第二十揺 Re:member me
「さ、西条さん…!?」
目の前に現れた思わぬ助っ人の姿に、煌は瞠目する。
迷彩柄の探検服を身に纏った小柄な少女は快活な笑みを浮かべ、煌へと振り返った。
「そーだヨー!呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン!明るく元気な音子ちゃんでーす!会いたかった?ねぇねぇ会いたかった?」
「―――」
やけに明るく振る舞う音子に対し、無言を貫く煌。
現在、道化師から煌の身を守ってくれている音子だが、忘れてはならないのが、彼女にかけられた嫌疑。
―――夢莉殺し。彼女は立派な、その容疑者だ。
煌だって喜びたいのは山々だ。死にかけたところを助けてもらったのだから、感謝の言葉の一言だって述べたい。
しかし、警戒を解くことはできない。
軽薄な振る舞いの裏側に隠された真意を読み取りづらいのが、この西条音子という人物なのだから。
「……ま、そうだよネ」
目を伏せ、どこか諦めたように呟く音子。
その様子を見て、警戒を緩めかけた煌だったが、それは叶わない。
音子が降りてきた橋の柵の逆側に吊り下げられた道化師は、体を音子の縄で縛られて柵から吊り下げられている状態だった。縄の先端を音子が持っているので、イメージとしては橋を使ったリフトというのが近いかもしれない。
バツンッ!
道化師は体に巻きつく縄をナイフで断ち切り、地面へと着地する。
チッと舌打ちをし、音子は再び生成した縄を華麗な動きで投げつけた。先程はただのロープであったが、今回は先端が鉤爪となっているロープだ。
一方で道化師は飛来する鉤爪ロープをナイフで跳ね返し、ロープ部分を掴み取って思いっきり引っ張る。
「!!」
軽い音子の体は瞬く間に引っ張られ、宙を浮く。しかし、音子の判断も早かった。鉤爪ロープを消滅させることで道化師に強引に近づけられるのを回避したのである。
が、宙に浮いたままの音子は道化師にとって格好の獲物だ。道化師はニタッと笑って、手に生成した複数本のナイフを投げつけた。
「西条さん!」
最悪の未来を予測し、音子の名前を叫んだ煌だったが、それは杞憂に終わる。
大きく足を振って体を捻ることで、飛来する全てのナイフを紙一重で避ける音子。まさに曲芸師の如き芸統だ。
シュタッと着地した音子は前傾し、地を勢いよく蹴って道化師に接近。道化師がナイフを投げつけるが、それは顔を僅かに逸らして回避した。頬に一筋の切り傷が作られるが、それを気にする音子ではない。
肉薄した音子を嫌がるように道化師は右手に生成したナイフを振り下ろすが、音子が左上方向に跳躍することで、それは空を切る。
音子は直立する柱を足場に、道化師の横方向から再び接近。道化師の背後を通るすれ違いざまにロープを巻き付け、グッ、と縛り上げた。
戦闘時間として僅か10秒ほど。結果として出来上がったのは、ロープによって体を雁字搦めにされた道化師の姿だったのである。
「す、すごい……!」
あまりに滑らかな一連の出来事に、思わず感嘆する煌。
このメンバーにおいて、マンパワーに優れているのは玄二と音子。両者とも筋力二倍の身体補正を受けているが、大柄の男と小柄の女では、さすがに
つまり、力だけなら玄二が優れているのだが、音子が玄二より圧倒的に優れているところがあった。
それは、隔絶した戦闘センスだ。
玄二も喧嘩は強いが、それは自身の筋力でゴリ押しするが故の賜物。一方で、音子の能力は、自身の身軽さを最大限利用した、戦況を立体的に把握し、最善の攻撃手段を選択できるものだ。
どちらが優れているか、と言われると何とも言えないが、とにかく、音子の戦闘能力は非常に高い。
そして、対道化師戦においては、飛び道具がある以上、相性的に音子の方が最適だったのだ。
ギギギ、と体をひねって道化師は束縛を逃れようとするが、どうやら出来ないらしい。
これ程の実力を持った音子が来たなら、もう安心だ。
その甘い考えは、すぐに打ち砕かれる。
「何ぼさっとしてるのッ!!早く逃げなヨ!」
その声には、一切の余裕が含まれていない。
キッ、と煌を睨んだ音子の顔は、苦痛に歪んでいたのだ。
その顔を見て、煌は自分の愚かさを実感する。
筋力二倍があるとはいえ、あの体格差だ。道化師の怪力を小柄な体一つで受け切るのは、かなりの苦痛を伴う。
道化師を縛る縄を肩に背負う形の音子。その縄は肩に深々と食い込み、縄を持つ手は擦れて血が滲んでいる。体が小刻みに震えているのは、精一杯の力を振り絞っているからだろう。
次に、煌は己の
