第二十六揺 血濡れの大聖堂

 

「……ぅん……」

「あ、起きたかい、響也君」


 目を擦りながら起き上がった響也に声をかけるのは、先に脱出していた葵だ。


「怪我は……治ってる。痛みも……ない」

「ん?怪我をしたのかい?」

「……した、というか……させられた、というか」


 腹をさすり、煌に喰らわされた肘鉄の痛みが消えていることを確認する。

 ポータルに入れば、あらゆる傷は治癒される。傷だけでなく、それによって負った痛みも消え去るのだ。


「…僕が去った後、何かがあったんだね」

「……順に、お話します」


 顔に浮かべた穏やかな笑みを消して真剣な顔になった葵に、ことの顛末を響也は話した。





「…そんなことが」

「……」

「……響也君から見て、夜野君は信頼できる人間かい?」


 煌による過剰な攻撃。我儘を言ったのは響也達の方とはいえ、流石にやりすぎ感の否めない行動だった。それに彼の発言を考慮すれば、信頼できる人物とは言い難いのが事実だ。


 だが、響也はそうは思わなかった。


「……はい」

「何故?聞く限り、かなり過激な人物じゃないか」

「……僕を吹き飛ばした後で、分かったんです。……あの人、

「!」

「それだけじゃない。……五倍の身体能力があるなら、聴力だって強化されてる筈。それでも……僕は、あの人の目を盗めた結果、ここにいる」

「……意図的に、気づかないふりをしていたってことかい?」


 コクリ、と頷く響也に、腑に落ちない、といった顔をする葵。


「しかしまた、なんでそんな回りくどいことを?普通に許可すれば良かったじゃないか」

「……きっと、『合理』に徹しようとしてたんじゃないでしょうか。……少なくとも、僕にとって見れば……あの人は無理矢理で自分の心を殺してるように見えた」

「合理、か……そう在らざるを得ない理由があった、ってことかな」


 それに答える術を響也は持たない。

 彼には煌の過去も、心情も推し量ることができない。

 葵から目を逸らし、周囲の風景へと視線を張り巡らせる響也。


 海に囲まれた、小さな孤島。

 暗い夜空に浮かぶのは、金色に輝く大きな丸い月。


 響也が寄りかかっているのは、満開の桜を吹雪かせている大きな木だ。薄桃色の花びらが重力に逆らわず、しかしヒラヒラと滑らかに、そして優美に目の前を通りすがっていく。

 耳に届くのは、静かにさざめく潮騒の音。浜辺に打ちかかる穏やかな波に引かれ、きめ細やかな白い砂が互いに擦れ合い、ささやかな音を立てている。


 月が海面に映す波の綾が、金色に揺らめく。

 汐風にゆすられ、桜の花弁の風が吹く。


 どこまでも美しく、どこまでも儚い光景。


 それは見た者の心を震わせ、心に消えぬ感動を刻み込む。

『クレイドル』の良心。かつて、音子はそう称した。

 ポータルから脱出した後の、プレイヤーに与えられる安息の地。鴉頭の時は硝子の間だったが、この安息の地というのは、処刑人エクスキュージョナーによって異なる。吸血鬼が闊歩するステージには、この夜桜の島が与えられたのだった。


 月明かりが照らす小さな孤島の上、響也は海を眺めながら思案する。


 煌の目的。発言から察するに、それは『処刑人エクスキュージョナーを殺す』ことなのだろう。そこに一切の私情を介入させないようにしているあたり、合理に努めようとしているのが分かる。

