第24話

 その日の夜、菜々美は居酒屋にいた。

 安さが有名なチェーン店で、広いフロアには学生やサラリーマンの姿が多かった。客の話し声や笑い声が店内に満ちている。半分襖が閉じられた奥の座敷からときおり歓声が上がっていた。

 今の菜々美にはこれくらい賑やかなほうがよかった。静かな部屋の中でじっとしているといろいろなことが頭に浮かび、意味もなく落ち込んでしまいそうになる。

 だから『飲みに行きませんか』と、陽介のメッセージが入ったときは嬉しかった。陽介とはお互いに置かれている状況が似ているし、今の気持ちを分かち合えるのも陽介しかいないと思った。それに替え玉入社の件で自宅謹慎を命ぜられた日、感情にまかせて電話をかけたこともきちんと謝りたかった。何より本当に陽介が替え玉入社を誰かに頼んだのか、なぜそんなことをしたのか、を陽介自身の口から聞きたかった。

 生ビールが運ばれてきた。

「じゃあ乾杯っていうのも変だけど」

 菜々美はジョッキを掲げた。向かいに座った陽介は、視線を俯かせたまま無言でジョッキに口をつけた。

 今日の陽介は元気がなかった。いつも微笑んでいるような口元も真一文字に結ばれていて、菜々美と視線を合わそうともしない。

 彼の身の上に起こっていることを考えれば当たり前なのかもしれない、けれども菜々美を誘ったのは陽介だ。その態度にどことなく違和感があった。

「粧生堂から内定取り消しの連絡がありました」

 ジョッキをテーブルに戻し、陽介が目を上げた。この店に入って初めて菜々美をまっすぐに見た。

「そうだったの」

 菜々美もジョッキを置き、背筋を伸ばした。陽介の視線を受け止める。

 やはりそうだったか、と思った。久野からそれらしいことは今日聞いていたし、むしろ久野としてはずいぶん仕事が早いな、と思った。

「そうだったの、って…………」陽介がつるんっとした顔をしかめた。口の端にしわを寄せ、唇が斜めに歪んでいる。「それだけですか」

「えっ」

「何でいってくれなかったんですか。僕の替え玉入社に菜々美さんが関わってるって。僕、相談しましたよね」陽介の目に怒りが滲んでいるのがわかった。

 菜々美は唖然とした。陽介の性格からいって、真っ先に迷惑をかけたことを詫びてくるものだとばかり思っていた。陽介の言葉はあまりにも意外だった。

「もう僕の人生は終わりですよ。全部あんたのせいだ」陽介がそういってジョッキをあおった。

 最低、と思った。不正な手段で内定を得ておきながら、それがばれて内定を取り消されると、今度はそれが菜々美のせいだという。いいことも悪いこともすべて他人任せで、自分では何ひとつ努力しない。

 こいつって、こんなに情けない奴だっけ――。

「やってない。私は陽介君の替え玉入社にいっさい関わっていない」菜々美は強くいった。

「じゃあ、誰がやったんですか。菜々美さん以外に僕のことを知っている人は粧生堂にいないじゃないですか」テーブルに両腕を立て、頭を抱えた。「何で最後まで黙っていてくれなかったんですか…………」後半は涙声だった。

「陽介君は認めるのね。替え玉入社を」

 菜々美は怒りを抑えながら、肩を震わせている陽介に訊いた。ここで感情的になったら本当のことが聞けないと思った。

 陽介が顔を上げた。泣いていたはずなのに、頬も濡れておらず目も赤くなかった。

「認めますよ、僕がやりました。申し訳ありませんでした」頭も下げずにいった。ほとんどやけくそのような態度だった。

「誰に頼んだの。どうしてそんなことをしたの」

「理由を訊きたいのは僕ですよ。何で裏切ったんですか」

 だから、と菜々美は上体を引いた。あやうく声を荒げそうになった。「やってないっていってるでしょ。そもそも陽介君は協力者が誰かを知らないの」

「知ってますよ。菜々美さん、あなたですよ」

 陽介が右腕を上げ、菜々美を指差した。

 菜々美は、はあーっ、と息を吐き、肩を落とした。まったく話にならないと思った。

 ジョッキに手を伸ばし、喉を鳴らして中身の残りを呑みほした。どん、と音をたててテーブルに置く。

「確かに陽介君から話は聞いたわ。でも最初は冗談だと思ったし、あとで確認したら、正規の手続きを経て入社してるってわかった。それでも何となくもやもやしてたんでもうすこし調べてみようと考えたこともあった。けれど、慧吾が裏がありそうな話だからあまり踏み込まないほうがいいっていってくれたわ…………。だから私はもうそれ以上、調べるのはやめたの」

 ひと息に喋った。慧吾の名前を口にした瞬間、思わず声が詰まった。陽介の姿が滲んで見えた。菜々美はバッグからハンカチを取り出し、まぶたを押さえた。

 涙をぬぐうと、ぼやけていた陽介の顔がはっきりと見えた。椅子にもたれ、俯きぎみの顔のまま、額越しに菜々美を見ている。大きな目が半分になるくらいに細められていて、白目が赤く充血していた。こんな陽介の顔を初めて見た。

「俺の人生をめちゃくしゃにしたな」

 ぼそりと呟くようにいった。その声は、なぜか騒がしい店内でもはっきりと菜々美に届いた。深い恨みがこもっているようで、ぞくりと背筋が冷えた。

 負けるものか、と思った。陽介は菜々美が何といおうと聞く耳を持たない。もう陽介の疑いを晴らそうとするのは止めた。そのかわり、菜々美にも訊きたいことがあった。

「陽介君が何といおうと私は関係ない。それに私のほうからもいいかしら」

 陽介は答えなかった。ただ無言で顎を上げただけだった。菜々美は構わず続けた。

「はっきり訊くわ。なぜ私が慧吾を見つけたタイミングで『ジョーカー』に来たの? 学校からも自宅からも遠いし、なじみの客ってわけじゃないでしょ」

「簡単ですよ。菜々美さんを尾けたんです」悪びれた様子もなく平然といった。

「どうして」

「たまたま自宅の近くを歩いていたら、菜々美さんがマンションから出てきたんですよ。僕は菜々美さんは自宅謹慎を命じられてるって聞いてましたからね。その割にお洒落してるし、変だなと思ったんですよ。それで尾けてみようって思ったんです」

 陽介がシャツのポケットから煙草を取り出した。火を点けて煙を吐き出す。菜々美に煙がかかろうがお構いなしという態度だった。「そしたら、階段の下から悲鳴が聞こえたんです。急いで降りてみたら、あの状況ですよ。警察からも菜々美さんと同じことをしつこく訊かれましたし、まったくいい迷惑です」

 陽介の話はいちおう筋が通っていた。菜々美の自宅とは目と鼻の先だし、学生時代も偶然顔を合わせることがよくあった。警察も陽介の話が本当なのか確認をしているはずだし、たぶん嘘ではないのだろう。

 けれども――

 何となく釈然としないものが、菜々美の心の片隅に残っていた。

 突然、陽介が椅子から立ち上がった。

「じゃ、僕はこれで」

 煙草を灰皿に潰して背中を向けた。そのまま会計もせずにひとりで店を出て行ってしまう。

 あまりにも唐突だった。あっという間で、菜々美は声をかけることもできなかった。

(…………何よ、あれ)

 自分から呼び出しておいて、どういうつもりなのだろう。そもそも陽介は何がいいたかったのか。

 菜々美は会計のレシートを拾い上げ、椅子から立ち上がった。

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