第34話

 河合は取調室のドアを押し開いた。

 記録係のデスクについた吉永が、目礼しながら立ち上がった。河合は目で合図して視線を前に向ける。

 スチール製のデスクの向こうに宮部霧郎が座っていた。顔を俯き加減にしたまま、テーブルの一点を見詰めている。耳の上を刈り上げた今どきの若者風のヘアスタイル、長い睫毛に囲まれた大きな目、フードの付いた黒いトレーナーに黒っぽいズボン。全身を黒で統一しているのは目立たないからなのか、洒落ているつもりなのかはわからないが、女にモテそうなのはひと目見てわかった。

 河合は脚を前に進ませ、デスクの前で立ち止まった。じっと霧郎を見下ろす。

 そのとき初めて霧郎が顔を上げた。だが、その目に変化はなかった。ただ網膜に映ったものを眺めているだけという印象を受けた。

 河合は霧郎と目を合わせたままパイプ椅子を引いた。床に脚が擦れる音が、狭い取調室の中に響く。

 河合はゆっくりと腰を下ろした。テーブルの上に両肘を置き、指を組む。

「残念だったな宮部さん」にやりと頬を緩め、「いや霧郎のほうがしっくり来るかい」

「別に。どちらでも構わないですよ」

 表情を動かすこともなく、霧郎が答えた。両肩が下がり、椅子にもたれている。緊張している様子はまったくうかがえなかった。

 前科の多い犯罪者でも、取り調べ室では反抗的な態度をとったり、わざと余裕のあるふりをしたり、普段とは何らかの変化が見られるものだ。

 霧郎には前科らしい前科はなかった。十九歳のときに微罪で検挙歴があるが、本格的な取り調べは初めてのはずだ。だが霧郎からは、まったく気負いのようなものが感じられなかった。完全な自然体に見えた。

 よほど図太い神経をしているのか、それとも阿呆か――いや、この男の手口から考えて頭が悪いというのは考えられない。

 ならば―――。

 河合は椅子に浅く座りなおした。テーブルの上に乗り出すようにして、上体を前に倒した。

「成田空港からフィリピンには旅行なのかい」

 霧郎は成田空港に姿をあらわしたところで、張り込んでいた捜査員に身柄を確保された。警察は霧郎の海外逃亡を見越して羽田や成田、中部国際空港など全国の主だった空港に、県警の協力を仰いで捜査員を配置していた。

「経営していた会社が潰れたんですよ。まあ、それでいろいろあったんで、命の洗濯でもしてこようかと」

 悪びれる様子もなく、霧郎が答える。

「ほう、会社が倒産したのにフィリピンに行く金はあるのかい」

「マイルですよ。貯まったマイルを使って、航空券もホテルも手配してますから。使った金は空港までの交通費くらいなもんです」

「付き合っていた女性たちから受け取った金はどうした」

「全部、事業資金や借り入れの返済に充てましたよ。もう俺は、すっからかんってやつです」霧郎が唇を緩めた。顔に初めて表情らしいものが浮かんだ。「あ、もちろんお金は何としてでも返しますよ。その気持ちは揺らいでいないですから」

「なるほど」

 詐欺師の常套句だった。受け取った金を返済する意思があると示すことで、騙すつもりはなかったとの逃げ道を作っておく。

 詐欺は犯罪の立件がとても難しい。詐欺師はたとえ騙すつもりであっても、そのつもりはなかったと百パーセント断言する。反論しようにも証拠は詐欺師の内面にあり、したがって詐欺師が最初から騙すつもりだった、という状況証拠を積み重ねていくことになる。

