第十九揺 ココロの在り方

 道化師は知っていた。


 三人の人間が、自分の手下である人形達を葬っていた。

 人形には処刑人エクスキュージョナーと違い、無敵性は付与されていない。見た目が木製の割に体はかなり硬いので無敵性があると勘違いするかもしれないが。


 味方に指示する男に、人形を惹きつける能力を持つ女、そして人形を葬る力を持つ男。

 三人が各々の力を存分に奮って、人形を壊した。

 今まで、人形から逃げる者はいたが、戦って壊そうとする者はいなかった。故に、その蛮勇を讃え、拍手を送った。


 しかし、道化師が気になったのは、人形を倒すのに、やけにプロセスを踏んでいたことだ。

 あんなことをしなくても、あの能力があれば人形は壊せそうなものだ。

 思うに、あれは無敵性を打ち破るための手段ではないのか。人形にも無敵性があると思い込んでいたから、あのような回りくどい手段を取ったのではないか。

 だとしたら、迂闊に手を出すのは危険だ。思わぬ返り討ちを喰らう可能性がある。


 次に道化師は、獲物の優先順位を定めた。

 最も順位が低いのは、あの女だ。人形の注意が固定されるし、道化師だってある程度の影響を受けるが、それだけの女だ。あれ自身が強いわけではないし、能力はむしろデメリットですらある。男二人に警護されながら行動しているのが、その証拠だ。正直、狙うメリットは三人の中で一番少ない。

 次に優先順位が低いのが、指示役の男だ。作戦を考えているのは彼だろうが、彼自身が実行することは殆どない。能力も使っていないということは、大した才能ではないのだろう。脅威ではあるが、後回しだ。

 そして、最も狙うべきが、人形を倒した男だ。他二人より明らかに体が大きく、力もある。それに、あの能力だ。未知数だが、あの能力が無敵を剥がすのに必要なキーであると道化師は読んでいた。

 実際、その推測は当たっていた。処刑人エクスキュージョナーの無敵性を破るのに必要なのは、結局のところ反射能力だ。それが無ければ煌達は何も出来ないのだから。


 以上の思考を以って、道化師は行動を開始する。


 ポータルを人形達に探させ、その周りを巡回させる。これは逃さない為というより、他の目的がある。

 一つが、煌達の精神力を疲弊させるため。疲弊した神経では、思考も正常に働かない。散々弱らされた上で、警備されていないポータルを見せてみたらどうだろう。恐らく、罠の可能性も考えずに飛びつくはずだ。

 そしてもう一つが、煌達の進行ルートを制限するため。人形の配置的に、巡回を避けるためのルートは自ずと絞られる。罠へ誘導されているとは気づかないまま、神経を摩耗させて進むことだろう。


 全て計画通りだった。


 獲物は見事に誘導され、赤ポータルに飛びついた。部屋の構造上、下の階で隠れて待ち構えていれば、後ろから追わせた人形達とで挟み撃ちができる。こうなれば、あの大柄の男が能力を使う可能性はグッと高まる。

 ダメ押しとして、シャンデリアの上に人形を待機させておいた。上から落としでもすれば、反射能力を空振りさせられるのではないか、という予想に基づいたことだ。

 これも的中。赤ポータルに女を向かわせる為に能力を発動させた大柄の男にシャンデリアから人形を落として、当てさせた。能力がいかに優秀とて、連続発動はできまい。インターバルの内に、男を仕留めようとする。


