第33話

 河合は長く息を吐き、ソファに背を伸ばした。これで石原と小田島菜々美が繋がった、と思った。そして安里美慧吾――、頭の中に今回の事件の構図がおぼろげながら見えてきた。

 わざわざ愛知県まで来たかいがあった、と思った。

 菜々美がお盆に茶碗を二つ載せて戻ってきた。それぞれの茶碗を新しいものに取り換え、またキッチンに戻っていく。小田島菜々美は見かけによらず家庭的な女性なのかもしれない、などと関係ないことを思った。

 小堺がスマホを手に戻ってきた。

「どうだった」

 河合の問いに、小堺がソファに腰かけながら小さく首を振った。「やはり捜査班の出動の事実はありませんでした」

「所轄はどうだ」

「同じです。刑事課の出動はありません。新宿署の道路使用許可の有無までは確認できていないですが、おそらく過去の手口と同じじゃないかと」

「そうか」河合は顎をさすった。

 小田島菜々美が部屋に戻ってきた。小堺が戻っているのに気づき、不安そうな顔でソファに腰を下ろす。

「今、確認が取れました」河合はできるだけ穏やかな口調を心がけていった。「小田島さんのおっしゃる時間と場所では、殺人事件は発生していません」

「えっ、そんな…………」

 菜々美の唇が笑みの形になりかけた。たぶん自分の恋人が死んではいなかった、と思ったのだろう。だが河合と小堺を交互に見て、すぐに自分の思い違いに気が付いたようだった。真顔に戻り、「どういうことなんでしょう」と訊いた。

 河合は菜々美を見つめたまま頷いた。

「小田島さん、大変申し上げにくいことなのですが、安里美慧吾というのは偽名だと思われます」

 ぎめい、と菜々美が口の形だけで呟いた。

「奴は仲間うちでは霧郎と呼ばれている詐欺師です。それも女性から結婚をだしに金品を騙し取る詐欺を得意としています」河合はテーブルに置かれた安里美慧吾こと、霧郎の写真を指で軽く叩いた。「失礼ですが、彼にいくらか金品を渡したことがおありですか」

 菜々美の顔色が見る見る青ざめていくのがわかった。

「あります…………彼の会社に私も投資しました」

「いかほど投資されたのですか」河合はあえて事務的に訊いた。

「三五百万円…………です」菜々美が絞り出すように答えた。

「そうですか」思いのほか、大きな金額だと感じた。河合たちをもてなす態度といい、若くして貯めている金額の多さといい、やはり小田島菜々美は見た目の華やかさとは真逆の家庭的な女性なのだろう

 だが河合は、そんな気持ちを表情に出さずに続けた。「おそらく安里美慧吾氏の殺人事件はでっち上げでしょう。駆けつけた警察もすべて霧郎の協力者です」

「でも…………」菜々美が唇を噛んだ。「でも、パトカーもたくさん来ていましたし、制服を着た警官だってたくさんいました」強い口調でいった。まだ心のどこかで認めたくない気持ちが働いているのだろう、と河合は見てとった。

「それに、あんなに野次馬の集まっているところで…………本物の警察がやってくるかもしれないじゃないですか」

 河合は意識して、ゆっくりと顔を振った。

「パトカーも警官の制服も、詐欺に使う道具なら何でも手配できる連中がいましてね。道具屋といわれている連中で、その気になればビル一棟と従業員を丸ごと手配して偽物の会社だって作るそうです」

 穏やかな口調を心がけていい、お茶に手を伸ばした。ひとくち啜る。

「それと連中は、警察の許可を取って仕事をしているんです。ドラマを撮影するとでもいって、新宿署に道路使用許可を出しているはずです。だから本物の警察が来ても、使用許可証を見せれば何の問題もない。霧郎のいつもの手口です」

 そういって茶碗をテーブルに戻した。菜々美に説明したものの、すべて捜査二課の刑事からの受け売りだった。河合たちは同じ刑事でも殺人捜査専門の刑事だ。だから詐欺師のような知能犯は専門外だった。

