Ⅰ 亡国の王子(2)

 かつて、神が人類を楽園より追放したのと同じように、その終焉の時は抗いがたい強大な力によって突然にやってきた。


 それは、イサークの指導を通し、スファラーニャの高度に洗練された魔術や錬金術の知識に直に触れながら、相変わらずのびのびと学問に打ち込む日々を送っていた6歳の年のことだ。


「――先生? どうしたの?」


 これまで見せたことのないような険しい表情で錬成所ラボラトリウムに現れた彼に、幼い僕は怪訝に小首を傾げながら無邪気にそう尋ねた。


「殿下、大変なことになりました。預言皇庁とエルドラニアがこの国に攻めてまいりました」


 すると、やはりいつもと違う厳しい声色で、イサークは真っ直ぐ僕の顔を見つめてそう答えた。


 彼のいうように、突如、プロフェシア教会の総本山である預言皇庁と、そのプロフェシア教の守護者を謳う隣国エルドラニアが手を組んで侵攻してきたのである。


 預言皇庁とは、開祖である〝はじまりの預言者〟――イェホシア・ガリールの意志を引き継ぎ、この世で唯一、「神の言葉を預かれる」とされている預言皇を頂点に置く聖世界の最高権威である。


 古くは〝神の眼差し軍〟を組織してアスラーマ帝国領内にある聖地〝ヒエロ・シャローム〟を奪還しようとしたような者達だ。きっと、エウロパ世界でも頑なにプロフェシア教国にはならず、敵視するアスラーマ教徒やダーマ教徒にも寛容なこの国が気に入らなかったのだろう。


 また、当時のエルドラニアは連合王国という体制をとっていたが、カテドラーニャ王国女王イサベーリャ一世と、その夫で共同統治者でもあるエルゴン王フェルナンドロン二世はプロフェシア教を篤く信仰しており、預言皇庁同様の宗教的理由がやはりあったし、加えてかの国は領土拡大という俗的な野心も抱いていた。


 そうして利害が一致した両者は異教討伐の聖戦という大義名分の名もと、有無を言わさず僕の国へ攻め込んできたというわけだ。


「敵は予想を上回る大軍。国の存亡をかけた大戦となりましょう……戦では表での戦闘ばかりでなく、裏では魔術戦も激しく繰り広げられております。当然、相手方は〝魔法修士〟を投入してくるでしょうから、私も後方支援のために行かねばなりますまい」


 まだ、戦と魔術の関係についてよくわかっていなかった僕に、イサークはこの機会にと、そう教えてくれる。


 魔法修士――それは、魔導書の魔術を専門に研究するプロフェシア教の修道士である。


 表向き、プロフェシア教会は魔導書を「邪悪で危険な書物」として禁書にする一方、この魔法修士の他、教会や各国王権が認める者にのみ、その使用を公然と許していた……そうやって、魔導書の持つ絶大な力を独占することで、自らの権威・権力を安定的に維持する施策としていたのである。


 また、その一方、直接的な攻撃はできないまでも、魔導書で呼び出した悪魔を使役すれば、兵器を強化したり、城塞を堅固にしたり、天候や兵の士気を自在に操ることだって簡単にできる。優れた魔術師ならば、運命を操ることで要人の暗殺だって可能だ。


 そこで、魔法修士やイサークのように国に仕える魔術師達は、戦の度に引っ張り出されるのが世の常となっているのである。


「イサーク先生も戦に行くの!? 先生は世界一の魔術師だから、きっと敵なんて一発でやっつけちゃえるね! 悪いやつらをコテンパンにしちゃってよ!」


 幼く、まだ戦のなんたるかも知らなかった僕は、尊敬している彼が自分の国のために戦うと知って、無邪気にも誇らしく思うと興奮気味にそんな言葉を返した。


「ハハハ、そう簡単にいけばよいのですがね……では、そんなわけで私はしばらくお暇いたしますけれど、その間、お利口で待っていてください。お勉強も忘れないように…あ、でも、悪魔の召喚は危険なので、まだお一人でしてはいけませぬぞ?」


 そんな僕に、イサークは苦笑いを浮かべながらそう忠告すると、ほんとにその言葉通り、しばらく僕の前から姿を消した。


 その間、父王や年の離れた兄達は戦場に赴き、母もそれどころではなかったので、僕は侍女達に付き添われ、城内に籠ってひっそりと暮らしていた。


 時折、砲撃の音が遠くから聞こえてくるくらいのもので、赤い石造りの分厚い城壁の内側までは戦の壮絶さが伝わってくることはなかったが、慌ただしく行き交う甲冑を着けた兵士や険しい顔つきの文官、いつも不安げな様子の女官達が醸し出す空気からは、やはり今が尋常な状況でないことがこども心にも理解できた。


 無論、城の外へ遊びに行くことなどできなかったし、いわば軟禁状態のような感じだ。城内だってあまり自由には移動できず、遊び場といえば、やはりイサークの錬成所ラボラトリウムだけだった。


 あそこには魔導書をはじめとする本もいっぱいあるし、こどもが興味を覚えるような珍しい品々に満たされている……でも、やっぱりイサークがいなくては、僕ひとりで遊んでいてもなんかつまらない……。


「先生、まだ帰ってこないのかなあ……」


 その内、またあの日常が帰ってくるものと信じて疑わず、薬品の臭いが沁み込んだ物置のような小屋の中、僕はイサークの帰りをまだかまだかと毎日のように待ちぼうけていた。


 そうして、戦への恐怖や緊張感なんかよりも、ひどく退屈さを感じながら一週間あまりが過ぎた頃のこと。


「――殿下、お久しゅうございます。お元気にしておられましたか?」


 なんだか少々やつれたような感じのするイサークが、薄汚れた白いローブの上に胴だけを覆う銀色のハーフアーマーを着けた姿で帰って来た。


「おかえりなさい、先生! もう敵はやっつけたの? ……なんか、疲れてるみたいだけどだいじょうぶ?」


「いやあ、なかなかそう上手くはいきませんでした。確かに少々疲れましたな……でも、休んでいる暇はございません。父君と母君がお待ちです。さあ、参りましょう」


 無垢なこどもの残酷さにも能天気にそう尋ねる僕に対し、安心させようとでもしたのか? イサークは自虐的な苦笑を浮かべながら、そう言って僕を玉座の間へと誘った――。

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