ⅩⅢ 水の都(2)

「――お兄ちゃん、見ない顔だが旅の人かい? ウェネティアーナには観光が目的で?」


 ご当地では〝ゴンドラ〟と呼ばれる、黒く細長い小舟を一本だけのオールで見事に操りながら、前方の反り返った船首近くに座る僕に船頭さんが声をかける。


「ああいえ。まあ、観光といえば観光なんですが、三日後に新天地行きの船に乗るんです。せっかくですし、それまでにちょっと街を観て廻ろうと思いまして」


 その声に僕は振り返ることなく、目の前に広がる運河の絶景になおも見入ったまま、背後の船頭さんにそう答えた。


 小舟なので低い目線は水面に近く、僕の視界いっぱいに広大な運河が広がっている……街の中心を流れるその大運河カナル・グランデの両脇には、貴族選挙で選ばれた総督の住まうドジェーレ宮殿や、巨大なドームと高い尖塔を持ったウェネティアーナの守護聖人を祀るサン・マリコ寺院、白い石造りも眩しい造幣局など瀟洒で優雅な建物が立ち並び、誰もが思わず息を飲むまさに絶景だ。


「へえ〜! 新天地に。そいつは豪勢だ。にしても、東方の国々よりもさらに遠く、遥か世界の果てまで航海するような時代が来るとはねえ……で、この小舟じゃさすがにんな遠くまでは行けねえが、今日のところはどちらへ?」


 美しい水辺の景色に見惚れていると、気風きっぷのいい中年の船頭さんがギィコ……ギィコ…と、リズミカルに一本のオールを操りながら、冗談混じりにそう重ねて尋ねてくる。


「そうですねえ……じゃ、まずはノムーラ島へ行ってもらえますか? ちょっと見てみたいです」


 僕は運河の先に浮かぶ水平線を眺めながら、その〝水の都〟と称される性格とはまた異なる、このウェネティアーナを語る上で欠かせない場所へ向かうよう依頼をした。


 ノムーラ島……それは海を隔てて本島ととなり合う、七つに分かれた小島の総称である。


 各島は橋で繋がれ、造船所アルセナーレを筆頭に、銃火器や刀剣類、金属製品やガラス、陶磁器、レース編みなどを造る工房が集められたエリアとなっている。


 生前、イサークから聞き及んでいた、そのウェネティアーナを強国に押し上げた高い工業技術力に少なからず興味があったのだ。


「ノムーラ島か。まあ、外から見ることはできるが上陸はまず無理だぜ?」


 だが、船頭さんの言葉はそんな僕の好奇心を速攻で打ち砕いてくれる。


「あの島の工房で使われてる技術はこの国の根幹だ。その国家機密が外に漏れちゃいけねえってんで、外国人はおろか俺達地元の人間だって島にはおいそれとは近づけねえ。下手に上がろうとすれば衛兵に捕まっちまわあ」


 なるほど……確かに船頭さんの言う通り、大海洋国家の首座から転落した今のウェネティアーナは、その高度な工業技術で成り立っているといっても過言ではない。


 そんな国の存亡にも関わる産業技術を外国に盗まれないよう、そりゃあ、ウェネティアーナの為政者だって厳重に管理することだろう。余所者ならなおのこと、警戒されて当然だ。


「それは残念。でもまあ、話の種に遠くから眺めるだけでもしたいですね」


「あいよ。ま、景色として見るにも見応えは充分にあらあな」


 別に僕は産業間者スパイではないし、興味があるとは言っても危険を冒して忍び込もうと思うほどのものでもない。


 僕はこの国のルールに妥協をすると、その上で改めてその目的地へ船を向けてもらった――。




「――ほおう…これがノムーラ島ですかあ……」


 運河カナル・グランデから横道…というか、横川? 狭い運河に入り、頭を打ちそうな低い石橋を幾つも潜って海に出ると、開けた視界にその島は突如、飛び込んできた。


 優美な街並みのウェネティアーナ本島とはまた異なり、一続きに連なった七つのその島のおかの上には、煙突からモクモクと灰色の煙をたなびかせる赤煉瓦造りの横に長い建物や、おそらく造船所のドックなのだろう、木製の巨大な覆屋のようなものが幾つも建ち並んでいる……まさに工房でできているような島だ。


「どおでい? この島で造られた船やガラスが世界中で使われているんだぜえ?」


 その一大工房群と化した島の周りをゆっくりゴンドラで回りながら、ギイコ、ギイコ…と小気味よく櫓を漕ぐ船頭さんがまるで自分のことのように胸を張って自慢をする。


「ええ。こうして遠目に眺めるだけでも、なんかスゴイもの造ってそうだなってのがよく伝わってきます…あ! 船が出てきましたね!」


 その気持ち、わからなくはない彼の言葉に僕も相槌を打って答えたちょうどその時、覆屋で目隠しされているドックの一つから、折りよくも一艘の船が出てきた。


 ガレオン船よりは小さく平べったい船体をしており、三本あるマストの内の前から二つは横帆スクエアセイル、残る後の一本は三角帆ラテンセイルという構成になっている。


 また、船縁に穿たれた無数の大砲狭間からは黒光りする砲身が威嚇するかの如く顔を覗かせているが、最も特徴的なのは船首に付けられたドラゴンの船首像フィギュアヘッドだ。


 精巧に彫られたその竜の像は緑色に塗られ、眼は赤々と輝いていて、まるで生きてるかのようである。


「ドラゴンの船首像フィギュアヘッド……ダンマルクで見た〝ドラッカー〟みたいだ……」


「あれは〝ジーベック〟だな。ここらの海やミッディラ海じゃ一般的な船種さ。ちょうど造りたてほやほやの船を注文客に引き渡したってところか」


 その船首を飾るドラゴンの彫像に、以前、北エウロパの国で目にしたいにしえの海賊ヴィッキンガーの船を連想する僕だったが、地元の船事情に通じた背後の船頭さんはそんな説明をする。


 近くで見てみないと断言できないが、船体は潮風に色褪せてはおらず、ここからでも真新しい新造船であることが見て取れる。


 こうして直に造りたての船がドックから出てくるところを目撃すると、ここウェネティアーナが造船の町であるということを改めて肌で感じられたような、そんな気がした。


「けど、三角帆だけじゃなく横帆も付けてるってことは、ありゃあ遠洋航海用に改造されてるな……となりゃあ、大砲も海賊への用心か……もしかしたら、あの船も新天地に行く船かも知れねえぜ?」


 まだ木材も新しい、その眩いばかりの新造船に僕が眼と心を奪われていると、船頭さんが目を凝らしながら、そう補足説明をつけ加える。


「あの船も新天地に? ……あんな船に乗って新天地への船旅かあ……」


 そんな船頭さんの言葉を耳にすると、白い三枚の帆を海風にめいっぱい膨らませながら、穏やかな海原を滑るように進んでゆくそのジーベック船へ視線を釘付けにしたまま、これから待つ未知の世界への大冒険に僕は人知れず思いを馳せた。

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