第29話
唸り声とともに、鬼頭が左手を振り下ろした。
菜々美はとっさに頭を低くしてかわした。勢いで鬼頭が前のめりになる。その横を走って部屋に戻った。
体制を立て直した鬼頭が肩越しに振り返った。その目は紛れもなく狂気をはらんでいた。菜々美に向きなおり、また包丁を持った左手を頭の上にかざす。
わけのわからない叫び声を上げながら、そのままの姿勢でこちらに走ってきた。菜々美は目覚まし時計や雑誌、スマホ、とにかく手に取ったものを片っ端から投げつけた。ペン立て代わりにしていたマグカップが鬼頭の額に当たり、脚が止まった。だが、額に手を当てながら顔を上げ、前にも増して怒りに満ちた目で菜々美を睨みつけてきた。
「おぉだぁじぃまぁ…………」
歪んだ唇で、呪いの言葉のように菜々美の名を呼んだ。
菜々美は後ずさりした。背中が窓につく。鍵はしまっていた。開けている余裕はなかった。
もう手近なところに投げつけるものはなかった。後ろにも、当然前にも逃げられない。
鬼頭が包丁を振り上げたまま、じりじりと近づいてきた。菜々美は荒い息を繰り返しながら、ただ鬼頭を見ていることしかできなかった。
まさに進退窮まっていた。
菜々美は強く目を閉じた。
もう駄目だ――。
あきらめかけたとき、突然、入口のほうから大きな音がした。はっ、と目を開く。
黒づくめの男が、鬼頭の背後から覆いかぶさるようにつかみかかっていた。華奢な鬼頭は、あっという間に前のめりに倒れた。包丁が左手から離れ、くるくると回転しながら床を滑り、菜々美の足元で止まった。
男かがうつ伏せに倒れた鬼頭の背中に馬乗りになった。両肩を上から押さえる。鬼頭が、離せ、と大量の唾を飛ばしながら叫び、手足を滅茶苦茶にばたつかせている。
「おい、ガムテープあるか」
男が顔を上げた。乱れた長い白髪に黒いキャップをかぶり、黒いサングラスをかけている。見たことのない男だった。
答えられずにいる菜々美に、男が「おい」と声を強めた。菜々美は「はい」と声を上げ、男の横を通ってキッチンに走った。食器入れの引き出しからガムテープを取り出し、腕だけを伸ばして男に渡した。
男が鬼頭の両腕をつかみ、後ろ手にガムテープでぐるぐる巻きにした。そうされている間も鬼頭は「やめろ」とか「ぶっ殺す」と、歯を剥き出しにして叫んでいる。そのさまは人間というより、凶暴な獣のようだった。
男は両手を手首のところで縛り終えると、今度は右腕で髪をつかみ後ろに引っ張り上げた。鬼頭の上体が後ろに反りかえる。残った左手でわめき続けている鬼頭の首を握りしめた。
とたんに鬼頭が静かになった。怯えの色が滲んだ目を中空の一点にとどめ、荒い息をしている。反り返った胸元が大きく上下していた。
「わめくな、殺すぞ」
男が上体をかがめ、鬼頭の耳元でいった。手は細い首のちょうど真ん中を握っていて、指先が深く肌に食いこんでいる。本当にあとすこし力を加えれば、ぽきりと折れてしまいそうだった。
男が菜々美に顔を向けた。「この女の口にも貼れ」
えっ、と菜々美は後ずさりした。
「早くしろ」床にころがったガムテープを男が顎で示した。
菜々美は恐る恐る歩みを進め、ガムテープを拾い上げた。適当な長さにちぎって、鬼頭を見る。鬼頭は上体を反らせたまま、咎めるような目で菜々美を見上げていた。
菜々美は「ごめんなさい」と呟いた。鬼頭の口にガムテープを貼り、すぐにその場を離れた。
男がよし、と頷き鬼頭の首から手を離した。同時に髪を掴んでいた手も開く。
反り返っていた鬼頭の上体が、勢いよく前に倒れた。ごん、と額を打ちつける音がして、うつ伏せのままうめいた。
男は馬乗りになったまま、菜々美に背中を向け、鬼頭の足首と膝にガムテープを巻きつけた。立ち上がり、鬼頭の肩を足の裏で押す。ごろりと仰向けになった。
鬼頭は身動きができない状態だった。叫ぶこともできない。ただ何かをうめきながら恐怖と疑問の混ざった目で、男を見上げている。
菜々美もきっと同じ目をして男を見ているはずだと思った。菜々美にとって男は命を助けてくれた恩人だ。けれども、この男はどこの誰なのか。どうしてこの部屋にいるのか。
菜々美の視線に気が付いたのか、男が顔を上げた。黒いサングラスに遮られて目は見えない。
「驚かせちゃってすいません」
男が白い歯を見せ、サングラスを外した。キャップもとり、白髪をわしづかみにして頭から離した。「僕です」
菜々美はぽかんと口を開けたまま、口元に手をやった。
「陽介君?…………どうして」
「菜々美さんと連絡が取れないからですよ。心配になって来てみたら、悲鳴が聞こえたんでとにかく中に入ったんです。そしたら、この人が」そういって床の鬼頭を見た。「この人、何なんですか」
