Ⅱ 変装の儀式

Ⅱ 変装の儀式

 父母との別れを済ませた後、僕は自室で侍女達によってシルクの普段着から平民の子が着ているような…それも、貧しい子のような薄汚れたベージュのシュミーズ(※シャツ)と黒いオー・ド・ショース(※膨らんだ半ズボン)に着替えさせられ、下ろしていた絹糸のような髪も後で一つに束ねられた。


 そして、さらに砂埃まみれの黒いフード付きマントを上から羽織らされると、イサークの錬成所ラボラトリウムへと連れて行かれる。


「……ん? おお! 見違えましたぞ。なかなかお似合いですな」


 小屋へ入ると、見知らぬ老人が何やら荷造りをしていて、こちらに気がつくと感心したように声をあげる……と思いきや、それは僕同様、すっかり着替えをすませたイサークだった。


 いつも着ているので白いローブのイメージがあるが、今は焦げ茶のフード付きローブを纏い、やはり茶のくたびれたウィッチ・ハットを被っている。パッと見、やはり僕と同じ旅人っぽい格好だ。


 また、しゃがんだ足元には大きな背負い鞄があり、どうやらその中に魔導書や錬金術関連の書籍を詰め込めるだけ詰める作業をしていたらしい。


「殿下、これから私達は身分を偽り、この国を脱出します。この先、私と殿下は師と弟子の王子ではなく、旅の医者とその息子です。おそれながら、私は殿下のことを呼び捨てにしますので、殿下も私のことを〝父さん〟とお呼びください」


 鞄に本を詰め終えるとイサークは僕の前に跪き、そうこれからの計画について告げる。


「イサークが僕の父上!? なんかおもしろそう!」


 その企てに、いまだ深刻さを充分理解していなかった僕は場違いにも眼を輝かせてしまう。


父上・・ではなく父さん・・・です。言葉遣い一つでバレかねませんからな。町場のこどものような話し方を常に心がけてください……では、偽りの親子となる最後の仕上げと参りましょう」


 そんな僕の心の動きには構うことなく、表面上の行いに対してのみ、さらなる忠告を与えると、イサークはおもむろに立ち上がり、錬成所ラボラトリウムの奥まった部屋へと僕を誘った。


 錬成所ラボラトリウムの最奥の部屋……そこは、明かり取りの窓もない、昼なお暗いひんやりとした狭い空間だ。


 その床は冷たい石畳でできていて、白墨で〝魔法円〟を描いたり消したり自在にできるようにしてある。


 そこで僕も魔法円の描き方を学んでいたんだが、その時は室内に入ると、いわゆる〝ソロモン王の魔法円〟と呼ばれる極めてポピュラーなものがすでに描かれていた。


 とぐろを巻く蛇の同心円と五芒星ペンタグラム六芒星ヘキサグラムを組み合わせた複雑な図形が赤や黄、青、緑といったカラフルな色使いで描かれ、さらにその前方を見れば深緑の円を内包する三角形が記されたものだ。


 また、指定の位置に置かれた蝋燭にもすでに火が灯してあり、香炉からは甘ったるい馴染みの香りのする煙がゆらゆらと揺れながら立ち上っている。


「清めもすでに済んでおります。時間がありません。さっそく儀式を始めましょう」


 その薄暗い蝋燭の炎だけに照らし出された小部屋の中、左胸に金の五芒星ペンタグラム、右裾には仔牛の革製の六芒星ヘキサグラム円盤を着けたイサークは、僕を伴って魔法円の中央に立つと懐から魔法杖ワンドと銀製の〝ペンタクル(※円形の魔術武器)〟を取り出し、早々に悪魔召喚の呪文を唱え始めた。


「――霊よ、現れよ! 偉大なる神の徳と知恵と慈愛によって、我は汝に命ずる! 汝、ソロモン王の72柱の悪魔序列31番、探索者の総統フォラス!」


 魔法杖ワンドと悪魔の印章シジルが記された〝ペンタクル〟を天に掲げ、イサークは〝通常の呪〟と呼ばれるものを声高らかに繰り返し唱える。


「――霊よ、現れよ! 偉大なる神の徳と知恵と慈愛によって、我は汝に命ずる! 汝…ん? 来たか……」


 するとほどなくして、床の前方に描かれた三角形の上にゆらゆらと煙が立ち上り始め、その中からまるで

幽霊が浮かび上がるかのようにして、長い髭を持つ白髪の老人が姿を現した。


 一見、その姿はイサークにとてもよく似ているが、それが人間でないことは白い長衣を着た体が半透明に透けていることで容易に知れる……その昔、伝説のダーマ人の王ソロモンが使役していたという72柱の悪魔の一人、〝探索者の総統フォラス〟でる。


「久しぶりだな、我が友イサークよ。それに、幼き弟子のマルクも一緒か……となれば、今日呼び出した目的は、やはり鉱石や薬草についての講義を所望か?」


「よく来てくれた我が友よ。いや、今日頼みたいのはいつもの講義ではない。じつは今、それどころではない状況になっていての……」


 だが、悪魔とも思えない親しげな様子で口を開くフォラスに対し、イサークの方も妙に馴れ馴れしく、まるで旧友と語らい合うかのように言葉を返す。


 〝探索者の総統〟という異名が表す通り、フォラスは悪魔の中でも博識で知られ、特に鉱物や薬草の効能、また修辞学や論理学に詳しく、呼び出した者に対してはそれらの知識を懇切丁寧に教えてくれる人の良い悪魔だ。


