第35話

 廊下の先から男性に抱えられた女性が歩いてきた。

 女性は顔にハンカチを当て、嗚咽の声を上げている。足元もおぼつかなくて隣で男性が支えていなければ、その場に崩れ落ちてしまいそうだった。

 菜々美は廊下を進んだ。女性とすれ違う瞬間、ちらりと目を向けた。

 はっ、と息を呑んだ。

 女性は鬼頭だった。

 美しかった黒髪は半白でぼさぼさに乱れ、ハンカチを握るシミだらけの手の甲には血管が浮き上がっていた。袖口からのぞく腕は枯れ枝のように細い。特徴のある八の字の形の眉がそのままでなければ、鬼頭だとは絶対にわからなかったはずだ。この前、菜々美の部屋に押しかけて来たときよりもさらに老け込み、ほんとうの老婆のようだった。

 菜々美は思わず脚を止めた。隣を通り過ぎていく鬼頭の横顔から目が離せなかった。鬼頭は菜々美に気が付いていない。何か声をかけようにも、かけるべき言葉が見つからなかった。

「ご存知の方ですよね」

 隣に立っていた河合刑事が、鬼頭の後姿を見やりながらいった。

「ええ…………鬼頭さんですよね」

 菜々美も背中を廊下の先に進ませていく鬼頭を茫然と眺めた。

「宮部霧郎を見た瞬間に、ああいう状態になってしまいましてね。まともに話は訊けませんでした」河合が顔をしかめ、頭を掻いた。

「…………そうですか」

「じゃ、行きましょうか」

 河合がいい、身体の向きを変えた。背中を向けて廊下を歩き始める。

 菜々美はしばらく鬼頭の後姿を見ていた。だがいつまでもこうしていても仕方がないと思い直し、河合の後に続いた。

 昨日の朝、菜々美の実家に河合から連絡が入った。安里美慧吾の身柄を確保したので、本人確認のため、慧吾が拘留されている東京の警察署まで来てほしいとの内容だった。

 菜々美は迷った。取り乱してしまいそうで慧吾の顔を見るのが怖かった。いったん電話を切って、気持ちを整理した。ようやく河合に電話を折り返したのは、その日の夜十時を過ぎてからだった。

 廊下の左手の扉の前に、背が高くプロレスラーのような体格をした男が立っていた。

 河合が男の前で立ち止まり、頷いた。

 どうぞ、といって背の高い刑事が扉を開いた。

 菜々美は扉の前で立ち止まり、大きく深呼吸した。胸の鼓動が激しかった。

「大丈夫ですか」

 河合が横から訊いた。

「あ、すいません。大丈夫です」

 菜々美は胸元を手で押さえながら、部屋に入った。

 中にはスーツ姿の若い男が立っていた。確か前に河合と一緒に来た小堺という名の刑事だった。小堺が緊張した面持ちで頭を下げ、右手を広げた。どうぞ、という意味だろう。

 薄暗く細長い部屋だった。右側の壁いちめんが切り取られたようにガラスになっていて、隣室からの光が部屋の壁を白く照らしている。

 菜々美はわざとガラスに目を向けず、脚を前に運んだ。小堺の前で立ち止まり、ひとつ息を吐いてからゆっくりと身体の向きを変える。ガラスの向こうの部屋に目をやった。

 ガラスはマジックミラーになっていた。隣室はコンクリートに囲まれた殺風景な部屋で、スチール製のデスクを挟んで、男が二人向かい合っていた。

 部屋の奥、菜々美から見て左手の椅子に、安里美慧吾が座っていた。上下を黒で統一した衣服に身を包み、表情のない横顔をこちらに向けている。いつも柔らかな笑みを浮かべていた慧吾とは、別人のような冷たい横顔だった。