 ナイフが骨と臓物を断ち切る、独特で、至高の感触。神経が昂るのを感じながら、男にトドメを刺そうとした。


 が、ここで予想外のことが起こる。


 道化師の視界の端に、キラリと光るものが映る。それに意識を取られ、一瞬、玄二から視線を外した。

それが失敗だった。

 視線の先は、赤ポータルと、そして逃げる女。光っていたのは、その手元。


―――ジャックナイフだ。自分の持っているのと、同じもの。


 次の瞬間、そこから凄まじい光が溢れて、視界が赤一色に染まる。


『―――ッッッ!』


 鳴り響く耳をつんざくような高音に、道化師は思わず耳を塞ぎ、その場に蹲る。


 やがて音が収まり、視界が次第に回復し始め、耳が聞こえるようになった時。


 三人は、目の前から姿を消していた。


―――逃げられた。


 何をされたかは分からない。が、それは最早どうでもいい。目の前に広がる夥しい量の血痕を見て、道化師は顔を歪める。


 傷は負わせた。それも、殆ど即死レベルの傷を。


 この場からは逃げたかもしれないが、地面に血痕が線を引いている。それは、部屋の扉の一つへと向かっていた。


―――その体で何処まで逃げるか、見届けてやろうではないか。


 道化師は動ける人形達を動員し、三人が逃げたであろう方向へと向かわせるのだった。



 ***



―――玄二が大怪我を負った。


 赤ポータルへと向かっている時、煌の悲鳴が背後から聞こえた。振り返ると、玄二が体を深々と切られ、血の雨を降らせていた。


「……っ、あ」


 仲間の惨状を見て、紅葉の足は止まりかける。

 が、それを見越してのことか、玄二は吐血しながら紅葉にげきを入れる。


「止まるなッ、紅葉ァッ!」


 その大怪我でなお、紅葉を逃がそうとする玄二。


「―――ッ!」


 そんな優しい仲間を置いて、自分だけ逃げるなんて出来ない。その瞬間、紅葉はある決断をする。


 懐から出したのは、一本のナイフ。


 道化師に投げられた、紅葉の胸を貫いたナイフだ。血を拭き取り、何かに使えるかもしれないと保持していた物だが、それが役立つ。


 ポータルを使って脱出する場合、脱出者は体のどこかで直接触れる必要がある。道具などを媒介にしてもポータルは反応しない。長い棒で遠くからつつこうが、脱出することはできないのだ。

 つまり、道具を使えば、ポータルに触れる。


 やれると思ったのは、以前にされたことがあるからだ。

 煌が来る前のこと。死亡のよって入れ替わった人物、つまり煌のポジションの先代たる男がいた。

 はっきり言って、その男はクズだった。

 現実世界に記憶が引き継がれないことを良いことに、

 紫ポータルで脱出しようとした時だった。先に脱出した玄二と夢莉を追うようにポータルを触ろうとした紅葉を遮り、あろうことか、その男は幸いなことに紅葉への犯行は未遂に終わり、その男も死んだ。

 男がポータルを壊した時、道具を使っていた。その時の反動も、紅葉の脳内に鮮明に刻まれていた。


 咄嗟の機転。自身の脱出を代償に、紅葉は玄二を救うことを選ぶ。


―――玄二を見捨てない。


 ナイフを振りかざし、目を瞑ったまま、ポータルを突き刺す。

 刹那、ポータルは凄まじい音量で破壊され、赤く発光した。


 ポータルを直で見ていた道化師は目を、人形達は目の代わりに発達した耳を。それぞれに重大なダメージを負い、しばらく再起不能になる。

 その隙をつき、地に倒れる玄二に注射器を刺す。傷が塞がるのを確認して、耳を押さえてふらついている煌の手を取った。

 声は聞こえないだろう。紅葉だって聞こえない。

 だから、口パクで伝わることを願う。


『運んで』


 煌は一瞬で理解して、玄二の体を担ぐ。煌の筋力では重い玄二の体を支えきれない。紅葉も手伝い、両肩を持つ形で玄二を立ち上がらせる。

 道化師が立たない内に、扉の一つを蹴破り、広間から脱出した。



 これが、5分前の出来事。

 現在、紅葉達は暗い廊下を亀のようなスピードで進んでいた。

 玄二は気絶してしまっており、紅葉と煌の二人で玄二の重い体重を支えながら歩かなければいけないからだ。脱力した人間の体は非常に重く、マンパワーの足りない二人では、この速度が限界だった。