 だが、それはとてつもなく手間と時間がかかり、地道な作業だ――かつて所轄で同僚だった二課の刑事から河合は聞いていた。

「まあ、いい」

 そういって椅子にもたれた。「これは殺人事件の取り調べだ。あんたに訊きたいのは詐欺の話じゃない」

「そっちの件は逮捕状を見せられたときも話しましたよね。俺は何もしていませんよ」

「〇月〇日の夕方から翌日の朝五時にかけて、何をしていた」

 河合は霧郎の言葉を無視して訊いた。じっと目を見つめる。

「その日は自宅にいましたね。それはそうですよ、会社を潰しておいて外をふらふらしていられないでしょ」

 霧郎が河合の視線を受け止めたまま答える。唇はとてもよく動くのだが、表情がほとんど動かない。まるで口元だけが別の意志を持っているように見えた。

「それを証明できる人はいるのか」

「いません。でも一般人ってそういうもんじゃないですか。いつでもどこでも自分がどこにいたって証明してくれる人がいるなんて、かえって不自然でしょ」

 ああいえば、こういう、とはこういう男のことをいうのだろう。河合は半ばあきれながら小さく頷いた。

「なるほど、アリバイはないってことだな」

「だからって俺がやった証明にはならないでしょう」

 また霧郎が答える。

「亡くなった蛭川さんの本名が石原ってことは知っているな」

「そうなんですか、初めて知りました」

「それは妙だな、あんたら、二人して随分荒稼ぎしてたって話じゃないか」

「俺の会社のバックには実質的なオーナーっていうか、金主がいたんですよ。蛭川さんは、その人から紹介されただけですからね。個人的なことは何も知りませんし、訊いてもいませんよ」

 霧郎があっさりと意外なことをいった。河合は思わず身を乗り出していた。

「金主だと? 誰だ、それは」

「それが俺にもよくわからないんですよ。知ってるのは『ヌエ』って仇名だけで」

「ヌエだと? 何だそれは」

「ほら、得体の知れない存在だとか、わけのわからないことを昔からそういうらしいじゃないですか。その『ヌエ』ですよ」

 河合は『鵺』のことだと理解した。鳥のようで鳥ではない、正体不明の想像上の生物だ。ひるがえって原因不明の事象や正体不明の人物をそう呼ぶと聞いたことがある。

 河合は霧郎を睨みつけた。

「おいお前、口から出まかせをいうんじゃないぞ」

「嘘はいわないですよ。今までやってきたことだって、全部『鵺』の指示に従っていただけですから」

「ほーう」椅子に背を伸ばした。霧郎なりに逃げきれないとでも判断したのだろうか、今度は自分の意志ではないといい始めた。「逃げるのかい」

「逃げないですよ。だから金は返すっていってるじゃないですか」

「そうじゃない、石原さんの件から逃げるのかっていってるんだ」

「やってもいないことから逃げる必要はないでしょ」

「…………なるほどな」

 河合は椅子にもたれたまま、霧郎を眺めた。両肩を下げ、広げた両脚のあいだにだらりと両手を下げている。取調室に入ってきたときと同じ姿勢で表情も変わっていない。

 まずは、霧郎の感情をすこしでも波立たせる必要があると思った。感情の揺らぎには隙が生まれる。その隙をついて行けば、必ず突破口が見つかるはずだ。

 河合は椅子から立ち上がり、扉を開いた。吉永に目顔で合図する。吉永も立ち上がり、部屋の外に出てきた。

「今、奴がいった『鵺』の件だがな、二課に服部って奴がいる。小堺にいってそいつがどういう奴なのか確認してもらってくれ」

 吉永が困惑したように視線を左右に動かした。

「しかし…………大丈夫ですか」

「何がだ」

「いや…………二課の連中がそんな簡単にネタをくれるとは思えませんが」

 河合は苦笑した。こいつは見るからに豪快そうななりに似合わず、考え過ぎるところがある。いや、それは吉永に限ったことではなく今の若い連中に共通している性格だ。だからひとつ指示をするにも、いちいちその理由を説明しなければならない。正直、面倒臭い。

「河合が恩に着るといっていたといえばいい。とにかく早く行ってこい」

 河合は大きな吉永の背中を叩いた。これも今風にいうならパワハラになるのか。

 吉永が廊下を走っていくのを見送り、取調室に戻った。霧郎はやはり同じ姿勢のまま、河合に無表情の顔を向けている。

 河合は椅子に座り、テーブルの上のアルミの灰皿を引き寄せた。箱から一本振り出して、霧郎に差し出す。「喫うか」

「いえ、もう止めたんで」

「そうか」

 百円ライターで火を点けて、大きく吸いこんだ。上向いて煙を吐き出す。

 しばらくのあいだ、そうやって時間を潰した。記録係の吉永が戻ってくるまで取り調べを進めるつもりはなかった。

 部屋の中に沈黙が落ちていた。

 河合は煙をくゆらせながら、霧郎の様子をじっくりと眺めた。

 霧郎もじっと河合を見ていた。その目に何かの感情らしきものは浮かんでいなかった。最初の印象のとおり、ただ瞳に映るものをそのまま受け入れているといった目をしていた。

 不思議な目をした男だ、と思った。

 あらためて観察をしてみて気が付いた。人間の感情は必ず目にあらわれる。何をしゃべっても、顔を整形で全部変えても、目の表情だけは変えられない。

 指名手配犯などの犯罪者を、街角に立って発見する見当たり捜査という捜査方法がある。河合にも経験があるが、その捜査の達人たちは、まず目の表情を頭に叩きこむ。それほど目は、その人間の特徴があからさまに顕れる場所だからだ。

