Ⅲ 戦場の逃避行(2)

 敵は自慢の大艦隊で海上封鎖をしており、海路で国外へ脱出することは絶望的に難しい……。


 となればもう陸路しかないが、ミッディラ海以外の三方はすべてエルドラニアと隣接しているため、こちらもそんな容易なことではない。


 しかし、多少の方言はあるものの、僕らスファラニア人とエルドラニア人の話す言葉はほぼ同じだったし、民族的にも大きな差異はないので、エルドラニア人と偽ってまずは敵国領内へ紛れ込み、そこからさらに他国へ逃れようという計画である。


 無論、こんな戦時下だし、そうでなくとも国境には普段から関所が設けられていたが、イサークはフォラスの効力に絶対の自信を持っていたため、特に警戒することも尻込みすることもなく、極めて自然体で堂々と越境を試みようとした。


「――いやあ、どうもご苦労さまです」


 キャバセット(※帽子のような兜)と胸甲だけという今風の軽装備をした兵士達がハルバード(※槍・鎌・斧が一つになった長柄武器)を手に警備を固める中、イサークは被ったフードの下で愛想の良い笑みを浮かべ、兵達にペコペコと頭を下げながら、さもいつものことというように僕を連れて関所の門を通り抜けようとする。


「ああ、おつかれ……」


 すると、やはり悪魔の力が働いているのか? 身分の低いヒラ兵士達はまるで気にも留めず、僕らをすんなり素通りさせてくれそうになったのだが。


「……ん? ちょっと待て! そこの者、何奴だ! どこへ行く!?」


 さすがにこれは無理があったらしく、彼らの上官らしき、騎士階級と思われる男に僕らは呼び止められた。


 銀色のキュイレッサーアーマー(※胴体と肩だけを覆う当世風の鎧)を着つけた黒髪・褐色の肌の、いかにもなエルドラニア人である。なかなか鋭そうだし、もしかしたら、そうした悪魔の幻惑を見抜く、霊的な才をもともと持った人物なのかもしれない。


「ああ、はい。私は旅の医者でパラート・ケーラ・トープスと申します。こちらは息子のマルです」


 見咎められたイサークは大柄の体を屈めて小さく見せながら、すっ惚けた様子でそんな偽名をその騎士に答える。こんな時用に前々から考えていた設定だ。


 ちなみに僕の名前〝マルク〟の方はごくごくありふれたものだが、母の出身地である北方系の発音なので、よりエルドラニア人にポピュラーな〝マルコ〟という呼び方に変えた。


「進歩的なスファラーニャの医術を勉強がてら、良い仕事にありつけないものかとこちらへ参っていたのですが、まさかこのような戦が始まるとは……無論、戦となれば怪我人が付き物。むしろ医者の仕事は増えるというものですが、さりとて命あってのものだねですからな。ここ早々に退散しようかと……」


 続けてイサークはゲンキンな藪医者のフリを演じつつ、そんな嘘の説明を続ける。


「ほう、旅の医者のう……子供か……スファラニア王の末の子はいくつになるんだったか……」


 対して関守の騎士はどうやら仕事のできる人物だったらしく、けしてイサークのホラを鵜呑みにはせず、鋭い瞳をこちらへ向けると、じっくり僕のことを頭から爪先までまじまじと観察する。


 その間、僕は蛇に睨まれた蛙のように、指先ひとつピクリとも動かさずに体を硬くしていたことを憶えている。


「……ん? それは〝神の眼差し〟……」


 だが、僕の胸にかかる黒ずんだ〝神の眼差し〟のロザリオに眼を留めると、俄かにその表情を一変させる。


「そなたら、その〝神の眼差し〟は常にそうしてかけておるのか?」


「……え? ええ。もちろんです。こう見みえて信仰心だけは篤い方でしてな。常に神を身近に感じられるよう、息子にも身に着けさせているのです」


 さらにイサークのロザリオにも目を向ける関守に、またもすっ惚けたイサークは敬虔なプロフェシア教徒のフリをしてそう付け加える。


「スファラーニャ王家の人間がそれほど信心篤いはずもないか……いや、素晴らしい心がけだ。この先は我らの領内ゆえ安全とは思うが、道中、気をつけて行くがよい」


「はい。ありがとうございます。それでは失礼します……」


 イサークの目論見通り、プロフェシア教の象徴シンボルである〝神の眼差し〟は、エルドラニア人に対して効果覿面てきめんだった。


 スファラーニャと違い、女王のイサベーリャ一世と夫のフェルナンドロン二世からして、エルドラニア人には敬虔なプロフェシア教徒が多い。信心深い所を見せるだけで、その心象は天と地ほども差があるのだ。


「いや、待て。念のため、その荷物も改めさせてもらおう。ずいぶんと大荷物だが、医者の道具か何かか?」


 しかし、安心して立ち去ろうとするイサークを呼び止めると、関守は背負い鞄の中身を見せるように言ってきた。気配を消した僕らに気づいただけあって、なかなかに要人深い人物だ。


 これには、イサークはもちろん、僕にも緊張が走る……。


 鞄の中には錬成所ラボラトリウムの本棚にあった魔導書の類も入っているはずだ。魔導書は自由な所持・利用の認められていない、持っているだけで罪に問われる邪なる禁書。見つかれば、せっかくここまで騙せていたというのに疑われることは間違いない。


「は、はい……どうぞ……」


「……ん、これは!?」


 鞄を下ろし、おそるおそるイサークが口を開けると、中を覗き込んだ関守は目を見開いて声を上げる。


 僕は、てっきり魔導書が見つかったものと思ったのだが……。


「これはまさしく『聖典ビーブル』! かようなものまで持ち歩いているとはまさにプロフェシア教徒の鏡だ!」


 彼が目にしたものは、〝はじまりの預言者〟イェホシア・ガリールの生涯とその教えの書かれたプロフェシア教の根本経典『聖典ビーブル』だった。古い茶の革表紙に金箔で押された〝神の眼差し〟が掠れているものだ。


 根本経典とはいえ高価なため、聖職者でもない限り自前の『聖典ビーブル』を持っている庶民は少ない。それゆえに、自身も信仰心篤い関守は少なからず感動を覚えたのである。


 こうなることも想定して、イサークは鞄の一番上に、魔導書を隠すようにして『聖典ビーブル』を置いておいたのだ。


「いや、足を止めてすまなかった。もう行ってよいぞ」


「はい。お役目ご苦労さまです。早いこと戦が終わり、この地にも神の名のもとに平穏の訪れることを祈っております」


 ようやく完全に無罪放免となり、むしろ詫びまで口にして見送る関守の騎士に、イサークは重い鞄を背負いながら、ダメ押しとばかりにそんな台詞まで付け加えて頭を下げる。


「……あ、待ってイサ…父さん!」


 そして、腰を低くしたまま関所の門を潜り抜けて行くイサークの後を追い、僕も彼を真似てぺこりと頭を下げると、慌てて敵国の領内へと駆け込んだ。


 こうして僕はイサークとともに、二度とは戻れない祖国の地に…だが、生まれ育った故郷を離れるにはひどく呆気なく、その自覚もないままに別れを告げたのだった。

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