第23話

 粧生堂のビルのエントランスをくぐって外に出た。またスマホが着信を告げる。画面を見ると知らない番号が表示されていた。菜々美はその画面を眺めながら歩いた。

 しばらくすると着信音が切れ、留守番電話に切り替わった。メッセージが残っているマークが表示されている。菜々美はそのマークをタップしてスマホを耳に当てた。

『小田島菜々美さんの携帯電話で宜しいでしょうか。私、株式会社プログレスの顧問弁護士をしております真田と申します。一度、直接お会いさせていただいてお話したいことがございます。お手すきの際にお電話を頂けませんでしょうか。宜しくお願い申し上げます』

 スマホを耳から離して、じっと画面を見つめた。株式会社プログレスは、慧吾が社長をしている会社だ。どんな用件なのだろう。

 菜々美は、ふと目についた植え込みを囲んだコンクリートの縁に腰を下ろした。疲れがどっと出たような気がした。スカートが汚れても構わないと思った。

 慧吾が殺され、替え玉入社の共犯者と疑われ、会社から自宅謹慎を命ぜられ、そして目的のわからない弁護士からの電話――あまりにもいろいろなことが一気に菜々美の身に降りかかっていた。気持ちに余裕がなかった。

 目の前を忙しそうに通り過ぎていくサラリーマンの姿をぼんやりと眺めた。すこしでも頭の中を空っぽにしたかった。そうでもしないと叫び出してしまいそうだった。

 しばらくしてから立ち上がった。タクシーを拾う。人の波に押されて地下鉄に乗る気になれなかった。

 シートにもたれ行き先を告げると、すぐに運転手が話しかけてきた。菜々美は「ええ」とか「そうですね」と適当に答えていたけれど、いつまで経っても喋るのをやめる気配がなかった。我慢できずに、

「ちょっと黙っててもらっていいですか、疲れてるんで」と強めにいった。

 運転手はすぐに口をつぐんだ。

 きっと可愛いげのくない女だ、とでも思ったのだろう、自宅に着くまで何度もミラーに睨みつけるような目を上げてきた。菜々美は窓の外に目を向けたまま、その視線を完全に無視した。

 お釣りを受け取り、自宅のマンションの前でタクシーを降りた。エントランスに近づいたところで、右側から男が二人近づいてきた。

 刑事の蛭川と風間だった。二人ともこの前見たのと同じようなくたびれた紺色のスーツを着ていた。

 菜々美は脚を止め、二人を見た。

 蛭川がどす黒い顔の口端に深い皺を寄せてにやりと笑う。

「小田島さん、お出かけでしたか」

「あ、ええ…………」

「会社のほうにお電話をさせていただいたのですが、お休みだと聞いたもんですからね、てっきりご自宅にいらっしゃるかと。どちらにお出かけだったんですか」

「会社です。ご存知かもしれませんけど、今、替え玉入社がどうしたこうしたと大変なんです」蛭川の言葉から、菜々美が会社に行ったことは社内で伏せられているのだと理解した。「お疑いでしたら人事部の久野課長という方に確認してください」

