第31話

 河合は捜査車両の助手席から降りた。

 マンションのエントランスの前には、白黒のパトカーや渋谷署の捜査車両が並んでいた。近所の住人と思しき野次馬たちが、倣ったようにエントランスにスマホを掲げている。

 立ち入り禁止の黄色いテープの前に立った制服警官が「ご苦労様です」と敬礼した。河合は無言で頷き、テープを跨って内側に脚を踏み入れた。

 エントランスに続く短い階段を上って、マンションの中に入る。

 エントランスは薄暗かった。エントランスのガラスの自動扉は、捜査のために電源が切られて開きっぱなしになっている。オートロックのパネルボタンも旧式で、先に見えるエレベータ―ホールの蛍光灯が点滅を繰り返していた。

 全体的に管理が行き届いておらず、設備も古いマンションだった。だが渋谷から徒歩圏だということを考えれば、これでも結構な家賃をとるのだろう。

 扉をくぐると、右手の壁に錆の浮いたスチール製の郵便ボックスが並んでいた。河合はその前で立ち止まった。

「現場は二階だったな」

 河合は隣に立った部下の吉永巡査部長に確認した。

「ニ〇五号室ですね」

 百九十センチ近い長身の吉永が、斜め上から答えた。

 二〇五と表示された郵便ボックスに名札はついていなかった。都会の女の独り暮らしなら当然の用心深さだろう。部屋の住人は現場に向かう車の中で報告を受けていた。小田島菜々美、二十五歳。ボックスの中は鑑識が持ち出したのか、空っぽだった。

 エレベーターホールを通り過ぎて、階段で二階に上がった。

 右側に並んだ扉と黒ずんだコンクリートの手すりに挟まれた狭い廊下を進む。手すりの向こうにはこんもりとした神社の森と、高層マンションが見えた。河合はドアに表示された部屋番号を眺めながら脚を前に進めた。手前からニ〇一、ニ〇ニ、と並んでいる。

 廊下の半ほどに青いビニールシートが降りていた。その前にスーツ姿の見慣れた顔があった。やはり河合の部下の小堺だった。階級は吉永と同じ巡査部長で、年齢は三つ下の二十八歳。丸顔の童顔で、いつまでも新人のような雰囲気が抜けない。

「主任」小堺が河合に気が付き、こちらに近づいてきた。離れていても顔色が真っ青なのがわかった。

 河合は歩みを進めながら小さく手を上げた。

「どうだ」

「ええ…………酷いですね」

 表情を歪めながら答えた。

 河合は頷き、青いビニールシートの前に立った。かすかに腐臭がする。

「捜査一課の河合です。入っても宜しいですか」

――おう、入れ。

 ビニールシートの向こうから、大相撲の力士のような掠れ声が聞こえた。鑑識課の田島警部補だった。河合と階級は同じだが、年齢は十歳上の四十九歳だ。

 河合は靴の上からビニール袋を被せてから、シートを分け入って中に入った。同時に目に染みるほどの強烈な腐敗臭が鼻腔を襲った。思わず手で鼻を抑えそうになるのをぐっとこらえる。内側を照らす強いライトに目を細めた。

 一課に配属早々、河合は腐敗した死体を見て気を失ってしまったことがあった。そのことを今でも田島にからかわれる。だから意地でも表情は変えなった。

「おう、ぶっ倒れんじゃねえぞ」

 百キロはゆうにありそうな巨体をかがめた田島が、マスクの上の目を細めてこちらに振り返った。

「何年前の話ですか」

 河合は表情を変えずにいい、「ホトケを見てもいいですか」と訊いた。

 田島が「おう」と立ち上がり、身体を退かせた。同時に巨体の影に隠れていた遺体が目に飛び込んできた。

「うわっ、こりゃ…………」

 隣の吉永が顔をそむけた。

 河合は必死に顔の筋肉の動きをおさえて無表情を維持した。遺体に両手を合わせる。

 初見の印象は、小学生時代の理科の授業で行った解剖実験のカエルだった。

 遺体は全裸だった。足の裏をこちらに向けて仰向けに寝そべり、両手両脚を大の字に広げている。血だまりにでも投げ入れられたのではないかと思えるほど全身が赤黒く染まり、人相すらよくわからない。

 だが、大量の出血の原因は明らかだった。

 胴体が、首の下からへその下あたりまで縦に裂かれ、大きく横に広げられていた。赤黒く固まった血が、腹からはみ出たむき出しの内臓にもこびりついている。そのさまは、まるで何匹もの巨大なミミズが腹を食い破って這い出てきたようだった。

 久しぶりに、顔をそむけたくなるくらい惨たらしい遺体だった。

「どうだ、なかなかだろ」

 後ろから田島がいった。

 一一〇通報は今日の早朝四時四十二分だった。ニ〇四号室に住む男が、朝まで呑んで帰って来たところで、隣のニ〇五号室の前に倒れているマルガイを発見した。

「床に血痕がほとんどないですね」河合は遺体のまわりに視線を巡らせながらいった。

「さすがに気が付くよないたか」

 田島がにやりと笑う気配があった。「たぶん腹ぁ裂いてから、ここに運んだんだろうな。死後十時間ってとこだ」

 少なくとも昨夜の七時前の犯行か、と河合は頭の中で計算した。先に現着している機動捜査隊や所轄の刑事がマンションの住人に訊き込みをしている。おそらくマルヒが遺体をここに置いた時間もかなり絞られるだろう。