胸を貫くナイフにより口腔内は血で溢れ、額には脂汗が浮かんでいる。顔は血の気が引いたせいか、気味が悪いほどに青ざめていた。
「どんな重傷でもポータルに入れば全快する!クーちゃんを助けるなら、ポータルを見つけるしかない!とにかくポータルを探しテ!」
切羽詰まった怒号に背中を叩かれ、長時間の逃避により疲れ切った体に鞭打つ。紅葉に肩を貸して移動する煌は、ドアの一つを開ける時に言い残した。
「……ッ、音子!聞きたいことは山ほどあるんだ!絶対に生き残れよ!」
丁寧語をやめ、ついに呼び捨てにする煌。
それに驚いたのか、目を見張った音子だが、返答は笑みひとつで返す。
煌達の姿がドアで隠れる寸前。
「……
その謝罪の真の意味など、煌は知る由もなかった。
***
「はぁっ…はぁっ…」
暗い廊下。少年の荒い息が木霊する。
自他共に重い体を引き摺り、滝のような汗をかいて、ひたすらに歩く。
ゴールは見えない。紫、赤、この際、青でもいい。どの色の光でもいいから、一筋でも見えて欲しかった。
されど少年の願いは叶わず、目の前には暗く冷たい回廊が続くのみだ。
「はぁっ…はあっ…」
どれだけ歩いただろう。何度も紅葉の腕を担ぎ直し、肩が痛むのも気にせずに、ただただ歩く。
少年を焦燥の渦の中に巻き込むのは、偶にチラリと目に入る、紅の液体。
少女の胸から流れ続けるそれは、少女の命が減る一方であることを暗に示している。
―――もう、誰が死ぬのだって見たくないのに。
けれど、少年の手からは止めどなく命が溢れ、取り返すこともできずに、地に堕ちてゆく。覆水が盆に帰らないように、失った命は還らない。
そうなって欲しくないから、少年は何も言わずに歩き続けていた。
「……こう、くん」
掠れた声が傍から聞こえる。
ハッとなって、そちらを向くと、僅かに目を開けた紅葉の顔があった。暗いので、どんな顔をしているかは見えない。
「…更科さん。待っててくれ、もうすぐのはずなんだ。もうすぐ、見つかるはずなんだ」
「そっ、か……わたし、いきてかえれるんだ…」
「あぁ、約束する。必ず、生きて返す。現実世界に戻って、また屋上でご飯食べるんだろ」
「そう、だね……ごはん、たべなきゃね……」
意識が朦朧としているのか、呂律も上手く回らない紅葉。それが、彼女の命が風前の灯であることを表している。
紅葉は顔を伏せると、静かに震えながら、呟いた。
「また、いっしょに、ごはん、たべたかったなぁ……」
「――――ッッッ!」
空気に溶けてしまいそうな程に細い声が、煌の耳孔を穿つ。
声にならない絶叫を上げ、弾かれたように言い放つ。
「そんなこと言うな!まだ…助かるはずなんだ!生きて帰れるはずなんだ!」
「こうくん」
「ポータルは各地にバラけてるんだろ!なら、そろそろ次のポータルが見えてくる!」
「こうくん」
「更科さんも、あんまり喋らないでくれ!そんな怪我なんだから痛いに決まってるし、喋ると傷が広が―――」
「わたしのかお、みて?」
「……顔?」
煌の言葉を遮るように喋った紅葉に少し驚き、言われるままに顔を覗き込んで。
煌は、絶句した。
「なんで……笑ってる……?」
―――笑っていた。
身を焦がす痛みによる、歪んだ顔ではない。
恍惚とした表情で。
自身を貫くモノすら愛してしまいそうな、そんな笑みだ。
「きもちわるいでしょ…?これが、わたしの業。母から与えられた、唯一の愛情……」
「わたしは、痛みを感じない。痛みを、快感に覚える体に作り替えられたの」
今でも、夢に見る。
小学校の頃。
母の虐待から逃れ、新しい生活が始まったばかりの頃。
学校の体育の授業で、かけっこの練習をしていた。
その時はあんまり走るのが得意じゃなくて、思いっきり転んだことがあった。
膝小僧が裂けて、盛大に血を流していた。砂利が混ざった、黒くて赤いものを、私はじっと見ていた。
「わ!痛そう…だいじょうぶ、くれはちゃん?」
そう話しかけてきてくれたのは、当時仲が良かった友達の女の子。すごく良い子で、暗かった私に積極的に話しかけてくれて、転校したばかりで孤独だった私は、それがとても嬉しかったのを覚えている。
ありがとう。大丈夫だよ。
そう言おうとして、顔を上げて。
その子の顔が、歪んだのを見た。
「くれはちゃん。なんで、わらってるの?」
……え。
そう言われて、顔に手を当てた。
口端が、唇が裂けそうな程につり上がっている。
私の顔は、体を貫く痛みを髄までねぶっているような、そんな顔をしていたのだ。
その時の、あの子の瞳を忘れない。
理解のできぬ、気味の悪い怪物を見ているような、軽蔑した視線。
