第十二揺 「笠原玄二」 後編


 佳苗が入院した、その翌日。


「お袋ー、来たぞー」

「あぁ、玄二。いらっしゃい…って、どうしたの?!」


 手土産のリンゴが入ったバッグを提げて病室に入った玄二を見て、佳苗は悲鳴をあげる。


 それも無理はない。

 玄二の右頬には大きなガーゼ。眉や唇には切り傷があったのか、それらが瘡蓋かさぶたになっており、学校の制服から時々見える肌には包帯やら絆創膏やらがついているのが分かった。歩き方も、足を負傷しているのか、びっこを引くような感じだ。


 有り体に言えば、満身創痍。

 愛する息子がこうも傷ついていれば、母親としては悲鳴の一つも上げたくなるものである。


「そんなに傷だらけになっちゃって…一体、何が…」

「気にすんな。大したもんじゃねぇよ」

「でも…ぁ」


 思い当たる節があった、という風に言葉を止める佳苗。


「もしかして…お父さんが…?」

「はッ!違ぇよ。親父につけられたもンじゃねぇ。そもそも、アイツに俺が負けるわけねぇだろ」

「そう…なら、どうしてそんな姿に?」


 どうして怪我をしているのか。当然の疑問だろう。

 だがその時、佳苗は玄二の変化に気づき始めた。

 口調は以前と変わらず粗野なものだが、トーンが少し高い。怪我をしている割には体もはずんでいるし、顔色も良くなった。


 昨日までの玄二の姿は酷いものだった。

 赤ん坊の頃から玄二を見守ってきた佳苗だからこそ知っていることだが、玄二は意外とメンタル面の不調が体に出るタイプだ。かといって大胆に出るというわけでもないので、知らなければ気付かない。


 昨日はそれがいつもより一層、体に表れていた。

 足取りは重く、言葉のキレが普段より無い。姿勢はやや猫背になっていたし、目だって何処か虚ろだった。


 原因はハッキリしている。

 周りからの冷たい視線、度重なる転職、そして母親の入院とそれによる出費。一般高校生が抱えるには大きすぎる重圧。

 それでも、玄二は佳苗を心配させないよう、平気なフリをしていた。無理を押し倒していたのだ。


 だが、度重なるストレスによって精神面が追い詰められてらいたのは佳苗も分かっていた。

 正直、今日もそんな調子だろう、と佳苗は思っていたし、玄二が病室に来たら励まそうとしていた。

 それも、玄二の満身創痍の姿で全て吹っ飛んだわけだが。


 しかし、玄二の調子は昨日に比べて格段に良くなっている。

 何か、いいことがあったんだろうか。

 辛い現実を忘れられるような、いいことが。


「ねぇ、玄二」

「あ?」


 リンゴをナイフで剥いている玄二に話しかける佳苗。

 いつもよりレスポンスも速いし、リンゴを剥く手際も良い。やはり、浮かれている。


「なんか、あった?」

「ンだよ、それ。アバウトすぎんだろ」

「そんなこと言って。わかってるんでしょ?」

「………」


 玄二は手を止めずに会話を続ける。手の中ではリンゴが徐々に兎の形になっていく。

 それ以上何も言わないあたり、詳しく言うつもりはないらしい。


 けれど、佳苗は察していた。


「ね、玄二」

「なンだ?」


「よかったね」


 手を止め、驚いた表情で佳苗を見る玄二。

 少し考えて、玄二は晴れやかに笑った。



「まァな!」




 ***




「笠原君、少しいいかい?」

「え…あ、はい」


 あの喧嘩から数日後。

 体から痛みが引き始め、怪我も治り始めた頃だった。


「悪いね、引き留めてしまって」

「いえ…それで、なンですか?」


 学校の昼休みに廊下を歩いていた時、例の老教師から声をかけてられる玄二。


「廊下の真ん中で話すのもあれだし、職員室に行こうか」


 老教師の後について行き、玄二は職員室の中に入る。


 玄二は職員室に良い印象を持っていない。何度も問題行動のことで呼び出されているからだ。

 ちなみに、問題行動というのは玄二の暴力事件についてのことである。もっとも、玄二のは全て正当防衛だ。不良達から次々と喧嘩を申し込まれるので撃退しているだけなのだが、教師から見ればそれも立派な暴力事件らしい。