「安里美慧吾に間違いがないですか」

「間違いありません」

 慧吾の横顔を見詰めたまま、菜々美は頷いた。

「以前にも話しましたが、奴の本名は宮部霧郎といいます。」

 河合は隣室に向けて顎をしゃくった。「今日、宮部を正式に逮捕します。容疑は石原重雄氏の殺害です」

「殺したって認めたんですか」

 河合が小さく首を振った。

「頑として認めていませんが、凶器から指紋も発見されていますし、遺体が発見されたマンションの住民の目撃者も出ています。間違いないでしょう」

「…………そうなんですか」

 菜々美は唇に手をやった。心のどこかでまだ信じたくないという気持ちがあった。けれどもこれは紛れもない現実だった。

「今回は殺人容疑での逮捕ですが、もちろん詐欺容疑のほうもきっちり取り調べは行います。もっともそっちのほうは別に指南役がいて、そいつの指示通りに動いただけだと逃げをうってますけどね」河合が菜々美に顔を向けた。「『ヌエ』って言葉、宮部から聞いたことがありますか」

「いえ…………何ですか、それ」

「私も最初は半信半疑だったんですけどね、知能犯の捜査を専門にしている二課の刑事から話を聞きました。どうやら三、四年前あたりから、取り調べを受けた詐欺師のあいだでよく出る名前らしいです。『ヌエの指示でやった』とか『ヌエから誘われてやった』ってね。そして名前を出す全員が『ヌエってのはどこの誰かはさっぱりわからない、顔も知らない』っていうらしいです」

 河合はふん、と鼻で笑った。「有り得ないですよ。詐欺師のように嘘で飯を食ってる連中が、顔も知らない人間の言いなりになって動くなんて。たぶんムショで知り合いになった詐欺師同士が、捜査をかく乱させるための手法として使い始めて、それが広まったんでしょう。まあ、一種の符牒のようなもんですね」

「符牒って…………暗号みたいな意味ってことですか」

 河合が頷き、隣室に顔を向けた。

「まあ、そういうことです。それに二課の刑事がいうには『もしそんなことが本当にできる人間がいるんなら、そいつは化物だ』ってね。私もそう思いますよ」そういった河合の横顔が、さらに厳しくなったように見えた。

 河合の視線につられるように、菜々美も隣の部屋に視線を戻した。

 慧吾、いや霧郎が椅子から背を離してテーブルの上で指を組んだ。無表情の横顔を向かいの刑事に向けたと思うと、突然こちらに顔を向けた。すこしのあいだ何かを探すように左右に視線をさまよわせる。

 そして、ある一点に目を留めた。

 菜々美と視線が合った。

 霧郎の唇の両端が、ゆっくりと吊り上がっていった。きゅーっという音が聞こえてくるようだった。

「ひっ…………」

 菜々美はその場から後ずさりした。霧郎の部屋からはこちらが見えていないはずだ。ななのに今の表情は、まるで菜々美がここにいることをわかっているようだった。

「大丈夫です。奴からこちらの姿は見えていませんから」そういった河合の顔も心なしかひきつっているように見えた。

「でも…………」心臓が胸を突き破るのではないか、と思えるほど大きく脈を打っていた。息もすこし苦しい。

 河合はそんな菜々美の様子に気がづくふうでもなく、霧郎を睨みつけたまま言葉を続けた。

「宮部からはまったく心の乱れというものが感じられません。どんな凶悪な犯罪者でも何らかの心の揺らぎというか動揺があるものですが、奴にはそれがないんです。世の中にはああいうふうに罪悪感をまったく感じない人間が一定量いる。一般的にはサイコパスというのだそうですが、宮部はまさしくそれだと思います。だから、そんな怪物を思い通りに動かせる奴なんていない」そういって菜々美を見た。

