Ⅸ 盗賊の悪魔
Ⅸ 盗賊の悪魔(1)
「――コホっ、コホっ……何度来ても同じですわ! …コホっ、コホっ……あなたのような下賤の者の助けなど……」
翌日の夜、再びヴェノッキオ城を訪れ、もう一度説得を試みる旨をヴァレンチーノ氏に伝えてジュリエッティ嬢の部屋へ向かった僕達であったが、やはり彼女の反応はけんもほろろだった。
「そう言われると思っておりました。ですが、今夜は我々以外にもう一人、珍しいお客を連れて来ております……おーい! 入りたまえ」
しかし、イサークはその悪態も軽く受け流すとバルコニーの方を向いて、一階で待たせてあるヴァレンチーノ氏には聞こえないよう、若干抑え気味の音量で声をかける。
「ジュリエッティ……ようやく君に会えた……」
すると、かけられたカーテンの上に昨夜同様の人影が浮かびあがり、ヴェネティアーナ・ガラスの扉が静かに開くと、複雑な面持ちのロメロット青年がその姿を現す。
「ロメロット!? ……では、やはり昨夜の人影はあなただったのですね…コホっ、コホっ……」
彼の姿を目にした瞬間、驚きの表情をそのやつれた蒼白い顔に浮かべ、昨夜感じた淡い期待をジュリエッティ嬢は確信に変える。
「ジュリエッティ、教会とは縁も所縁もないトープス先生なら、皇庁派に密告するような心配もない。だから、安心して先生の魔導書による治療を受けるんだ。君や君のお父さんのためばかりじゃない。俺のためにもだ!」
一方、突然現れたその恋人は、久方ぶりにかなった対面に感動する間もなく、早々、真剣な顔つきで本題を切り出す。
「で、ですが、もしも魔導書の違法使用が世間に漏れたら…コホっ、コホっ……やはり、ヴィスケッティー家を恥ずかしめるようなことはできませんわ…コホっ、コホっ……」
「大丈夫だ。俺と先生を信じてくれ! 君が元気になったら、俺はカラッカラー家と縁を切って、君に結婚を申し込むつもりだ。だから、頼むから先生の治療を受けてくれ!」
恋人の願いにも頑なに拒もうとするジュリエッティ嬢に、ロメロットはさらに熱く訴えかける。
「もう、帝国派も皇庁派も、家も何も関係ない。ジュリエッティ、俺と一緒に新しい人生を歩み出そう! 一緒に幸せになるんだ!」
「ロメロット……グスン…ええ、わかりましたわ……あなたのその言葉を信じますわ……」
最早、プロポーズともとれる覚悟を決めたロメロットの言葉に、頑なだったジュリエッティの心もついに解きほぐされた。
「先生、昨夜はご無礼なことを申し上げてすみませんでしたわ…コホっ、コホっ……どうか、罪深きわたくしをお許しになって…コホっ、コホっ……この病魔から、お救いくださいませんこと…コホっ、コホっ…コホっ、コホっ……わたくし、まだロメロットと生きていたいんですの!」
「うむ。患者が助けを求めているのならば、もとより拒む理由もなし……承知した。すぐに取りかかろう。マルコ、急いで儀式の準備だ。場所はこの部屋でよかろう」
「はい! 父さん」
ようやく本音を口にしたジュリエッティに微笑みを湛えて大きく頷くと、イサークは僕に指示を出し、早速、悪魔召喚の儀式をすることとなった――。
その後、すぐさま部屋の家具を片付けて床に〝ソロモン王の魔法円〟を描き、指定の位置に蝋燭と香炉を置いて火を灯すと、甘ったるい煙が充満する薄闇の中で僕らは儀式を開始した。
とぐろを巻く蛇の同心円と
ちなみにロメロットには儀式の邪魔にならないよう、またバルコニーに出てそこで終わるまで待ってもらっている。
「――とはいえ、この前、マルバスにはずいぶん無理を聞いてもらったからな。今度も力を借りるわけにはいかんだろう」
いつもの如く白いローブの左胸に金の
ソロモン王の72柱の悪魔の内、病を治す治癒能力に長けているのは序列5番・地獄の大総裁マルバスであるが、先日、白死病を終息させる際にほぼ対価なしに助力を願ったため、すぐにまた無理を言うのは
悪魔召喚において、魔術や悪魔学についての知識はもちろんのこと、じつはそれ以上に悪魔との信頼関係が重要だったりもする。
かなえる願いの対価として、魂を要求してくる悪魔の囁きを聞いてはならないのが鉄則であるが、対価を払う代わりに神の威光や魔術的紋章の力などで強引に従わせる方法がとられる一方、やはりそれだけでやっていては悪魔が素直に言うことを聞いてはくれないし、反感を買って罠に陥れようとしてくることも考えられる。
だから、ナメられないよう魔術的な力で威圧するのと同時に、ある程度、悪魔も納得するような条件で折り合いを付けることも大切なのである。
つまるところ、召喚魔術において最も必要なものは、人の世の実生活同様に相手との交渉能力なのかもしれない……。
ともかくもそんなわけで、
「うーむ……やむをえん。少々癖があるが、ここはヴァレフォールを使うとするか」
しばしの後、あまり
「さて、では始めようか……霊よ、現れよ! 偉大なる神の徳と知恵と慈愛によって、我は汝に命ずる! 汝、ソロモン王が72柱の悪魔の内、序列6番・盗賊の公爵ヴァレフォール! 」
そして、やはり胸と裾に
「相手はヴァレフォールだからな。マルコ、続けて
「はい! 父さん!」
だが、イサークは再び僕に命じると
