
照れくさそうに顔を背け、少年は真っ赤になりながら答えた。
「ん。正解だ」
その言葉が、彼女の方を向いている左耳から聞こえてくる。
その正解の副賞とでも言うように、女は少年の頬にそっと唇を押し当てた。
頬に伝わる優しい感触。それがどうしようもないほどに、彼への愛情を伝えていて。
「……ぃよし!それじゃあ煌に一億点だ!優勝は夜野煌っ!優勝景品は私との入浴ださぁ行くぞッッッ!!」
「は?!いや、それは別問題…や、やめろ!お姫様抱っこで風呂場に連れて行こうとするなぁぁぁぁあああ!?」
それは、未だ色褪せない彼女ととの思い出。
母親と息子。そんな単純な関係であった頃の、慌ただしい日常。
夜野煌と、石見凛。
二人だけの、どこまでも眩しくて、どこまでも美しい日々。
あの幸せな記憶は、今でも脳裏に焼き付けられていて。
***
別人のようだ、と思った。
怒った時とも、苛々している時とも異なる、そんな声色。人前では毅然としていることは知っていたが、あれはそれとも違う類の彼女だった。
母親としての彼女を完全に脱ぎ捨てている、情報統制局局長としての彼女の姿。
ショックを受けなかった、と言えば嘘になる。あんな彼女は、長年共に暮らす煌とて知らない。
「……凛」
今は聞こえなくなったスピーカーの音声が、頭の中で反芻する。思い出していたのは、彼女の発言の中で唯一脈絡の無かったフレーズだ。
『あちら側で待つ』
人によっては、訳の分からない言葉であったであろう。しかし、煌にとっては明確な意図を有した言葉だった。
間違いなく、あれは煌だけに向けられたモノだ。
そして、『あちら側』という単語が意味するところも何となく分かる。
「あちら側……
『
原理不明の謎世界であり、『クレイドル』と似て非なる、もう一つの悪夢の世界の名だ。
政府側がクレイドルに関する情報を秘匿しているとされるアーキタイプは、青年達が無差別に悪夢に巻き込まれるクレイドルとは違い、政府側の役人が普通に出入りできるらしい。やはり原理が謎だ。
「コウ、準備できたよ」
思考する煌に声をかけたのは、ずっと電子キーボードを叩いて作業していたロアナだった。ホログラムで展開された青いスクリーンが大量に空中に浮いており、仄暗い空間を明るく照らしている。
「このギア…ヘルメットを被った後に、アタシが実行キーでアンタをアーキタイプ側に送り込む」
「……」
「……原理は聞くんじゃないよ。元々、このギア自体よく分からない代物なんだ。本当ならこの場でバラして解明したいところだけど…戻せるか分からないし、時間もないからね。癪だけど、プログラムされている通りのやり方で準備させてもらった」
「安全性は?」
「ある……と、信じたい。そのために、わざわざギアを確保する工作員を送り込んだんだし……あぁ、それと。アーキタイプ接続中は眠っているのと同じ状態になるからね。アンタの意識がない間は第一部隊がアンタを守ることになってる」
「そうか」
淡白な返事をしてから、ロアナから手渡されたギアを被った。見ると、後頭部から伸びた大量のコードが金属棚に並んだコンピューターのアダプタへと繋がれているようだ。ギア自体は普通の物よりゴツいぐらいで市販品との外見にさほど差はない。
「そういえば、さっきの二人は?」
「ヴィオラとエヴァンスのことかい?エヴァンスはここの出入り口前で警戒中、ヴィオラは近辺の哨戒をしてる。接敵したら連絡をよこすだろうさ…っと」
煌の付けたギアの最終確認をし、電子キーボードの実行キーに指を添えるロアナ。
準備は万端、いつでも行ける状態である。
「いいかい、最後に言っとくよ。もし、『アーキタイプ』が『クレイドル』と同じ原理を採用しているなら、『そこで死んだら現実でも死ぬ』って法則も適用されるだろう。絶対に気を緩めるんじゃないよ。不要な戦闘はせず、真っすぐに石見凛の下へ向かうんだ」
「……あぁ、分かってる」
