第30話
鬼頭が菜々美の部屋を出ていった。
鬼頭を見送った陽介が扉を閉め、部屋に戻ってきた。菜々美はソファに座っていた。
「本当に警察に連絡しなくてよかったんですか」
いいながら、陽介が向かいの床にあぐらをかいた。
鬼頭を説得したのは陽介だった。これ以上、菜々美にまとわりつくなら警察に通報する。菜々美は実際に怪我をしているし、自分という目撃者もいる、逮捕されるのは間違いがない、と淡々と話した。
鬼頭に話す陽介の姿は、菜々美の知っているぼんやりして自信なさげな陽介とは別人だった。本来ならそんな陽介に頼もしさを感じるものなのだろうけれど、菜々美には陽介の二面性を見せられているようで、不気味さしか感じなかった。
菜々美は頷いた。「いいの、誤解だとわかってもらえたみたいだし」
「そうかなあ」陽介が身体の後ろに両手をついた。「何かあの人、後からいろいろいってきそうじゃないですか。何となく執念深そうだし」
そういって笑った陽介の顔を、菜々美は意識した笑顔を作りながら観察していた。どこからどう見ても、普段の陽介だった。
今、部屋の中には陽介と二人きりだ。その事実が菜々美を緊張させていた。
「菜々美さん」
陽介が真顔になった。菜々美は全身に力が入るのを自覚した。
「実は僕、替え玉入社の仕組みがわかっちゃいました」
「え…………」
今、それ? と思った。天然ボケというか間が悪いというか、陽介らしいといえば陽介らしい。菜々美は肩から力が抜けていくのを感じていた。
「どうしてわかったの」
「いや、それがですね」髪に立てた人差し指を動かしながら、「実は替え玉入試の黒幕のような奴に会ったんですよね、それで『粧生堂に入社したければ金を払え』って脅されちゃったんです。
「誰なの、そいつ」
「キリロウって名乗りました。もちろん本名のわけないですけど」
菜々美は、キリロウ、と口の形だけで呟いた。「気味の悪い名前…………」
「それと粧生堂社内の協力者は鬼頭さんですね。それも今、はっきりとわかりました」
「ちょっと待って」菜々美は顔を左右に振った。「私は何が何だかさっぱりわからないんだけど」
陽介が肘を曲げ、開いた両膝の上に手を載せた。顔を俯かせ、低い声で話しはじめる。
「キリロウとは、この近くのファミリーレストランで会いました。顔を大きなサングラスで隠してましたけど、菜々美さんの彼氏の死体を見て、すぐにわかりました――」
いったん言葉を区切り、顔を上げた。咎めるような目で菜々美を見る。「あ、この人がキリロウだ、って」
えっ、と声を上げ、菜々美は絶句した。頭の中が真っ白になった。
「…………嘘よ」
ようやくそれだけを口にした。
陽介が片頬を上げた。
「嘘じゃないですよ、そもそもそんな嘘をついたってしょうがないじゃないですか」ゆらゆらと顔を左右に振った。「それに、安里美さんがキリロウだって考えると、さっきの鬼頭さんの話も納得できませんか」
「あ…………」
菜々美は口元に手をやった。確かにそうかもしれない、と一瞬思ってしまった。けれどもすぐに否定した。理由はない。ただ、そうであって欲しくないというだけだった。
とはいえ、菜々美の胸の内側にはもやもやしたものが残った。
なぜなら陽介の話は、ファミリーレストランで慧吾と陽介が会っていたという蛭川の話とも合致していたからだ。考えれば考えるほど、蛭川と陽介の話が正しいような気がしてくる。
そこまで考えて、菜々美は全身の毛穴が開くのを感じた。蛭川の言葉が鮮明に耳の中によみがえってくる。
――あれは生まれながらのサイコパスですよ。
てことは、あの言葉も本当ってこと?
口元にやった指が震えていた。陽介の顔をまともに見られなかった。ぼんやりと感じていた恐怖が、今、はっきりと目の前にあった。
菜々美はソファから立ち上がった。
陽介があぐらをかいたまま、怪訝な顔で菜々美を見上げた。
「菜々美さん、どうしたんですか」
「いや、あの…………」菜々美は口ごもった。部屋を出るうまい言い訳が出てこなかった。
「座ってください、菜々美さん」そういって、陽介が顔から笑みを消した。「…………座って」
菜々美はいわれるままにソファに腰を戻した。
陽介が笑顔になり、大きく頷いた。
「でも、これでわかったでしょ。替え玉入社を裏で指示していたのは、安里美さんだったんですよ。菜々美さんは認めたくないでしょうけど、鬼頭さんの話を聞けば明らかですよね」
「私は信じないわ、信じてない」
菜々美は答えながら、自分に言い聞かせていた。
陽介が立ち上がり、テーブルを回りこんた。菜々美の前に立つ。
菜々美は全身を固くして、陽介を見上げた。
「なに…………どうしたの陽介君」何か口にしなければ叫んでしまいそうだった。
「安里美さんは詐欺師ですよ。菜々美さんだけじゃなくて、鬼頭さんにも結婚をちらつかせて、お金を投資させてる」
陽介はふふん、と鼻から息を吐き、口の端に冷ややかな笑みを浮かべた。「彼は僕にいったんです。替え玉入社の本当の狙いは、替え玉役をした学生だって。替え玉ができるくらいの優秀な学生はほっておいても一流企業に入社する。そうなったら、安里美さんは、替え玉役をした学生を脅すんだそうです。替え玉入社よりも、よっぽど大きな金額が引っ張れると笑ってましたよ」