 だが、響也からみれば、その姿勢は些か甘いようにみえる。所々で人情が垣間見えてしまっているのは、肘鉄の件といい、間違いないと思っていいだろう。

 と、なれば。

 もしかしたら、あの少年は皆が思うより、かなり人間味がある…のかもしれない。


「……それにしても、あの肘鉄……もっと、優しくできなかったのかな……」


 そう言いながら、もう痛みが消えたはずの腹をさすり、あの瞬間を思い出して身震いをする響也なのであった。




 ***




「有永さん、一つだけ聞きたいことがあるんですが」

「……」

「……有永さん」

「え?…あ、ぁー…何?」


 上の空、といった感じで反応する穂乃美に眉を顰め、目で「何か言いたいことがあるのか」と穂乃美に質問を促す。


「……なんか、すっごい変わったなぁ、ってさ……」


 煌の格好をまじまじと見つめながら、穂乃美は目を丸くして答える。


 さっきまでは黒かったはずの、紅い瞳孔。

 黒ベースの、一房が燃えるように紅く揺らめくメッシュの髪。


 服装にもある程度の変化は加わっているのだが、他にも先ほどとは明らかに異なる点が二つ。

 一つが、煌が手に持っている武器。歪な装飾が施された大鎌を片手に携え、それを背中に担いでいる。煌の背丈程もあろうかという巨大な鎌を軽々と持っているあたり、身体能力十倍は嘘ではないのだろう。

 そしてもう一つが、その左頬で紅く輝く丸と直線を組み合わせた、サイバーテック柄の紋章。脈動するように仄かに色を変化させるソレは、知らず知らずの内に目を吸い付けられるような、そんな不思議な引力を持っている。


「てかさ、びっくりしたじゃん!いきなり煙が出てきてさ…煌マルが煙になって消えるのかと思ったし」

「…それは予め説明するべきでしたか。心配は無用です。叛逆者リベールが力を昇華させる際、必ず起こる現象ですので」


 穂乃美が言っているのは、煌が現在の姿に変わる際に起きた、体から赤い霧が噴出する現象のことである。

 道化師を圧倒した時、煌に最初に起きた変化だった、あの霧だ。あれ以降、『クレイドル内に残っているメンバーが半数を切る』という条件を満たし次第、煌の体から赤い霧が出るようになっていた。

 オズウェル曰く、叛逆者リベールが『変生』した証、だそうだが。


「それさ、武器を出すって能力なん?あの、ほら、空欄の能力」

「正確には違います。どんな武器でも出せる訳ではないので」

「え、じゃあどんな武器なら出せんの?」

「殺した処刑人エクスキュージョナーが持っていた武器です」

「あー、なるほどぉ………………ん?」


 相槌を打った後で、煌の発言を正しく処理し始めた穂乃美。

『殺した処刑人エクスキュージョナーが持っていた武器』。


「……マ?」

「…嘘をつく必要がないでしょう」


 ちらり、と煌の持つ大鎌に目を向け、不恰好な苦笑いしながら聞き返した穂乃美を見て、小さく溜息をつく煌。


「…俺が処刑人エクスキュージョナーを殺したいのは、私怨もありますが……次にあるのが、武器を増やしたいからです。手数はあればあるほど良い」

「ちなみに、今は何コ出せんの?」


 つまり、煌は今までに四体もの処刑人エクスキュージョナーを葬ってきた、ということだ。

 奴らを殺すことができる存在であるのは知っているが、その実績を今一度聞くとなると、穂乃美はやはり身震いしてしまう。


 無敵だと思って自分達が必死に逃げてきた存在を、彼は殺せる。

 まさに、『クレイドル』にいる者達にとっての救世主のような存在だ。


「ねーね、どんな武器出せんの?見せてよ」

「見せ物じゃありませんので」

「えーケチー」

「……そんなことより」


 ス、と唇に立てた人差し指を当て、穂乃美の発言を禁ずる煌。

 それは、煌が事前に取り決めていた合図。「近くに吸血鬼がいる」という意味のジェスチャーだ。

 悪魔の象徴たる奴が近くにいる、という情報を無言で伝えられ、穂乃美は思わず身を硬くする。


 煌が手で指示した場所で待機し、息を潜める。穂乃美が戦いの場に出れば必ず足手纏いになるし、吸血鬼に狙い撃ちをされる可能性があるので、穂乃美は隠れて観戦することを取り決められていた。


 目の前にあるのは、大きな出入り口。扉は付いておらず、中の様子は丸見えだ。

 悠然と中へと歩き出した煌に対し、穂乃美は出入り口の横から首だけ覗かせて中を観察する。


 そこは、巨大な聖堂だった。

 元々は床に取付けられていたのであろう、雑多に散らかった木製の椅子。そこら中に転がっているのは、割れた窓ガラスの破片だろうか。高い天井を見上げると、確かに取り付けられた窓ガラスは悉くが壊れてしまっていた。

