Ⅸ 盗賊の悪魔(2)
「おーい! 治療はすんだ。もう入って来てもよいぞ」
彼女の回復を確かめたイサークは、バルコニーの方を振り返って待っているロメロットを呼び寄せる。
「ジュリエッティ!」
その声に、すぐさまカーテンが捲れてウェネティアーナ・ガラスの扉が開くと、転がるようにしてロメロットが室内へ飛び込んで来た。
「ジュリエッティ! 先生、ジュリエッティは…彼女の肺病はどうなったんですか!?」
駆け寄るや彼女の体にすがりつき、ひどく心配そうな顔つきでロメロットはイサークに尋ねる。
「心配はいらん。さすがはヴァレフォールだ。もうすっかり治っておる。この分なら明日にでも外に出られるだろう」
「ハァ……よかった……」
よほど心配していたのだろう、イサークのその言葉を聞くと、ピンと張り詰めていた糸が切れるようにして、彼は大きな溜息とともにその場へへたり込んでしまう。
「……う、ううん……あら、なんだか胸が軽くなったような気がしますわ……」
と、その時、すやすやと眠っていたジュリエッティ嬢も俄かにその目を覚まし、いまだ朦朧とした意識ながらも体の変化を実感している。
「ジュリエッティ! ああ、よかった……本当によかった……」
それを見たロメロットはジュリエッティ嬢を抱き起こすと、痩せこけたその体を喜びとともに強く抱きしめる。
「ロメロット? ……ああ、そうですわ。わたくしは先生に魔導書の治療を受けて……それじゃあ、わたくし治ったんですのね! ああ、ロメロット! わたくし、まだあなたと一緒に生きていけるんですのね!」
対してジュリエッティ嬢も自らの病の完治を理解すると、両の目に涙を湛えながら、愛しき恋人の体をあらん限りの力で抱きしめ返した。
「おお、ジュリエッティ。俺と結婚してくれ……」
「ああ、ロメロット。ええ、もちろんですわ……」
そのまま抱きしめ合い、愛の言葉を囁きながら盛り上がる二人。
「コホン……お取り込み中のところ申し訳ないが、ヴァレンチーノ氏にも治療の成功したことを報告せねばならんのでな。悪いがロメロット君、今夜は見つかる前に帰っていただけるかな? なあに、そう急がんとも若い君らにはこの先、充分過ぎるほどの時間がある」
そんな、最早、僕らの存在など忘れ去っているような恋人達に、咳払いをしながらイサークが口を挟む。
「あ! す、すいません。つい嬉しさに気持ちが昂ってしまいまして……」
「あらやだ、わたくしとしたことが恥ずかしいですわ……」
二人だけの世界から引き戻されたロメロットとジュリエッティ嬢は、顔を真っ赤にして若さゆえの暴走をイサークに詫びる。
「ジュリエッティ、今夜はひとまず戻るけど、俺は必ず君を迎えに来る……じつは、話すのが遅くなってしまったが、情勢の変化で俺もこのベローニャンの町に戻ってこれそうなんだ」
ひとしきり照れた後に、真剣な表情を浮かべたロメロットは、ジュリエッティ嬢に改めて自分の決意を告白する。
「えっ! 本当ですの? ロメロット」
「それだけじゃない。ひょっとすれば、長年に及ぶ皇庁派と帝国派の争いにも終止符を打ち、カラッカラー家とヴィスケッティー家の間にも融和が図れるかもしれない」
驚きに若干、
「ええっ! まさか、そんな夢のようなことが……」
「ああ。まさに夢物語だ。もちろん、そんな夢が実現しなかったとしても、俺はカラッカラー家を離れて君と結婚するつもりでいるけどね。だから、もう少し待っていてくれ……先生、本当にどうもありがとうございました。このご恩、一生忘れません」
重要なお知らせと自らの覚悟をジュリエッティ嬢に伝えた後、ロメロットはイサークの方を向き直って真摯に感謝の意を伝える。
「わたくしも心よりお礼を申しますわ。そちらの優秀な助手であるご子息にも。あのようにご無礼な態度をとったこのわたくしを、なんの文句もなく助けてくださるだなんて……」
恋人に続き、当のジュリエッティ嬢も居住いを正すと、イサークに加えてさらに僕へも頭を下げて、本心からの謝罪と御礼の言葉を述べる。
「なに、医者として当然のことをしたまでですよ」
「え、ええ。別に感謝されるほどのことはしてないっていうか……」
そんな二人に、イサークと僕は照れ隠しに手をひらひらと振って、その気恥ずかしさから逃れようとする。
……というか、やむを得なかったとはいえ、ヴァレフォールに願いをかなえる対価として、この家の物をなんでも盗んでいいと無断で約束してしまったりもしているので、御礼を言われても手放しには喜べない……気恥ずかしさ以上に罪悪感もあったりするのだ……。
「それじゃジュリエッティ、またしばしの別れだ。まだ病み上がりなんだから、あんまり無理するんじゃないぞ? ではは先生、もう少し彼女のことを頼みます」
僕らの心の内を知ってか知らずか? あまり長居もできないロメロットは再びジュリエッティ嬢に別れを告げ、颯爽とバルコニーの方へ飛び出してゆく。
「うむ。承知しているゆえ安心せい」
「ええ! 今度逢う時までにきっと完璧に治しておきますわ!」
その後姿にイサークとジュリエッティ嬢が声をかける中、バルコニーの手摺りから壁の蔦へ跳び移ると、夜の闇の中へロメロットは消えて行った……。
さて、これで終われば物語はハッピーエンド。逆境を乗り越えた二人は結ばれてめでたしめでたし……といくところなんだけど、現実の世界はそんなに優しくはなく、思った以上になんとも残酷だ。
この後、二人の運命にも、そして、僕とイサークの身の上にも、予想だにしなかった悲劇が待ち受けていたのだった。
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