第32話

 翌日の朝十一時過ぎ、河合と小堺は愛知県の近鉄弥富駅に降り立った。

 駅前でタクシーに乗り、運転手に行き先を告げる。

 弥富市は名古屋駅から急行電車で二つ目、時間にして十五分ちょっとの場所だったが、寂れた雰囲気の街だった。駅前には煮しめたような色をした小さな木造二階建てのタクシー会社の事務所とコンビニくらいしかなく、ロータリーに人の姿はほとんどない。

 タクシーの窓から見える通りの両側には、かつて商店街だったと思われる建物が並んでいた。だが、そのどれもが営業しているかどうか一見して判断できないような状態だった。

「何か、昭和って感じですねえ」

 窓に顔をはりつけるようにしながら、小堺がいった。河合も目を向ける。背中を向けた小堺の肩越しに、「お好み焼き、焼きそば」と文字が消えかかったブリキ看板を軒先に掲げた古い店が見えた。

 五分も経たないうちに目的の場所についた。料金を払い、河合はタクシーを降りた。

 目的の家は住宅街の中にある大きな住宅だった。シャッターの下りたガレージを構え、ブロック塀の門扉の向こうに階段かあった。階段の奥には樹木の茂った庭があり、その先に玄関が見える。

 河合は門柱のインタフォンを押した。はい、と応じる女の声が聞こえた。

『昨日お電話しました河合と申します』近所の目を意識して警視庁とは名乗らなかった。

『お入りください』

 門扉の鍵が開く機械音がした。河合は門扉を開いて敷地の中に脚を踏み入れた。

 庭に続く階段には手すりが設置されていた。それで河合は、この家に高齢者か脚の不自由な人間がいるのだろうと見て取った。

 屋敷に進んで玄関の前に立った。同時に、鍵が開く音がして扉が内側に開かれた。

 河合は上着のポケットから身分証を取り出して示した。隣で小堺も倣う。

「警視庁の河合と小堺といいます。小田島菜々美さんですか」

「そうです」

 小田島菜々美は不安そうに頷いた。長い髪を後ろで束ね、目が大きくて顎が小さい。ほとんど化粧もしていないだろう。黒の長袖Tシャツに細身のジーンズと地味な服装だが、それがかえって肌の白さとスタイルの良さを際立たせて、華やかな雰囲気を醸し出している。粧生堂のOLをしているのも頷ける都会的な女だった。

「どうぞ、入ってください」

 小田島が身体を退かせ、河合たちを中に促した。

 失礼します、と頭を下げながら中に入った。天井の高い玄関だった。広い三和土の正面に大きな額縁の絵画がかかっている。その下には花瓶に入った白い綿毛の実がなった枝が飾られていた。

 小田島がスリッパを二つ並べて置き、「どうぞ」と玄関の脇の扉を開いて入っていく。

 河合たちは靴を脱いで上がり、菜々美の後に続いた。

 通された部屋は居間だった。二十畳ほどの広さにL字型に設置されたソファ、大型のテレビ、今ではほとんど見かけなくなったマッサージチェアやカラオケセットが雑然と置かれている。テーブルの上にはレースのシートが敷かれていて、その上にはティッシュケースが置いてあった。隣にも部屋があるようだが、スライド式の仕切り扉になっていて、奥は見えなかった。

「おかけになってください」

 小田島がソファを勧めて、仕切り扉を開いた。中に入っていく。隣の部屋はダイニングキッチンになっているようだった。

 L字に設置されたソファに小堺と並んで腰を下ろした。

「いかにも実家の居間って感じですね」

 小堺が顔を巡らせながら、小声でいった。

 小田島菜々美は会社を長期休暇して帰省していた。体調が悪いわけでもなく夏休みには早すぎる。何か事情がありそうだと河合は踏んだが、粧生堂に話を聞きにいった刑事が興味深い話を取ってきた。どうやら小田島菜々美は、替え玉入社に絡んでいるとの疑いが社内でかけられていて、長期休暇というのは建前上の話で実質は謹慎を命じられているらしい。