かつて、紅葉が煌に伝えた、『母の血を引いている』ことへの絶望。
それは、あの腐った性格が遺伝することを恐れたものではない。
文字通りの『遺伝』を恐れていたのだ。
痛みを感じない体質。
―――通称、無痛病。
とはいえ、完全に痛みを感じないわけではない。痛覚も僅かに残されている。
それを利用して、紅葉の母親は、紅葉を用いた実験を行った。
それは、痛覚を快楽に感じさせるための実験。
繰り返された虐待。その中で、ふるわれた暴力に耐え切った時、紅葉の母親は紅葉を褒めちぎった。どうしようもないくらいに愛しているかのような振る舞いで、紅葉を労った。
母から愛された覚えのなかった紅葉は、その歪な愛をすぐに受け入れた。
痛みに堪えたら褒められる。愛してくれる。
だから、堪え続けた。痛みを感じるということは、その先に褒美が待っているということ。
幼少期に無意識領域に刻み込まれた価値観は、母からの愛が愛でなかったことを知り、絶望した後でも、拭い去られることはなかった。
紅葉の脳は、無痛症の中で僅かに感じる痛みを悦びへのチケットであると錯覚して、快楽物質を放出するようになった。
結果、出来上がったのは、痛みを感じにくい体質を逆手に取った、『
母がいない今も、紅葉を呪縛し続ける後天性の病。
それは、気を抜けば、すぐに表に出てきてしまう。
だから、それを出さないために、常に自分を偽る必要があった。偽ることを習慣としていれば、気を抜く暇がない。だから、体質が出てくることはない。
これこそ、紅葉が『完璧』を目指した理由。
『完璧』であり続けることで、血の呪縛を否定し、同時に母の愚行を否定することを目指すことを決意した、幼少期の紅葉。
―――それが、更科紅葉という人間だった。
「……だから……被虐体質、S」
「…そう。たぶん、わたしの弱点を反映したんだろうね…すごく、いやだった」
語り終えた紅葉は、やはり顔に笑みを浮かべている。
「こんなきもちわるい女、はやく、おいていって。そうすれば、こうくんだけでも、いきのこれる」
「な……そんなこと」
「ごうりてき、でしょ?」
「―――ぁ」
そうだ。合理的だ。
足の遅い怪我人など放っておいて、一人だけでもポータルを探して生き残る。先程、ベストだと言ったことだ。
それが、ベストで、正論だ。
「けどっ……そんなの、出来るわけないだろッ……!」
当たり前だ。
人の命を損得勘定するなど、もっての外。それが愛する人ともなれば、論外
それを聞いて、紅葉は安心したように言う。
「そう。それがふつうだよ、こうくん」
「……っ」
「そんな煌くんに、わたしから、ひとこと」
か細い声で、紅葉は煌に
「『正論』はね、『正しい』けど、『正解』じゃないんだよ」
言葉が出なくなる。
それでも、何かを言おうとした。黙っていたら、この時間が終わってしまう気がして。彼女が終わってしまう気がして。だから、何か、言おうとして。
紅葉の体が、力なく滑り落ちた。
「あっ……!」
体のバランスが崩れ、煌も地べたに尻餅をつく。
頭を抱えられた状態で、紅葉は血色の悪い顔を精一杯つくろい、いつもの笑顔を浮かべる。
「ごめんね、こうくん……ここまで、みたい」
「ま、待って………いやだ、いやだ!そんな、そんなの―――」
「ね、こうくん。わたしの、さいごのおねがいごと、きいてほしいな」
「さいご……」
そう言うと、紅葉は、瞳から大粒の涙を流して、啜り泣くように。
血塗れの手を煌の頬に添わせて、告げる。
声を震えさせて。抑えきれぬ感情を、氾濫させて。
「
「ぉ、ぁ」
瞼が熱くなり、目から液体が溢れる感覚。
誰の記憶にも残らない、『クレイドル』という忘却の世界で、自分が抗ったことを。その努力を。その証明を。
どうか、忘れないでいてほしい。
そんな、どうしようもなく、些細な願いが、最期だった。
紅葉の力が抜け、脱力した手が地に伏せる。
「ぁ、あぁっ………」
守れなかった。
必ず守ると決めた人を、守れなかった。
「迎えに行く」と言った約束も、守れなかった。
「ぅあぁっ……ぁあっ……」
情けない声ばかりが口を飛び出て、喉を枯らす。
涙を拭うことすら出来ない。その気力すら湧かない。
息絶えた紅葉の顔に、煌の流した涙が落ち、血を拐っていく。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!」
感情が決壊する。
誰が悪かった。
どうして、こんな結末になった。
誰も望んじゃいない。こうなるなんて、思いもしなかった。
何がいけなかった?
