Ⅹ 宿敵の帰還

Ⅹ 宿敵の帰還

「――アハハハハ…見てくださいまし、トープス先生! わたくし、もうスキップもできますわ!」


 よく晴れた朗らかな昼下がり、青いドレスのスカートの裾をちょこんと掴んでたくし上げ、ジュリエッティ嬢が石畳の上を軽快に飛び跳ねている。


「ああ、まだ病み上がりなのであまりご無理はなさらんようにな」


 そんな見違えるようになったお嬢さまに、顔をしかめたイサークは眉を寄せて苦言を呈する。


 あれから三日、イサークと僕はヴェノッキオ城にそのまま滞在し、念のため、ジュリエッティ嬢に薬を投与するとともに経過観察をしていたが、ヴァレフォールによる治癒は完璧だったらしく、彼女はみるみる内に健康を取り戻していった。


 今では肺病だったのが嘘であるかのように、頬もピンク色に血色も良く、城の庭を優雅に散歩するまでになっている。


 もう、これならば放っておいても大丈夫だろう。


「そうですわ! 今日はお天気もいいですから、お外でお茶にしましょう! 先生とマルコもご一緒にどうかしら? ベローニャン名物のアーモンドの焼き菓子〝フレゴロッタ〟を用意させますわ!」


 それに、今では彼女が僕らを下賤の輩呼ばわりするようなこともない。


 肺病を治してくれたイサークへの感謝の念もあるのだろうが、ほんとにロメロットの言っていた通り、ヴィスケッティー家の令嬢として気を張って生きているだけで、根は案外、素直で善良な人間なのかもしれない。


「うーん…! こんな風にお外を歩けるようになるなんて。ほんとに先生や治してくれた悪魔さんには感謝ですわ」


 ロメロットの話を証明するかのように、ジュリエッティ嬢は青空に向けて大きく毛伸びをした後、イサークばかりか悪魔ヴァレフォールにまで感謝の言葉を口にしている。


 あ、ちなみにあの後、厳重に鍵のかけられた宝物庫から、ヴィスケッティー家の家宝である巨大なサファイアの指輪が紛失するという怪事件が起きたらしいが、僕らは知らぬ存ぜぬで通すことにしている。


 ヴァレフォールのやつめ、あんだけ目立つ物はやめとけとイサークが釘を刺しておいたのに……。


 まあ、ともかくも、そうしてヴァレンチーノ氏とロメロット青年に頼まれたジュリエッティ嬢の肺病治癒はつつがなく完了し、今度こそベローニャンを発とうと旅支度を始めた頃のことだった。


「――何かあったのですかな?」


 なんだか騒がしい城内の空気に、忙しなく動き回っていたヴァレンチーノ氏を捕まえてイサークが尋ねた。


 この、なんとも落ちつかない、皆がそわそわとしている空気感……エルドラニア・預言皇庁の連合軍が侵攻してきた時のアルカスティージョラ城を思い出す。


「ああ、先生。それが、思わぬ事態となりました……カラッカラー家が、このベローニャンの町に戻ってきたのです」


 ヴァレンチーノ氏は、険しい表情を浮かべて信じられないというような口調でそう答える。


「カラッカラー家が? ですが、確かかの家はこの町から追放されていたのでは……」


 そういえば、ロメロット青年がそんなようなことを口にしていた気もするが、いったい何があったのだろうか?


「ええ。しかし、皇帝・預言皇両陛下の名で恩赦が与えられたのです。新たなイスカンドリア皇帝にエルドラニア国王のカルロマグノ一世が即位したことで、帝国派と皇庁派を取り巻く情勢が大きく変わったんですよ」


 イサークの疑問に答えたヴァレンチーノ氏のその言葉で、部外者である僕らのしても凡そのところを理解うることができた。


 我が故郷、スファラーニャ王国が滅亡してより早や三年余り……その攻め滅ぼしたエラゴン・カテドラニア連合王国も女王イサベーリャ一世一人が統べるエルドラニア王国へと正式に統合され、さらに二度の代替わりを経て、今は若き王カルロマグノ一世の治世となっている。


 さらに、その預言皇庁とも親交のあるプロフェシア教国の新たな王が、先頃、崩御した先帝マグスミレニアス一世の孫でもあったことから次の神聖イスカンドリア皇帝(帝名はカロルスマグヌス五世)にも選出され、その即位が長年対立してきた帝国派と皇庁派の関係にも少なからず影響を与えるようになった。


 それまでは神聖イスカンドリア皇帝――ひいてはその帝位をほぼ世襲するハビヒツブル家と、叙任権を持つ預言皇が不仲であったが故に大きな対立を生んでいたが、そのどちらにも所縁ゆかりのあるカルロマグノの皇帝即位によって、互いに敵対する大義名分が失われてしまったのである。


 そこで抗争に敗れた皇庁派のリーダー・カラッカラー家のベローニャン帰参もかなったわけであるが、さりとて長年抱いてきた敵愾心や恨みつらみが早々消えるわけもない。


 いや、むしろ、帝国派か皇庁派かどうかなど最早、問題ではなく、今や各々貴族自身の家同士による対立へと本質が変化してしまっているのだ。


 ロメロットは「うまくいけば長年続いてきた対立に終止符が打てるがもしれない…」などと、希望的観測を口にしていたが、現実はそんなに簡単なものではないであろう……。


 現在、このベローニャンの最高権力者であるヴァレンチーノ氏にとって、宿敵カラッカラー家の返り咲きは迷惑以外のなにものでもないのである。


 また、カラッカラー家の復権により、住民の間でも今まで幅をきかせていた帝国派と、ずっと身を潜めていた皇庁派の争いが再び激化するかもしれない。


 この分だと、どうやらロメロットとジュリエッティ嬢の恋仲も、双方の家から祝福されるというわけにはいかなそうだ……。


「これを機に皇庁派が復権を狙って何を仕掛けてくるかわからん。ティボリィ、やつらの監視を怠るな。何か動きを見せたらすぐに伝えるのだ」


「ハッ! では、さっそくに……」


 予想だにしなかったこの厄介な状況に、ヴァレンチーノ氏は渋い顔で執事に命じると、なおその不安を拭いきれないというように、窓の外の市街地の景色をぼんやりと見つめた――。