 というわけで、玄二は緊張で体を多少強張らせながら老教師の席の横に座る。


「さて、早速本題に入ろうか」


 机の上を気持ち程度に片付け、玄二に向き直る老教師。


「お母さんは大丈夫だったかい?」

「あァ、その事ですか。大丈夫です。仕事してないから、今の方がむしろ前より元気なんで」

「はっはっは!それは良かった」


 目尻を細めて笑う老教師を見て、玄二はかねてから抱いていた疑問を彼にぶつける。


「あの…先生」

「ん?なんだい?」

「どうして、俺に優しいンですか」


 老教師は質問に対して一瞬キョトンとするが、再び目を細めて、ゆっくりと質問に答える。


「簡単に言えば…そうだね、笠原君が本当はいい子なのを知っているからだよ」

「……」

「はは。納得してないって顔だ。無理もないか」


 不満そうな顔をする玄二を横目に、老教師は視線を天井に向ける。


「君のお母さんがね、頼みに来たんだ」

「…え?」

「今でもはっきり覚えているよ。私が担任の教師になった時にね、笠原佳苗さんが私に『あの子は本当はいい子なんだ。どうか見捨てないでくれ』って、必死になって頼んできてね」

「…お袋が、そんなこと」

「驚きだったよ。ああいったお願いをされたのは、教師になって初めてだった」


 知らなかった。

 いや、佳苗が玄二を大切に思ってくれていたのは勿論知っている。だが、学校に頼み込みに行くなど、そんなことをしているとは全然知らなかったのだ。

 だが、それをした理由は分かる。


「俺が、この格好のせいで誤解されてるから…」

「そうなんだろうね。後で知ったんだけど、今までも君の担任になった教師に頼み込んでいたみたいなんだ。『あの子と向き合ってあげてくれ』という風にね」


「残念ながら、どの教師も途中で諦めてしまったみたいだけど」と笑いながら言う老教師。


 いくら頼まれようが、これ程に(外敵要素が)凶暴な人間に向き合い続けるのは恐怖そのものだろう。老教師の前でこそ丁寧な物言いをしているが、他の教師であればそうはしない。あくまで、彼が玄二を好意的に見てくれているのを知っているからだ。


「最初はね、親の贔屓目が入ってて、親なりの子供のフォローをしているだけだと思っていた。不良の子を持つと親も大変だな、とかね」

「…」

「でもね、君のことを見ているうちに気づいたんだ」


 老教師は玄二に視線を戻しては微笑む。


「乱暴な言葉遣いではあるけど、所作や気遣いは丁寧そのものだ。勉強にだって予習復習に手を抜くことはしない。無遅刻無欠席だし、それに…」

「それに?」


「君は、自分からは決して人を傷つけないだろう?」


「―――」


 玄二は目を見開いて、老教師を見つめる。


 彼の笑顔は、まるで我が子を慈しむ父親のようで。


「私は、君を応援しているよ」

「……ッ」

「困った時は、いつでもおいで」


 佳苗以外で、初めて玄二の内面を理解してくれた人。


 その存在を認識した玄二は、目頭が熱くなる。


 震えた声で、やっと一言を絞り出す。


「……ありがとう、ございます」

「…うん」


 老教師の穏やかな声が、耳の中で温かく滲んだ。




 ***




「なー、嬢ちゃん。俺さー、足ケガしちゃっててさー、動けないのよ。だからね?ビール、持ってきて欲しいなーって」


 昼下がりのコンビニ。

 そこのレジを挟んで立っているのは、中年の男性と若い女性。


「あの…困ります。購入される商品はご自分で持ってきて頂かないと…」

「えー?いいの、そんなこと言っちゃって?お客様は神様でしょー?」


 蛇模様のシャツをだらしなく着た、ガラの悪い中年男に絡まれ、困り顔になる玲奈。


 足に怪我をしている、と主張しているが、歩きに支障が出るほどの怪我なら松葉杖の一つも持っていないのはおかしいだろう。そもそも、彼が徒歩で入店してきたのを玲奈は見ている。