 心には焦燥が燻っている。

 このスピードで進んでいれば、いくら道化師を撒いたとはいえ追いつかれるのは時間の問題だ。一刻も早く何処かに隠れてしまいたいのに、この廊下には入る部屋が無かった。

 次第に耳が回復し始めたのか、煌が玄二の体越しに紅葉に話しかける。


「…なんで逃げなかったのか、とは言いません。でも……それでも…」

「…煌君が私を逃すために厳しいこと言ったのは分かってるよ。私って、ほら。聞き分けが悪いから」


 そう。煌によって冷たい言葉が投げ掛けられた時、紅葉はその真意に気づいていた。

 紅葉が辛そうな顔をしていたのは、煌にその役割を背負わせてしまった自分の不甲斐なさを噛み締めていたから。最初から、煌の言葉で傷ついていたわけではない。

 煌は優しい。意味もなく他人を傷つける人間でないことくらい、知っている。


「…ぅ」


 小さな呻きと共に、玄二が意識を取り戻す。

 煌と紅葉の顔が明るくなり、兄貴分の復活を喜ぼうとした時。


「ご、ぷっ」


 玄二が、吐血する。

 口から膨大な量の血を吐いて、床に血溜まりを作った。


「ッ!笠原さん!」

「な、なんで…?!注射器は刺したのに―――」


 傷は治したはずなのに盛大に吐血した玄二を見て、紅葉は気づく。


 玄二の足元に血がつたっている。


 血で滲んでいたボロ切れ同然の玄二の服を破り、その体を確認して、紅葉は声にならない悲鳴を上げる。


 玄二の鍛え抜かれた腹筋。それが、異様に膨れ上がっている。

 膨らませているのではない。

 腹筋を押しのける程に、腹に血が溜まっているのだ。


―――治せていなかった。


 部分欠損すら回復させる注射器とて、切り裂かれた玄二の体を全快させる程の力は無い。表面上では治っていたように見えていただけで、内臓は致命的なダメージを受けたまま。主要臓器からの出血により胃に血が溜まり、それを覚醒と同時に玄二は吐き出したのだ。