「――これは、ほんとにそろそろこの町を離れた方がよさそうだのう」


「はい、父さん……なんだか嫌な予感がします。あの、スファラーニャに別れを告げた時と同じように……」


 部屋へ帰った後、僕らは暗い面持ちでそんな話を始めた。


 やはり、どうにもあの日に感じたなんとも言えない不快な感覚が既視感デジャヴュのように蘇ってくる……魂が、何か危険を感じているのかもしれない。


「うむ。支度ができ次第、明日にでも発とう……そういえば、魔導書の写本とペンタクルはもうできたのか?」


 イサークは大きく頷いた後、思い出したかのようにそう尋ねてくる。


「ああ、はい。写本は二冊ともできました。ペンタクルの方はさすがにまだ72枚全部とはいきませんが、一番使いそうなのから数枚は……」


 なぜ今訊くのかと思いながらも彼の問いに答えると、僕は自分の肩掛け鞄から二冊の本を取り出してみせる。


 それは真新しい黒い革表紙の本で、表には『ソロモン王の鍵』と『ゲーティア』という題名が金字で記されている。


 いずれも悪魔召喚魔術ではよく使われる基礎的な魔導書だ。じつはイサークからこの二冊を写しとって自分で使うものを作るよう、以前より宿題を出されていたのだ。


 また、ソロモン王の72柱の悪魔を使役するための、それぞれの印章シジルが記されたペンタクル製作も同じく課されているが、こちらはそれに付随する儀式や製作するのに相応しい日時とかいろいろ厳しい条件があるので、なかなか遅々として進んではいない。


「……うむ。ちゃんと一字一句漏らさず書写されているようだな。裏の市場マーケットでも写本は売られているが、偽物や粗悪な写しのものも多いからな。やはり自分で製作するのが一番だ」


 僕の手からその二冊を受け取ると、イサークはペラペラと頁を捲って中身を確かめ、一応、その出来ばえに合格点をくれる。


「マルコ……いや、マルク。この先も何があるかわからん。私にもしものことがあった場合は、これを頼りに生きていくのだ。魔導書の魔術の需要は高い。魔法修士になるのも手だし、それがいやならもぐり・・・の魔術師としてもやっていけるだろう」


 そして、なんとか認められて胸を撫で下ろす僕に、やけに真面目な顔になってそう告げた。


「や、やだなあ、父さん。もしものことなんかあるわけないじゃないですか」


 そのなんとも不吉な物言いに、僕は不安を誤魔化すかのようにして苦笑いを浮かべて答えるが。


「いや、スファラーニャの一件でおまえもよく存じているだろう。一寸先には何が待っているかわからんのが人生だ。用心しておくのに越したことはない……わかったな?」


「はい。父さん……」


 なおも真顔で念を押すようにしてそう付け加えるイサークに、僕も表情を改めると、小さな声で静かに頷いた。


「……ま、それはそうと、次はどこに行こうかのう?」


「ああ、そうですねえ。まだ行ったことのない所がいいですね……まあ、ミラーニャンとかフィレニックとか、まずはウィトルスリアの他の都市ですかね?」


 もちろん心構えとして大切なことではあるが、そのあまり考えたくはない話がすむとイサークはいつもの穏やかな顔に戻り、次の行き先へと話題を変える。


「そうだのう……エルドラニア国王がイスカンドリア皇帝も兼ねたことで、今後、エウロパ世界もいろいろと騒がしくなるだろう……いっそのこと、〝新天地〟へでも渡ってみるか?」


「え、新天地へ? あの、遥か海の向こうにエルドラニアが発見したという新たな大陸ですか?」


 腕を組んで考えた後、イサークはまた突拍子もないことを言い出す。


「ああ、その新天地だ。エルドラニアの植民地が多いとはいえ、アングラントやフランクルの移民も大勢渡っておる。遠く海の彼方ならば、我らの過去を気にするものもおるまいて」


 最初は突拍子もない考えだと思ったが、確かにその通りかもしれない……なんのしがらみもない世界の果ての新たな地で、新たな人生を始めるというのもいいんじゃないだろうか?


「そうですね。どんな所かも興味あるし……でも、どこからどうやったら行けるんですか?」


「うむ……新天地行きの船が一番出ておるのは、やはりエルドラニア最大の港ガウディールだが、なるべくかの国は避けたいからな。近場だとウェネティアーナやウェヌーザの港にも新天地へ向かう船はあるだろう。ツテはないが、ま、行けばなんとかなろうて」


 納得して僕が尋ね返すとイサークは地図を取り出して、僕にそれを見せながら各々の港を指差して説明する。


「新天地かあ……なんだか楽しみになってきました」


 わりと無計画ながらも胸踊るイサークの夢のある話に、僕は窓から見える広い青空を見上げ、まだ見ぬ未知の世界へと思いを馳せた。

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