ⅩⅧ 海の悪魔

ⅩⅧ 海の悪魔

「――それじゃあ、魔導書も道具も置いたままだし、儀式するにも向こうの方が都合いいんで、一旦、ガレオン戻りますけど別にいいですね~!?」


 ますます黒さを増してゆく曇天の下、僕はかけられた板切れの橋をジーベックの船尾楼からガレオンの船首へと渡ろうとしながら、背後の海賊達に一応、断りを入れる。


「あーあっ! どうせこの大海原のど真ん中じゃあ逃げ場はねえしな~! ていうか、むしろどっか行ってくれりゃあ、手間が省けていいってもんだあ~っ! ガーハハハハハっ…!」


 すると、あの〝キッドマン〟と呼ばれる髭面の頭目が、相変わらずの野太い声でバカ笑いを響かせながらそう返事を返した。


 確かに頭目のいう通り、こんな大海に浮かぶ船の上から逃げるのはまず不可能だ。積んである小舟ボートを使ったとしても、周囲に陸も島もまったく見当らないこの大海原において、そんなもんで漕ぎだした日には遭難して海の藻屑と化すだけである。さらには激しい嵐まで来ているというおまけ付きだ。


「ま、逃げる気はさらさらないんだけどね……うおっと!」


 雨雲の厚さばかりでなく、吹きつける海風もだいぶ強くなってきている……その風に煽られ、うっかり海にドボン! しそうになりながらも、僕は板を渡りきって再びガレオン船〝ケダー・マーハイター号〟へと帰ってきた。


 こちらの方が大きい船なので海賊のジーベックよりもまだマシだが、甲板に降り立つとやはり船体は荒れ狂う波に大きく揺り動かされている。


「こりゃ、ほんとに大嵐がきそうだな……さて、やるとすればやっぱり船倉か……」


 今にも降り出しそうな、黒々と分厚い雲の渦巻く空をもう一回見上げてから、僕は迷わず一番下層の甲板にある船倉へと向かう。


 そこに僕の数少ない荷物――魔導書二冊と儀式に使う道具が置いてあるというのももちろんあったが、もう一つの理由として、そこが悪魔召喚を行う場所に適しているという事情もある。


 魔導書による悪魔召喚魔術に最適な式場というのは、人里離れた廃墟の城や教会など、静かで人気ひとけのない場所だ。今、この海の上でとなれば、ちょっと圧迫感あって散らかってるけど、まあ、広く場所とれるし船倉が一番だろう。


「まずは片付けだな……よし。重労働だけどがんばるか!」


 外に面した上甲板から階段をいくつか下り、ずっとねぐらにしていた最下層の穴蔵へと到着すると、其処此処に積まれた荷物を端へと寄せ、さっそく僕は中央に広い空間を作った。


「ま、使うとすれば、当然、即効性のある『ゲーティア』の方だな……」


 場所が確保されると、イサークの指示で写本を作った『ソロモン王の鍵』と『ゲーティア』という二冊の魔導書の内、今回の目的を果たすのに適した『ゲーティア』の方を僕は選び、木の床にパステル・・・・でカラフルな図形を描き始める……これまでにもよく使ってきた、お馴染みの〝ソロモン王の魔法円〟である。


「よし。そんじゃお次はお香をと……」


 急いで魔法円を描き終わると、いつもの如く儀式を行う正装として、フード付きの黒マントをその身に羽織り、左胸に金の五芒星ペンタグラム、右裾には仔牛の革製の六芒星ヘキサグラム円盤を素早く着ける。


 そして、魔法円の所定の位置に蝋燭と香炉を置いて火を灯し、甘ったるい煙が立ち込める真っ暗な船倉の中で、準備万端、悪魔召喚を行うための用意が整った。


「完全に一人だけで召喚するのは初めてだし、さすがに緊張するなあ……でも、やるしかない! よし!」


 僕は覚悟を決めると、とぐろを巻く蛇の同心円の中央に立ち、いよいよ儀式を開始する。


「失敗は許されないからな。今回は正式にいかせていただこう……」


 イサークと一緒の時は省略することも多かったが、一人だけではまだ自信がないので、念のため式次第通り丁寧に行うこととする。


 まあ、もっと厳密には〝ヒソップの葉〟を聖水で満たした壺に浸して散水器に使うのが本式なのだが、さすがに生の枝木・・・・は持ち合わせていないので聖水は小瓶から直接撒いて魔法円を清めた後、僕はラッパをプゥゥゥ〜っ!…と吹き鳴らして儀式の開始を大々的に告げた。