「……す、まねぇ……二人とも……俺は、もう助からねぇ……」

「な、何言ってるの!?まだ諦めないで!ほら、次の部屋が見えたから!」


 長い廊下が終わり、紅葉達は一つの部屋に辿り着く。

 ドアを開けると、そこは拷問部屋。

 拷問器具が並べられた部屋ではなく、拷問を行う部屋だ。

 中央には拷問用の椅子が据えられ、部屋の壁のあちこちに手錠のついた鎖がぶら下がっている。出口は一つ、刑務所にあるような窓に金属製の格子がついた扉だけだ。

 どこにも隠れる場所はなく、ポータルもない。ギリ、と奥歯を噛み締め、再び扉の向こうへと歩き出す紅葉達。

 扉を開くと、その先はまた廊下だった。ポータルがありそうな気配は無いが、今は進むしかない。


「…な、ぁ、紅葉…」

「ま、待って!まだこの先にポータルがあるかも―――」

「ありがとな……助けて、くれて」

「……!」


 頬を緩ませて玄二はそう言う。

 その様子は、いつもの玄二のもので。


 やっと、生への渇望を見せてくれた―――


「お陰で、遺言が言える」


 え。

 言い切りもしないうちに、紅葉と煌の体は背後からの衝撃により、前によろけた。と同時に、ガシャン、と大きな音がし、何が起こったかを悟る。


 玄二が力を振り絞って二人を突き飛ばした。

 そして、扉の鍵を締めたのだ。


「……ぇ?」


 部屋の入り口と出口は一つずつ。その出口を、身を挺して玄二が塞いだのだ。


 それが意味するのは、、ということだった。


 状況の理解がまだ追いつかない紅葉だが、一方で煌は早くもその意図を理解する。


「何やってるんですか笠原さんッ!?今すぐ開けてください!このままだと人形が……!」

「―――分かってンだろ、煌。これが、ベストだ」

「ぁっ……ぐ……」


 言い返せない、というように歯を噛み締める煌。


―――何がベストだ。


 二人はそれに納得しようが、紅葉がそんなことを許すはずがない。


「開けてよ笠原君っ!そんなのダメ!現実世界に一緒に帰るんでしょ!?」

「それが、できなくなッたンだ」

「で、でも、ほら!前に言ってたじゃない、放っておけない母親がいるって!それなのに――」

「だから、遺言、託すンだろ」

「託す、って誰に………ぁ」


 遺言というには、それを伝える人がいなければならない。記憶が引き継がれない『クレイドル』において、現実世界にいる人間へとメッセージは伝えられない。


 だが、目の前には例外となる人間がいる。


『クレイドル』におけるイレギュラー。

 たった一人、現実世界に記憶を引き継げる人間が。


『お陰で、遺言を言える』


―――あれは、夜野煌に遺言を託せる、という意味だったのだ。


「……匿われている身です。いつになるかは分かりませんが、それでも良ければ」

「なっ……煌君!?」

「…このスピードで歩いていたら人形に追いつかれます。それに、笠原さんの血痕が床に続いてました。道化師にも居場所はバレているでしょうし、一刻の猶予もありません。今の状態では迎撃は勿論、逃げることすら不可能です。このままじゃ、全員共倒れ。だったら、笠原さんを置いて二人だけでも脱出するのが、合理的です」

「ふ、ふざけないで!そんなの間違って―――」


 ガシャンッ!