「よし。それじゃ、心の準備が出来たら言いな。それを合図に―――」
「いい。すぐやってくれ」
煌の心に配慮してのことだっただろうが、ロアナの提案を却下して煌は即実行を決断する。それは煌の気が逸っているのか、はたまたロアナの思いやりを拒否しているのか。ロアナにはどちらなのか図りかねたが、とはいえ本人がそう言っているのだから今すぐ実行すべきであろう。
「……健闘を祈る」
その一言が聞こえたのを最後に、煌の意識は暗転する。
強制的に眠らされるような感覚に不快感を覚えながら、されど意識は一直線に夢幻都市へと向かい―――
<>
上と下が、どちらか分からない。
自分と周りの境界線が分からない。
今、自分はどこにいて、何を見て、何を感じているのか。
何を思い、何を根拠に、何を志しているのか。
何も見えない暗闇の中で、何も分からないまま、何も知らないまま、ただ揺蕩っているだけ。
どうして、闇の中にいるのだろう。
そこで、初めて気づいた。
自分は今、目を開けていないらしい。
なるほど、暗いはずだ。見ていないのだから、見えるはずもない。
それ以外のことは何一つとして分からないけれど、それだけは分かったから、とりあえず目を開けてみようと思う。
そして、重い瞼を無理やり持ち上げ、焦点の定まらない視界を確保して。
そこで、『それ』を見た。
夢幻に広がる暗いヘヤ。
夢現に塞がる黒いカベ。
無限に思える長いトキ。
この世のものとも知れぬ、筆舌に尽くしがたい空間。
否。それは正しくは、空間ではない。
どちらかといえば、狭間。
果てしなく広がる『上』と、同じく果てしない『下』に挟まれた、何とも言えぬ場所。
嗚呼、しかし。強いて言うならば。
これは、まるで――――
<>
「ぁか、は……ッ」
窒息から解放されたかのような感覚で、夜野煌は目覚める。
肺が大きく胸を打ち、目の前が白明する。堪らず膝から崩れ落ち、空嘔吐きを繰り返した。
「ぇほッ……はあっ……今、のは」
段々と脈拍が落ち着き始め、歪んだ視界が徐々に元の形を取り戻していく。
酷く、気分が悪い。
自分が自分で無くなるような、自分という人間の
今も煩く響いている頭を押さえて、煌は周囲を見回す。
四方を壁に囲まれた、狭い個室。目の前には陶器で出来た丸型の白い椅子があり、その中央部はぽっかりと穴が空いて僅かながらの水を貯めている。光に照らされ滑らかな表面を輝かせるソレは、マルセル・デュシャンもびっくりの芸術品で―――
「いや……なんでトイレなんだよ……」
そう。
夜野煌は、トイレの個室にいた。
気を取り直し、トイレからこっそりと出る煌。どうやら周囲には誰もいないらしい。早速見つかって追われる展開は回避できたようだ。
トイレから出ようと出入り口のドアノブに手をかける直前、鏡に映る自分の姿を見て煌は立ち止まった。
「……やっぱり、
アーキタイプでは、何故か
赤と黒を基調にした、サイバーパンクを兼ね備えた軍服姿。頬には三本線と丸を組み合わせた様な紅い紋章が浮かんでいて、黒髪には紅の色のメッシュが入っている。
ともすればコスプレに見える風体ではあるが、それがただの見掛け倒しでないことは彼の纏っている雰囲気が物語っていた。
強者が帯びる、周囲を凍えさせるほどの綿密な空気感。それは、偽物では決して醸し出せないとと一目で分からせるものである。
自分の容姿が変わっていることを確認すると、煌は再びドアノブに手をかけてトイレから出た。
トイレから出て左右を確認するが、やはり誰もいない。とはいえ、補正された聴覚で人の動いている気配を感じ取れるので、偶々いないだけなのだろう。警戒して損はない。
「……ここが、アーキタイプ」
職員が普通にいるのだから、危険がない場所ではあろうとは思っていたが。
「予想以上に、普通だ」
