譜面を跳ねろ、歌いだせ、とナマコは言った

 彼女が店に来たのは4月の初め、咲き誇った桜が散り始める頃だった。

 友達に連れられて何となく来た。という風の彼女は、そのくらいの年の子相応の、思春期の気怠さを湛えていた。

 わたしは自家製ジンジャーエールを出しながら、彼女の手がピアノを弾く人間のそれである事を見抜いた。亡き妻たっての希望で置かれた、逸品のピアノを弾きに来ていた人と同じ手―五指が長く、甲に筋がくっきりと浮き出した手-をしていたからだ。

 しかし彼女は言うのだ。もうピアノなんかウンザリだ、と。

「音楽はキライじゃないっすけど……親に言われてやってただけなんで」

 そういいながら、彼女の目が時折、店の隅に置かれたピアノに注がれているのを私は知っていた。


「マスター、あれ、楽譜?」

 彼女のピンクに彩られた指先は、壁の額を指している。

 たしかサティの「干からびた胎児」のどれかだ。楽譜内に書いてある指示が面白い、と言ったら、例のピアノを弾きに来る人が譜面を置いていったのである。

「みりゃわかるだろ。どんな曲なのかは知らんが」

「知らないのに飾ってんの?」

 少女は可笑しそうに言った。いつもの気怠く殺伐とした表情ががらりと崩れて年相応の幼さがのぞく。ほころんだ口元の八重歯がかわいらしい。

「お客が勝手に置いてったんだよ。弾いてみるか?」

 私は額を下ろした。額の上にはだいぶ埃がたまって白くなっている。軽くはたき落とし、少女に手渡すと、しばし譜面を眺め首をかしげた。

「サティ……?聞いたことはあるけど弾いたことはないな…」

 ぶつぶつ呟きながら、彼女はピアノに向かった。ピアノ弾きの常連の足が途絶えてから、ずっと開けられる事のなかったピアノの蓋が開かれる。わたしは何気ない風を装いながら、黄色く変色してしまったキーに、少女のしなやかでありつつ強靭そうな指が伸べられるのをじっと見ていた。


 おずおずとそれは鳴った。

 しだいに輪郭がはっきりし、遠く海鳴りを伴いながら、ぴちゃぴちゃと磯だまりを跳ねる水音のような、軽やかで楽しげで尖った響きが店内を満たした。わたしは久しぶりに聞くその音楽に笑みを堪えることができなかった。

 そして、わたしと同じ笑みを少女も浮かべていた。


お題「ト音記号フルスクラッチ」

https://twitter.com/hacca0505/status/1368507530935037954?s=20

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地点0 北山双 @nunu_k

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