 煌の決断を糾弾しかけた紅葉の言動は、煌が扉を強く叩く音で掻き消された。

 唐突の煌の乱行に、身を縮こまらせる紅葉。


「煌、君……?」


 髪で隠れて顔は見えない。だが、どんな表情をしているかは分かった。


「合理的な……筈なんだ……ッ!」


 顔を片手で覆い、扉に手を当ててしゃがみ込んでしまう煌。強く打った手からは、血が流れている。


 その姿を見て、紅葉は数秒前の自分を殴りたくなった。


 彼とて、辛いに決まっている。当たり前だ。

 それなのに、玄二を見捨てる決断をしなければならなかった煌の気持ちも考えず、ただ煌に食いかかった自分が、紅葉は許せなくなった。


 紅葉は唇を噛み締め、黙りこくる。


「……煌。今のうちに、言ッとくぞ」

「…なんですか…?」


 そんな中、玄二がしゃがみ込んでいる煌へと話しかける。

 スッ、と息を吸う音がしたかと思うと、玄二は言い放った。



「ビビッてんじゃねぇ。守りたいものが、あるンだろ。なら、戦え」


「――――」



 芯の通った玄二の声が、扉越しに聞こえる。

 声は下の方からだった。どうやら、玄二は壁によたれかかる形で座っているらしい。


「…あぁ、分かった」


「はッ……ようやく、敬語やめたのかよ」


 クックッと笑う玄二の声は、少しガラついている。肺に血が混ざってしまっているのだ。ただ喋るだけでも、相当の苦痛を伴うはずだが、それでも玄二は笑っていた。


「…じゃあ、煌。一つだけ、頼まれてくれるか」


「あぁ」


 一瞬だった。

 扉越しに会話する二人。玄二が煌に残したのは、たったの一言。

 それを、最愛の母に伝えて欲しいと述べた。


 紅葉がそれを聞いた時、時間が止まってしまったような錯覚を受けた。


―――今から、彼は死ぬのか。


 玄二との別れを再認識すると共に、紅葉の中で走馬灯が駆け巡る。


 初めて『クレイドル』に入り込んだ時、半狂乱に陥る紅葉を必死に宥めてくれた玄二。


 紅葉を性的な目で狙ってきた男を脅していた玄二。


 危なっかしい妹を見守るように、紅葉を大切にしてくれた玄二。


 悪夢の中での美しい記憶が脳を焼く。


 別れを告げる為に。

 紅葉は静かに涙を流して、扉に近寄った。


「……今まで守ってくれて、ありがとう。すごく、嬉しかった」


 返答はない。


 ただ、玄二の息遣いだけが、彼の心を物語っていた。


「……行こう、更科さん」

「……うん」


 暗い廊下へと向き直り、二人はその先へと走り出す。

 目を閉じながら、遠ざかる足音を聞く玄二。


 二人が去って1分程。

 部屋の入り口から、続々と人形が姿を現した。

 カタカタ、と歯を鳴らす人形達を目視すると、玄二は扉に手をかけ立ち上がる。


 筋力二倍の握力を最大限に駆使して、扉の鍵を捻り切る。取り外した鍵を投げ捨て、玄二は人形達をその目で見据える。


「死に体の男一人だ……葬るのは簡単だろうが、こッちにもプライドッてもンがあるからな……ごふっ……付き合ッて、貰うぜ」


 口から血を吹き出しても尚、不敵な笑みを浮かべる青年に、人形達は何を感じることもなく果敢に飛びかかる。


 先陣を切った人形の頭を掴み取り、地面へと叩きつける玄二。

 その横っ腹へと別の人形が喰らいつこうとするが、玄二は人形の口の中に手を突っ込むことで防ぐ。無論、腕は人形の凄まじい顎力によって筋繊維を続々と断ち切られるが、玄二の太い二の腕を噛み切ることはできない。

 背中に迫った人形に対して、腕に噛み付いた人形を挟み込むと、同族の歯により、腕についた人形は体を噛み砕かれた。次に玄二は地面に叩きつけた人形を持ち上げ、同族を噛み砕いた人形の頭とかち合わせる。

 二つの人形は玄二の渾身の攻撃により、頭部を破壊され、事切れた。


 死にかけの分際で人形三体を葬ったのは流石であったが、多勢に無勢だ。

 今度は足に迫った人形を回避しようとしたが、胃に溜まった血が重しとなり、跳躍を阻害する。結果、避けることはできずにモロに噛みつきをくらってしまい、玄二の口から苦悶の声が溢れた。

 人形は頭を大きく振ると、玄二の体を壁へと叩きつけ、玄二の背骨に多大な損傷を負わせる。


「がッ……はッ……」


 振り回された体を繋ぎきれず、噛みつかれた足はもげてしまったらしい。見ると、自分の足は人形の口の中で咀嚼されていた。


 片足は消失。背骨は砕けて脊椎を損傷、下半身はピクリとも動かず、噛みつかれた片手は骨が露出している状態。内臓はぐちゃぐちゃで、既に臓器の形を為していない。


 正真正銘の満身創痍。死の淵に立った玄二へと、人形がジリジリと歩み寄る。

 人形が飛びかかる直前。

 玄二は虚ろな目で天井を見つめ。



「ごめん、母ちゃ」



 男の脳髄が、床に飛び散った。




 ***




 会話は、無かった。


 玄二に別れを告げて拷問部屋を去った後、煌と紅葉は廊下を黙々と走り続けている。

 理由は簡単だ。


 何か喋ったら、感情が決壊してしまいそうな気がしていたから。


 だから、二人の間に会話はない。

 けれど、それでいいはずもない。この状況なら、生き残るために話すべきことが多くあるはずだ。

 それに、紅葉には煌に聞きたいことがあった。


「笠原君は、いい人だった」


 紅葉の前を走る煌は、振り返らない。けれど、言葉は聞こえている。


「ずっと…『クレイドル』で私のことを守ってくれてたんだ。勿論、『被虐体質S』っていう能力があったからだけど…でも、ずっと大切にしてくれた。恋愛対象とかじゃなくてさ…多分、妹を世話してるみたいな感覚だったんだと思う。私は一人っ子だけど、兄がいたらこんな感じなんだろうな、って思ってたんだ」

