第28話

 菜々美はソファから立ち上がった。

 一日じゅう閉め切っている窓のカーテンをすこし開いた。神社の森はすっかり暗くなっていた。隣の高層マンションから漏れた部屋の灯が、ところどころで樹々を白く照らしている。

 テーブルの上に置いたスマホが軽やかな音を立ててメッセージの着信を告げた。菜々美はスマホを手に取りメッセージを確認した。陽介からだった。朝から執拗に『連絡をくれ』とメッセージを送ってくる。菜々美はすべて無視を決め込んでいたが、だんだんメッセージの間隔が狭くなっていた。陽介がいらいらしながらスマホの画面を睨みつけている姿が頭に浮かび、菜々美は気味が悪くなった。

 カーテンを戻し、ソファに腰を下ろした。テレビから関東の郊外で発生した通り魔殺人のニュースが流れている。足元だけが映った加害者の同級生だったという男が、普段は大人しい奴だった、というようなことを話している。

 突然、スマホが着信音を鳴らした。菜々美は跳びあがりそうになった。スマホに触れずに画面に目をやる。〝陽介〟と表示されていた。何度メッセージを送っても反応しない菜々美にしびれを切らし、電話をかけてきたのだった。

 菜々美はスマホの画面を睨みつけたまま、着信音が鳴り止むのを待った。

 やがて留守番電話に切り替わり、音が止んだ。はーっ、と長い息を吐きながらソファに横向きに倒れた。同時に着信音がけたたましく鳴り響いた。きゃっ、と小さく悲鳴を上げ、ソファから飛び起きた。

 画面には、やはり陽介の名前が表示されていた。菜々美はそれを見て、全身の毛穴がぞっと開くのを感じた。陽介の執拗さに、蛭川が口にした〝サイコパス〟という言葉が、実感となって全身にふりかかってきていた。

 菜々美は両手を耳に当て、着信音が鳴り止むのを待った。

 ようやく着信音が止んだ。それでも菜々美は同じ姿勢のまま、スマホを黙って見つめた。

 しばらくしてもスマホが鳴る気配はなかった。菜々美は脱力してソファにもたれた。

 陽介の部屋は目と鼻の先だ。菜々美は窓に目を向けた。カーテンの隙間から陽介の住んでいる高層マンションが見える。空にそびえる細長い高層マンションの形が、巨大な墓石のように見えた。

 陽介がどの部屋に住んでいるのかは知らない。けれども、あの灯りの中のどこかから、菜々美の部屋をじっと見下ろしているだろう、そう考えると本当に恐ろしかった。

 蛭川にはこの部屋をすぐに離れろといわれた。だから都内のホテルに一時的に身を隠そうと思った。だが、蛭川がいうには、都内にいるのなら部屋の中で鍵をしっかりかけて外出を控えたほうがよい、とアドバイスされた。菜々美の部屋は二十四時間警察が張り込んでいるし、不審者がいればすぐに対応することができる。だがホテルになるとそうはいかない、というのがその理由だった。

 だから菜々美は、蛭川の言葉を信じて部屋から動かないことにした。あれから二日経つけれど、まだ警察は陽介の身柄を拘束していない。陽介から電話がかかってくるのが何よりの証拠だ。

 突然、部屋のインタフォンが鳴った。

 菜々美は驚きのあまり、ソファからずり落ちそうになった。そろそろと立ち上がり、インタフォンのモニター画面に近づく。

 一瞬、映っているのが誰だかわからなかった。菜々美は目をすがめて、もういちどモニターを見た。

 映っているのは鬼頭だった。だがあまりにも容姿が変わっていた。丸みを帯びた頬は削げたようにこけ、目の周りが暗く落ち窪んでいる。いっきに二十歳くらい老け込んだようだった。

 特徴のある八の字型の眉はそのままだった。けれども、それが変わっていたらとても鬼頭だとはわからなかったはずだ。どうやら鬼頭が心労で体調を崩しているという話は本当だったようだ、と思った。

『小田島さん、突然ごめんなさい。ちょっと中に入れてもらえないかしら』鬼頭が画面に顔を近づけ、消え入りそうな声でいった。瞳だけが小刻みに左右に震えている。

『どういった用件ですか』

 菜々美はわざと突き放したいいかたをした。鬼頭の顔を見て、怒りがあらためて湧き上がってきていた。

 鬼頭が今野課長に嘘をついていたのは明らかだった。そして、そのことに対して鬼頭から謝罪も言い訳もなかった。菜々美が何度電話をしても出ない、話をしたいと留守番電話に入れても、折り返しすらない。それなのに前もって連絡も入れず、直接自宅にまでやってくる。