「それとな、マルガイの腹ん中に、こんなもんが押しこめられてた」

 田島が、手に持った透明のビニール袋を河合に差し出した。中には黒っぽい長方形のものが見えた。

 河合は「失礼します」といって受け取る。中身を確認して目を瞠った。

「これは――」

「警察手帳ですか」河合に被せて吉永が声を上げた。

「いや、かなり精巧だが微妙に違うな」

 河合はビニール袋を目に近づけながらいった。固まった血液が赤黒く全体を覆っているが、かろうじて革表紙の濃い茶色が確認できた。

「俺もそう思う。だが問題は偽物か本物かじゃねえ、中を見てみろ。ビニールの上からでも開けるだろ」

 田島の言葉に、河合はビニール袋の上から手帳を開いた。金色のバッジと制服姿の写真が目に入る。

 河合はその写真を見た瞬間、息を呑んだ。そのまま固まったように動けなくなった。

「どうだ、驚いたか。お前も久し振りに見たんじゃねえのか」

 田島の言葉に、河合はようやく、これは、と呻くようにいった。

「石原主任…………ですか」

「やっぱりお前もそう思うだろ。もう退官して十年以上経ってるからかなり老け込んじゃいるが、この顔色の悪さと目の鋭さは変わっちゃいねえ。間違いねえなと思って、登録されている指紋と速攻で照合をかけさせた」

「どうだったんですか」

「すぐに結果が出たよ。やっぱり間違いなかった。このホトケさんは石原主任だ」

 河合は遺体からビニール袋に視線を移した。

「しかし、この身分証には『蛭川重雄』とありますが…………」

「そこから先はお前らの仕事だ。後は任せたぜ」

 田島が河合の肩をぽんと叩き、その場を離れた。別の場所にかがみこんで、また作業を始める。

「河合主任、誰なんですか。このホトケさんは」

「俺が一課に配属されたときの最初の上司だ。石原重雄警部補。切れる人だったよ」

 河合は改めて、赤黒く染まった遺体を見下ろした。最初は気が付かなかったが、尖った顎と落ち窪んだ眼窩に、当時の面影をかろうじて認めることができた。

 河合が石原の下についたのが、今から十二年前、二十七歳のときだった。当時石原は捜査一課第四係の主任刑事で四十九歳、河合を含めた石原班四人の班長だった。

 もちろん河合は、捜査一課に配属される前にも所轄での刑事経験はあった、だが殺人事件の捜査のイロハを本当の意味で教えてくれたのは間違いなく石原だった。

 ところが石原は、河合が捜査一課に配属された三年目、突然警察を退官してしまった。理由は河合にもよくわからなかった。ただ警察の無力さを思い知らされた、と石原が酒を呑みながら話していた。そう同じ班の先輩刑事から聞いたことがあった。

 それから今日まで石原の消息は完全に途絶えた、捜査一課の同僚たちも、石原のその後を知る者は誰一人としていなかった。

 それがまさか、こんな形で再会することになるとは――。

 河合は横たわった遺体の向こうにある扉に目を向けた。角部屋の二〇五号室だけは、他の部屋とは間取りが異なっているのだろう。扉は廊下の右側でなく、どんづまりにあった。二〇五との表示の下に『小田島』と苗字だけのプレートが掲示されていた。

「この部屋の住人はどうした」

「会社を休暇中とのことでしたが、部屋にはいません。今、所在を確認中です」小堺が答える。

 河合は田島に声をかけて、シートから出た。廊下を通ってエレベータの前まで歩く。何かを話すにも、臭いが酷くて我慢がならなかった。吉永と小堺も後に従いてきた。

「目撃者は?」

 エレベータの前で向かい合い、小堺に訊いた。

「今のところ、まだ何も出ていません」

 河合は顎を手で擦った。無精ひげのざらざらした感覚が指に伝わる。何かを考えるときの癖だった。だが、実は石原の癖でもあった。

 刑事としての石原に、憧れにも似た感情を持っていた河合は、仕草から言葉遣いまでひととおり真似をしていた。そのうち、いつの間にか自分の癖になってしまっていた。

「マルヒは、わざわざホトケをこの場所に運んできた。そこに何かの意味があるはずだ」

「このマンションにマルヒの関係者がいるってことですね」

 小堺が丸顔をさらに膨らませた。興奮したときの表情だった。

「まずは二〇五号室の住人だな。わざわざホトケを抱えて廊下を歩き、二階のいちばん奥にまで運ぶ。目撃されるリスクを考えたら、普通はやらない」

 石原がなぜ、『蛭川重雄』と書かれた偽物の警察手帳を持っていたのかも気にかかる。

 河合はマンションの廊下の外側に目をやった。空高く伸びた高層マンションが見える。表面には碁盤の目のように規則正しく窓が並んでいた。あの位置からなら、このマンションの廊下もよく見えるはずだ。当然、捜査員たちも訊き込みに回っているだろう。

 案外早く目撃者は見つかりそうだな――。

 河合は朝日を受けて輝く高層マンションの窓を眺めながら思った。

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