「…何が言いたいんですか」


 感情を押し殺した声を出す。結論を急かしたわけではない。きっと、紅葉は煌に何か言いたいことがあって、けれど話を切り込むのに躊躇しているのだと、煌は感じていた。だから、紅葉の背中を押すように、言いたいことを言わせようとしただけだ。


 紅葉は少し息を呑んで、煌の核心に触れる。



「……



 割り切った。きっと、玄二を見捨てたことだろう。

 煌は振り返らずに即答する。


「最善だから。ああしなければ、全員死んでました。それは更科さんも分かっているでしょう」


「私が聞きたいのは、そういうことじゃない。煌君だって分かってるでしょ?」


 長く続いた廊下が終わり、新たな部屋へと辿り着く。

 先程は拷問部屋だったが、今度はただの広間だ。部屋の上部分を横断する形で橋が架けられた空間で、天井に伸びる円柱が連立している。ドアは4つほど。ポータルの重低音はしない。

 どのドアに入るかを考えながら、低いトーンで煌は返答を続ける。


「何を?…じゃあ聞きますけど、あのままノロマに移動してて全員が食い殺された方が良かったですか?それが最善ですか?みんな死ぬのがハッピーエンドですか?」


「違う!そうじゃない!私が言ってるのは、煌君の在り方の話!」


 立ち止まって紅葉は叫ぶ。珍しく声を荒げた紅葉に、ようやく煌は振り返った。


「在り方が何ですか?俺はいつでも冷静ですし、常に合理的な判断を」


「そうやって、また自分に嘘をつくんでしょ!」


「……な」


「本当の煌君はすごく優しい人だよ!他人の心の機微をちゃんと汲み取れる人……でも、煌君はいつも自分自身を殺してる!自分は冷徹で、合理的な人間だって思い込んで、心を殺してるんだ!」


「ッ……!じゃあ!感情に従って行動してれば満足ですか?!どうにもならない現状の中で駄々こねて蹲っていれば良いですか?!死ぬかもしれない状況で能天気に歩いていれば全て解決すると?!」


「そうじゃない!違う、違うよ…!」


 俯いて、首を横に振る紅葉。

 押し殺していた感情が爆発し、止めどなく溢れてくるものを煌は吐き出す。


「俺はいつでも、君が生き残れるように!笑えるように!それだけを考えてるんだ!そのためには『正しい』行動が必要なんだよ!この世界では、『正しい』判断が絶対だ!だから、何者にも変えがたい、正しくあるための絶対的な基準が必要だ!それが合理だ!」


「私のため…」


「そうだ!」



「なら、何で私の好きな人のことは考えてくれないの?」



 息が止まる。

 潤んだ目で、しかし紅葉は煌をしっかりと見つめている。


「私のことを考えるなら、私が辛いって感じることも考えてよ。私は、煌君が苦しんでる姿を見たくないんだよ?」


「……でも」


「でももヘチマもない。心を殺そうとして辛い思いして走ってるぐらいなら、駄々こねて蹲ってくれた方がまだマシだよ」


「何で…」


「だって、そっちの方が一緒にいられるでしょ?」


「―――」


 何だそれは。理論が成り立っていない。

 身の安全より、そんなことを優先するというのか。そんなのは、全然合理的じゃない。


「私は、煌君が傷つきながら私を守ってくれるより、一緒に並んで戦いたいって思う。怖いことも辛いことも全部を一人で塞ぎ込んで、隠れて傷ついていて欲しくなんかないんだよ」


