ⅩⅣ 夜霧の中の龍
ⅩⅣ 夜霧の中の龍(1)
そして、ついに僕が新天地へ向けて旅立つ時がやって来た。
「さあ、いよいよ出航だ……」
黒猫の紋章が描かれた純白の横帆を大きく膨らませると、ウェネティアーナの港を離れてゆっくりと速度を上げて行くガレオン船の上甲板に立ち、僕は心地良い潮風に吹かれながら感嘆の言葉を漏らす。
海上から眺めるウェネティアーナの街の景色はまた格別だったし、これからこの旧大陸に別れを告げ、新たなる大地へ向かうのかと思うと感慨もひとしおだ。
良いことも悪いことも…いや、悪いことの方が格段に多かったのだが、それでもこのエウロパは僕が生まれ育ち、またイサークと共にずっと歩んできた馴染み深く親しみのある世界だ。
場合によってはもう帰ることもないかもしれないし、多少なりとも淋しさというものがあったりなんかはする。
「イサーク、あなたと決めた通り、僕は今日、〝新天地〟へ向けて旅立つよ……」
だんだんと遠ざかるウェネティアーナ側から進行方向の大海原へと体の向きを変え、今は亡き大切な人に向けて僕はぽつりと語りかける。
そう……この旅立ちは、本来ならばイサークとともにするはずだったものである。
生前、彼ができなかった分まで、僕が新しい世界をこの目で見て、この身で実際に体感し、その地で自分の進むべき道を切り開くのだ。
それが、命を救われた僕にできる唯一の恩返しであり、また彼への弔いともなるであろう。
だから、この旅立ちに対しては淋しいという思いばかりではない……淋しさ半分、反面、期待も半分といった複雑な心境である。
「どうだね、マルコくん? この船の乗り心地は?」
そうして碧色の海を見つめながらいろいろ考えを巡らせていると、となりに船長でもあるアンドレア・カプレチョーサ氏が来てそう尋ねた。
「もちろん快適です。僕、こんな大きな船に乗るの初めてですよ!」
僕はそちらを振り返ると、妙に感傷的になってしまっていた自分を振り払うようにして、わざとハキハキした声でそう答えた。
だが、それは別に偽りというわけではなく僕の本心だ。やはり巨大なガレオン船だけに安定感があって揺れも少ないし、何枚もの大きな横帆で風を受けるために速度も出ている。
「ハハハ! ただ大きいだけじゃないぞ? カノン砲も左右15門づつ装備している。たとえ身の程知らずな海賊どもが襲ってきても残らず返り討ちにしてくれるわ! ワハハハハ…!」
すると、僕の答えを聞いて今度は航海士のジョバンニさんという人が、自慢げにそう嘯いてアンドレアさんの傍らで高らかに笑ってみせた。
大柄な海の男といった感じの髭面のおじさんで、
このガレオン船〝ケダー・マーハイター号〟はカプレチョーサ商会のものなので、船長は一応、所有者のアンドレアさんになっているが、彼は商人であって船乗りではないため、実質的にはこのジョバンニさんが操船全般を取り仕切っているのだ。
また、航海には潮流や天候を司る悪魔の加護が必要不可欠であり、大きな商船には決まって魔法修士が乗船していたり、
で、そんな頼りになる航海士が自慢しているように、このウェネティアーナの優れた造船技術で造られたガレオンは遠洋航海に耐えうる巨大商船というばかりでなく、普通に正規軍の戦艦並みの火力を有している。
それは、それほどの用心をしていなければ、このオンドリア海や続くミッディラ海がその穏やかな表面に見せている顔とは裏腹に、意外と治安悪く危険な海だからである。
この海域はプロフェシア教国とは相容れない異教徒の国、アスラーマ教勢力であるオスレイマン帝国の制海権と隣接しているし、海を隔てて南のオスクロ大陸を根城にする、やはりアスラーマ教徒の〝ガリガリー〟と呼ばれる海賊が出没して航海の安全を脅かしているのだ。
また、これから向かう〝新天地〟の海でも海賊が跋扈していると聞くし、船を使った商売も命がけである。
ま、それでもカノン砲を30門も積んだ軍艦並みのガレオンを襲う海賊もそうそういやしないだろう。
これまで各地を旅して聞いた話によれば、いくら凶暴な海賊といえども、これ程の軍艦並みな火力を持った船に乗っている者は少ない。下手に近づこうものならば、まさに