 だが霧郎の目には本当に何も浮かんでいないように見えた。河合の顔を透かして遠くを見ているような、視線の捉えどころのない濡れたガラス玉が河合に向けられている。

 河合は同じような目をどこかで見たことがあるような気がしていた。

 どこだったか――今まで多くの犯罪者たちと相対してきた。中には連続殺人を犯した凶悪な奴もいた。人を殺した人間には、多かれ少なかれ目に共通した特徴がある。瞳に斜がかかっているように視線を捉えられないのだ。

 視線を捉えらないという点では、霧郎の場合も同じだった。だが他の殺人者たちはどれほど強がっていても、心のどこかに人間を殺してしまった事実に対する罪悪感や後悔、贖罪の気持ちが残っている。その感情が独特の目つきになって顕れているのが、河合にはよくわかった。

 だが霧郎の場合は、過去の連中の誰とも違うような気がしていた。

 河合は椅子から背を離し、霧郎の目を覗きこんだ。

 その目を改めて見た瞬間、河合の中の記憶と霧郎の目の表情が完全に一致した。

 こいつ…………。

 背筋がぞっと冷えた。こんな経験は、長い刑事人生の中でも数えるほどしかなかった。そして、その中のひとつは他でもない、殺害された石原と担当した事件で経験したものだった。

 あのときの子どもと同じだ――。

 今でもはっきりと憶えている。捜査一課に配属されて石原の班に加わった二年目だった。当時八歳だった男の子が、まだ四歳の妹を殺害した事件だった。妹の腹を刃物で切り裂くという残忍な殺害方法と、男の子の親が現役の警察官僚であったという事実から一時はマスコミで数多く取り上げられた。

 そこまで考えて、ふと気が付いた。河合の脳裏に、かつて目にした女の子の惨たらしい姿がありありと蘇ってきた。首の下からへその下あたりまで縦に大きく引き裂かれ、赤い内臓が露出していた。たしか開かれた腹の中には女の子が大切にしていた人形が押し込められていたと記憶している。

 河合が現着したときは、すでに死体は病院に運ばれていた。だから直接は見ていなかったが、捜査会議で示された死体の写真は、経験の少なかった当時の河合はもちろん、ベテランの刑事たちですら目を背けるようなものだった。

 今回の石原も同じように腹が切り裂かれて殺されていた。そしてその容疑者は二人とも同じような目をしている。

 そうだ、間違いない。あの目だ。

 河合の脳裏に、また当時の映像がありありと浮かび上がってきた。

 男の子は霧郎と同じ目をして河合と石原に向かって右手を上げた。

 じゃあね――。

 そういった。無邪気な挨拶だと思った。だが後になって背筋が冷えた。あのほんの少しすこし前、男の子は自分の妹の腹を裂いて殺していたのだ――。

 これは…………。

 河合は顎を擦った。とんでもない事実に気が付いたかもしれない、と思った。

 吉永が取調室に戻ってきた。

 河合は勢いよく立ち上がった。はずみでパイプ椅子が、大きな音を立てて床に倒れた。

だが、そこでふと思い出した。

 そうだ、痣――。

 あの男の子、たしか剣崎直人といった、あの子供の手首に変わった形の痣があった。

 そして霧郎の手首には太い革バンドの時計――そう、まるで手首を覆い隠しているような。

 河合は霧郎を見下ろした。霧郎の感情のない目と視線がぶつかる。

「どうしたんですか主任」

「黙ってろ」吉永の問いに意味もなく声を荒げた。

 いかん、必要以上に興奮してはだめだ。河合は息をひとつ吐き、気持ちを落ち着かせようとした。

「宮部、その時計をちょっとはずしてもらってもいいか」

 河合の言葉に、霧郎の眉がかすかに動いた。

 その目に、初めて感情らしきものが浮かんだように見えた。

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