Ⅶ 病床のご令嬢(2)

「――そ、そんなどこの馬の骨ともわからぬ輩に…コホっ、コホっ……診てもらいたくなどありませんわ…コホっ、コホっ…」


 でも、ヴァレンチーノ氏の娘、ヴィスケッティー家の令嬢ジュリエッティは、思いの外にとんでもないお嬢さまだった。


「わたくしは…コホっ、コホっ……下賤の者が近づくことも許されない…コホっ、コホっ……気高きヴィスケッティー家の人間ですのよ!」


 二階にあるその部屋へ入り、ベッドに横たわる彼女にヴァレンチーノ氏が僕らを紹介するや否や、ご令嬢は苦しそうに咳き込みながらもそんな悪態を吐いたのだ。


 ジュリエッティ嬢は、歳の頃は僕より少し上の十代後半、肺病のためにやややつれてはいるものの綺麗な色白の肌にハシバミ色の瞳、ウェイブがかった茶色い髪をした美しい少女だった。典型的なウィトルスリア美人ってやつだ。


 しかし、その性格はというと、どうやらおブスのようである……。


「でもなあジュリエッティ。確かに我らのような貴族ではないものの、トープス先生は大変腕の立つ名の知れた名医。しかも、並みの魔法修士などよりもむしろ優れた魔術の使い手でもある。きっとおまえの病も治してくださるだろう」


 即答で診察を拒否する病床の愛娘に、ヴァレンチーノ氏は太い眉毛を「ハ」の字にすると、困ったという顔でなんとか説得を試みようとする。


 にしても、これが〝貴族〟という種類の人間なのか? なんだか彼も言ってることが普通に失礼だ。しかも、もうイサークが魔導書を使っていること確信してちゃっているし……。


「い、いや、私は魔術など…」


「それこそ診てもらうわけにはいきませんわ! …コホっ、コホっ……そんな悪魔の力を借りるくらいなら…コホっ、コホっ……病など治らず、このまま死んだ方がましですわ!」


 慌ててイサークがまた誤魔化そうとするが、それよりも先にその口をジュリエッティ嬢が遮り、よりいっそう強い口調で改めて診察を断固拒否する。


「…コホっ、コホっ……かような下賤の輩がいると、お部屋の空気が穢れますわ! 早く…コホっ、コホっ……お帰りになってくださいませんこと!」


 最早、取り付く島もない。 どうやらお嬢さまは気位が高く、心底下々の者をお嫌いでいらっしゃるご様子だ。


「じゅ、ジュリエッティ……」


「ご本人がああ言っているのでは仕方ないですな。とりあえず、私の調合した肺病の薬を置いていきます。もし可能ならば飲ませてみてください」


 イサークの言う通り、拒絶している患者を無理矢理診るわけにもいかないだろう……いや、僕らにとっては断る口実ができてむしろ好都合だ。


 イサークはこれを好機とそんな断りを入れて、ていよくこの場を去ろうとする。


 だが、その時だった……。


「……ん?」


 僕は、バルコニーへと通じる扉にかけられたカーテンの上に、ぼんやりと月明かりで人影のようなものの浮かんでいるのを見たのだ。


「…………」


 どうやらイサークも気づいたらしく、じっとそちらを鋭い眼差しで凝視している。


「んん!? だ、誰だっ!?」


 すると、僕らの様子に遅れてヴァレンチーノ氏もカーテンの方に目を向け、声をあげるとともに慌てて扉へと近づいて行く……。


 そして、勢いよくカーテンを左右に開いてみたのだが、扉に嵌められた希少なガラス越しに見えるバルコニーの上に、人影の正体と思しきものは何も見当たらなかった。


「なんだ? 木の影でも映っただけか……」


 さらに扉を開け、ヴァレンチーノはバルコニーに出て辺りを見回すが、やはり不審な者などいない様子である。


 続いて僕らも外へ出てみたが、狭いバルコニーの上はもちろんのこと、眼下に広がるしんと静まり返った敷地内の庭にも、それを囲う高い煉瓦の城壁の上にも、人っ子ひとり人影を認めることはできない。


「…………?」


 ただ、イサークが向ける視線を僕もたどって見てみると、バルコニーの手摺りのすぐ脇で壁を覆っている緑の蔦の葉っぱが、少し引きちぎられたかのようになっているのがわかった。


「どうやら気のせいだったみたいですな。それでは私どもはこれで……」


 しかし、イサークはそれをヴァレンチーノ氏には告げず、惚けて再び断りを入れると踵を返して帰ろうとする。


 きっと、触らぬ神に祟りなし…ということなんだろう。


「どうも、お邪魔しました……」


 それにならって僕も見て見ぬ振りをすると、この町の支配者にペコリと頭を下げて、イサークとともにヴェノッキオ城を後にすることとした――。




 その後も城の門を出るまで、見送りについてきたヴァレンチーノ氏にうだうだと引き止められたが、イサーク謹製の薬を渡したことで今日のところはなんとか帰してもらえた。


「――それにしても、なんか感じの悪いお嬢さまでしたね。気位が高いというかなんというか……」


 宿に戻り、いつもの如く下の酒場で夕食をとりながら、僕はイサークにジュリエッティ嬢の態度への不満をボヤく。


「ま、そのおかげで断るよい口実ができたがな……しかし、見たところ、かなり重い肺病のようだった。あのままでは長くは持つまい。確かに魔導書の力に頼った方がよい容態ではあるな……」


 対してイサークは一方でこの成り行きを歓迎してはいるものの、また一方ではやはり医者としての矜持から、あの嫌味なご令嬢ですらその病状を心配してやっている。


「あんな性悪お嬢さまなんか治してやる必要ねえですぜ! あ、これよかったらどうぞ」


 とそこへ、これまたいつものように差し入れの名物料理を持って宿のご主人がやって来て、僕らの会話に割って入る。


「そうですぜ! 大きな声じゃ言えねえが、あのヴィスケッティー家のお嬢さまの評判は最低最悪だ」


「その通りでさあ。街に出た時も俺達を汚い物を見るような目で見下してやがる。あの貴族のお嬢さまは俺ら庶民のことなんざ虫ケラ以下にしか思ってねえんだ。肺病になったのは神さまのバチが当たったんですよ」


 いや、ご主人ばかりではない。つられて周囲で飲んでいた店の客達も、大きな声じゃ言えないとかいいつつ、けっこうな大声で次々とジュリエッティ嬢への悪態を口にしている。


「確かに。僕らにもそんな感じだったからなあ……」


 ご主人やお客達の話に、僕は先程の彼女の姿を思い出し、その合致するイメージにいたく納得してうんうんと頷いた。


「てなわけで、いくらヴィスケッティー家の依頼だろうと、そんなの聞くこたねえですぜ。 本人に断られたんならむしろよかったってもんでさあ」


 ご主人は僕らの机の上にベローニャン名物〝ロバ肉の太麺パスタ〟を配膳しながら、重ねてイサークにそんな進言をしてみせる。


「うーむ……ま、いずれにしろ、権力者に関わるといろいろ・・・・面倒そうだからな。マルコ、厄介事に巻き込まれる前にそろそろこの地を発つことにしよう」


「はい。父さん」


 お嬢さまの性格や評判はともかくとして、僕らの出自や魔導書の件もあるし、王侯貴族などの権力者と関係を持つのはやはり好ましくない。


 ご主人の言葉に腕を組んで唸った後、そう言ってこの町を後にする決断を下すイサークに、僕も同じ懸念を抱いて大きく静かに頷いた。

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