「霊よ、我は汝を召喚する! 神の呼び名の中でも最も力あるエルの名によって! 序列6番・盗賊の公爵ヴァレフォール! ……我は汝に強く命じ、絶え間なく強制する! アドナイ、ツァバオト、エロイム…様々な神の名によって! 序列6番・盗賊の公爵ヴァレフォール!」
そうして
……ヒヒィィィーン……ケェェェーン……ンモォォォー……。
次の瞬間、淋しげな各々の
さらに怪しげな白煙の内には、浅黒い肌にライオンの毛皮を纏い、手には白い鞭を持ったライオンの頭の屈強な大男が姿を現わす……背には天使のように金色の翼が生えているが、それが僕らの召喚した悪魔、盗賊の公爵ヴァレフォールだ。
「ほう……呼び出したのはてめーか、イサーク・ルシオ・アシュタリアーノ。なんの用だ? 盗みの
一見、天使のような姿をした獅子頭の悪魔は、鋭い猛禽の眼でこちらを凝視しながら、おどけた調子でそんな戯言を口にする。
久々に聞く、旅の医師〝パラート・ケーラ・トープス〟の本名……やはり魔術師の大先達たるイサークは、この悪魔とも知遇があるらしい。
「相変わらずだのう、ヴァレフォール。悪いがそれはご遠慮しておこう。その代わり、ここに寝ているご令嬢の肺病を治してもらい。それが今回の願いだ」
「ふーん……確かに重てえ病のようだな。すでに命の火が消えかけてやがる。持ってあと一月ってとこか……ま、俺様の力を使えば治すのもわけねえが、もちろん対価を払ってもらうぜ? どうだ? てめえの魂を差し出すか? それとも、そこのガキはもしかしてそのための
「えっ…!?」
戯言を軽く受け流し、すぐさま本題へと入るイサークに、床に横たえられたジュリエッティ嬢を舐めるように見回した後、ヴァレフォールはその容態を正確に認識すると、交換条件を口に僕の方へ獰猛な眼を向ける。
子供だからそう見られるのか? ヴァレフォールは僕をイサークの弟子ではなく、悪魔への供物として用意した供犠だとでも思っているらしい……。
その猫科特有の針のような瞳でじっと見つめられ、この前のマルバスの時同様にちょっとビビってしまう……。
「言うまでもなく、魂を差し出す気は毛頭ない。だが、その代りと言ってはなんだが……このご令嬢の家は町一番の大金持ちだ。宝石でも金銀財宝でも高級美術品でも、おぬしが盗みたくなるようなものがこの家にはたくさん転がっておるぞ?」
無論、イサークが僕の魂を引き渡すわけもなかったが、かといって力技で言うことを聞かせるのでもなく、悪魔の趣味趣向を理解した上で、相手が喜ぶような代替案を提示すてみせる。
「おお! そう言われてみりゃあ、ここは貴族の城ん中じゃねえか! なんだ? んじゃあ、その姉ちゃん治す代わりになんでも盗んでっていいのか?」
「ただし一つだけだぞ? ああ後、あんましすぐに盗まれたのがわかるような物はやめとけよ? 後が面倒だ」
その対価は功を奏し、嬉々とした調子になって確認をとるヴァレフォールに、イサークは条件付きでその蛮行を了承してやる……て、持ち主のヴァレンチーノ氏の許可は取ってないけど。
「と、父さん、勝手にそんな約束しちゃっていいんですか?」
「なに、かわいい娘の命に比べれば安いもんだろう。それにこうでも言わなければ、ヴァレフォールは納得してくれんからな」
心配して僕が小声で尋ねると、イサークも声を潜めてそう答える。
盗賊の公爵の名が示す通り、悪魔ヴァレフォールには窃盗癖がある上に、召喚者にも盗みをそそのかすような根っからの盗人だ。
大金持ちの家で盗みが働けるとあれば、むしろ魂よりも対価として喜ばしいことだろう。
「よし! そいつで手打ちにしてやらあ。だが、約束だぞ? 後から盗みの邪魔すんじゃねえぞ? んじゃ、気が変わらねえ内に……ほらよ」
もう一度、念のために交換条件を確かめた悪魔はジュリエッティ嬢の胸に手を置き、なにやら力を込めるようにしてその眼を闇に赤く輝かせる。
「…はうっ! …コホっ、コホっコホっ…! ……フゥー……スー……スー……」
すると、彼女は一回、大きく激しく咳き込んだ後、それで何か悪いものでもすべて吐き出してしまったかのように、また穏やかな表情になってすやすやと静かな寝息を立て始める。
「さあ、願いはかなえたぜ? さあてと、この家なら盗むもんも選り取りみどりだ。へへへ、何を盗んでやろうかなあ……」
「あ、おい! ほんとに目立たないもんにしといてくれよおー!」
一瞬にしてジュリエッティ嬢の治療を終えると、念を押すイサークの声も耳に入らない様子で、ヴァレフォールは舌舐めずりをしながら煙のように霧散して消えてゆく……。
本来なら悪魔を送り帰す儀式もしなければならないのであるが、どうやらそれも必要ない様子で、儀式は滞りなく終わったらしい。
「……うむ。息も穏やかだし、顔にも生気が戻ってきた。これでもう大丈夫だろう」
辺りが静けさを取り戻すと、イサークは横たわるジュリエッティ嬢の前で膝を突き、蝋燭の光をかざしてその容態を確認する。
僕もイサークの背中越しに彼女を覗うと、それまでは蒼白かったその顔色が、みるみる血行良くなっていくように見えた。
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