「あの…………ちょっと部屋を出てもいいでしょうか」

 菜々美は前かがみになり胸を押さえた。霧郎がずっと菜々美のほうに目を向けている。見えていない、と河合はいったが、菜々美を見ているようにしか思えなかった。

「大丈夫ですか」河合が菜々美に近づいた。

「すいません、すこし気分が悪くて」

 菜々美はバックからハンカチを取り出し、口元に当てた。

「部屋の外に椅子があります。すこしそこで休みますか」

「お願いします」

 河合に背中を支えられて部屋を出た。廊下の脇に長椅子があった。菜々美はそこに腰を下ろした。

「横になってもらっても構いませんよ」

「いえ、大丈夫です」

 前かがみになり、口元をハンカチで押さえていった。そしてそのままの姿勢で気分が戻るのを待った。

 河合は菜々美の隣に腰を下ろし、「薬を持ってきましょうか」とか「水を飲みますか」と気を遣ってくれた。菜々美はそれらを遠慮したが、見かけよりずいぶん優しい人だ、と思った。

 しばらく動かないでいたら気分が楽になってきた。心臓の鼓動もかなり収まっていた。

「すいませんでした。もう大丈夫です」姿勢を戻し、意識して笑みを作った。

「本当に大丈夫ですか」

 河合は菜々美の体調を気遣うようにいった。

「ええ、平気です」

 それから別室に案内され、供述書類にサインをした。このとき河合から聞いたところでは、霧郎が車で袋に詰めた遺体を運び、リュックサックのように背負って菜々美の部屋の前まで運んだことがわかっているという。付近に設置された防犯カメラに霧郎の姿が映っていて、設置されたカメラの場所によっては顔がはっきりと識別できたらしい。

「そんな状態なんですが、宮部は頑として否定しています。防犯カメラの映像が決定的な証拠にはならないと、わかってるんでしょうね。頭のいい奴です」

「同じマンションの人が目撃してるっておっしゃいましたけど、誰なんですか」

「それはちょっと申し上げられないですね。ただその人も宮部の顔を見て間違いがないといっています」

「そうなんですか」

 目撃者の名前を聞いたところで、菜々美には住人の顔と名前が一致する自信がなかった。学生や独身者ばかりのマンションで二三年ごとに顔ぶれがかわり、菜々美のように五年以上住んでいる住人はたぶん他にいない。

「ありがとうございました。今日のところはこれで終了です」

 河合が椅子から立ち上がった。「よろしければ警察の車でご自宅までお送りしましょうか」

「あ、大丈夫です。名古屋の実家に戻りますので」

「そうですか」

 河合は警察署の玄関まで菜々美を見送ってくれた。

「ああ、そういえばこの前、木嵜陽介さんとお会いしましてね。ご存知ですよね」玄関を出たところで、河合が思い出したようにいった。

「あ、ええ…………」

 一瞬、菜々美の自宅で見せた陽介の顔が浮かんだ。あのときの陽介は普段とは別人のようだった。本気で殺されるのではないかとすら思った。結局、それは菜々美の思い過ごしだったのだけれど、今でもあのときの陽介の目は忘れられない。

「何で、陽介君と会ったんですか」

「彼も宮部の被害者でしてね。ほら例の…………」そこまで口にして、河合が言葉を濁した。

「身代わり入社ですよね、大丈夫です。私は気にしていませんから」

 菜々美は粧生堂を辞めることをすでに決めていた。ベンチャーと呼べるような小さな会社だけれど、幸いにして声をかけてくれるところもあった。今のタイミングで辞めてしまうのは、何となく疑いを認めるようで嫌だった。けれども真実はいつか明らかになり、菜々美の無実も明らかになるだろう。

 ただ明らかになるまでには時間がかかる。そのあいだ、粧生堂でまわりに気を遣いながら過ごしていくのが菜々美には耐えられなかった。

「それで、陽介君がどうしたんですか」

 菜々美は髪をかき上げながら訊いた。

「彼はいい青年だなあと思いましてね。就職の件でいろいろあったんでしょうが自分のこと以上に、小田島さんのことを心配していました。いやあ――」河合が髪に手を置いた。「ああいう青年を部下に持ちたいものですよ」声を上げて笑った。

「彼にいい就職先を紹介してあげてください」

 菜々美も冗談で返した。それだけ心に余裕が生まれていることに、自分でも驚いていた。

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