さすがはベローニャン大公の人脈。アンドレアさんを紹介してくれたヴァレンチーノ氏とジュリエッティ嬢のおかげで、そうした航海の安全面においてもどうやら僕は恵まれたらしい……。
その後、ジョバンニさんの自信と僕の読み通り、新天地へと向かう航路は退屈なくらい順調に進んでいった。
「――はぁ〜…今日もいい天気だ」
暖かな日の降り注ぐ青空の下、優しげな潮風を受けて進んでゆく船の舳先に立つと、僕は今日も大きく両手を挙げて毛伸びをする。
荒れ狂う北の海や外洋などと違って、元来、ウィトルスリア半島と大陸に挟まれたオンドリア海も、エウロパとオスクロ大陸との間に開いたミッディラ海も非常に穏やかな海である。
天候も落ち着いているし、滅多に嵐に遭うようなこともない。これならば、外洋に出るまでは魔導書で海の悪魔を操る必要もまったくないかもしれない。
それに、やっぱりこの重武装のおかげか? 途中、他の船とすれ違うようなことはままあっても、ウワサに聞く〝ガリガリー海賊〟が襲ってくるようなことはない。
もしかしたら、漁船か何かに擬装した船でどこからか下見をしていたが、この砲門の数を見て襲撃を諦めたのかもしれないな……。
ま、そんな感じで、このまま新天地への船旅はなんだかもの足りなさを感じるくらい、まさに平和そのものに進んでいくかに思われた。
ところが、ウェネティアーナを発って三日目の夜。オンドリア海を出てミッディラ海に入り、しばらく進んだ頃のことである……。
「……ん? なんだ? やけに霧がかかってきたな……」
マストの上にある物見用の
「確かに……初めてだな。こんなの……」
その夜は満月に近い月が浮かんでおり、月光で蒼色に輝く海を眺めようとちょうど上甲板にいたので、頭上から聞こえた水夫の呟きに僕もその異変に気づいた。
それまで鮮明に見えていた蒼い海が次第に霞んでゆき、みるみる内に黒くぼやけた世界になってしまう。
「ミッディラ海ってよくガスるのかな……ん? クンクン…いや、なんだか焦げ臭いぞ? これは、霧じゃない……これは、むしろ煙……」
だが、わずかの後、鼻を突くその臭いにそれがただの霧ではないことを僕は理解する。
「なんだ? 火災に遭った船でも近くにいるのか?」
見張りの水夫さん他、上甲板に出ていた者達もその臭いを感じとったらしく、船上は俄かに騒然とし始める……と、その時。
「う、うわあっ! なんだありゃあ!?」
突然、見張りの水夫さんが悲鳴を響かせ、僕らも彼の指し示す左舷後方へ視線を向けると、そこには真っ赤に燃え盛るような眼が二つ、この妙な黒い霧…否、黒い煙の中で不気味に輝いていた。
「………………」
突如現れたその眼に魅入られたかの如く、唖然とその場に立ち尽くす僕を含めた甲板上の人々……。
そんな僕らを前に、やがてその眼は……いや、その眼の持ち主は、黒い煙の中から徐々に自らの姿を現し始める。
「ど、ど、ど、ドラゴンだあぁぁぁぁーっ!」
見張りの水夫さんがそう叫んだ通り、それは恐ろしい姿をしたドラゴンの首だった。
爛々と光る赤い眼の下には鋭い牙の生え揃った口が威嚇するかのように大きく開き、炎を吐いた残滓か? その口内からは黒い煙がゆらゆらと揺れながら溢れ出している……。
「……いや。これは本物のドラゴンじゃない……これは作りものの…」
だが、一瞬、本物かと驚いたのではあるが、よくよく見るとその首は生き物にしてはどうにも動きがない……それはまるで、木彫りのドラゴンの像に緑の絵の具を塗ったかのようだ。
どこかおかしな違和感から、僕がそのことに気づいた次の瞬間。
ドォオオオーン…! と大きな轟音とともに強い衝撃を感じ、足下の甲板がグラグラと激しく揺らいだ。
近づいて来たドラゴンが、そのまま左舷後方に体当たりしたのだ。
「うわぁっ…!」
僕らは堪らず、ある者は無様に転がり、ある者はマストや縁に掴まってなんとか踏み止まろうとする。
しかし、予期せぬ出来事はそれに止まらない……。
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