トイレも廊下も、高級感はあったが突飛な印象は受けなかった。どこを見ても至って普通のオフィスで、クレイドルのような悪趣味な装飾などは存在しない。噎せ返るような濃密な死の気配もなければ、もちろん異形の怪物が闊歩しているわけでもない。
しかし、煌にとっては普通である方が侵入もしやすく、好ましいのも確かだ。ここは素直に凛の下を目指すべきであろう。
状況確認をしたなら、即行動。
瞳を閉じて、聴覚からの情報の量を上げ、人がいなそうなルートを割り出す。
「……こっちか」
人があまりいなそうな広い空間が進んだ先にありそうなのを察知すると、足音を立てないように移動を開始した。
これは薄々気づいたことだが、アーキタイプには警備システムがあまりない。実際、移動中に天井などを見ても監視カメラの類いはつけられておらず、指紋認証といったセキュリティも見かけなかった。
これは恐らく、アーキタイプに入れる人間が制限されていたことや、そもそも中央管制塔に侵入できる人間が少なかったことが要因として挙げられよう。
スカイフロント第一区の中央に位置する中央管制塔だが、そのネットワークは外部と断絶されている。
といっても完全に断絶されているわけではなく、ネットが機能する必要最小限のパスは繋げられているのだが、そのパスが通る部分には凛がプロテクトを施しているのだ。外界とのネットワークを断つことで外部からのハッキングを防ぐのが目的で、事実として中央管制塔は外部勢力からのサイバー攻撃によるウイルスの侵入を現在まで許していない。それはサイバー攻撃技術が急速発達する近年でも同様だ。
このシステムを用いるからこその『門番』の呼称なのである。
このアーキタイプとて、中央管制塔内部からしかアクセスが出来ないようになっている。原理不明なので侵入手段も不明、ネットワークからの侵入も不可能に近い。
故に、アーキタイプの警備を強める必要はない。だって、
「そう考えると……工作員も含めて叛乱軍が侵入できていたのは、凛がわざと見逃していたからなんだろうな」
全ては、敵となった煌と邪魔されない環境で二人で会うため。加えて、叛乱軍の力量を見極めるため。
彼女はあらゆる手を計算し尽くすことで、魔術でも使っているのかと思わせるぐらいの手腕で局面を完成させた。
改めて、石見凛という人物の先見性を思い知らされる。
その類い稀なる頭脳を以てして作り出された盤面上で、叛乱軍と傭兵団は踊らされている。それが今だ。
何もかも彼女の思い通りになっている現在、彼女の言う『ゲーム』に叛乱軍が勝つには、傭兵団を圧倒的な力で屠るか、もしくは―――
「
どこまでが計算済みなのか分からない、あの怪物の裏を突く。それがどれだけ難しいかなど、誰にとっても明らかだ。
果たして、叛乱軍の力がどこまで通用するのか―――
「……っと。ここか」
考え事をしているうちに、あっという間に目的地へとたどり着いた煌。
窓ガラスが多く並ぶ、縦は勿論、左右にも広い空間。廊下の片側が巨大なバルコニーに面している。
煌が一度大きな空間に出たのは、自分の現在地を確認するため、そして凛の所在を確認するため。広い空間に出れば、この建造物のマップがどこかに掲載されているかもしれないと思ったのである。
見たところマップは無さそうだが、幸いなことにバルコニーがあった。バルコニーへと出る扉は見つけたので、そこから外に出て建物の外形を確認することにした。
警備員らしき姿は無く、見当たるのは数人の職員のみ。
ならば、と職員が誰も気づかないような速度で廊下を駆け、物陰に隠れながら移動する。変にゆっくり歩くより効率的だ。
無事に扉へと辿り着くと、音を出さないように手をかけてゆっくりと押し出す。
「……さて」
静かに扉を閉めて、建物内から見つからないように近くの柱に隠れた煌。
バルコニーに人の気配はない。ずっと張り詰めていた神経を少し緩めて一息ついたところで、ようやくバルコニーの外側へと目を向けた。
窓から何となく察していたが、外はかなり暗い。月明かりが届いていないのだろうか。