 朽ち果てた大聖堂の最奥。

 ほぼ壊れた壁の向こうから覗く嵐の空を背景に、半ば崩れかけた女神像が立っている、その場所。

 半壊の女神像を前にして、吸血鬼は寡黙に佇んでいた。


 口端を歪に吊り上げ、眼前で歩んでいる一人の少年をニヤニヤと見つめている。


―――来れるものなら、来てみろ。


 吸血鬼は何も言わない。だが、穂乃美には『奴』がそう言っているように感じた。


「……巣穴に閉じ籠って高みの見物か。いい趣味してるな」


 吸血鬼が何を仕掛けたのか分からないにも関わらず、煌は歩速を変えることなく進み続ける。


 雷の音は聞こえない。壊れた壁から降り注ぐ雨粒が弾ける音と、煌の足音だけが耳朶を打つ。

 煌が一歩踏み出し、そして一歩を踏み出し。


 一片の硝子を踏み砕いた瞬間。


―――煌の周囲八方から、土槍が放たれた。


 煌を閉じ込め、さらに中で圧殺する形で仕込まれた土槍は、煌の逃げ場を失わせる。

 本来なら必中の槍。躱し切れぬ物量。


 しかし、忘れてはならない。


 煌は今、無手ではないことを。



 シャリン。



 空間に響き渡ったのは、鈍い音ではない、鈴を鳴らしたか如き透き通った音。


 それを聞いていた穂乃美は、無際限の感動に襲われる。


―――嗚呼、知らなかった。


 岩というのは一瞬で切られると、斯くも美しい音を奏でるのか。



 大鎌を振り切った煌の前では、土槍は冗談のように真っ二つになり、宙を舞っている。


 そして、ゴングにしては細やかすぎる其の音が、開戦の合図だった。


 煌が前傾し、吸血鬼が両手を広げる。

 地を爆砕して直進する煌に、四方八方から土槍が迫ってきた。

 地に足つければ下方から、跳躍すれば前方から、それらを切り捨てれば、音もなく後方から。人体を易々と貫く凶器の土槍が全て、煌一人を排除する為だけに向けられる。

 だが煌とて、指を加えて死を待ってなどいない。

 眼前に迫り来る土槍を鎌の刃でいなし、返す手首で根本を切断。続く二本の槍に対しては突貫し、その隙間を身を抱えて通り抜け、すれ違いざまに両断した。

 次に足元から生える数本の凶槍を両手で握った鎌で薙ぎ払い、先端を刈り取られた土槍を足場に高く跳躍して地面から離れることで、吸血鬼に接近するまでのショートカットを狙う。