「うん。安全な航海を願うならやっぱり〝ヴェパル〟だろうな……」


 続けて、僕は右手に魔法杖ワンド、左手にソロモン王の72柱の悪魔の内、序列第42番・海洋公ヴェパルの印章シジルを刻んだ金属円盤を鞄から取り出して握る。


 72柱すべてのペンタクルはまだ作れていないが、新天地への船旅をするにあたり、こんなこともあろうかと海や嵐を支配する悪魔〝ヴェパル〟のものも先行して作っておいたのだ。どうやらその用心が今回は幸いしたらしい。


「霊よ、現れよ! 偉大な神の徳と知恵と慈愛によって、我は汝に命ずる。汝、海洋公ヴェパル! ……霊よ、現れよ! 偉大な神の徳と知恵と慈愛によって…」


 そのペンタクルを前方斜め上方の闇へと突きつけながら、僕は〝通常の召喚呪〟を何度となく唱え続ける。


「まだダメか。ならば……霊よ! 我は再度、汝を召喚する! 神の呼び名の中で最も力あるエルの名を用いて!  汝、ソロモン王の72柱の悪魔の内、序列第42番、海洋公ヴェパル!」


 だが、それでも中々現れてくれない意中の悪魔に、僕は呪文を〝さらに強力な召喚呪〟へと切り替えた。


「…霊よ! 我は再度、汝を……ん? 来たか!」


 すると、今度は数回唱える内にも目に見えて変化が現れ始める。


 魔法円の前方に描かれた〝深緑の円を内包する三角形〟の上に、ボコボコ…と泡が湧き始めたかと思うと、突如、溢れ出したその泡からドパァァァーン! …と巨大な水柱が吹き上がる。


 そして、その水柱が次第に形状を変化させてゆき、長く麗しい緑の髪に海藻を絡ませた、半透明の美しい人魚の姿へといつしか変貌を遂げていた。下半身を覆う鱗はエメラルド色をしており、尖がった耳の後にはエラも見えている。


「ええ〜? チョーだりいのに来てみたら、呼び出したのはこんなガキんちょなのお〜!? もおサイアク〜!」


 現れたその人魚の悪魔――海洋公ヴェパルは、開口一番、なんとも重みのないギャル言葉でそんな文句を垂れる。


 どうにか召喚がうまくいったことに内心、胸を撫で下ろす僕であるが、その悪魔の言動を目の当たりにすると思わず呆気にとられてしまう。


 これまで、そうした必要性に駆られることが特になく、ヴェパルを召喚するのはイサークと一緒だった時も通じてほんと初めてなのであるが……その肩書きや妖艶な容姿とはイメージ違い過ぎる。


 なんというか……とにかくギャル・・・だ。


「ま、ガキでもいっか。で、お姉さんに何かなえてもらいたいわけ? とりあえず言ってみそ?」


 そのギャルな人魚の悪魔は、緑に光る眼で僕を見下ろしながら、面倒臭さそうにそう訊いてくる。


「あ、ああ。それなら単純明解だ。この嵐を止めてもらいたいだけのことさ。君なら簡単だろ?」


 相手がギャルだろうがお姉さま系だろうが妹系だろうが、とにかくこの悪魔を使役して嵐を止めなくてはならない……僕は気を取り直すと、さっそく願いをかなえるための交渉を始めた。


「ま、そんならチョー楽勝だけどさあ。あんた知ってる? あたしら悪魔に願いをかなえてもらうにはぁ、その見返りにあんたの魂ってのが必要なんだけど。あんた、それちゃんと払える感じ?」


 すると、ギャル人魚はこちらを素人と見くびって、悪魔のご多分に漏れず、魂を対価に要求してくる。


 まあ、悪魔としては通常運転な反応なのだが、見た目こどもだからって僕をナメてもらっては困る。そんなベタな取り引きに応じるわけがない。


「もちろん、そんなの払うわけないだろ? 僕にはこの印章シジルがある。今の僕と君、どちらが上の立場なのかわかるよね?」


 お決まりな悪魔の要求に、僕は左手のペンタクルを彼女に突きつけるようにして、首を縦に振る代わりに上から目線で脅しをかける。


 この魔導書『ゲーティア』に記載されている各悪魔に対応した印章シジルは、その対象とされる悪魔に強い恐怖心を与え、非力で小さな人間でも対等にやりあえるようにする代物なのだ。


 悪魔との交渉において、とにかく相手にナメられてはダメである。向こうにイニシアチブを握らせず、常にこちらが優位に立って話を進めなくてはならない。


「チっ…チョームカつく〜! ガキんちょのくせにチョー生意気じゃない?」


「見た目、ガキんちょなのは否定しないけどさ、これでも大魔術師イサーク・ルシオ・アシュタリアーノの直弟子だからね。そんじゃそこらのガキんちょと一緒にしてもらっちゃあ困るな」


