第27話

 蛭川は厚く柔らかなカーペットの上を歩いていた。

 両側に扉が並んだ広い廊下は静まりかえっていた。大きな花瓶に活けられた生花の香りが、ほのかに漂っている。柔らかな間接照明、ベージュを基調とした清潔感のある内装は一流ホテルにふさわしい風格を感じさせた。

 いちばん奥の扉の前に立った。ドアノブにドントディスターブの札が掛かっている。蛭川はかまわずインタフォンのボタンを押した。

 内側から鍵が開く音がして、扉が小さく開いた。ドアチェーンはかかったままだった。

 狭い隙間から全身を黒で統一した男が見えた。大きなサングラスで顔を隠し、黒いパーカーをすっぽりと被っている。

「約束は十七時四十八分でしたな」蛭川は手に持ったスマホで時間を確認した。

 黒い男はその言葉に頷き、扉を閉めた。ドアチェーンが外れる音がして、ふたたび扉が開かれる。男が身体を退かせて、「入れ」と中に促した。

 蛭川は部屋の中に脚を踏み入れた。ダブルベッドと、窓際に小さなソファが向かい合って設置されているだけの小さな部屋だった。黒い男の他には誰もいなかった。と、いうことは今の男が『鵺』なのか…………。

 男が蛭川の隣を通り過ぎて、ソファに座った。「座れ」と目の前のソファを指差す。蛭川はいわれるままに男の向かいに腰を下ろした。

 蛭川はあらためて目の前の男を観察した。ソファに背を伸ばし、両手を肘掛けに広げている。身長は百七十センチくらい。ゆったりとした服に全身を包み、顔には大きなサングラス、黒い手袋をしているので、体格も年齢もよくわからない。だが声色や露出している肌の色、張りから推し測ると三十歳前後か。思っていたよりも男が若く、蛭川は内心驚いていた。

「あんたが鵺ですか?」

「そう思ってここに来たんじゃないのか」

「それはそうなんだが、私は鵺って人がもっと年寄りだと考えていたんでね。いや、もちろんこれは私の勝手な推測なんだが」

 蛭川は答えたものの、同じ考えを鵺に対して持っている連中は多いはずだ。いや、ほとんどといってもいいだろう。何といっても鵺は伝説のような存在の男だ。実在しないという者もいるくらいだ。蛭川は鵺を、海千山千の妖怪めいた老人と想像していた。

 もっとも蛭川は、まだ目の前の男が本当に鵺だと信じているわけでもなかった。

「噂の鵺さんにお目通りが出来て光栄だ、といいたいところなんだが――」蛭川は前かがみになり、両膝に肘をつけた。「そもそも私に何の用件なんですか」

 霧郎から蛭川に電話があったのは、小田島菜々美と会った直後だった。用心深い霧郎が連絡をしてくることなどめったになく、たまにあっても盗聴を恐れて二言三言しか喋らない。

 そんな霧郎からの指示が「鵺に会え」だった。蛭川が何を訊こうと、霧郎はいっさい聞く耳を持たず、ただ待ち合わせの時間と場所を伝えて一方的に電話を切った。だから蛭川は、なぜ鵺と会うのか、鵺と霧郎がどういう関係なのか、をまったく知らなかった。だが、霧郎の口から鵺の名が出たことと、鵺の伝説を考えれば、霧郎の背後にいるのが鵺なのだろうとは、おおよそ想像がついていた。

「お前、ずいぶん勝手な動きをしているようだな」大きなサングラスの下の赤い唇が動いた。

 ほう、と蛭川は目を細めた。鵺に対して恐れはまったくなかった。刑事として接してきた犯罪者の中には、もっと危険な奴がたくさんいた。

 蛭川は長年の刑事の経験から、目の前の犯罪者がどれほど危険な人間か、向かい合った瞬間にわかる自信があった。

 鵺は噂ほど危険な男ではない、それが蛭川の実感だった。

「勝手とは聞き捨てならんな。少なくとも私は、あんたから指示を受けているという認識はないんだがね。それに――」蛭川は口端に冷ややかな笑みを浮かべ、顔を前に出した。「あんた、本当に鵺なのかい?」

「俺のいったことに、身に覚えはないということか」

 蛭川の揺さぶりにも、鵺はまったく動じる様子はなかった。相変わらず唇だけを動かすような話しかたで訊いてくる。

「さあ、何のことなのかさっぱりわからんね」

 蛭川は両手を広げ、わざと大袈裟に顔を振った。目の前の男が鵺本人だと確信できるまで、惚けるつもりだった。実は男は替え玉で、本物の鵺は別室でこのやりとりを聞いている可能性だってあると蛭川は考えていた。

「小田島菜々美に、ずいぶん余計なアドバイスをしたようだな」

 鵺のそのひと言で、自分が監視されていることを蛭川は知った。そして――

「風間か? 奴から聞いたんだな」

「お前の行動は、シナリオ全体に大きな影響を与える。なぜ、小田島にあんな話をした?」口元を歪める。「正義感の欠片でも残っていたのか」

 その言葉を聞いて、鵺が笑ったのだと理解した。

 蛭川も口端に意識した笑みを浮かべた。

「さあねえ、こう見えても刑事――」

「もういい」蛭川の言葉を遮って、鵺が立ち上がった。顔を覆っていたフートとサングラスを外す。

 蛭川は鵺の顔を見るなり、ソファから腰を浮かせた。

「あんた…………」

「つべこべいわずに俺のいうとおりに動け、このままでは計画が破綻する」

 鵺がすべてを露わにした顔でいった。

 声が出なかった。蛭川はソファから中途半端に腰を浮かせた姿勢のまま、ただ鵺の顔を見ていた。

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