こんなもの飲み下せやしないよ

清野勝寛

本文

こんなもの飲み下せやしないよ




生きていることは幸福かと考えることがある。

今日は天気が良い。

太陽の暖かい光を全身に浴びて大きく背伸びをする瞬間には、筋肉と一緒に心が解れたみたいな気分になって、こういうのを生きてる実感とか言うんだろうかなんてことを考える。


美味いものを食べている時、例えばラーメンとか焼き肉とか、カレーとかカツ丼とか。

自分の好きなものを食べて、美味しい美味しいと次から次へ口へ運び。額にかいた汗を顎の下へと垂れ流しながら完食した後、ふうっと大きく息を吐いたあの瞬間、あれもきっと幸福だろう。


ゲームをしている時、面白動画を見ている時、お笑い番組を見ている時。他にも挙げれば、確かに幸福を感じる瞬間はある。


けれど、けれど本当にふとした瞬間、考えることがあるんだ。


例えば、公園で遊んでいる小学生の胸ぐらを掴んで、その顔を何度も、何度も何度も殴打して、動けなくなったその子に、生きていて幸福かって聞いたとして、そいつは、「ボクは幸せです、もっとたくさん生きて、生の喜びを実感したいです」と言うだろうか。


少なくとも今の自分は、痛みから逃げている。苦しみから逃れていたい。そう思う。けれどそうしていることそのものが痛みになってしまう。欲しいものがあるからだ。楽して暮らしたい。存在を認めてほしい。好きな人と一緒にいたい。好きなことだけしていたい。欲しいものは挙げはじめたら止まらない。けれど、それだけでは生きられないように人間は出来ている。耐える、というのはとても辛い。物理的な痛みよりも、もしかしたらずっと痛い。


生きている時間の半分以上は、きっとそんな痛みが伴っていると思う。そんな状態で、それでも生きている理由なんてものがもし存在するのなら、それはきっと死ぬのが怖いからだ。


そんな理由で、何十年も生きることが出来るだろうか。

どうせ死ぬのに。

どうせ死ぬのにだ。



普通でなければいいのに、と思う。

呆れるほど平凡で、呆れるほど凡庸な自分が嫌いだ。特別とは言わない。ただ少し頭がおかしくなった人間が、何かを極めたり、何かを成し遂げたりしているのだ。自分は、おかしくはなれなかった。屋上から飛び降りようとフェンスを乗り越えて下を見ると足が竦んだし、ホームに入ってくる電車に向かって飛び込む勇気は持てなかった。昔からそうだ。臆病だという自覚はあったから、危ないものや自分で制御の出来ないものには近付かなかった。情けない話、包丁を握ることにさえ、未だに恐怖を覚えるくらいだ。


勿論これは言い訳だ。自分をこわして正常でなくなっても、欲しいものや成りたい姿を目指すことを努力と言うし、それが出来なかった人間は自分が傷付かないように才能という言葉を作り出した。その言葉に、とても救われている。才能がなかった。壊し続ける才能が。

ただ、諦めないフリをすることは簡単だった。言葉は武器だ、それを操ることを覚えると、案外簡単に人は騙せる。「真面目で頑張っている人」だと思わせてしまえば、自分に優位に事が運ぶことが多かった。嘘がばれないように、人の前へ出ることはやめた。誹謗も中傷も、こちらには向かない。大きな声で叫ばなければ。


そうやって急場を凌いできた。平凡以上に幸せだった。

もう、それは通用しない。


嘘に気が付いた人間は、こちらを否定した。

嘘を受け止めた人間は、こちらから離れていった。

嘘が許せない人間は、こちらとの縁を切った。


嘘を吐き続けていたら、本当の意味で誰も傍にいなくなった。

恐ろしいのは、そんな状況になってから、今度は自分を騙そうとしている自分がいることだ。


相手を否定した。記憶をなくしたふりをした。間違いを認めなかった。記憶を改竄した。誰かのせいにした。世の中のせいにした。時代のせいにした。絶対に自分が悪いということを認めなかった。



そんな風に生きてきた、今。

生きていることは幸福かと考えることがある。

たぶん幸福ではない。


生きている間は痛みが伴う。そんな状態で生きている理由は、死ぬのが怖いからだ。

そんな理由で、何十年も生きることが出来るだろうか。


出来るだろうか。

ふと、そんなことを考えている。

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こんなもの飲み下せやしないよ 清野勝寛 @seino_katsuhiro

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