「会社の人なんだけど…………」
答えながら、陽介の顔をじっと見つめた。前に会った時とはうって変わって、いつもの穏やかな陽介だった。
――木嵜陽介は生まれながらの殺人鬼というやつですわ。
蛭川の言葉が、菜々美の頭の中で何度も繰り返されていた。手首の痣は袖に隠れて見えなかった。
「あ、菜々美さん。血が――」
陽介の手が伸びてきて腕を取られた。菜々美はとっさに身体を引いていた。
「あ、ごめん。どこ?」
「いや…………ほら、左の手首のところに」
菜々美は腕を曲げ、左の手首を見た。鬼頭と揉み合ったときに、どこかにぶつけたのだろう。擦り傷ができていた。かすかに血も滲んでいる。
「あ、全然大丈夫、たいしたことない」
菜々美は気まずい雰囲気をごまかすために笑顔を作った。頬がひきつり、自分でもうまくできている自信がなかった。
「でもどうしたのその格好? 何で変装なんかしてたの」とっさに思い付き、訊いた。
「警察に見張られているんです。だから、こうでもしないと出かけられないんですよ」
「でも、その格好じゃかえって目立つでしょ、怪しすぎるもの」菜々美は陽介の黒づくめの全身に目をやり、手に持ったカツラを見た。「その白髪のカツラも。何でそんなの持ってたの」
「この前のハロウィンで使ったんです。これくらいやらないと警察に見破られると思ったんで」陽介が鼻の横を掻きながらいった。「でも、このあたりには警察はいませんね。菜々美さんの悲鳴が部屋の外まで聞こえてきたのに、それらしい人間が出てくる気配はありませんでした」
「えっ、そうなの…………」
蛭川は二十四時間、菜々美の部屋を見張っているといった。警察は何かの理由があって、張り込むのを止めたのだろうか。
「まあ、それはいいとして…………今はこの人をどうするか、ですね」
陽介が床に寝転んだままの鬼頭を見下ろし、菜々美に視線を上げた。「どうしますか、話を聞いてみますか。それとも警察に通報しますか」
陽介の言葉に、鬼頭が唸った。何かいいたそうだった。
菜々美が答を迷っていると、陽介がその場にしゃがんだ。鬼頭を見下ろす。
「今から、ガムテープを剥がす。でもまた叫んだりしたら、すぐに警察に連絡する。そうなったら、あんた最低でも傷害罪で逮捕されるぞ。大人しくすると約束できるか」
鬼頭が何度も顔を縦に振った。陽介が手を伸ばし、鬼頭の口から乱暴にガムテープを剥がした。
せき止められていたものを吐き出すように、鬼頭が「あーっ」と声を上げた。すぐに身体を回転させてうつ伏せになり、口から大量の唾を吐きながら咳込んだ。
陽介が鬼頭に口を開きかけて止め、菜々美を見た。
「えっと…………この人なんて名前ですか」
「…………鬼頭さんだけど」
そうですか、といって陽介が顔を戻した。
その様子を見て、陽介は鬼頭と初対面なのだと確信した。やはり鬼頭の話は嘘だった。
陽介が鬼頭の肩の下に手を入れ、仰向けにさせた。それから背中を押して上体を起き上がらせる。
すぐに鬼頭が、縛られた両脚を尺取り虫みたいに動かしはじめた。床にお尻を滑らせて後ずさりし、壁にもたれる。たったそれだけの動きで、肩で息をしていた。
陽介が鬼頭に近づき、またその場にしゃがんだ。目線の高さを同じにして、
「鬼頭さん、あなた何をしに来たんですか」
威圧的ないいかたではなかったけれど、鬼頭がちらりと陽介に目を上げ、すぐに下を向いた。肩が小刻みに震えはじめ、ぐすん、と洟をすする音の後に、低くくぐもった声を上げて泣いた。
陽介は鬼頭の様子をじっと見ていた。冷静な横顔のまま続ける。
「泣いたって手加減しないですよ、包丁なんて物騒なもの持って人のうちに押しかけて来たんだ。どう考えったって、あなたのほうが悪い」
「私は…………慧吾と将来を誓い合っていました…………だから、彼の会社に投資したんです…………将来のために必死で貯めたお金を…………」
ところどころ、涙で声を詰まらせながら答えた。
「いくら投資したんですか」
鬼頭は涙に濡れた顔を上げ、菜々美を睨みつけた。
「…………四千万円よ。あんたとは本気度合いが違うのよ」そういって胸を大きく膨らませ、叫んだ。「あたしは人生を慧吾に賭けていたんだっ」
おい、と陽介が鬼頭の肩をつかんだ。「大きな声を出すなっていっただろ」
ごめんなさい、と鬼頭が顔を俯かせた。
「それがどうしてこんなことになるんですか」陽介が床に置かれたままになっている包丁にちらりと目を向け、また鬼頭に戻した。
鬼頭が大きく洟をすすり上げ、まっすぐに陽介を見つめた。頬に乾いた涙の跡ができていた。