 が、それを許す吸血鬼でもないも確か。

 天井、地面、壁から生えた土槍が煌に向かって一斉に伸び、その体躯を捉えた。


 高い跳躍による土槍の回避は先刻、煌が見せたばかりだ。流石に学習したのか、煌が再び跳躍をした際の対抗策は既に打っていたというわけだ。


 ただし、計算外だったのは、煌の力。


「脆い」


 体を空中で捻り回旋、身体能力十倍の膂力を以って振われた大鎌は鎌鼬のように刃の風を生み出し、迫る土槍全てを根本まで切り裂いた。


『―――』


 計算通りに行動した獲物による、計算外の行動。


 目論見を魂胆から打ち砕かれて放心気味の吸血鬼を、紅く赫く双眸が貫く。


『こんなものか』


 言外にそう語るのは、少年の皮を被った紅の死神。

 失望の瞳に映された自身の姿を見て、吸血鬼は歯噛みして次なる手を打った。


 天井、地面の両方から数多の土槍が射出され、煌の目の前で行手を阻む。あまりの物量で視界が通らなくなるあたり、土槍のジャングルと呼称するのが適切か。


 煌は斬り飛ばした土槍の先端に飛び乗って、それを蹴飛ばして土屑と変える代わりに、自身が絶速の弾丸となって吸血鬼に迫る。

 風を切って飛来する煌は目の前にある土槍を大鎌で斬り払い、前進に邪魔なそれらを排除しようとした。


 しかし、その体は再び進路を阻まれることとなる。


 天地から生えていた土槍から、更なる土槍が生成されたのだ。


「!」


 想定外の攻撃に対し、加速された思考で最適解を演算。ここは無理に直進するよりも槍を切り落とすのが先だと結論づけ、体を振って追加分を斬り払った。


―――成る程。生やした土槍からもまた生やせるのか。


 良いことを知った、と言わんばかりに唇を少し舐め、静止した土槍の一本に着地した煌。


 生やした土槍からも追撃がくる事を考慮すれば、天井からも地面からも槍が無数に生えている状態だと、槍の量が格段に跳ね上がる。

 先程までは天井までの距離があったため上方向からの攻撃はあまり注意する必要がなかったが、どこからでも攻撃が来ると分かった現在なら話は別だ。


「攻撃の手数が増える…なら、長物は不利だな」


 煌が使いづらい武器である大鎌を頻繁に使用するのは、単純に慣れているから。しかし、長物であるが故に、動きにラグが出やすい。技量を必要とせずに膂力だけで押し切れる点は非常に魅力的だが、こうも物量が多いと手間だ。

 故に。


「『』」


―――長物が不利なら、短物にする。


 煌のその言葉を皮切りに、手に持っていた大鎌に変化が起きる。


 大鎌から赤雷が迸り、弾ける。


 そして赤雷の塊は二つに分裂し、再び形を得た。


 大鎌に続いて煌の手に握られていたのは、二振りのジャックナイフ。

 そう。あの道化師が携えていた、血塗れのジャックナイフだ。


「征くぞ」


 新たな得物を両手に、空中へと飛び出す煌。

 待っていた、とでも言うように、伸びていた土槍から次々に新たな土槍が生成されていく。

 その鋭く尖った先端は、しかし煌には届かない。


 煌に近づいた土槍は、悉くが塵と化す。


 煌は目にも止まらぬスピードでナイフを振るい、身に迫る危機の全てを塵にしたのだ。大鎌の時とは比にならない、隔絶した速さ。それは軽いナイフだからこそできる芸当であり、そして無数の槍が襲来するこの状況にはうってつけの武器だった。


 伸びた土槍を踏み台に、着実に吸血鬼へ迫る煌。無論、吸血鬼とてただ見ているだけではない。迫りくる死神を少しでも遅延させようと次々に罠を設置している。

 だが、煌は全く止まらない。

 止まらないどころか、スピードが落ちる気配がない。コンクリート顔負けの硬度を誇る土槍が、まるで豆腐を切っているかのように切り裂かれ、沈黙していく。

 空中にいるにも関わらず、一切迎撃の手が緩まない煌。

 身をひねり、双刃を振るい、黒い弾丸となって飛来する。煌の通った後の道に尖った土塊が一つたりとも存在しないのが、如何に罠達が彼の前で無力かを示していた。


 速度は落ちず、むしろ加速する。


 そして遂に、吸血鬼との距離は三メートルを切った。

 妖しく煌く二振りのナイフを逆手に持って、目の前の標的に振り下ろそうとする。


 そして。

 


 煌が勝利を半ば確信した瞬間、吸血鬼は温存していた鬼札を切る。

 吸血鬼の斜め上方向から迫った煌の体が、唐突な衝撃に貫かれた。


 細身の処刑人エクスキュージョナーの足元から伸びていたのは、巨大な土の塊。


 その太さ、もはや槍と言い難い。それは、大鎚だ。


 煌の全身を完全に捉えるほどの太さの土の巨塔に押し潰されたまま、煌は再び上空へと逆戻りさせられる。

 巨塔は凄まじいスピードで伸びていくため、体にかかるGも相当なものだ。煌は大槌から逃れることができず、その先端に張り付いてしまったまま、天井へと運ばれた。

 そして追い打ちをかけるように、天井からもう一つの大槌が襲来する。

 大質量の土塊二つ。かかるGで動けない煌は、ズガァン、と響いた爆音と共に、成す術もなく圧殺された。


 吸血鬼は思い通りの結末に高笑いし。

 角から覗き込んでいた穂乃美は絶句する。


処刑人エクスキュージョナーを殺せる』と豪語した割に、あっけない結末だ。

 そんな失望の思いすら浮かんでこない穂乃美。


 その耳に。


 ぴしり、という音が響いた。


 吸血鬼は耳を疑い、頭上を見上げ。

 穂乃美は歓喜の眼差しで見つめ。


 両者はその時初めて気づく。

 先ほど彼女らの耳に届いた爆音は、煌を押し潰した音ではない。


 


