第三揺 空白の意味


 最初に鴉頭に会敵してから、どれほど経っただろう。

 怪物の突進には、思ったよりも逃げる隙が多かった。しかし、怪物は突進をあれから三度ほど繰り返したにも関わらず、煌達は怪物を未だに振り切れていなかった。

 

 その理由は、全て煌の体力の限界にある。


 分かったことだが、怪物の足はそれほど早くない。全力疾走一歩手前ぐらいのスピードで走れば、追いつかれることは殆どない。音子の身軽さなら当然、煌でも万全の状態なら振り切れる可能性はあった。


 だが、いくらなんでも20分それを続ければ話は変わってくる。

 慣れない地形と精神の摩耗、加えて何の身体能力補正もない煌の体力は、既に風前の灯火だった。


「はぁっ…はっ…ぉえっ…」


 嘔吐に近い感触を耐えながら、必死に走る煌。音子にも若干ではあるが、疲れの色が見えてきていた。


「…頃合い、だネ」


 立ち止まり、そう呟く音子。


「げほっ…さい、じょう、さん…?」


 疑問を覚えて煌も立ち止まる。


 と、音子の手の上に、虚空から投げ縄が出現する。

 音子はその輪っかの部分を振り回して、建物上部の突起に引っかけると、音子は何回か引っ張って強度を確認した後、スルスルと建物の上へと登っていった。


「…そう、か、建物の上、をいけば…!」


 それ現在の体力で登れるかは不安だが、やるしかあるまい。煌も縄に手をかけようとして――


「…え?」


 その手は、空をきった。


 いつの間にか、縄が消え去っている。


 ばっ、と音子の方を見上げる煌。


「あの、すみません、登れないんですけど」


 ニコッと笑って答える音子。





「うん。だから、ここでお別れ」





「…は?」



 理解が、できなかった。



「いやー、ワタシもフォロー頑張ったんだけどネ。やっぱり無理。何の役にも立たない人間いてもワタシ達が損するだけだし」


「いや、ちょっ」


「あ、そうそう、伝えてなかったルールがあるんだけど」


 ピッ、と指を立てて言う音子。


「1回のゲームで死んだ人が二人以下の場合、残りメンバーはそのままで、欠員が出たところに新しい子が来るんだよネ。新規の子だったり、ベテランだったりはするけどサ」


「…って、こと、は」


「そ。


「―――」


 成る程。考えてみれば当たり前だ。

 もしチームの人間が一人死んだ場合は、それからずっと四人で逃げる、というルールだったなら、そもそも煌がこの状況に置かれる理由がつかない。自分だけ何も知らず、他のメンバーは皆顔見知りで、ルールも完璧に把握しているなんて、そんなことは起こらないのだ。