「随分と暗いな…現実と同じ、夜、みた、い……」
それを見て、最初は『夜』だと思った。
眩い輝きを放つ物が何一つとしてない空。普通、暗い空を見たら夜だと思うだろう。
―――――違う。
「夜じゃ、ない」
それは、『夜』などではない。そんな矮小なものではない。
上を見ても、星の瞬きは無い。燦く月も無ければ、空特有の淡い青さも無い。
文字通り、
夜じゃない。
これは、『虚無』だ。
空の代わりに、虚無が広がっているのだ。
暗い、という表現も似つかわしくない。黒、と呼ぶことも
圧倒的なまでの、虚ろなのだ。何も存在しない、というより、
『異質』の具現化が如きナニカ。それが、在る。
「どう、なってるんだ」
一目で分かった。
これは、
目の前の無間の闇に吸い寄せられるように、覚束ない足取りで歩き出す煌。
欄干に手を伸ばし、身を乗り出して虚を見つめる。
水平線の向こう側を見ても、無窮の闇が途絶えていることは無かった。
―――成程。虚ろの世界には、この建物を除いて何も無いらしい。
そう結論づける寸前、煌の目の端に光がチラついた。
「……光?こんな世界に?」
一瞬だけ目に映った些少な光を視界の全体に収めようと、首を左に向けた煌。
そして、2度目の衝撃を彼が襲った。
「……!これが、
それは、長らく不明とされていた
SFの世界観をそのまま持ってきたかのような、物々しい機械的な建造物の集合。それらは闇に包まれた世界で光を煌々と放ち、50年前の人々が夢想したであろう近未来的なフォルムで聳え立つ。ともすれば、タイムスリップしてしまったかのような錯覚を受ける。
それだけでも十分見応えのある光景だが、重要なのはそこではない。
夢幻都市は、
「なんだ、この岩壁……?」
建造物が取り付けられている、直立する巨大な岩壁。それも虚ろと同様、終わりが見えない。見渡す限り、どこまでも大きく聳え立っていた。
そして、煌が目端で捉えた光の正体もまた、同時に判明する。
壁の一部分から大量に噴出する、無数に束なる光の糸。噴出している部分こそ周囲の建物に守られているようだが、そこから先は何の覆いも無く、あの虚ろの中へと枝を伸ばしていた。それがどこに繋がっているのかは、あまりに先端が遠すぎて視認することができない。
構成される全てが幻想的な光景ではあったが、それは同時に理解不能なものに満ちている。
「あれは一体……あぁ、クソ……情報不足過ぎる……!」
この世界に来てから、新しく得る意味不明な情報が多すぎた。
煌が最初に味わった、忘我の世界。
無限に広がる『虚無』に、直立する『岩壁』。
そこに造られたSF顔負けの建造物群と、壁から噴出する『光束』。
そして、『クレイドル』と全く同じ格好をしている自分の姿。
「なぁ……これも全部、会えば解決できるのか?」
煌はそう言って、戸惑いの視線を建造物群のある一点に投げかける。
建造物群の、さらにその上。エレベーターが昇る先にある、ガラス張りの小さな一室へと。
***
「よし……それじゃ、作業に戻るとするかね」
アーキタイプに接続するため、ギアをつけたまま完全に眠りに落ちた煌。彼の状態に異常がないのを確認し、ロアナは再び電子キーボードを展開した。
擬似的に寝ている状態にある彼は今、完全に無防備な状態だ。故にロアナは煌の近くで作業をしており、非常時には彼を守れるようにしている。
「しかし……寝顔はやっぱり子供だね」
常に眉間に皺を寄せて、周囲を敬遠し続ける彼。16歳とは思えない姿ではあったが、目の前で寝ている彼はまさに少年そのものだ。
「しかも……アタシ好みのかわいい顔を……」
煌は別にルックスが悪いわけではない。精神の成熟さを考えると少しばかり童顔ではあるのだが、それでも美少年の類いに入る。実物の美少年・美少女ときたら、それらをこよなく愛する変態オタクのロアナにとっては垂涎ものである。
