第36話

 五日後、東京、新宿。

 菜々美は店員に案内されて、居酒屋のテーブルに腰を下ろした。

 すぐに注文を入力する端末を手に店員が近づいてきた。突き出しを菜々美の前に置く。

「あ、もうすぐ相手が来るので。それから注文します」

 いつもなら先に生ビールを注文しているところだけれど、今日ばかりは遠慮した。

 慧吾が生きていて、しかも蛭川を殺害した容疑で逮捕された。河合刑事によれば、まだ慧吾は容疑を認めていないらしい。けれども警察は犯人に間違いがないと考えているようだ。

 陽介に謝っておかねば、と思った。陽介が慧吾を殺した、といったのは蛭川だった。あれも慧吾の海外逃亡を目くらましするための作戦だった。

 陽介はきっと怒っているはずだ。電話では普段と変わらない様子だった。でも殺人鬼と疑われて怒らない人間なんていないと思う。とにかく今日は陽介からどれほど罵られても謝るしかない、と心に決めていた。

 陽介の姿が入口に見えた。店の中に目を巡らせている。

 菜々美は手を挙げた。陽介が気付いて笑みを見せる。

「すいません、待っちゃいました?」

 小走りで席に近づいてきて、椅子に座った。

「ううん、私もさっき来たばっかりだから」

「あれ、まだ何も頼んでないんですか」

 陽介が手を挙げ、店員を呼んだ。

「生ビールでいいですよね」

「当然」

 菜々美は笑みを作って頷いた。陽介は普段の陽介のままだった。怒っている様子もないし、この前、部屋で見せた別人のような姿の気配もない。

 陽介が生ビールを二つ頼み、つまみを適当に頼んだ。とたんに座り心地が悪そうに、身体をもぞもぞとさせ始める。

「何、トイレ?」

「ああ、いや…………」

 陽介が椅子に座りなおし、背筋を伸ばした。真剣な表情になってテーブルに両手をつく。そのまま頭を下げた。

「菜々美さん、いろいろとすいませんでした」

「えっ、えっ…………」

 菜々美は椅子から腰を浮かした。「いやだ、何いってるの。それをいわなきゃいけないのは私のほうじゃない」頭を下げたまま動かない陽介に、右手を伸ばした。「ねえ陽介君、やめてよ。絶対おかしいよ、陽介君が謝るの、絶対におかしい」

 陽介が姿勢を変えずに顔だけを上げた。

「じゃあ、許してくれます?」

「許す、許す。許すから早くやめて」

「よかった」にやりと笑い、陽介が姿勢を戻した。「これですっきりした」

 ちょうどいいタイミングで生ビールが運ばれてきた。菜々美と陽介はほとんど同時にジョッキに手を伸ばした。

「じゃあ、仲直りに乾杯ということで」陽介がジョッキを前に差し出す。

「乾杯」

 菜々美もジョッキを持ち上げながらいった。ひとくち口をつけ、首を伸ばしてジョッキを傾けている陽介を見た。

 何となく陽介の雰囲気が変わった、と思った。男として逞しくなったように見えた。今までも陽介と呑んだことはあったけれど、注文といい会話といい、全部菜々美がリードするような感じだった。ところが今日の陽介は違った。