「脆い、って言っただろ」


 土の巨塔を受け止めていた手に力を入れると同時、その上に降り立つ煌。



 其の死神を殺せた、などと思うなかれ。


―――死神は、理不尽に死をもたらすが故に死神なのだ。



 ナイフを両手に顕現させ、土の巨塔の上を疾駆する。

 吸血鬼は恐怖で顔を歪め、煌の足元から土槍を伸ばす。それを煌は前転宙返りで華麗に回避し、そのままの勢いで巨塔の上を滑走した。

 地につけた両の足、その靴底の摩擦で黒い二本の火傷痕を残しながら、煌は悪あがきの土槍を切り払い、吸血鬼の下へと迫る。

 そして煌を黄色の細い瞳で睨んだ吸血鬼は、自身の眼前に巨大な土壁を発生させた。煌とて簡単には斬れないであろう、巨大な壁。煌が破壊に手間取るうちに逃げようと画策した吸血鬼の狙いは、またも外れる。


 もし、本当に煌から逃げたいのなら、少なくとも視界は塞ぐべきではなかった。



「『』」



―――誰が、武器は二つだけだと言ったのか。


 そう嘲笑うように、たった一言のフレーズが大聖堂に響き渡る。


 そして、穂乃美は見た。


 両手に持っていたジャックナイフが赤雷に変わり、続いて彼の右腕に纏われる。

 生成されるのは、元の腕よりも二回りほど大きな銀色の巨腕。


 それは前回の『クレイドル』で煌が倒した、巨腕の処刑人エクスキュージョナーの装備していた武器。腕が一本しかなく、これといった特殊能力もない個体だったが、それだけ対面での戦闘能力は格別に高かった。逃げる分にはまだ何とかなるが、真っ向から戦うとなると中々に手ごわい相手だったのを覚えている。

 あれに比べれば、吸血鬼など屁でもない。


 そして敵から奪い取ったソレが、煌の腕から圧倒的な膂力を以って振り抜かれた。


 一条の銀の流星となって巨壁に撃ち込まれた隻腕は、立ち塞がった障害をいともたやすく破壊する。


 何が起こったのか理解していない吸血鬼の顔面。


 そこに、煌の剛脚が撃ち込まれた。


『ギィィイッ!?』


 聞くに堪えない醜悪な断末魔を漏らし、弾き飛ばされた吸血鬼の体は女神像を貫通し、その更に後方へと吹き飛ばされる。


 全身を貫く、身を焼き尽くすような不快な感覚。

 それを『痛み』というのだと、吸血鬼は知る由もない。


―――いやだ。こんなのはいやだ。一刻も早く逃げたい。


 その思いだけが脳を埋め尽くし、雨が降りしきっている外へと手を伸ばす吸血鬼。

 しかし、その手は煌によって持ち上げられる。


「逃がすわけねぇだろ」


 握った腕を粉砕し、再び悲鳴を上げる吸血鬼を気にも留めず、大聖堂の中へと放り投げる煌。

 投げられた吸血鬼の体は地面と平行に飛び、進路上にあった土槍を次々に破壊しながら吹っ飛んだ。

 土槍を数十本自分の体でへし折った吸血鬼はようやく止まり、全身を埋め尽くす痛みに喘ぐ。だが、視界の端に歩み寄ってくる煌が移ると、顔を恐怖で染め上げ、絶叫しながら土槍で応戦した。


「もう見慣れた」


 百回以上土槍を避けてきたのだ。目などとうに慣れてしまっている。

 数多の土槍を悠然と回避していく煌。

 体軸を逸らす。首を傾ける。前に跳ぶ。かと思えば体を回転させ横から迫る二本を潜り抜け、下から生えた槍を上にあった土槍を掴んで躱し、その後は壁に着地してバク転、伸びている途中の槍すら足場に疾走する。