「そもそも」と、俯く煌の顔を両手で包んで目を合わせる紅葉。


「煌君は、自分のことを大事にしてないでしょ?」


「そんな、ことは」


「だって大事にしてたら、全部しょいこんだりせずに私にも辛いことを共有すると思う。こんな状況なら、自分の心なんて簡単に傷つくから」


 潤んだ瞳を細くして、紅葉は柔らかく笑う。


「もっと、私の好きな人のことを大切にして。一人で抱え込まないで。一緒に歩こうよ」


「……っぁ」


 言葉が遂に出なくなる。


 煌が自分の心を殺していたのは事実だ。

 玄二が死ぬことが確定してしまったあの時、煌の中には焦りがあった。

 玄二が死ねば、紅葉を守ってあげられるのは煌一人だ。ならば、くよくよなどしていられまい。悲しんだり、泣いたりするのは後回しだ。紅葉の悲しみまで、全て自分が背負う。負担はかけさせない。

 今は冷徹に、冷静に、合理的な判断を下すべきだと。


 そう、思っていたのに。


 自分のことを大切にしたいと思うなら、自分の好きな男の子も大切にしてほしい。そうでなければ、自分が嬉しくないから。


 そんなことを、大好きな人に言われてしまったら、決意が崩れるのだって一瞬だ。


「……我儘だな。せっかく人が、意志を固めたっていうのに」


「そーだよ。私、我儘だから。みんなが思ってるほど、良い人じゃないよ。…幻滅した?」


「まさか。惚れ直した」


「……えっ……」


「……え、ちょ、本気で照れるなよ!?そこは受け流すところだろ!?」


 ふざけたように聞いてきたから冗談っぽく返したというのに、顔を真っ赤にされてしまったので、心地が悪くなり頬を掻く煌。

 いつの間にか敬語も消えていたが、最早構うまい。


「……と、とにかく急ごうか!見つかったらやばいしな!?」

「そそそそそうだね!?見つかったらやばいしね!?」


 気恥ずかしさを打ち消すように顔を逸らし、どのドアを選ぶか決めようとする。



『ケヒッ』



 何の脈絡も無かった。

 煌達の真横のドアから音もなく現れた道化姿の死神は、優先順位通り、煌を狙う。


 道化師の手元から放たれたジャックナイフが、煌の首へと肉薄する。


―――あ、逃げられない。


 そう察した所で体は追いつかない。煌の首は、なす術なくナイフに貫かれる。


 はずだった。



 ドンッ。



 煌の体が鈍い音と共に宙を浮き、ナイフは空を切る。

 否。切っていない。


 道化師の凶刃は、煌を押し飛ばした紅葉の胸を、深々と貫いていた。



「……は?」



 突然の出来事に呆気を取られ、紅葉を抱え込む形で地面に尻餅をつく煌。

 紅葉の背中からはナイフの柄が見えており、その先端は胸から飛び出している。

 間違いなく致命傷。それは、ナース服の上で急速に血の染みが作られていくことからも明らかだった。


「さらしな、さん?」


 先程まで元気に喋っていた。

 急過ぎる展開に頭が真っ白になり、何も考えられなくなる。


 そうこうしている間に、道化師は紅葉を抱える煌の前に立ち、今度こそ煌を殺そうと、ナイフを大きく振り上げた。

 回避するだけの思考力は削がれた。回避する気すら起きない。

 迫る死を半ば受け入れ、呆然と座り込んで―――



「―――させるかッッッ!」



 上の橋から、女の子の声が響く。


 かと思うと、道化師の体に縄が巻き付き、その体を絡めとる。そして、道化師の体は上の橋へと引っ張られていった。

 代わりに橋から飛び降りてきたのは、軽薄な振る舞いが特徴的な少女。

 探検帽を被った彼女は、道化師を縛る縄の先端を片手に、煌に背を向けながら挨拶をする。



「遅くなってごめんネ、煌クン。助けに来たヨ」



 他でもない。


―――西条音子、その人だった。

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