 陽介がジョッキを戻し、菜々美の視線に気が付いた。慌てて菜々美は視線をそらず。

「あれ? 菜々美さん、全然呑んでないじゃないですか」

「まだ夜は長いんだから、そう急かさないでよ」

 そう答えて、ジョッキを傾けた。何となく謝りそびれてしまったけれど、これはこれでいいかと思い直した。

 それからすこしのあいだ、有名人のインスタの話や音楽の話などとりとめもないことを話した。

 陽介が空になったジョッキをテーブルに置き、おかわりを頼んだ。

「あ、私も追加ね」

 そういって菜々美もジョッキをつかみ、残りを呑みほした。

「そういえば菜々美さん、河合刑事から聞きました?」

 陽介がつまみのポテトサラダに箸を伸ばしながら、訊いた。

「何を」

「霧郎のことですよ、奴が根っからの殺人鬼だったって話です」

「え、何それ。何も聞いてないけど」

「そうなんですか。あの刑事さん、何で話さなかったんだろ」

「どういう話なの」

「それがですね――」

 陽介が河合刑事から聞いたという霧郎の過去をしゃべり始めた。

 菜々美はその話を聞きながら、顔じゅうに驚きの表情を滲ませた。瞬きもせずに陽介の顔を見詰める。

「ちょっと、待って」

 菜々美は掌を陽介の顔の前に突き出した。陽介の話は、前に別の人から聞いた内容と同じだった。「その話、聞いたことある」

「えっ、そうなんですか」

 陽介が頭に手を当て、上体を引いた。「なーんだ、そうか。やっぱり河合さん――」

「違うの。その話を聞いたのは河合刑事じゃないわ」

 陽介の言葉に被せていった。「蛭川さんよ、ほら、亡くなった」

「どういうことですか」

 陽介が上体をもどし、眉を寄せた。

 いつの間にか、テーブルに新しいジョッキが置かれていた。泡がすっかり消えてしまっている。菜々美はジョッキを持ち上げ、ひと口つけた。

「言葉どおりよ。まったく同じ話を蛭川さんから聞いたの。ただし、殺人鬼は霧郎じゃなくって――」陽介を指差した。「陽介君、君だっていっていたわ」

 はあ、と陽介が口を歪めた。両方の眉尻が下がる。

「何ですか、それ。何で僕がそういうことになっちゃうんですか」そういって、何かに納得したようにひとり頷いた。「ああ、なるほど」

「何、なに? 何がなるほどなの」

 菜々美の問いに、陽介がにやにやしながら箸を手にした。答えるのを勿体ぶっているように、だし巻きたまごを箸で割って口に放りこむ。

「ねえ、何なのよ」

「たぶん、それも詐欺師の手なんですよ。菜々美さんから僕を遠ざけるための」なぜだか嬉しそうに答えた。

「どうしてそんなことをする必要があるの」

「できるだけ関係者同士の接触を防ぐためでしょうね。あまり頻繁にコミュニケーションを取られると、どこでどうボロが出るかわからないから」

「そんなことまで考えて…………」

 菜々美は呆れかえった表情を隠さなかった。

「要はお金なんですよ」

 陽介が笑いながらジョッキを傾け、テーブルに戻した。「結局、霧郎が蛭川を殺したのも、お金の配分を巡っての仲間割れが原因だって聞きましたよ。奴ら、お金のためなら何だってやるんですよ」

「そうなのかもね」菜々美は答え、焼き鳥の肉を串から外した。ひとつを箸でつまみ口に運ぶ。火が通り過ぎでパサパサしていて、あまりおいしくなかった。

 霧郎が蛭川を殺した理由は、いま陽介から聞いて初めて知った。河合刑事は陽介にはずいぶん口が軽いようだ。確かに陽介は、かなりの聞き上手ではあるけれど。

「そういえば、霧郎はサイコパスだって河合刑事がいってたわ」

「サイコパスですか」

 笑顔の陽介の目だけが光ったように見えた。「どんなところが?」

「とにかく蛭川さんを殺したっていう罪悪感がまったく無いんですって。詐欺にしたって、別に指示した人間がいるからっていってるみたい」菜々美は顎の先に人差し指を当て唇を尖らせた。「なんていったっけ、何か変な名前…………あ、そうそう『ヌエ』とかっていってたわ」

「はい、お待たせしましたあー」

 頼んでいた馬のレバ刺しが運ばれてきた。菜々美のいちばん好きな酒のつまみだった。

 陽介がまっさきにレバ刺しを箸ですくい上げた。えんじ色のぬるっとした肉の塊を口に入れ、くちゃくちゃと音を立てて咀嚼する。

「でも、奴はサイコパスなんかじゃないですよ」口の中のものを飲み込み、テーブルの一点を見つめている。唇には笑みが浮かんでいた。

「どういうこと?」

 菜々美はうつむきぎみの陽介の顔を見詰めた。何となく、また雰囲気が変わったように見えた。

「奴がサイコパスなら、警察に捕まるなんてヘマはしないでしょ。サイコパスは目的を達成したり、欲しいものを手に入れるためには手段を選ばないんです。それに頭も抜群にいい」陽介がひと息にしゃべり、ビールの残りを呑みほした。どん、と音を立ててジョッキをテーブルに戻す。すこし怒っているように見えた。

