第26話


 菜々美は部屋に戻るなり、バッグを床に放り投げた。そのままベッドにうつ伏せに倒れこむ。

 いろいろなことがあり過ぎて、身体も頭もとにかく疲れていた。目を閉じるとすぐにでも眠ってしまいそうだった。

 うとうとし始めたところで、インタフォンが鳴った。菜々美は立ち上がる気になれず、枕に顔を埋めたまま動かなかった。

 いつまで経ってもインタフォンの音は鳴り止まなかった。まるで菜々美が部屋にいることをわかっているかのように、何度も鳴り続けている。

(もう…………何なの?)

 菜々美は居留守を諦めてベッドから起き上がった。後頭部の髪に指を差し入れ、上下に動かしながらインタフォンに歩いた。

 画面に蛭川と風間が映っていた。

『はい、何でしょうか』菜々美は不機嫌さを声に出していった。

『小田島さん、お休みのところ申し訳ありません』

 蛭川がしわだらけの顔に笑みを浮かべて、前かがみになった。画面いっぱいに蛭川の顔が広がり、映像がぼやけた。『ちょっとお話させていただきたいことがあるんですが、宜しいですか』

『どういう話でしょうか』

『それはちょっと、ここでは…………』蛭川がわざとらしく周りに顔を巡らせた。

 菜々美は聞こえるように大きくため息をついた。確かに、エントランスで押し問答をしているのも人目に悪い、と思った。

『どうぞ、お入りください』

 インタフォンの『解錠』のボタンを押した。エントランスのドアが開き、刑事たちが入っていくのが見えた。

 しばらくすると、またインタフォンが鳴った。菜々美は扉に進み、鍵を開いた。

「どうも、申し訳ありませんな」

 蛭川が白髪に手を当て、小さく頭を下げた。隣の風間は相変わらず固い表情で菜々美を見下ろしている。

「どうぞ」

 刑事たちをソファに促して、菜々美は向かいの床に座った。

「お茶でも」と腰を浮かせる。

「あ、お構いなく」蛭川がいった。

「そうですか」

 菜々美はすぐに腰を戻した。最初からお茶など出すつもりはなかった。

 蛭川が前かがみになり、開いた両脚の間で指を組んだ。

「昨日、木嵜さんと会ってらっしゃいましたな。どういう用件だったんですか」

 その言葉で、菜々美は自分が監視されていたのだと知った。

「特に用件っていうものでもないです。大学の後輩と先輩として食事をしただけです」

「なるほど」

 蛭川がじっと菜々美を見つめた。「具体的にはどういった話をなさったんですか」

「どうしてそんなことを話さなきゃいけないんでしょうか。ひょっとして私って疑われてるんですか。有り得ないですよね、だって慧吾を最初に見つけたのは私なんですよ」

 ひと息に喋った。監視されていたことといい、菜々美を疑った態度といい、気分が悪かった。

「まあまあ小田島さん」

 蛭川が苦々しげに笑い、風間に顔を向けた。風間は無言で頷き、ソファから立ち上がった。そのまま部屋を出て行ってしまう。

 唐突に菜々美と蛭川だけが部屋に残された。

 菜々美は唖然として風間が出ていった扉を見つめた。

 混乱していた。どうして風間は部屋から出ていったのか、何が起こっているのか。まさかいきなり襲ってくることはないだろうけれど、とにかく訳がわからなかった。

「何なんですか」

 菜々美は蛭川に顔を向けた。自然と顎を引き、身体に力が入っているのがわかった。

「そんなに緊張なさらなくても大丈夫ですわ」

 蛭川が声を上げて笑った。わざと菜々美の緊張を解こうとしているようにも見えた。「私がここに来たのは、小田島さん、あなたが心配だからですわ」

 菜々美は答える代わりに片方の眉を上げた。言葉の意味がわからなかった。

 蛭川がソファにもたれ、窓に目を向けた。

「人間、歳をとってきますとね、独りごとが多くなるんですわ。これも、そんなうちのひとつです」遠くを見るような目でいい、「木嵜陽介さんのことですけどね。もう会われないほうがいいんじゃないか、と思うんですわ」

「…………なぜでしょうか」

「あなたの身の安全のためです」菜々美を見ず、窓に目を向けたまま答えた。

「ちょっと、ごめんなさい。意味がよくわからないんですけど」

 その言葉に蛭川が菜々美に顔を戻した。目つきが鋭くなっている。

「奴は…………木嵜陽介は、生まれながらの殺人鬼です。もう近づかないほうがいい」

「そんな…………」馬鹿馬鹿しいと思ったけれど、蛭川の真剣な目に言葉を止めた。「何の理由があって、そんなことをいうんですか」

 蛭川が口の前で拳を作り、空咳をひとつした。

「木嵜陽介は八歳のとき人を殺してるんですわ。それも妹の腹を刃物で切り裂いて、その中に人形を押し込むっていう残忍な手口でね。」瞼の弛んだ目をさらに細めた。「その理由は何だと思います? 『楽しかったから』、『いちど人間を殺してみたかった』、ですわ。奴はコロシを楽しんでます」言葉を止め、じっと菜々美を見つめる。

 菜々美は思わず口元を手で押さえた。そうしないと悲鳴を上げてしまいそうだった。

 沈黙が落ちた。菜々美は目を見開いたまま、どす黒い蛭川の顔を見詰めていた。

「警察も八歳の子どもを刑務所に入れることはできませんのでね、児童自立支援施設ってところに送るんですが、そこを出た後、奴は遠い親戚の男性の養子になるんですな。木嵜ってのは、その親戚の苗字で、差別を避ける為に下の名前も変えとります。あ、母親は事件後自殺しましてな、父親は息子の引き取りを拒否したんですわ」