 菜々美の都合などお構いなしだ。あまりにも身勝手すぎると思った。

『小田島さんに対する会社の処分が決まったの。いきなり連絡だけっていうのも、アレだから私が内示がわりに来たの、ね、小田島さん。お願いだからここを開けて』

 鬼頭が懇願するようにいい、さらに顔を近づけた。焦点が合わなくなって、画面いっぱいに霧がかかったような映像が広がった。

『それは今野課長の指示なんですか』

 菜々美はモニターを見つめたまま訊いた。

『そうよ、そうに決まってるじゃない。ああはいっても課長だってあなたのことを心配しているのよ』霞んだ画面の向こうから鬼頭がいった。

 嘘だ、と思った。いっけん優しそうに見える今野だが、その実自己保身の塊のような男だ。だから若くして本社の中枢である人事部の課長にまで上り詰めているわけだし、粧生堂の人事評価が基本的に減点評価なのは、菜々美も業務を通じて嫌というほど思い知った。

 菜々美の件は今野の立場からすれば、管理監督責任を怠ったとも言われかねないほどの大きな減点要因だ。処分は決まっているのかもしれないが、自分の脚を引っ張るだけの部下に気を遣うほど、今野は優しくない。

 菜々美はもういちどモニターを見つめた。鬼頭が姿勢を戻し、不安そうな顔でこちらを見下ろしている。

 鬼頭の目的は何なのだろう、と思った。どうしてこうも必死に、菜々美の部屋の中に入りたがるのだろう。

 考えても答はでなかった。だから鬼頭を部屋に入れることにした。どうして鬼頭が嘘をついたのかを訊けるいい機会だし、何度電話しても話せなかった相手が向こうからやってきたのだ、このまま返すのはあまりにももったいない。

 解鍵のボタンを押して、エントランスの扉を開いた。

 菜々美は急いで鏡の前に座った。髪をとかし、手持ちの中でいちばん赤い口紅を塗った。じっと鏡を見て「よし」と自分に気合いを入れる。

 鏡を見詰めていると、部屋のチャイムが鳴った。菜々美はもういちど鏡に向かって気合を入れ、椅子から立ち上がった。

 扉を開き鬼頭を見た瞬間、息を呑んだ。

 モニター越しに見るよりも、直接目で見た鬼頭の変わりように驚いた。

 げっそりと痩せているうえに、かさついた肌は粉をふきどす黒く変色している。着ている服は身体の線に合っておらず、姿勢も俯きぎみで老婆のようだった。手にしたブランドもののバッグだけが、奇妙な存在感を際立たせている。

 人間は短期間でこれほど変われるものなのか、とつくづく思った。

 菜々美は優しい言葉をかけるのをぐっとこらえた。「どうぞ」と平静を装い、鬼頭を中に招き入れる。

 鬼頭はもたもたと靴を脱ぎ、部屋に上がった。脚を運ぶさまもどことなくつらそうで、つらい身体をおしてここにやって来たのが、よくわかった。

 鬼頭にソファを勧め、菜々美はいつものようにテーブルをはさんだ向かいの床に座った。お茶を出すつもりはなかった。とにかく心を鬼にしようと決めていた。

「どんな処分が決まったんでしょうか」

 いきなり本題に入った。どんな処分になろうと覚悟はしていたし、この件に関して時間を割くつもりはなかった。いちばん訊きたかったのはなぜ嘘をついたのか、だった。

 菜々美が訊くと同時に、鬼頭がソファから立ち上がった。腰を曲げ、テーブルの上に両手をついて菜々美の目と鼻の先まで顔を近づける。

「小田島さん、あなた安里美慧吾って人を知ってるでしょ」これ以上ないほど目を剥いて訊いた。ぬらぬらと光る眼球が、瞼を内側から押し開いているようだった。

 菜々美は思わず上体を後ろに引いていた。

「何なんですか」なぜ鬼頭の口から慧吾の名前が出てくるのか、見当がつかなかった。

「いいからっ」鬼頭が裏返った叫びを上げ、髪を振り乱した。「知ってわよねっ」

 菜々美は床に座ったまま、身体の後ろに両手をついた。「知っていたらどうなんですか…………」

「どういう関係? 付き合ってるの? 恋人なの?」

「…………婚約者でした」

 菜々美の言葉を聞いて、鬼頭の顔がぐにゃりと歪んだ。八の字の眉の間に深い縦じわを寄せ、裂けてしまいそうなほど唇の両端が上がった。その唇の両側にも幾筋ものしわが刻まれている。般若の能面そのものだった。