「でも、どうしてそんなことを――」

「被害者たちが、騙されたことに気が付くのをすこしでも遅らせるためです。そうやって時間を稼ぎ、海外に高飛びする。そうして、ほとぼりが冷めるのを待つ」

 あ、と菜々美が目を上に上げた。

「そういえばこの前、弁護士さんと会いました。慧吾の会社の顧問弁護士だといって。投資したお金は諦めてくれ、と」

「それも霧郎の仲間でしょう。小田島さんたちが騙されたと騒ぎ出さないように、二重三重の手を打ったんです」

「なんてこと…………信じられない」

 菜々美は額に手を当て、倒れ込むようにソファにもたれた。精神的に大きなダメージを受けているのが、はた目にもよくわかった。

 だが、河合はここで話を止めるつもりはなかった。今日は詐欺でなく殺人捜査が目的だ。

 河合は前かがみになり、開いた脚の上に肘を載せた。

「小田島さん、お訊きしても大丈夫ですか」

「はい…………大丈夫です」

 菜々美が涙に濡れた頬を手で拭いながら姿勢を戻した。背筋をぴんと伸ばして、ソファに浅く座りなおす。

「あなたの部屋の前で、石原氏が亡くなっていました」テーブルの上の石原の写真を指で叩く。「そして、あなたのマンションの前にある神社の森の中から、凶器と思われる大型のナイフが発見されました。そのナイフから霧郎の指紋が発見されています」指を動かし、今度は霧郎の写真をとんとん、と叩く。

 菜々美の目が大きく見開かれた。濡れた眼球が膨らんで、瞼を無理やり押し広げているような目で河合を見ている。

「それって、あの人が…………」うわごとのようにいった。あの人とは霧郎のことだと河合は理解した。

「まだ何とも申し上げられません。霧郎という男はなかなかの知能犯です。過去の犯罪でも決定的な証拠を残さず、いまだ詐欺での検挙歴はありません。指紋が警察に残っていたのも、奴が十九歳のときに喧嘩で検挙されたからです」ひと呼吸置いて、菜々美を見る。いつの間にか、その顔から驚きの表情は消えていた。背筋を伸ばし、揃えた膝に手を置いて真剣な顔で河合を見ている。

 長い睫毛に囲まれた、大きな目だった。漆黒の瞳で見つめられると、思わず吸い込まれてしまうような気分になる。

 河合はひとつ咳ばらいをして、言葉を続けた。

「今までの霧郎の仕事ぶりを考えると、あまりにも杜撰ではないか、というのが我々の考えです。もっとも詐欺と殺人では同じ犯罪でもまったくの別物です。女は平然と騙せても、いざ人を殺すとなったら動揺してしまったということも考えられる」

 そこまで口にして、『女は平然と――』のくだりは余分だったと気が付いた。

「いや、これは失礼」

「大丈夫です。本当のことですから」まっすぐ河合を見て答えた。

「ですから我々は様々な可能性を追っています。そこでひとつ小田島さんにもお訊きするのですが、これは可能性をひとつずつ潰す作業だとご理解ください」

「アリバイ…………ですか」

 河合は目を瞠った。小田島菜々美は頭もいい。

「まあ、そういうことです。関係者の皆さんにお訊きしていますので、どうか気を悪くなさらないでください」

「どうぞ、何でも訊いていただいて結構です」

「おとといの夕方四時から七時くらいまでの間は、何をしておいでですか」

「おとといですか…………」菜々美が壁に目を向けた。視線の先にはカレンダーが貼ってあった。「もう、こっちに来ていましたけど、特に何もすることがなかったので…………」

「お父さんはお帰りではなかったのですか」

「父が戻るのはいつも夜中です。会社が終わった後も取引先の方と食事に行く機会が多いので」

「どなたかとお会いになったりしていませんか」

 菜々美が犯行日時に愛知県にいたことが証明できれば、容疑者から外して問題ないだろう、と思った。

 うーん、と唸りながら部屋の中を見回していた菜々美が、ダイニングルームのある一点に目を留めて「あっ」と声を上げた。

「そうだ、これだわ」立ち上がり、ダイニングに歩いていく。しばらくして手に紙片を持って戻ってきた。

「たぶんそれくらいの時間だと思うんですけど、父親あてに荷物が届いたんです。私、そのとき受け取りの印鑑の場所がわからなくってサインをしています」そういって紙片に目を落とした。「やっぱり、そうだわ。おとといの日付になってる。この運送会社に訊いていただければ、わかると思います」

 菜々美が紙片をテーブルの上に置いた。運送会社の送り状の控え用紙だった。河合は手に取って見た。確かに手書きのサインの複写が受け取り欄に残っている。筆跡などを調べれば本人だと確認できるのだろうが、それだと時間がかかり過ぎる。

「これをお預かりしてもよろしいですか」配送業者に直接会って確認したほうが早そうだ、と判断した。

「どうぞ、使い終わったら処分していただいてかまいません」

 河合は用紙を折りたたんで上着のポケットに入れた。

 それから該当する時間のことをいくつか訊いて、話を終えた。配送業者の件以外には、特に気になる点はなかった。

 河合は小田島菜々美が嘘をいっていない、との印象を持った。腕時計に目を落とす。今から配送業者に行けば、夜には捜査本部に戻れそうだ。

 河合は礼をいい、小田島菜々美の家を出た。

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