 蛭川は饒舌だった。表情からはわかりにくけれど、興奮しているのかもしれない、と思った。

「でも、それって八歳の頃の話ですよね。今の彼はもう…………」

「木嵜陽介を預かった男性は、一年後、アパートの階段から足を滑らせて半身不随になっとります。木嵜はその後、保護観察司に預けられるんですが、その人も一年後、同じように階段から落ちて死んでいます」蛭川が顎を擦りながらいった。「いずれも事故として警察は処理しとりますけどね、私はそうじゃないと睨んどります。ま、警視庁の私が県警の捜査には口を挟めませんがね」

「陽介君が…………殺した、っていうんですか」

 蛭川が顔を歪めて頷いた。

「間違いない…………でしょうな」

「蛭川さんが、そう仰る理由は何ですか」

 菜々美は蛭川の口元を見詰めながら訊いた。よく動く唇が、なぜか別の生き物のように思えた。

 菜々美の問いに、蛭川がふーっ、と息を吐き、ソファに背を伸ばした。

「事件直後、木嵜を診断した医者と話す機会がありましてな。彼曰く、『木嵜陽介は生まれながらのサイコパス』なんだそうですわ」

 サイコパス、と菜々美は声に出さずに口の形だけでいった。

「サイコパスっていうのは、育った環境が原因のものと先天的なものがあるんですが、木嵜陽介は後者のほうだそうです。いわゆる生まれながらの殺人鬼、ってことですな」菜々美から視線を外し、窓の外を見た。「医者がいってましたわ、『あれは治らない。治せるものじゃない』ってね」

「まさか…………」

 菜々美は言葉を失っていた。口の中がからからに乾き、心臓の鼓動が速くなっていた。

「サイコパスと診断された木嵜の周りで、次々に不審な事故が起きる。これが偶然だと思いますか。むしろ私の話のほうに説得力があると思いませんかね」

「あの…………」菜々美は床から立ち上がった。

「ちょっと飲み物を取って来ます」

「ああ、お構いなく」

「いえ、私が飲みたいんです」

 コップを二つ取り出し、ペットボトルに入った緑茶を入れた。一つを手に取りその場で飲みほす。まだ鼓動が収まっていなかった。胸を押さえ、落ち着くのを待った。

 しばらくして菜々美はキッチンを出た。両手にコップを持ち、ひとつを蛭川の前に置いた。

「すいませんな」

 蛭川が手を伸ばし、お茶をすすった。菜々美もその場に腰を下ろした。

「ひとつ訊いてもいいですか」

 菜々美の言葉に、蛭川がコップを口につけたまま、左手を上げた。「どうぞ」という意味だと理解した。

「蛭川さんは、どうしてそんなに詳しいんですか。まるで――」

「見てきたみたいだと?」

 お茶をテーブルに戻し、蛭川がにやりと黄色い歯を見せた。「木嵜の手首の痣を見た事がありますか。けっこう大きくて変わった形の痣です」

 いえ、と菜々美は顔を振った。

「私はね、木嵜陽介が最初の殺人を犯したときの捜査担当だったんですよ。それからずっと奴の動きは把握してましてね。いつか、こういうことが起こると思っていました。それに、いくら名前を変えて住処を変えようが、あの痣を見ればすぐに本人だと確定できる」

 菜々美はテーブルの上に身を乗り出すようにして、顔を前に突き出した。

「蛭川さんは、いえ、警察は陽介君が慧吾を殺したと考えているんですか」

「そこはまだ何とも…………しかし、木嵜と安里美さんがここの近くのファミリーレストランで会っているところを目撃した人が見つかってましてな。二人に面識があることを、小田島さんはご存知でしたか」蛭川は陽介を木嵜、と呼び捨てにした。

「いえ、何も…………」

「木嵜には事件当夜のアリバイがないんですわ」蛭川が前かがみになった。「奴の周りでは何人も人間が死んでいる。そして今回の件です、私には偶然とは思えんのです」

「でも、どうして陽介君が慧吾を――」

 殺した、という言葉を口にするのが躊躇われた。

「殺したいから殺した…………、そういうことでしょうな」

 吐き捨てるようにいい、蔑んだような冷ややかな笑みを口端に浮かべる。「奴は、人を殺すことにいっさいの罪悪感を持たんのですわ。だから邪魔だと思ったら、ためらいなく殺す。小田島さん、あなた、木嵜と何か揉めごとを抱えてないでしょうな」

 菜々美の脳裏に、おととい居酒屋で見た陽介の目が浮かんだ。俯きぎみの額越しに、細めた目で菜々美を見つめていた。濡れた眼球が充血して、赤く光っていた。

――俺の人生をめちゃくちゃにしたな。

 賑やかな店内でも耳に届いた陽介の呟きを思いだし、今さらながら背筋をぞっと冷やした。

 自分でも怯えた顔をしているのだろう、と思った。蛭川が、菜々美が答えるより先に口を開いた。

「もし思い当たるところがあるのなら、いったんこの家を離れたほうがいいですな。もちろん木嵜には黙って」

「でも、まさかそんなことで…………」いってから、揉めていると認めたも同然だと思った。

「悪いことはいわない、とにかくそうしなさい。これは刑事としてでなく、ひとりの人間としてあなたに話しとります。警察組織の人間としては、絶対に話してはならんことを私は口にしている。こんなことが表に出たら、間違いなくコレですわ」

 蛭川が自分の首の前で、親指を立てた拳を右から左に動かした。

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