 宙に浮いている薄紙を爪楊枝で刺せないような、そんな類いの手応えのなさ。

 刻一刻と迫りくる死神の姿に戦慄し、半狂乱になりながら吸血鬼は土壁を生成する。

 それすらも歯牙にもかけない煌は、銀の巨腕で変わらず悠然と進んでいった。


『~~~ッッッ!!』


 迫る死に、吸血鬼は恐れ戦く。


 ――どれだけ遠ざけようと、それは追ってくる。


 紅い双眸を覗かせて。


 紅い紋章を煌かせて。


 紅い一髪メッシュを靡かせて。


 壁を壊しながら、命を刈り取らんと歩み寄ってくる。




 違う。

 自分は、刈り取られる側ではない。刈り取る側だ。

 前回、久しぶりに一人を殺せたのだ。あの快感を、まだ味わっていたい。

 まだ、殺し足りない。血が見たい。苦鳴が聞きたい。骨の髄まで沁みるような、哀しみの声を味わいたい。


 自分の貧相な体を見る。

 あちこちがボロボロ。血が溢れ、肉が裂け、片方の視界が潰れている。


 違う。見たいのは、自分の血ではない。

 しゃぶりつくすのだ。味わい尽くすのだ。

 逃げ惑う獲物の叫びを、涙を、血を。まだ、感じるのだ。




 だから、その声は天啓かと思った。


「痛っ!」


 ふいに背後から響いた、女の声。

 その主は他でもない、穂乃美だ。


 何度も放たれた土壁、そして巨腕に打ち砕かれたそれら。

 ただでさえ老朽化した古城だ。それだけ派手に暴れれば、天井の一つや二つ崩れてもおかしくない。実際、穂乃美の頭上から落ちてきたのは、天井から落ちてきた小さい石の礫。それが頭に当たり、反射的に声を出してしまったのだ。


 …今の声は、誰のものだ。

 吸血鬼の脳内で浮かんだ疑問。しばらくの思考の末、ある結論に辿り着く。



 『あの男以外に、脱出していない者がいる』。



 張り裂けんばかりに唇を吊り上げ、吸血鬼は歓喜に顔を染める。


―――まだ、血を見ることができる!!


 神という概念も知らぬ怪物が、確かに神に感謝したであろう瞬間。まだ獲物が残っていたことに悦び、煌を無視して穂乃美の下へと向かう吸血鬼。


(―――不味い)


 煌とて、穂乃美の声は聞こえていた。だから、吸血鬼がそこへ向かうであろうことも予測できた。

 しかし、穂乃美の下へすぐ駆けつけることができない。なぜなら、吸血鬼が苦し紛れで生成した土壁があった。吸血鬼の足掻きは無駄にならない。その時間稼ぎのお陰で穂乃美は声を漏らしてしまい、煌は穂乃美をすぐに守りに行けないのだから。