 つまり、煌がこのチームの欠員に補充されたのは、前回のゲームで死亡者が一人出たからなんだろう。


「ワタシもさ、好き好んでこんな事するんじゃないんだヨ?別に人を間接的にでも殺したいなんて思わないし」


「っ、なら」


「でもさ、こっちも命かかってんの」


「…ぁ」


「はっきり言って、今のメンバー完璧なんだよネ。処刑人弱いし、皆の役職バランスとれてるし強いし」


「それに」と付け加える音子。


「全員、いい子なんだ。ゲンジは口悪いけど根は優しいし、ユメとクーちゃんはどっちも可愛くて思いやりがあってさ」


 少し優しい顔になって語る音子だが、それもすぐに厳しいものに変わる。


「君がいると足手纏いになる。君のせいで、誰かが足引っ張られて死ぬかもしれないんだヨ。でも、きっとそれでも、みんな君を助けようとする。お人好しばっかだし」


 屋根の上で立ち上がって、煌を見下ろす音子。


「だから、私が手を下す。私が、不安要素を排除する。みんなを危険には晒さない」


「…まって」


「…いやー、ワタシも心苦しいヨー?仮にも見殺しにするわけだからサ。あ、みんなには煌クンのこと見つけられなかったって言っとくネ」


「まってください」


「その体力でいつまで持つかわかんないけど、生き残れたら謝るヨ。生き残れたらネ」



「ッ、待ってください!お願いします!」



「…じゃあね」



 懇願は、届かない。足音と共に、音子の姿は消え去り。



 ――――入れ替わりで、死神が姿を現す。



『…グォ』


「…は、はは」


 音子の言ったことに一切反論ができない。


 トロッコ問題、なんてものがある。


 よく多数の人間と一人の人間のどちらを犠牲にするか、の例えで用いられるものだが、あの問題の本質はそこではない。あまり知られていない二つ目の例。


 高架の上に太った人間が立っており、下には線路がある。その先に縛られた複数の人がいて、彼らにトロッコが迫っているとしよう。もし自分が太っている人間を高架から蹴落とせば、トロッコは止まり、多数の人間が助かる。自分が落とさなければ、線路上の人間は全員トロッコに轢かれて死ぬ。どちらか二つを選ぶ問題だ。


 つまり、1例目が『1人と複数人の命のどちらを殺すか』のみを問うのに対し、『死ぬ運命になかった人を多数の命を救うために自分が殺すかどうか』が2例目の問うところなのである。


 一般に、この例では太った人間を敢えて蹴落とすことを選ぶ人の方が少ないとされる。


 だが、煌はこの例を出された時、


 一人の人間の命で複数人が救える。長期的に見れば分からないが、いますぐ死ぬ運命にはなかった人物を自分が意図的に殺す結果になろうと、煌はきっとその選択肢を選ぶ。


 


 音子も多分、煌と同じタイプの人間だ。

 感情を殺して、合理を選ぶ。何も間違ってはいない。


「足手纏い…はは、間違いない。正論だよ」


 そう、正論だ。

 

 今、自分はここで死ぬのが正しい。そっちの方が、更科さん達は生き残る可能性が高くなる。


 そう、合理的なんだ。合理的な、はずなのに―――


「どうしてっ、俺は、逃げてるんだっ…!」


 逃げていた。走り出していた。鴉頭の死神を目の前にして、怖気付いて、逃げている。


 感情に惑わされないように、合理的に生きると決めていた。なら、ここでも合理に従うべきだ。でも、体はそれに反した行動をしている。


 決定的な自己矛盾。何故、何故、何故―――


 終わりのない思考の渦は、怪物の突進によって強制的に堰き止められる。


「くっ…!」

『…ォオ』


 倒壊した建物の中から、のそり、と出てくる処刑人。

「…今は、逃げる」


 切迫した状況では、この矛盾に終止符を打つほどの思考力は得られない。


 ならば、今は体が動くままに。




 再び走り出す。

 正直言って、もう体はほぼ動かない。

 足は鉛のごとき重さだし、本当に血が通っているのか怪しくなる程度には感覚も無い。強引に両手を振って動かない足を前に出す。肺も酷使され続けたせいか、既に破裂しているのではと思うぐらい、ただの一息で激痛を覚える。唾を飲み込む力すら無く、口から唾液が溢れ出ている。

 出来の悪い人形のようにも見えるその姿は、あまりに無様だ。


 だが、いくら体は限界を迎えようとも、止めてはならないのは頭の回転。自分の取り柄は、それくらいしか無い。


 そう、逃げ続けてもジリ貧なのである。


 打開策を考えねばならない。このままでは、体力切れのところで突進を食らってジ・エンド―――


(…突進?)