 今も値踏みする様に玲奈の体を見ている中年男に対し、玲奈は内心で、はぁ、と溜息をつく。

 実は、玲奈はかなりのトラブル体質だ。こういった迷惑行為には頻繁に巻き込まれる。今までは見た目ホラーのオカマ店長に守ってもらっていたのだが、今日は彼は不在だ。


 なぜなら。


「お客様」


「あ?んだ―――ひぃっ!!」


「うちの者が大変失礼しましたァ!神様ァッ!今すぐ!ビールお持ちしますねェッ!」

「足が痛いんでございますか?私めの肩で宜しければお貸ししましょうかぁ?」

「なんなら御手当てしますんで!ささ!『控室ムショ』の方に」


 中年男の前にいたのは、彼より一層柄の悪い男3人。

 コンビニの制服姿ではあるが、髪型や顔からヤンキー感が溢れ出ている彼らは、中年男を萎縮させるのに充分なセコムである。


「い、いえ、もう大丈夫なんで…」


「いやいやいや!遠慮なく!」

「お客様は!」

「カ・ミ・サ・マで!」

「「「ございますのでぇ!!!」」」


 不気味なスマイルでにじり寄ってくる3人組から距離を取るように後退りをする中年男。

 その背中が、大きなものにぶつかった。


「?」


 後ろを振り向く中年男。

 目の前にあったのは立派な胸板。徐々に目線を上げると、そこには。


「―――逝らッしゃいませ、お客様」


 顔の凶悪さを最大レベルまで上げた玄二が、男を見下ろして立っていた。

 その姿、不動明王の如し。

 蛇に睨まれた蛙となった中年男は、顔を真っ青にして―――



「失礼しましたぁぁぁぁぁぁぁああっ!!」



 ダッシュでコンビニから撤退した。



「あ、怪我の設定はもういいんだ…」


「お客様ァッ!まだ商品をご購入されてませんよォッ!」

「お会計は過度血祭カードけっさいでよろしいでございますかぁ!」

「こちらお得なーポンがご利用いただけましてですねッ!」

「落ち着けッてんだ」


 迷惑客を丁寧に追い詰めるのがよほど楽しいのか、逃げた中年男を連れ戻しに行こうとする3人組を静止させる玄二。


「笹木先輩、大丈夫ですか」

「あ、うん。ありがとう、笠原君」


 手足をジタバタさせる3人の首根っこを掴みながら、玄二は玲奈に声をかける。相変わらずぶっきらぼうな口調ではあるが、それが心の底から玲奈を心配するものであることを玲奈は知っている。


「あとテメェらはちょッと静かにしろ」

「あでっ!」「いでっ!」「あだっ!」


 玄二に殴られ、苦悶の声を漏らす3人組。痛む頭を抱えながら床に転がる3人に対し、玄二は呆れた様子で問いかける。


「やッぱり、バイト経験もない不良がすぐ接客業やンのは無理だろ…」

「いや!やらせてもらいますぜ!」

「すぐに慣れますんで!」

「笠原サンはゆっくりしててくだせぇ!」

「俺もバイトなんだよゆっくりするわけねぇだろ」


 頭をボリボリと掻いて膝を折り、3人組と視線を合わせる玄二。

 頭を掻くのは、玄二が気まずく思っている時の癖だ。なぜ気まずくなっているか、というと。


「少しでも俺の資金を稼ぐッて…そんなことしてもテメェらには何の得もねぇだろうがよ」


 そう。彼らは、玄二が貯めている貯金を増やす手伝いをするということで、玄二とバイトをすることを志願してきたのだ。

 無論、玄二は反対した。彼らは、それが自分達なりの償いの仕方である、と意固地になっていた。

 だが、玄二にとってみれば殴り飛ばした相手にここまで奉仕されるのは気まずい事この上ない。いくら玄二が不良に絡まれる原因になったとはいえ、流石に彼らにこのレベルのものは求めていないのである。


 力ずくで3人を止めさせようと思った玄二だが、よく考えればコンビニバイト5人は多すぎるので、どうせ店長が止めてくれるだろうと思って、店長に任せた。

 しかし、それは完全に的外れだったのだ。


「あ゛らぁやだ何この子たち!!可愛い!!雇っちゃうわん!!」

「「「あざーーーーす!!」」」


 あの店長はヤンキー好きだという事を失念していた玄二が、それを聞いて頭を抱えたのは言うまでもない。


 秒で雇われた3人組は、賑やかし兼用心棒としてコンビニで働いている。正直、業務の方ではあまり役立たない。


「いいんすよ、笠原サン。これは、俺達が勝手に決めたことなんで」

「そうそう。だから気にしないで下せぇ」

「俺らはただ、惚れ込んだ人の力になりたいだけなんで」

「……そうかよ。勝手にしろ」


 再び頭を掻いて立ち上がる。

 彼らに背を向けたまま、玄二は小さな声で言う。


「その……なンだ……ありがとな」


 その言葉を聞いて、お互いに顔を見合わせる3人組。

 やがて意味を理解し、3人揃って答えた。


「「「うす!」」」


 玄二は威勢のいい返事を背後から聞きながら目を横に向けると、そこには玲奈のニヤケ顔があった。


「………………なんすか」

「いやぁ、意外と可愛いところもあるなぁって」

「…は?」

「あれ、気づいてないの?」


 玲奈は玄二の耳元に近づいて呟く。


「顔、真っ赤だよ?」


 ボッ!という音が聞こえてきそうなぐらいに、玄二は更に顔を紅潮させた。





 その日、ある一帯の住宅街に、獣のような雄叫びが響いたのだという。


 あるいは、それは何かを思い出して悶える男の喚声のようでもあった、という話だ。

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