第25話
テーブルに載せたスマホが震えた。画面を見ると『小田島菜々美』と表示されていた。
真田はスマホを手に取り、耳に当てた。ラウンジの入口に目を向ける。
背が高くスラリとした女が、傾けた顔にスマホを当てて立っていた。背中まで届く長い髪が鏡のように輝いていて、目鼻立ちがはっきりしている。写真で見た通り美しい女性だった。
『小田島さん、こちらです』
真田はソファから立ち上がり、右手を上げた。
小田島菜々美が真田を見て、小さく頭を下げた。スマホから耳を離しこちらに歩いてくる。腰の位置が高く、スカートから伸びた膝下が長い。脚をクロスさせて歩く姿は、まるでファッションショーのモデルを見ているようだった。
菜々美が向かいの席の横で立ち止まった。長い睫毛に囲まれたアーモンド型の目で真田をじっと見る。そのまま引き込まれてしまいそうな深い瞳の色をしていた。
笹原はスーツの上着から名刺入れを取り出し、一枚抜き出した。菜々美に差し出す。
「弁護士の真田幸市です」
右手を伸ばして、席をすすめた。「まあ、おかけください」
失礼します、と菜々美が腰を下ろした。背筋を伸ばして浅く座った姿も美しかった。
「お忙しいところお呼びだてして申し訳ありません」真田も席に腰を戻した。
「いえ、大丈夫です。特に忙しくありませんから」
真田をまっすぐ見詰め、表情も変えずにいった。真田はそのひと言で菜々美の性格がわかったような気した。
(なるほど…………なかなか気の強そうな女性だ)
口元に意識した笑みを浮かべたまま、真田は思った。それはそれで説得のしがいがある。
真田は手を上げてウェイトレスを呼び、コーヒーのお替わりを注文した。菜々美はロイヤルミルクティーを頼んだ。
「僕が安里美の会社の顧問弁護士をしていることは、電話で申し上げたとおりです。同時に安里美とは高校時代からの友人でしてね、プライベートでも付き合いが長い。そういう関係で小田島さんのことも安里美からは聞いていました」
「そうですか」
菜々美が一度目を伏せ、また真田を見た。安里美の名前を聞いても特に表情に変化はなかった。
真田はテーブルの上で指を組み合わせ、上体を前に倒した。
「小田島さん。安里美の会社が赤字経営、それもかなり危機的な状況にあったことはご存知でらっしゃいましたか」
その言葉に、初めて菜々美の顔に変化が現れた。きれいに整えられた眉を寄せ、悲しそうな目つきになる。「えっ」と口元に手をやり、美しく整えられた眉毛がきゅっと上がった。
「この前、担当している刑事さんから聞きました。正直、ショックでした本当ですか」
「残念ながら事実です。資本金も食いつぶして、闇金からも高利の借金を重ねています。もちろんそんなところからの借金は返す必要などありませんが、銀行から借り入れていた金は全額、生命保険で充当されることになると思います」
飲み物が運ばれてきた。真田はいったん言葉を区切った。ウェイトレスが席を離れてから再び口を開く。
「従って今の安里美には、財産らしきものがまったく無いというのが現実です」
「そうなんですか」菜々美の肩が揺れた。
真田はひとつ頷いた。
「小田島さんが、安里美の会社の株主であることは僕も知っています。他にもお知り合いの方で投資していらっしゃる方が何名かおいでになります。僕の仕事はひとまず、そういった方々とひとりひとりお会いして、安里美の会社の現状を包み隠さずお話することなのです」
「慧吾の負債はどれくらいあるんでしょうか」
「それは申し上げられません。幸いにして銀行筋のものはきれいに返済ができますから、それだけが救いです」
真田はネクタイに手を添えた。「安里美は天涯孤独な奴でして、大学もアルバイトを掛け持ちながら学費を稼いでいました。いまどき珍しい苦学生ですよ。ですが苦労しているだけに、人間的にはとてつもなく優しい奴でした。学生時代、僕が危なっかしい詐欺商法にひっかかっちゃいましてね、親が振り込んでくれた学費を全額騙し取られちゃったんです。僕は親に相談することもできずに、真剣に大学を辞めようかと考えていました。そしたら――」