あの鴉頭の
最初の時、煌を確実に殺さなかった音子?
煌を生かすことを決めた玄二?
このステージで、何の情報も残さずに死んだ夢莉?
それとも、しぶとく生き延びて、無駄な知恵を発揮して、確実に皆んなを死に導いた、煌?
答えは、出ない。
号哭を口から流し出す煌に、それを教えてくれる人もいない。
目の前で冷たくなった彼女が、それに応えるはずもない。
紅葉の体を抱き寄せて、目を見開いて、涙も涎も鼻水も垂れ流して、煌は泣き続けた。
そうして、周囲の音が遠のいていた時。
誰が、何が間違いだったのだろうか。
自問自答を繰り返していて。
―――ケヒ、ヒ。
醜悪なこぼれ笑いが背後から聴こえる。
背後から迫る殺人鬼は、高らかに笑っていた。
否。嗤っていた。
嗤う。嗤い。嗤って。
力なく座り込む少年の真後ろに、辿り着く。
煌は振り返り、虚な瞳でその姿を捉える。
そこにいるのは、他でもない、怪物じみた道化師が一人。
取り逃した獲物を再び捕捉できた悦びに声を恍惚と震わせている。
手にぶら下げるは、
「――ね、こ」
道化師は多くを語らない。だがしかし、煌には、血に濡れたソレを道化師が見せびらかしているように思えた。
これで、最後の一匹だと。
長く続いた楽しい狩りの時間の終わりを名残惜しむように、体を両腕で抱いていた。
どこまでも、相手を侮辱する、その態度。
吐き気を催しそうな、醜悪な存在。
―――あぁ、そうだった。
何を自分は考えていたのだろう。
誰が悪いか、なんて、そんなの自明ではないか。
彼女を抱く腕に力が入る。
目の前の敵を、目が飛び出んばかりに睨みつける。
誰が悪いか。
そんなの。
そんなのは――――――――
「テメェらに決まってんだろうがぁッッッ!!」
刹那。
『ッッッ!?』
道化師は唐突に起きた現象に驚く。
が、驚くだけだ。
こんな現象を見たことはないが、何ということはない。手に持つナイフを投げれば、それで片がつく。
そう言わんばかりに先程青年のいた位置に向かい、今も霧の噴出しているそこにナイフを投擲。
―――そう、それで片がつくはずだった。
返ってきたのは、肉を刃物が貫く鈍い音ではなく、キン、という
『…?』
道化師は脳内に疑問符を浮かべる。
ナイフを投げて返ってくるのは、生肉に深々と刃物が刺さる時に特有の極上の音である、とたかを括っていたからだ。
今度こそは、と再びナイフを投げようとしたその瞬間。
道化師の顔を、
『ギガァッッ?!』
撃力そのままに、道化師は遥か後方に吹っ飛ぶ。
『…ッッッ?!』
初めて味わう、顔から全身を奔る壮絶な痛覚に、何が起こっているかも分からず喉を鳴らす。
それが、顔を膝で貫かれるということであると、道化師は気づかない。
そして、バッ、と顔をあげ、初めて道化師はその存在を認知する。
―――先程まで自分のいた位置に、一人の『黒』が立っている。
髪の一部が赤く染まり、服は軍服に近い印象を受ける黒のジャケット。サイバー紋様が施された服装には、先程の学生服の面影すらない。周囲では心なしか、赤雷が迸っているようにも見える。
そして、最も目を引かれるのは、その頬。
先刻まで何も無かったはずのそこに、円と3つの直線の組み合わさった紋様が一つ、薄暗い廊下に紅く輝いている。
そこにいる男は、無力に泣いていた数秒前の青年ではない。
それは、濃密な殺気を纏った紅の死神。
『発現しました』
ひび割れた
『―――貴方の
それは、紅の黎明だった。
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