「あれは断じてサイコパスじゃない。サイコパスにあこが憧れて、サイコパスになりたいと思っている偽物ですよ」

 そういって顔を上げた。だが、その顔には笑みが広がっていた。「なーんて。こう見えても、大学で犯罪心理学を勉強してるんですよ。今の話も授業の受け売りです」

「ふーん、そうなの」

 菜々美もジョッキを傾けた。こうすれば表情の微妙な変化を気取られにくい。

 その後は、お互いの近況やこれからに関して話をした。

 陽介はまだ就職が決まっていないようだった。ところが最近になって替え玉入社の経験をネット小説にしてみないか、と声をかけてくる会社があったという。あれほど話題になった出来ごとだったので商売になると踏んだのだろう。

 そんなこともあって最近の陽介は、いっそのこと会社勤めは諦めて物書きで食べて行こうかとも考えているらしい。もちろん甘いものじゃないことはわかっていますけど、と付け加えていたが、菜々美はどうやら本気のようだと感じた。

 菜々美も会社を辞める話をした。すでに次の会社には意志を伝えてあり、引継ぎを済ませたら間を置かずに新しい会社に移るつもりだった。

「そうですか、思い切りのいいところが菜々美さんらしいですね」

 陽介がにこにこしながらいった。

「そうかしら」菜々美はレバ刺しを食べながら、「そういえば前々から訊きたかったんだけどさ、君のお父さんって何してる人なの」できるだけさりげなく訊いた。

「何なんですか、突然」

 陽介が苦笑した。

「だってさあ、どう考えても陽介君ってお金持ちのお坊ちゃんでしょ。たいしてアルバイトもしてないのに、あんな高層マンションに住んでるし」

 うーん、と陽介がジョッキを握ったまま顔を傾けた。ちらりと菜々美に目を上げ、口を開く。

「あんまり人にはいってないんですけど、父親は警察のキャリアだったんです。そこを退官して、今はいろんな会社の社外取締役や顧問なんかをしてますから、恵まれてるっていえばそうかもしれませんね」ジョッキを持ち上げ、ひとくち飲んだ。「でも僕は出来の悪い息子なんで、親父からはほとんど勘当状態ですよ。ここ何年も家には帰ってませんし。それでも毎月の仕送りは結構な金額を送ってきます」

「そうなんだ…………」

 菜々美がいうと、陽介が照れくさそうに頬を緩めた。

「でも、こういう話って何かカッコ悪いですよね。だからあんまり他にはいいたくなかったんです」

「あ、ごめん」

「いいんです、いいんです」陽介が顔の前で手を振った。「菜々美さんにだけは本当のことを知って欲しかったから」

 菜々美さんだけ、という言葉に何かの意味を感じ取ったが、菜々美はあえて気が付かないふりをした。

 それからお互いに何杯もビールをお替わりして、店を出た。

「菜々美さん、この後どうします。もう一軒行きますか?」

 店の前に立って陽介が訊いた。

 菜々美は手に持っていたスマホで時間を確認した。十時半を過ぎていた。時間は大丈夫だけれど、すこし呑み過ぎたみたいだった。かなり酔っていると自分でもわかった。

「あ、今日は止めとく。ちょっと呑み過ぎちゃったみたいだから」

「結構なペースでしたもんね、大丈夫かなと心配しちゃいました」

「そう思ったんなら止めなさいよ」

 菜々美は笑いながら陽介の肩を押した。

 陽介が大袈裟にのけぞって笑った。「あー肩の骨が折れた」

「バッカじゃないの」

 二人して笑った。

「じゃあ、気をつけて帰ってください。僕はもうちょっと別の店で飲んできますんで」

 陽介が道の反対側を指差していった。その先にはネオンが煌びやかなビルが並んでいる。

「ごめんね、付き合わなくって」

 菜々美はちょうど前を通りかかった空車のタクシーに手を挙げた。

「じゃあ、今日はありがとう」

 タクシーに乗り込み、窓を開いた。

「気を付けてくださいね。タクシーの中で吐かないように」

「うるさい」

 菜々美は笑いながら、顔をしかめて見せた。運転手に行き先を告げる。

 陽介がゆっくりと右手を上げた。掌を振りながら、口の形だけでいった。

――じゃあね。

 その手首の内側に、ネオンに照らされた星形の痣がはっきりと見えた。



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殺人鬼の証 @kosukeKatori

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