真田はそこまでいって声を詰まらせた。目頭を押さえる。しばらくのあいだ、その姿勢を維持してから顔を上げた。「安里美が金を貸してくれたんですよ。奴だって余裕なんて全然ないですよ、だけど自分の親友がたった数十万円の金で人生を棒に振ってしまうのは見ていられないって、自分の生活費を削れば何とかなるから、って貸してくれたんです。正直、僕はそのときまで安里美のことを親友だなんて思ったことはありませんでした。でも奴は僕のことを親友といってくれた。それからです。僕も奴のことを、人生でいちばん大切な親友だと思えるようになったのは」
「そうだったんですか」大きな目に涙をいっぱいにためたまま、菜々美がいった。膝に載せたバッグからハンカチを取り出し、まぶたを押さえる。「よくわかります。彼らしいわ」
「それが、あんな死に方をするなんて…………」
真田はテーブルを手のひらで叩いた。「この世には神も仏もないものか、と本当に思いますよ」
菜々美はハンカチを目元に当て、顔を俯かせていた。ときおり鼻をすすりあげている。
「小田島さん」
真田はできるだけ穏やかな声でいった。「こんなときに、このような話をするのは大変心苦しいのですが、できるだけ綺麗に安里美を送ってやりたいのです。その点をご理解いただいて聞いてください」
「わかりました」
菜々美が俯いたまま鼻声でいった。小さく何度も頷いている。
「ありがとうございます」
真田は頭を下げ、隣の椅子に置いた鞄から書類封筒を取り出した。「先ほど申し上げたとおり、安里美には資産といえるものがまったく残っていません。従って小田島さんがお持ちの株式も紙屑となります。この点をあらためてご理解いただきたいのです」
封筒から紙を取り出し、裏側を上にして菜々美の前に差し出す。
「資本主義の世の中です。投資は自己責任が大原則です。従って、このようなことを弁護士である僕がする必要もないのですが、とにもかくにも安里美が亡くなった後に、揉め事を起こしたくはないのです。幸いにして、投資をいただいた皆様にはいまのところ全員にご理解をいただいております」
菜々美が書類を手に取り、書かれた文字に視線を走らせた。
「今後いっさい、投資した金額が戻ってこないことに対して異議を申し立てない、との同意書です。このように書面にしてしまうと、とても嫌な感じに思われるかもしれませんが、法律というものはそういうものなのです。申し訳ありませんがご了承ください」
そういって真田は菜々美を見つめた。菜々美は真剣な顔で書類を見ている。
真田はそれ以上、喋らなかった。今ここで説得めいた言葉を口にするのは逆効果だ。じっくりと自分の頭で考え、自分で決断させる。それが後々、話をこじらせないためのコツだ。
菜々美が読み終えた書類をテーブルに戻した。背筋を伸ばし、じっと書類に目を落としている。
真田はそのさまを黙って眺めていた。
やがて菜々美が目を上げた。アーモンド型の目に強い決意が込められているのがわかった。
「慧吾が経営の状態を私に話してくれなかったのは、とても悲しいです。でも彼が正直にいえなかった理由の一端は私にもあると思います。きっと知らず知らずのうちにプレッシャーをかけていたんだと…………」いったん視線を落とし、すぐに戻した。「書くものをお持ちですか」
真田は上着の内ポケットからボールペンを取り出し、菜々美に渡した。
「ここに署名をすればいいんでしょうか」
「お願いできますか」
菜々美が小さく顎を引いた。
「他の方も同意されているんですよね。私だけ反対するなんてできません。それに真田さんがいうように、私も…………」一瞬だけ眉を寄せ、声を詰まらせた。「私も慧吾をきれいに送ってあげたいですから」
「有難うございます」揃えた膝の上で両手を重ね、深々と頭を下げた。
真田は俯かせた顔に笑みが浮かびそうになるのを、必死に堪えていた。
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