じゅるり、と涎を垂らしかけたロアナだったが、今の状況を思い返して正気に戻った。流石に場はわきまえたらしい。
「あー……こちらβ。各隊、状況報告をしてくれ、オーバー」
気を取り直した上で、作業と並立して各部隊との連携を図るロアナ。
『こちらδ。現在は異常はありませんが、想定よりも敵側の攻撃が激しいですな。まだ10階だというのに……警備ロボットもそうですが、傭兵側も人数が多い』
『こちらγ。δと同じくじゃ。この感じ…コイツら、10階と11階に戦力の半分くらい投下してないかのぉ?』
『こちらζ。僕らはあんまり敵と遭遇してないけどー、うーん。時間稼ぎ目的かなー?初動はある程度抑えたいとかー?』
「戦力の半分……?まだ序盤も序盤で……?」
各隊からの報告に首を傾げるロアナ。戦いの序盤から戦力の半分近くを投入してきた傭兵団側の動きに疑問を持ったのである。
叛乱軍と傭兵団+警備ロボットでは、圧倒的なまでの戦力の差がある。攻撃二倍の法則からも分かるように、時間制限のある今回においては叛乱軍側の方が完全に不利。傭兵団側は序盤から潰しに行く必要がない。
しかし、彼らはその序盤からかなりの戦力を投下してきた。そこには必ず意味があるはずだ。
「時間稼ぎ……いや、それなら連携の取りやすい近場の14階とか13階とか、階段近くで待ち伏せして戦った方がいい。となると、それ以外に目的が?」
傭兵団側の司令塔の考えをトレースしようと、持ち前の高い知能を使って思案するロアナ。
『最強の傭兵団』と称される彼らのトップだ。かなりの切れ者に違いないのだが。
「……だめだ。考えが纏まらない。でもキナ臭いね。各隊、警戒を」
『『『了解』』』
状況報告が終わり、ロアナは通信を切りかけたが、まだ応答のない部隊がいたのを思い出して呼び掛ける。
「α、聞こえているかい?聞こえているなら応答を」
未だ応答がないのは、シュティーネが率いる第二部隊だ。司令塔が通信を求めた場合、それに応答するのは部隊の長である分隊長の義務だ。返答しないというのは、通信できない事情があるのか、あるいは―――
「……っ、α!聞こえているなら応答を!」
最悪のパターンが脳裏に浮かぶロアナ。
何度重ねても返事が無い状況を鑑みれば、第二部隊はおそらく―――
『―――こちらα。いやぁ、反応が遅れてごめんねぇ。丁度戦闘中で手が離せなくてぇ』
ようやく返事をよこしたのは、他でもないシュティーネだった。声がやや揺れているので移動しながらの応答だろうが、その他の点で異変は感じ取られない。無事そうなのが分かったロアナは、安堵の息と共に少しの愚痴を漏らす。
「……あんまり驚かせるんじゃないよ」
『だって、張り切っちゃうじゃんねぇ。初めての分隊長だよぉ?いつもはあんまり役に立たない分、戦果を残さなきゃ』
「アンタが役に立たない?はっ、まさか。アンタはいつも立派に分隊長やってるよ」
『……だと、いいんだけどぉ』
トランシーバーの向こうの彼女の声は、どこか不安げだ。
とはいえ、シュティーネもバリバリの武闘派だ。建物内のインファイトにはかなり強いはず。
『あ、現状報告ねぇ。私達は11階に到達したよぉ。随分と敵が多かったけどぉ……今のところは何とかなってるかなぁ』
「! もう既に、11階まで……!」
現在、ゲームが始まってから約5分だ。それだけしか経っていないにも関わらず、全部隊の中で唯一11階に到達している。その事実が、彼女が役立たずなどではないことを示しているだろうに。
「気をつけなよ。アンタの戦闘スタイルは特殊だし、体力の消耗も激しいだろ」
『だいじょぉぶ!みんなの為に頑張るから、ちゃんと見ててよぉ?』
そして、戦闘音がトランシーバーを通じて流れる。どうやら接敵して銃撃戦になったらしい。
返事をする前に通信が切れたので釈然としないが、仲間が元気そうなのが確認できたロアナは、ふと頬を緩ませた。
「見るのは無理だけど、アンタが頑張ってるのは知ってるよ」