「間に合えッ……!」


 顔を一気に焦燥に染め、目の前の壁を打ち砕く煌。ようやく全ての壁を壊して吸血鬼の姿を捉え、煌は少しばかり安堵する。

 事前の情報通り、吸血鬼は足が遅い。確かに吸血鬼は穂乃美まで遠く、これならば自分がギリギリ追い付ける距離だ。


 しかし、今度は煌が予想を裏切られる番だった。


 吸血鬼が自分の足元から槍を出し、


「な―――」


 吸血鬼がそこまで頭の回る存在であると読み取れなかった煌。無理もない。この用途は、吸血鬼がこの戦いの中で編み出した方法だったのだから。


 急加速して大聖堂の出口を飛び出し、そこに隠れていた存在を吸血鬼はしっかりと見据えた。

 ニヤリ、と笑った吸血鬼が、土槍を穂乃美の足元に出現させる。


「…あ」


 反応の遅れた穂乃美の体を、土槍が無慈悲に貫いて






「ハトさぁ」

「む?」


 潮騒の音が心地よく響く、夜桜の島。

 大きな桜の木に寄りかかっていた穂乃美は、仁王立ちで海を眺めていた鳩助に声をかける。

 同じく海を眺めながら、穂乃美は以前から気になっていたことを聞いてみた。


「ハトって、あの土のヤツ避けるのメッチャ上手くね?あれどうやってんの?」


 きょとん、とした顔をした鳩助は、しばらく思案する。


「うーむ…言語化が難しいな…。ところで、なぜそんなことを?」

「え?いや、できたら良いかなって。ほら、あーしって運動能力下がってるし」

「反筋力補正のことか?あまり気にするものではないぞ!」

「…そー言ってくれんのは嬉しいけどさ、やっぱり、みんなにかかる負担は出来るだけ減らしたいっつーか…って、んだよ」


 その言葉を聞きながら鳩助はニンマリと笑うので、穂乃美はやや不機嫌そうに眉をひそめながら笑う理由を訊ねた。


「いや何、最初は全く彼らと打ち解けようとしなかった君が、そこまで言うとはな!この鳩助、仲間の心情の変化に嬉しいばかりだ!」

「は、はぁ!?ち、ちげーからっ……て、違くないケド……だーっ!早く教えろよ!」


 顔を真っ赤にして叫んだ穂乃美に、その意気や良し、と言わんばかりに頷き、穂乃美に手を伸ばした。穂乃美が手を掴んで立ち上がると、鳩助は説明を始める。


「いいか!よく聞くんだぞ!」

「お、おぅ…」

「まずはビビッと攻撃の気配を感じるだろう?!」

「うん……ん?」

「そしたらズバッと出てくるから、ここをグイっとしてガクンで、それでもってギュインだ!分かったか?!」

「わかるかぁッ!!」


 鳩助のアバウトすぎる説明に、穂乃美は全力で突っ込むのだった。






 走馬灯、というやつだろうか。

 一瞬だけ頭によぎった記憶が、穂乃美の意識をクリアにする。

 動こうと思って、動いた訳じゃない。ただ、気づいたら動いていた。

 まるで、誰かにそばで指南されているかのように。



 ―――ビビッて、来たな。

 うん、きた。



 ―――そしたら、ズバッてくる。

 うん、くるね。



 ―――そしたら、グイッだ。

 こんなかんじかな。



 ―――次はどうするんだった?