 そのため、学問の道を志すイサークは幾度となく召喚して教えを請うていたし、時折、僕の勉強目的でも呼び出しては講義をしてもらったりもしていたので、二人は実際に旧知の仲なのである。


 しかし、この時、フォラスを召喚したのはもちろんそんな悠長に勉強をするためではない。


「この国は戦に敗れた……私はこれから殿下を連れて敵陣を突破せねばならぬ。そこで、そなたの力で我ら二人の姿を消し、見つかりにくいようにしてほしいのだ」


 問われたイサークは、単刀直入に召喚した目的を旧知の悪魔に告げる。


 このフォラス、惜しみなく知識を与えてくれる一方、人を不可視にする力も持つとされており、これから行う逃避行にイサークはその能力を当てにしたのである。


 そういえば、他にもフォラスには「自分を徹底して崇拝する者を長寿にする」という話があり、もしかしてイサークが若々しいのも、あるいはこの悪魔の御利益なのかもしれない……。


「そのような次第じゃったか。よかろう。承知した……じゃが、知っての通り〝姿を消す〟とはいっても現実に・・・に消えるわけではない。実際には気配がなくなり、その存在が限りなく見えにくくなる・・・・・・・だけじゃ。当然、派手な行動をとれば気づかれるし、勘の鋭い者や対抗魔術を使う者に効力は薄い。そなたには要らぬ忠告じゃろうが、そのこと、ゆめゆめ忘れるではないぞ?」


 普通、悪魔はその願いをかなえる代償として術者に対価を求める……だが、長い年月をかけて信頼関係を築いてきたイサークに、悪魔フォラスはなんの要求をすることもなく、即答でその頼みを聞いてくれると老婆心ながらの注意まで添えてくれる。


 魔導書による召喚魔術には、知識や技術が必要なのはもちろんのこと、こうした悪魔との信頼関係や交渉術が意外と重要だったりするのである。いや、そちらの方がむしろ大切だと言っても過言ではない。


「うむ。言わずもがなだ。それだけでも敵の目を欺くのには充分の効力。大いに助かる。心よりの礼を申すぞ」


「なに。そなたとわしの仲じゃ。本当ならその魂をもらい受けたいとおろじゃがの。では、道中、陰ながら無事を祈っておるぞ……あ、無事じゃなかった時はせっかくなんで魂をいただこうかの? フォフォフォフォフォ…」


 拍子抜けするほどすんなりと、願いを聞き入れてくれた悪魔にイサークが頭を下げると、フォラスはそんな悪魔的ジョークを交えながら、高笑いを響かせて煙のように霧散して消える。


 特に何か変わったという実感はないのだが、これで僕ら二人の気配はなくなり、通常の人間には目につきにくくなっているはずだ。確かに逃走をする上で、これ以上役に立つ悪魔の力もないであろう。


「打つ手はすべて打った。あとは運に任せるしかないの……では、すぐに出立しますぞ…あ、そうそう。これを忘れておりました。エルドラニア人にはこれが物を言います・・・・・・。まさに〝神のご加護〟と言ったところですな」


 儀式を終え、フォラスの力で気配を消す魔術をかけ終わると、イサークは思い出したようにそう言って、プロフェシア教の象徴シンボル、神の一つ眼から放射状に光が降り注ぐ様を表した〝神の眼差し〟のロザリオを僕の首に下げさせた。


 ずいぶんとみすぼらしく黒ずんだ、下町の露天で売っていそうな古い銅製の安物だ。


 スファラーニャはプロフェシア教を国教とはしていなかったが、主流であるエウロパ人の…特に王侯の常として、父も母も敬虔ではないものの一応、プロフェシア教徒だった。


 当然、僕もそうだったので、〝神の眼差し〟を着けること自体に抵抗はなかったけれど、この安物のロザリオには子供心に一つ不満があった。


「これ、黒くて綺麗じゃないよ? 僕、もっとキラキラした金とか銀のやつがいいな」


 自身も同様のものを首から下げるイサークに、そこはやはり世間知らずな王族のボンボンなだけあって、光ってるものの方が普通だと思っていた僕はそんなワガママをいう。


「殿下、庶民はそのように金銀でできたものを持ってなどおりません。そんな金ピカなものを下げていれば、一目で王侯貴族だとバレてしまいますぞ?」


 だが、イサークは白い眉毛を「ハ」の字にすると、物知らずな僕をそう言ってたしなめた。


「さ、準備は万端整いました。では、殿下、参りましょう……いや、参るぞ、マルク」


「はーい、先生……」


「先生ではなく、父さん・・・です。間違えないようご注意を……じゃなかった、注意するのだぞ、マルク」


「はーい、父さん……」


 そして、安物のロザリオを少々不満げな様子で弄る僕を連れて、そんな慣れない言葉遣いでお互い会話を交わしながら、イサークは二度と戻ることのない自身の錬成所ラボラトリウムを急ぎ足で後にした。

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