仲間達だけではなく、ロアナにも高難易度のタスクが山積みだ。深呼吸で気を切り替えて、ロアナは再びホログラムスクリーンにプログラムを打ち込み始める。
………
経過時間 5min
残り時間 55min
《生存人数》
第一部隊 4/5
第二部隊 5/5
第三部隊 5/5
第四部隊 5/5
第五部隊 5/5
現在、叛乱軍11階到達。
***
「さーて……そんじゃ、いっちょ確認でもするか」
そう言った三本傷の禿頭の男は、事前配布された中央管制塔の構造図を見ながら思案する。
「ほーん……こう見てみると、変な構造してやがんな。外見は普通だが、中は随分と入り組んでる。警備上の問題か……?」
10階から17階は、下階とは比べ物にならないぐらい建物としての警備が厳重だ。
迷路のように入り組んだ構造に、15階から先は窓枠一つ存在しない徹底ぶり。
他にも構造物としておかしな部分はあるが、バナードが最も目を引く部分があった。
「なんだこりゃ……階段だと一気に進めるのは2階分だけなのか?」
10階より先では、上階への移動手段は二つに限られる。
階段か、エレベーター。
エレベーターは中央フロアに配置されているが、そこに入るための出入り口が厚さ1メートルの超極厚の隔壁で塞がれている。この隔壁を上げる為には16階にあるCPUをハッキングするしかないが―――
「あの化け物女の渾身の防御プログラムだ。突破されることはねぇだろ」
となると、叛乱軍が上の階へ行くのに使えるのは階段だけ。しかし、この階段が変な構造をしている。
10階から11階への階段は普通に直通しているが、11階から12階へと登る階段は別の場所にあるのだ。同様に12階から13階は直通だが、13階から14階に登る階段は別の場所に設置されている。
つまり、11→12と13→14の移動に関しては、別の階段へと移動をしなければいけないのである。
「利便性はクソだが……確かに、これなら一気に突破される危険性はねぇな。利便性はマジでクソだが」
一気に上階まで登れないとか不便にも程があるが、警備上の問題で言えば利となる。一気に10階から17階まで突破されることはないのだから。
しかも、扉は合成金属によって作られた厚さ20センチの特別製だ。外から施錠されている場合には、爆薬でも使わないと突破できない。
「そうとくりゃ……利用しねぇ手はねぇじゃん?」
そう言って、最強の傭兵は悪辣に嗤う。
「あー、テステス、聞こえてっか?」
『おう、ボス。どうしました?』
下階にいる部下に通信を持って、無慈悲なる命令が実行されようとしていた。
「階段のとこ、あるだろ?密室で堅牢で、となりゃあ、やることはひとつだろうよ」
石見凛によって垂らされていた、叛乱軍にとっての一筋の釈迦の糸。
「そこに引火性の猛毒ガスを撒け。それで奴らは終わる」
――――バナードの命令は、それを断ち切る行為に等しかった。
***
金木犀が香る季節になりました。
どうも、お久しぶりのぽんずです。迫るタスクの期限に血涙流して立ち向かいながら、窓から風に乗って運ばれてくる金木犀の仄かな香りに癒されております。
さて、今回も長いですね。分けろって話ですが、分けすぎても飽きるかなって思って踏ん切りがつきませんでした。応援してくださっている方、お待たせしてごめんなさい。でも更新頻度はあがりません(上げろ)。
いやー、にしてもスカイフロント編の書きづらいのなんの。さっさと何も考えずに悪夢の世界を綴りたい……あ、悪夢が…悪夢が足りないよぉ…。
応援コメント、レビューありがとうございます!作者の執筆の励みになっております!ファンだと公言してくださる方とか、もう神ですね。神は実在した。
勿論、応援してくださる方全員が神です!神を毎日崇めてます!ハレルヤ!
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