 ガクン、だよね。



 ―――そんでもって、最後は。



「ギュインだ」




 華麗な、動きだった。

 流れるように。一切の無駄もない、完璧な体捌きだった。



 ねぇ、ハト。

 あーし、できたよ。

 ハトの、おかげだよ。


 ありがとう、ね。



 誰かが、笑った気がした。






 あり得ないはずだった。

 反筋力補正によって鈍化された思考回路に運動神経。そこに他人のアドバイスが加わっただけなど、付け焼刃ですらない。なまくらの刃だ。

 それで土槍を躱し切れるほど、この世界は甘くない。実際、身体能力1.5倍の響也ですら完全な回避は難しいのだ。それを穂乃美が躱し切るなど、あるはずもない。

 前代未聞の、もはや偉業といって差し支えない行為。


 まさに、奇跡だった。


 それを目の前で起こされた吸血鬼は、ただ放心するしかない。現状の理解が追い付かず、獲物が赤い液体を噴き出さないことを受け入れられなかった。


 そして、フリーズする満身創痍の体を衝撃が貫く。

 絶速の死神が、赤い稲妻を迸らせながら飛来していた。


『ギ、ヒッ』


 煌に爆速で巻き込まれ、満足な悲鳴すら出せずに地に足で押さえつけらる吸血鬼。

 目の前で掲げられた大鎌の刃を力なく見つめ、ただ痙攣するだけの無様な恰好の、プレイヤーにとっての死神。


 瀕死の死神に、処刑人にとっての死神は一言を贈る。




「贖え」




 大鎌が振り下ろされ、吸血鬼の首が鮮血と共に舞った。




 ***



 吸血鬼の死体が血の海に沈み、やがて黒い塵となって霧散する。

 戦闘が終わったことで暫しの静寂を取り戻す大聖堂。いや、雨は吹き込んでいるので、その音は変わらずするのだが。


「凄ぇな、煌マルは!ずっと見てたけど、やっぱ無敵じゃん!あ、それと最後はヘマしちゃってごめ――」


 塵と化した吸血鬼の上で立ち尽くす煌に、余韻が残ったままの興奮の面持ちで駆け寄った穂乃美。声を出してしまった謝罪を兼ね、戦闘を終えた煌を労おうとしたのだ。


 しかし、穂乃美が煌に触れようとした瞬間。


 煌の体が、その場に崩れ落ちる。


「はぁッ……はあぁッ……げほっ……っは……」


 肩で荒い息をつきながら、滝のような汗を流す煌。


 先ほどまで毅然としていた少年の唐突な変化に戸惑いを隠せない穂乃美だったが、はっと我を取り戻し、俯く煌の顔を覗いた。


「だ、大丈夫?!煌マ―――」


 その顔を見て、穂乃美は言葉を失った。


 限界まで見開かれた目。

 微細に振動する瞳孔。

 頬を滴る汗に、眦に浮かぶ水玉。


 曲がりなりにも一年近くクレイドルにいて、数々の修羅場をくぐってきた穂乃美だ。その表情が何を意味しているのかぐらい、嫌という程にわかる。


 これは、肉体の疲労でも、あの力のデメリットでもない。


 それは、


 生と死の狭間。それと常に隣り合わせで戦っていた。

 少しでも気を抜けば死んでしまう状況。本来なら敵わぬ無敵の怪物に真っ向勝負を挑むという恐怖。

 誰も頼れない状況で、孤独に戦っていた。

 そんな状況で生きていて、心が壊れない人間などいるまい。

 彼は、彼自身の心が壊れてしまわないよう、必死で繋ぎ留めているんだ。

 延々と続く、命の綱渡りをしながら。


「あり、なが、さん」

「う、うん。なに?」


 わずかに顔を傾け、穂乃美を見つめた煌。目をすっと細め、少しだけ笑った。






「―――――――――」



 …ああ。忘れていたんだ。

 完全に失念していた。


 穂乃美は今更になって、自分の愚かさをまざまざと感じる。


 どうして一瞬でも、この少年を無敵の人間だなんて思ってしまったんだろう。


 目の前にいるのは、みんなに手を差し伸べ救ってくれる救世主でも、筋肉ムキムキのヒーローでもない。


――――ましてや、大人ですらない!



――――



 泣きたくなるような、優しい声で。

 自分の心がボロボロのくせに、穂乃美の無事を喜ぶ彼。

 その彼を非道な人間だと疑い掛けた、あの時の自分を殴り飛ばしたくなる。


 なにが非道だ。


 


 その時、穂乃美の体は自然に、煌の頭を抱きしめていた。


「ごめんっ……ごめんなぁ……そんな辛いのを、押し付けてごめんなぁ……っ!」


 胸に抱かれる煌は、何も言わない。

 先ほどまでの力強さが嘘だったかのように力の抜けた体を抱きかかえ、穂乃美は大声で泣きじゃくる。



 ほとんど形を成していない、壊れた大聖堂の前。

 曇天の間から差し込む日の光が、仄かに二人を照らしていた。



 ***




 煌は一か月前まで、命がけの戦いなどしたこともない普通の高校一年生だった。


 本来なら逃げ出したいのに、仲間を殺された憎悪と逃げられない現状を受け入れる合理性で、殺し合いの恐怖を何とか抑え込んでいた。


 故に怪物を討ち果たした瞬間に、安堵と共に抱えていた緊張や恐怖が溢れ出し、封殺していた精神の摩耗が表面化しまっていたのだ。


 それは、煌がまだ人間である証。


 叛逆者リベールの力の代償など、ありはしない。


 あるとするならば、それは精神力と正気だ。


 きっと、このまま戦いを続ければ、この恐怖感も忘れてしまう。麻痺し始めた倫理観は、正常な人間としての死生観を奪っていくのだろう。


 その果てに至った時、果たして煌は、


 穂乃美の腕の中。そんなことは、今の煌には考える気力もない。


 『今回も、生き残れた』。


 その思いだけが、頭の中を埋め尽くしていた。

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