「うそよ…………」その顔のままいった。

「うそじゃないです」菜々美は鬼頭に目を据えたまま答えた。目を離したら危ないと思った。鬼頭の表情にただならぬものを感じとっていた。

「何で私がうそをつかなきゃいけないんですか」

「ふざけるなっ」

 鬼頭が姿勢を戻し、両手をむちゃくちゃに動かしながらわめいた。「慧吾は私の男だっ、何でお前のような小娘と婚約なんかするんだっ」

「本当です、鬼頭さんこそ、何わけのわからないことをいってるんですか」菜々美は床に座ったまま、じりじりと後ずさった。

「あ、そうか」

 突然、横を向いていた鬼頭が動きをとめいい、菜々美に向きなおった。ふふふ、と唇を緩めた。め、憐れむように細めた目で菜々美を見下ろす。

「あなた、慧吾が死んだショックで頭がおかしくなっちゃったのね、いい? 慧吾はもう死んだのよ、もう戻ってこないの」子どもをあやすように優しくいい、急に目を見開いた。白目の中に黒い点を打ったように瞳が小さくなっている。「だからって、あなたが婚約者だって? 死人に口なしをいいことに、何をいってもいいってもんじゃないよっ」爆発するように声を張り上げた。

 菜々美は床から腰を浮かせた。鬼頭の態度は明らかに普通ではなかった。狂気すら潜んでいるように見えた。

「そういう鬼頭さんこそ、慧吾とどういう関係なんですか」勇気を振り絞って訊いた、鬼頭の感情がさらに爆発するかもしれないと思ったけれど、訊かずにはいられなかった。

 私? と鬼頭の目が光った。同時に猫のような素早さでテーブルを回りこみ、菜々美の前でしゃがんだ。立ち上がりかけたところに肩をつかまれ、また強引に床に座らされた。

 痛い、と声を上げた。指が肩の肉に食い込んでいた。

 菜々美は身体を動かして振りほどこうとした。けれどもできなかった。枯れ枝のような腕からは考えられないくらいの物凄い力だった。

 鬼頭が充血した目を見開かせ、肩で息をしながらじっと菜々美を見つめた。

「私は慧吾の女だ、女っていってもお前のような遊び相手とは違うんだ。いいか? 私と慧吾はね、ただの恋人じゃない、ふたりとも同じ夢に向かって突き進む同志なんだ」

「はあ?」

 菜々美も目を剥いた。死人に口なしでいいたい放題はあんたのほうじゃないの――むくむくと怒りが湧き上がってきた。全身に感じたことがないくらいの力が漲っているのがわかった。

 菜々美は肩をつかまれている腕をとり、強引に引き剥がした。すぐに両手を伸ばし、鬼頭の肩を力いっぱい押した。ぎゃっ、と声を上げ、軽量の鬼頭が後ろに転がっていく。その隙に菜々美は立ち上がった。

 鬼頭が後頭部をソファの脚にぶつけた。頭を押さえて顔を歪めている。菜々美は身体の向きを変え、出口に走った。ドアの前に立つ。

「待て」

 鬼頭のしわがれた声がして、どずどずと床を踏み鳴らす足音が背後に迫ってきた。菜々美は構わずノブに手をかけた。

 ドアを引いた瞬間、右肩をつかまれた。何よっ、と叫びながら振り返る。

 同時に、凍りついたように動けなくなった。

 顔じゅうに汗を浮かせた鬼頭が、肩で息をしながら菜々美を睨んでいた。右手で菜々美の肩をつかみ、振り上げた左手には大きな包丁が握られていた。銀色の刃が、キッチンの窓から差し込んだ陽を受けてギラリと光った。

 菜々美は息を呑んだ。吸い寄せられたように包丁から目が離せなかった。

「殺してやる」

 低く、うめくようにいい、鬼頭が包丁を持つ手をさらに上げた。

 菜々美は思い切り悲鳴を上げた。

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