 河合は初耳だったが、小堺から聞いた話では、『粧生堂替え玉入社』として、ネットやテレビなどでは一時期、かなり話題になっていたという。

 小田島がお盆に茶碗を二つ載せて、居間に入ってきた。それぞれの前に茶碗を置き、膝の上にお盆を置いて、ソファに座る。

「今日はご家族の方は? お出かけですか」

 河合は訊いた。大きな家に小田島菜々美以外の人の気配を感じなかった。

「父は仕事に出ています。母は五年前に亡くなりました」

「ご兄弟は?」

「妹がいますけど、もう嫁いでいますので」

「そうでしたか」

 それならば、普段は大きな家に父親が一人暮らしということだ。掃除なども大変だし、何より金がかかる。「失礼ですが、お父さんはどのようなお仕事を」

「このあたりでスーパーを何店舗か経営しています。もっとも最近は大手スーパーがたくさん進出してきているので、経営は大変なようですが」

 河合は納得して頷いた。隣で小堺が開いた手帳にペンを走らせている。

「入口の階段のところに手すりがついていましたが、お父さんは脚が悪くてらっしゃるんですか」

「あれは母のために取り付けたんです。亡くなる一年ほど前は、歩行するのも大変な状態でしたから」

「なるほど」

 河合はテーブルに手を伸ばした。お茶を啜りながら小田島菜々美を見た。部屋の前で死体が発見されたことは、既に電話で伝えてある。新聞やテレビでも凄惨な殺人事件ということで、派手に報道がされていた。

 そのわりに小田島菜々美は落ち着いていた。もちろん菜々美の名前はいっさい出ていないし、今のところマスコミも把握していない。だからなのか、自分から何かを訊こうとするような素振りも見せない。

 それにしてもいい女だ、と思った。目鼻立ちのはっきりした派手な顔立ち。濡れた葡萄を思わせる黒く大きな瞳、口紅はつけていないようだが、血を塗ったように赤く、柔らかく膨らんだ官能的な唇。さぞかしまわりの男たちは放っておかないだろう。

 河合は茶碗をテーブルに戻し、上着のポケットに手を差し入れた。写真を取り出し、裏側を向けてテーブルの上を滑らせた。

「電話でお話したとおり、小田島さんの部屋の前でこの男性のご遺体が発見されました。ご確認いただけますか」

 菜々美がおそるおそるといった様子で、写真を手にとり裏返した。同時に両方の眉毛が上がり、大きな目がさらに見開かれた。

 河合はその表情に目を据えたまま訊いた。

「ご存知の方ですか」

「これは…………蛭川さんですよね」写真を見つめたままいった。胸元に手を当て心なしか息が荒くなっている。

「どういったお知り合いですか」河合は訊いた。

「ご存知ないんですか」

 菜々美が顔を上げた。その目には咎めるような色があった。「だって捜査一課の刑事さんですよね」

「なるほど」河合はソファに浅く座りなおした。「その男性は蛭川と名乗って、捜査一課の刑事だといったのですね」じっと菜々美を見つめる。

「…………違うんですか」不安そうに訊いた。

「警視庁捜査一課に蛭川という刑事はいません。この男性は石原重雄さんというのですが、その名前を聞いて何か思い当たるところはありませんか」

 えっ、と上体を引き、小田島菜々美が絶句した。口元に指をやり、斜め上に視線をさまよわせている。混乱している様子だった。

 河合はその表情を観察していた。不自然なところは感じられなかった。これが演技なら女優顔負けだろう。「どうですか、ご存知ありませんか」

「すいません、ちょっと何が何だか…………」菜々美が額に手を当て、ゆらゆらと顔を振った。

「そうですか」河合はもういちど上着に手を差し入れ、別の写真をテーブルに置いた。「ならば、この男性はどうですか」

 菜々美が額から手を離した。目だけを動かして、その写真を見た。

「え、何で?」眉をひそめた。上体を起こし、写真に手を伸ばす。「これ慧吾ですよね」

「ご存知ですか」河合は前かがみになり、脚の間で指を組んだ。

「安里美慧吾さんです。婚約者…………でした」写真に目を落としたまま答える。

「ほう、そうですか」

「でも何で慧吾が出てくるんですか、だって――」そこまでいって言葉を止め、顔を俯かせた。その先を口にするのを躊躇っているようだった。

 その顔を見て、河合は意識した笑顔を作った。

「何でしょう。何でもおっしゃってください」

「だって…………」

 顔を上げた菜々美の目が涙で潤んでいた。河合は年甲斐もなくどきりとした。

 小田島菜々美が言葉を詰まらせながら、安里美慧吾について話しはじめた。安里美が会社を経営していたこと、そしてすこし前に何者かに殺害されたこと、蛭川はその事件の担当刑事だったこと。

 ほう、と河合は身を乗り出していた。初めて聞いた情報だった。

「安里美さんが殺害されたのはいつの話ですか。正確に教えていただけませんか」

 菜々美の説明を聞いて、河合は隣の小堺に顔を向けた。小堺がひとつ頷き、ソファから立ち上がる。「ちょっと失礼します」と部屋を出ていった。

 菜々美が不安そうに小堺の背中を見送り、河合に顔を戻した。

「あの…………私、何か変なことをいいましたか」

「まあ、ちょっとお待ちください」

 河合は茶碗に手を伸ばしかけて、止めた。中身が空だった。

「あ、お替わりを持ってきます」

 お構いなく、という間もなく菜々美が立ち上がり、キッチンに入っていった。

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