 誘いに乗らず、逆に痛い所を突いてくる僕にヴェパルは舌打ちをして悔しがっているが、さらに僕は強気な態度で悪魔に立場をわからせようとする。


「イサーク? あんた、あの魔術師の弟子なわけ? ますますクソガキじゃん。ほんと、チョームカつく〜!」


 やはりイサークは悪魔界でも有名らしく、僕が素人のお子さまどころか悪魔の手の内をよく知る厄介な部類の人間であると知ると、ギャル人魚はさらに嫌そうにしかめた顔で地団駄を踏む…いや、脚はなく、下半身は魚になっているので、尾鰭でピチピチと跳ねている感じだ。


「まあ、そんな嫌な顔するなって。さすがに魂はやらないけど、代わりに今度、何かお供え物プレゼントしてやるからさ。何がいい? あんまし高いものは無理だけどね」


 しかし、僕は脅すだけではなく、その後のケアも忘れない。悪魔との交渉は強権的に命じるだけでなく、お互いに信頼関係を築くことも大切なのだ。


「チっ…わあったよ。やりゃあいいんでしょ、やりゃあ。んじゃ、ウィトルスリア製のブランド品で許してやんよ。できたらミラーニャンかフィレニック製」


「それ、かなりの高額商品じゃん。ま、この船はウェネティアーナから来た商船だから、積荷に何かあるかもしれない。ウェネティアーナ・ブランドもなかなか魅力的だろ?」


 僕の与える飴と鞭・・・にギャル悪魔も渋々願いを聞き入れ、代わりにファッションの街の高級ブランド品を要求してくるので、とりあえず身近で手に入る代替品を僕は提示する。しかし、奇遇にもウェネティアーナの貿易船に乗ったことがこんなところで功を奏するとは……。


「ウェネティアーナ製かあ……ま、悪くないね。んじゃ、嵐は止めてやっから、かったるいし、あたし、もう帰るよ?」


 手工業で名高いウェネティアーナ製の商品はギャルの心も掴んだらしく、悪魔は面倒くさそうにそう告げると、再び湧き上がった泡の中へと潜るようにして消えていった。


「あ! まだ送り帰す儀式残ってるのに、なんかせっかちな悪魔だなあ……ま、願いは聞き届けてくれそうだから別にいいけど」


 悪魔がいなくなり、幻の泡も消えてなくなった前方の三角図形を僕は見つめながら、眉をへの字にして呆れたように呟く。


 だが、ふと気がつけば、先程まであんなにひどかった船の揺れもいつの間にか収まっているようだ。


「さあてと。どれ、うまくいったかな……?」


 とりあえず悪魔召喚の儀式は滞りなく終了したので、僕は急いで片付けを済まし、静かになった船倉を後にして上甲板へと階段を登る。


「うっ……!」


 そして、暗い船体の中から外界へ一歩足を踏み出すと、眩い光が僕の目を刺すようにして視界を奪った。


 だんだんと慣れてきた目で辺りを見回すと、あんなにも黒々としていた空は透き通るような青さを取り戻し、雨に濡れた甲板の床板は照りつける太陽にキラキラと輝いている。


 悪魔ヴェパルが、約束通り嵐を消し去ってくれたのだ。


「よし! 成功だ……」


 自信がないわけではなかったが、やはり一人で行うのは初めてだったので、僕は拳を握りしめると、この魔術の成功を素直に喜んで呟く。


「おお〜い! これ、ほんとにおめえがやったのか〜っ!?」


 と、その時、前方のジーベックの方から野太い大声が聞こえてきた。


 見れば、ジーベックの船尾楼の上には海賊達がみんな集まり、あの頭目が声を張り上げながらブンブン太い腕を振っている。


「は~い! 僕が呼び出した海洋公ヴェパルの力で~す!」


これを「偶然、晴れただけだ」とか言われてしまっては、せっかくの努力が水の泡だ。僕は口元に両手を添えると、頭目に負けぬ大声でそう返事を返した。


「ああ~! あの強風と豪雨は自然に止むものではなかった〜っ! 悪魔の力と考えるのが妥当だろ~っ!」


 すると、気象に通じた栗毛の航海士が、この不自然な天候回復に僕の主張を認めた判断を下してくれる。


「あんた、チビっ子のくせにスゴイじゃないか~!」


「神の奇蹟だな……」


「おまえ、猟にも使えそうだべ」


「これはなかなかにいい拾い物をした」


 また、その周囲に立つ女海賊やバケツ頭、猟師にキザメガネ、さらに他のヒラ海賊達も、異口同音にそれぞれワーワー歓声をあげている。


「ガハハハ…! 気に入ったぜ! 小僧、今日からおめえも俺様達、キッドマン一味の海賊だ!」


 そんな仲間達の声をまとめるかのようにして、髭面の頭目は腕を組んでバカ笑いをすると、なんとも愉しげな様子で僕にそう合格通知を告げた。


 こうして、僕は思いもよらぬ運命の悪戯にも、新天地の海賊の仲間となることになったのだった……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る