 ふと、疑問が頭に浮かぶ。


 突進は強力だ。連発すれば今の煌など容易く殺せる。なのに、してこない。何故か。


 インターバルが必要、という可能性はあるが、最初の2回の突進に関しては1回目の立ち直りからの2回目は、ほぼノータイムだった。ならば、すぐに突進しないのはおかしい。


 ならば、別の視点だ。


 この怪物はどうにも知性が低いように見える。先回りや、鎌の振り回し、それこそ突進を繰り返せば殺せる獲物に対し、その手段を取らない。


 と、なれば、鴉頭が突進するのには、何か発動基準があって、それを満たした瞬間に突進をするようにしているのだとしたら。

 基準の候補に上がるのは―――


(…距離だ。ある一定間隔の差をつけた瞬間、ほぼ自動的に突進をするのだとしたら、最初2回がノータイムの発動で、今発動していない理由に説明がつく)


 ちなみに、現在の鴉頭との距離は約5メートルだ。


 距離を離さなければ突進は無いが、一方で逃げ切ることもできない。


(何メートルぐらいで突進してくるのか、調べる必要がある)


 T字路に差し掛かり、太腿を全力で上げて距離を離す。


 すると、怪物の足跡が止んだ。


(…っ、止まった!距離は10メートルぐらいか…!)


 膨張音が背後から聞こえた瞬間、横方向に跳ぶ。


 それから間髪いれずに黒い巨大な弾丸が目の前を通過、そして定番通り、体は吹き飛ばされる。


「かふっ…もう、今日だけで、一生分吹っ飛ばされた、よ…!」


 だが、確定だ。煌の予想通り、突進の発動条件は一定距離離れることだ。


「けど、それが分かったところで…」


 結局は、煌に鴉頭を振り切る体力は残っていない。

 考えなければならないのに、全身の悲鳴がそれを邪魔する。


(意識が、朦朧とする…!)


 ぶれ始める視界。耳からは心臓の音ばかりが爆音で聴こえる。

 少しでも肺に空気を入れて呼吸を整えようと、大きく息を吸って―――


「っ!くっさぁ…!」


 鼻に入り込んできた悪臭に顔を歪める。


「おぇっ…何の匂いだ、これ…」


 例えるならば、下水の臭い、腐乱臭、刺激臭をいっぺんに混ぜ込んだような、そんな匂いで―――


 その時、煌の頭の中で、一つの解決策が浮かんだ。


「いちか、ばちかだ…!」


 そして、少年は最後の力を振り絞って立ち上がり、また走り出すのであった。


 ***


 匂いがする方向へ、ひたすらに走る。


 煌は突進を発動させないために、鴉頭と6メートルほどの距離を保ったまま走っている。


 実はこれ、非常に体力を使う。全力で走らなくていい、というのはそうだが、やはり真後ろから迫る存在を足音と振動で感じ続けるのはキツいものがある。


(想像通りなら、あと少し…!)


 段々と臭気が強くなることから、目的地が近いことを察する。

 そして、角を曲がった瞬間。遠目だが、が見えた。


(やっぱり、あった…!)


 怪物は相変わらず後ろから追いかけてきている。煌も限界。これが正真正銘、突進を避けられるラストチャンスだ。


「いっ、けぇ…ッ!」


 距離を離すと共に、怪物が突進モーションに入る。そして、その速度をもって煌の体を穿たんとして―――


『…ォ』


 怪物の体が宙を浮く。

 その目の前には、

 

無論、空中で突進を止めることなどできない。

 制御不能の怪物の巨大は汚れた川の中に着水し、水飛沫を上げた。


「はっ…はぁっ…げほ、うまく、いった…?」


 どうやら狙い通りに事態は進んだらしい。


 思えば、きっかけは幾つもあった。


 最初、煌はこの街並みを「中世のヨーロッパ」と形容した。これは些か間違っている。

というのは、この街のモデルとなったのは、恐らく近代頃の住宅街だと思われるからだ。それも、産業革命初期の、だ。


 街に溢れる霧と所々に立っているガス灯、そして薄汚れた街道。極めつけは、あの処刑人がつけていた仮面だ。何処かで見覚えのあると思ったが、あれは多分

 