「この前、慧吾の会社の顧問弁護士だって人と会いました。その人がいうには慧吾の会社は前々から赤字経営で、もう会社にも慧吾個人にも資産はまったく残っていないといいました」
菜々美が聞いた話と同じだった。と、いうことは鬼頭が慧吾の会社に投資していたというのは事実なのだと思わざるをえなかった。
「そんなの、有り得ないんです。私は慧吾から決算書も見せてもらっていました。利益も出ていましたし、経営は順調でした。だったらどうして? 私は考えました。ひょっとして資産を隠しているんじゃないか、と。弁護士が入って調べても口座に現金がないのなら、何らかの方法で別の人に現金を預けて隠しているんじゃないか、と」
「その役割をしたのが菜々美さんだっていうんですか」
そうです、と頷き、鬼頭が菜々美を見上げた。
菜々美はその視線から目をそらしていた。胸に針を刺されたような疼痛が走っていた。菜々美は慧吾から会社の決算書など見せられたことはなかったし、見せてくれと頼んだこともなかった。慧吾に対する想いの差を見せつけられたようだった。
陽介がじっと菜々美を見ていた。その視線に耐えられずに口を開いた。
「どうして私がそんなことをしなきゃならないの、有り得ないわ」
「菜々美さんも弁護士と会ったんですか」菜々美を見つめたまま陽介が訊いた。
「会ったわよ」菜々美は両手を広げた。自分でもどうしてそんな動きをしたのかはわからなかった。「けれど、私も同じことをいわれた。投資してるお金は戻ってこないから諦めてくれ、ともいわれたわ」
「菜々美さんも投資をしていたんですか」
「したわよ」知らず知らず強い口調になっていた。何となくここで引いたら負けのような気がした。
「幾らですか」
それは、と言葉を濁した。菜々美にとっては大金だったけれど、鬼頭の四千万円には遠く及ばない。それに金額が少ないことが、そのまま慧吾に対する想いの強さの差のような流れになるのが嫌だった。「そんなこといいたくない」
菜々美の心の中を見透かしたように、鬼頭が唇を歪めた。
「ほら見なさい。やっぱり怪しいのよ、この人」
陽介が鬼頭に視線を戻した。
「どうして菜々美さんだと、あなたは考えたんですか」
「慧吾はいい男なの。イケメンで会社の経営者で、優しくって。狙ってる女はたくさんいたと思うわ」ちらりと菜々美に鋭い目を向け、戻した。「だから私は、いつも慧吾の裏に女の影を見ていた。あるとき百貨店で買い物をしてるときに、慧吾とこの女が腕を組んで歩いているのを見たの。私は慧吾に問い詰めたわ、そしたら投資をしてもらっているから無下にはできない、しつこく言い寄られて困ってるといってたわ」
「嘘よ、」菜々美は思わず声を上げていた。「でたらめばっかりいうんじゃないわよ」
「あ、ちょっと菜々美さん――」
陽介がいいかけたところに、鬼頭が言葉を被せた。
「嘘じゃない。嘘なんかいってもしょうがない。なら訊くけど、あなたは慧吾から投資者のリストを見せてもらったことがある? 決算書を見たことがある?」
言葉に詰まった菜々美を見て、鬼頭が勝ち誇ったような笑みを浮かべた。「私はあるわ。だから慧吾ならどういう発想をするかが、私には手に取るようにわかるの。慧吾ならきっと関係性が薄くて、なおかつ自分のいうことを無条件に聞き入れてくれそうな頭の弱い女を選ぶだろうと思ったわ。そういう人のほうが調査が入ったときに優先順位が低いし、誰もが『まさか』って思うから。そう考えれば――」鬼頭が笑みを浮かべたまま陽介を見た。「答は明らかじゃない、違う?」
「ちょっと、あなたふざけないでよ」菜々美は鬼頭に詰め寄った。本当に頭に来ていた。
鬼頭は後ろ手に縛られたまま、菜々美を睨み上げていた。菜々美も睨み返した。
しばらく睨み合う状態が続いた。
突然、鬼頭の顔がぐにゃりと歪んみ、だ。両方の目の端からぽろぽろ涙がこぼれ始めた。流れた。
「返してよ、私のお金を…………私があのお金をどれだけの思いで貯めてきたの思ってるの? 好きなものも食べず、買いたい洋服やアクセサリーも我慢して、必死で貯めたお金なのよ。あのお金が私のすべてなの――」涙と鼻水でぐちゃぐちゃになり、かっと目を見開いた。「返せっ、早く返せ、老後のために貯めた金だっ、あれがなければもうアタシは生きてる意味がないんだっ、死んだっていいんだっ」全身をよじらせ、唾を盛大に飛ばしながらわめいた。
あまりの鬼頭の迫力に、菜々美は上体を引いた。
隣に立った陽介も、ただ無表情で鬼頭を見下ろしていた。
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