「でも――」口を開きかけて、いおうかどうか迷った。陽介がどういう反応をするのか想像がつかなかった。
陽介が訊ねるような目で菜々美を見下ろした。
「でも…………何ですか」
「でも…………慧吾は死んだわ。もし慧吾が陽介君のいうような人間だとしたら、誰に殺されたの」いってしまった、と思った。
「そんなの僕にはわからないですよ、警察じゃないんですから」
陽介が声を上げて笑い、腰をかがめた。顔が菜々美の目と鼻の先に近づく。「ね、そうじゃないですか」
菜々美は思わず、「ひっ」と悲鳴を上げ、上体を引いていた。
しまった、と思った。完全に無意識だった。恐る恐る目を上げる。
陽介が菜々美を見つめたまま、眉をひそめた。姿勢を戻し、胸の前で腕を組む。
「さっきから気になってたんですけど、何か菜々美さん、僕のことを怖がってませんか」
菜々美はとっさに視線を窓に向けた。まともに陽介と目を合わせていられなかった。
「別に…………そんなことないわよ」
「嘘ですよ、明らかに変ですもん」
どうしよう――、陽介の言葉を聞きながら思った。脈が激しい。鼓動が陽介に聞こえてしまうのではないか。
菜々美は胸に手を当て、窓から視線を戻した。勇気をふり絞り目を上げる。
陽介はいつのまにか笑顔に戻っていた。細めたその目に狂気の色は浮かんでいなかった。
今なら話しても大丈夫かもしれない、と思った。
「陽介君、はっきりいうわ、」
菜々美は唾を飲みこんだ。「蛭川刑事は陽介君を疑っているわ」
そして私も、という言葉をぐっとこらえた。
陽介が組んだ腕をほどいた。顔から表情を消し、無言で菜々美を見下ろす。
「あ、それと…………」菜々美は何かに急かされたように言葉を継いだ。すこしの沈黙さえ耐えられそうになかった。「事件当夜の陽介君のアリバイが無いともいっていたわ」
そこまで口にして、はっ、と我に返った。自分でも、どうしてそんなことをいってしまったのか、わからなくなっていた。
陽介の目が細くなった。それから両側の頬をゆっくりと吊り上げる。唇の間から白い歯が覗いた。
「僕が安里美さんを殺したと思ってるんだ」いちだん低い声でいい、顔を俯かせた。「警察も、菜々美さんも」
「それは…………」
菜々美は言葉に詰まった。どう答えても陽介を刺激するだけのような気がした。
陽介は俯いたまま動かなかった。部屋の中に、息苦しさを感じるほどの沈黙が落ちていた。
菜々美は陽介から入口の扉に視線を移して、また戻した。
陽介は動かない。電池の切れたおもちゃみたいに、全身の機能が停止しているようだった。
菜々美はそろそろとソファから腰を上げた。ひょっとしたら逃げられるかもしれない、と思った。
突然、陽介が顔を上げた。菜々美はすぐに腰を戻した。●
「どうして」
陽介が両目をこれ以上ないくらいに見開き、大声で叫んだ。「何でだ、何でだ、何でだ、何でだ、何でだ、何でだ――」何度も何度も繰り返しながら近づいてきた。腕を伸ばし、菜々美の両肩をつかむ。そのまま顔を近づけてきた。
白目の毛細血管が浮き、真っ赤に充血した陽介の目が、数センチの距離にあった。
「ねえ、何でだよ。何で俺が疑われなきゃならないんだよ、アンタを頭のいかれた女から助けたのは誰だい? アンタの恋人に脅されたのは誰だい? ねえ、教えてくれよ、ねえ、――」早口でまくしたてるようにしゃべり続けた。
菜々美は強く目を閉じた。狂気の浮かんだ目を、間近で見ていることができなかった。陽介の息と唾が顔に降りかかってくる。目を閉じていても陽介の視線を瞼に感じていた。
わめき続け、肩を激しく揺する陽介に、菜々美は身体を固くして耐えた。
しばらくそんな状態が続いた後、急に肩から手が離れた。
ほっ、と息をつきかけた瞬間、
「ははははははは――」
頭の上から乾いた笑い声が聞こえた。
菜々美はそろそろと目を開き、眼球だけを動かして見上げた。
陽介が大口を開けて笑っていた。顎をすこし上げ、かっと見開かれた目は宙の一点に据えられている。だが、その視線はどこにも向けられていないように思えた。
菜々美はまんじりともせず、恐ろしいその笑顔を見つめていた。
やがて陽介が笑いを止めた。ゆっくりと顔を動かし、菜々美を見下ろす。
菜々美は視線を外せなかった。視線だけでなく身体のすべてが動かせなかった。
やがて指先が小刻みに震えはじめた。震えは腕を伝って肩に達し、伝わるほどに大きくなっていった。そして最後には、がたがたと全身が震えていた。
菜々美は、どうにかこうにか腕を動かした。自分の両肩を抱えるようにして、身体に腕を回す。
「やめて…………」ようやく、それだけいった。
「何を? 俺は何もしてないよねえ」にやにやしながら陽介がいった。だが、その目は笑っていなかった。「ねえ、そうでしょ」
やめてっ、と強くいい、菜々美は押しとどめるように両手を前に伸ばした。
「何をやめるんだよ…………」
陽介がつぶやくようにいい、一歩、前に脚を運んだ。
菜々美はあらん限りの力をふり絞り、悲鳴を上げた。
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