 真っ黒でつぎはぎだらけだったので分かりづらかったが、目の前の下水同然の川を見て確信に変わる。


 ペストマスクとは、産業革命以降のヨーロッパで流行ったペストから身を守る為に使われていたマスクの名称だ。尖った口の形が独特なこのマスクは、様々な芸術作品や文芸作品でモチーフとされてきた。


 だが勿論のこと、ペストに対してペストマスクが有効かと言われれば微妙なところである。そもそも、あのマスクが使われた理由は、ペストの原因となるとされていた『瘴気』を吸い込まないためだった。


 では、なぜ『瘴気』なんて概念が生まれたかというと、それは目の前の川に原因がある。


 その時代、下水は十分に整備されておらず、排泄物・産業廃棄物・家庭ゴミ・汚水、そして果てには堕胎した子供まで

 

 テムズ川に代表されるこの例は、あらゆる病気の元となり、この川から出る匂いが病気をもたらしているのだ、という話が広がったというわけだ。


 話を戻そう。つまり、煌が先程嗅いだのは、この汚染された川の匂いであり、あまりの臭気に煌はその存在に思い当たり、川に怪物を落とすことによって時間を稼ごうとしたのである。


 川はヘドロまみれだ。動こうとしようにも、普通の川のようには動けまい。時間稼ぎには十分。


 そのはすだった。


「いまの、うちに…!」


 動こうとして、気づく。


 体が起き上がらない。というより踏ん張りがきかない。


「…?」


 下半身に違和感を覚え、振り向く。


 動かない。それもそのはず。


 


「…ぉ」


『うまく避けないと体が千切れる』、と音子が言っていた。


 身をもって体感する。

 かすっていたのだ。避けきれていなかった。


 事実を認識すると同時に、煌に地獄がおとずれる。




「っづあァあああアァああああああああああッッッ?!?!痛い痛い痛いいだいいだいいだいぁあッッ!?!?」




 頭の中が痛覚に支配される。あらゆる思考がシャットダウンされ、目の前が赤く染まり、口からは泡が吹き出る。


 はやく逃げなきゃ痛いでも立てな痛いその前に治療を痛いでも逃げないと痛い奴が追ってく痛い出血が止まらな痛いとめるの痛いが優先痛いでもアイツが来る痛でも立て痛だから血を痛い痛い痛い痛い痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛――――――!


『…ォ』


「あっ」


 死神は、目の前にいた。


 おかしい。まだ1分も経っていないのに。


 そして、煌は気づく。


 コイツは、


 しかし、そんなことに気づこうが関係ない。目の前の怪物は大鎌を振り上げる。


 あ。終わった。


 死を悟り、目を瞑る。


 鎌が煌の命を刈り取る寸前。



「―――こっちを見なさいっ!」



 ガラスのような、透明な声が木霊した。


「…ぇ」


 汗やら涙やら鼻水やらでグチャグチャの顔では、それが誰なのかは視認できない。

 が、その声には聞き覚えがあって。



『ォォォォオオオオオオッッッ!!!!』



 怪物の叫びが地を震わせる。

 瀕死の煌に目もくれず、大鎌を構え直して突貫の体勢をとる鴉頭。


「っ、ぁっ、逃げ、て…!」


 声が上手く出ない。そうこうしている内に、怪物は地を抉りながら、その人物に迫っていた。

 

 その人物と、あわや接触するというところで、誰かが横から介入する。


「吹っ飛べやゴラァッッッ!!」


『!?』


 キィィィン、と重ね合わせた金属音のようなものが響いた後、煌は衝撃的な光景を目にする。


 怪物が、空を舞っている。

 大きく弧を描いて放物運動をした後、怪物は再びヘドロの川へと逆戻りした。


「」


 驚愕で何も声が出ない煌。


 力なく地面に倒れている彼に、誰かが駆け寄ってくる。


「…――っ、―――!」


 耳が遠くなり、何を言っているのか聞き取れなくなる。視界もぼやけ始めた。


 そして、焦燥に満ちた美麗な声を聞きながら、煌は意識を手放したのだった。

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