「わかりました。後ほど確認します」

 替え玉入社と聞いても、蛭川の表情は変わらなかった。たぶん菜々美の置かれている状況を知っているのだろう。

「それで、どういったご用件でしょうか」

 菜々美の言葉に、蛭川が周りに顔を巡らせた。

「できればここでないほうがいいんですけどな。お部屋でお話できませんかね」

「いや、それはちょっと…………」

 もともと余分なものは置いていない部屋だったので、散らかっているわけではなかった。けれども刑事とはいえ、知らない男二人を部屋に上げるのは女性なら誰でも抵抗がある。

「独身の女性に対して失礼なお願いだとはわかっていますけどね。ただ他ではどうしても他人の目や耳がありますんで」蛭川がまぶたの弛んだ目で、じっと菜々美を見た。

「いや…………でも」

「こっちは気を遣ってやってるんだ。それとも見られて困るものでもあるのかい」

 風間が菜々美を見下ろしながら横柄な口調でいった。菜々美は睨みつけたが、逆に「なんだよ」とでもいいたげに眉根を寄せて睨み返してきた。

 蛭川が取りなすように片手を挙げた。

「まあまあ小田島さん、これは殺人事件の捜査ですんでね、できるだけ関係者以外の目は避けて通りたいってのが本音なんですわ」菜々美の肩越しにエントランスに目を向けた。「それにいつまでもこんなところで押し問答していたら、逆に目立ってしまいますわな」

 菜々美も蛭川の視線の先を追って、振り返った。

 同じマンションに住んでいる中年女が怪訝そうな顔を向けて、エントランスから出てきた。何度もこちらを見ながら通りを歩いていく。

 菜々美は大きく息を吐いた。しかたがない、と思った。

「…………わかりました、どうぞ」

 旧式のオートロックのエントランスをくぐって、薄暗いエレベーターホールを通り抜けた。階段で二階に上がる。

 階段室を出て、右側に扉の並んだ外廊下を歩いた。雨水が染みて、ところどころが黒くなったコンクリートの手すりの向こうに、神社のこんもりした森と陽介が住んでいる高層マンションが見える。菜々美の部屋は二階のいちばん奥、ニ〇五号室だった。

「ちょっとここで待っていてください」

 扉の前で刑事たちを待たせて、部屋に入った。見られて困るものなど何もないが、念のために中をながめてみる。

 左手にキッチン、六畳のリビングには黒やグレーで統一したテーブルと二人掛けの小さなソファ、テレビ、ほとんど本の並んでいない本棚が置いてあるだけで、かわいらしい色遣いのものなど何もない。とても女性の一人暮らしの部屋には見えないな、と改めて思った。

 カーテンを開き、窓を開いて入口に戻った。扉を開く。「どうぞ」と刑事たちを招き入れた。

 二人掛けのソファに刑事たちを案内して、キッチンに入った。刑事たちが「おかまいなく」といいながら、目だけを動かして部屋の中を見ている。菜々美はペットボトルから入れたお茶を出して、向かい側の床に座った。

「それで、どういった内容でしょうか」菜々美は訊いた。

 蛭川がコップに入ったお茶をすすり、テーブルに戻す。

「安里美さんの当日の行動が、かなりはっきりとわかってきましてな」上着から手帳を取り出して広げる。老眼ぎみに細めた目を落とした。「あなたが安里美さんと『ジョーカー』で待ち合わせていたのは六時でしたな」

「そうです」ちょっと早く着いてしまったので、店を見ておきたくて早めに向かったことは前に話した。

「安里美さんはタクシーで、会社から『ジョーカー』の店の近くまで行ったことがわかってます。あなたと会う前に誰かと打ち合わせがあるとのことでしたが、安里美さんの会社の従業員は、そのことを知りません。本当に安里美さんは打ち合わせをしたんですかね」

「少なくとも私はそう聞いています」

「今、安里美さんの携帯の通話記録を解析しているんですがね、通話している相手の身元は全員判明しとります。そして完全とはいえないまでも全員にアリバイがある。安里美さんが携帯を複数持っているってことはなかったですか」

 菜々美は首をふった。

「聞いたことがありません。ていうか、たぶん持っていなかったと思います」

 ほう、と蛭川が眉を上げた。「どうしてそう断言できるんですか」

「私は彼と将来を約束していましたから。隠し事をするなんて考えられません」

 菜々美がいうと、風間がにやりと頬を緩め、顔を横に向けた。蛭川は変わらず鋭い目を菜々美に据えている。

「だから、安里美さんの会社に大金を投資できたんですな」

「そうです」すでに警察がそこまで調べていることに、内心驚いた。

「いくら投資なさったんですか」

「三百万円です」嘘をついても仕方がないし、その必要もなかった。

 なるほど、と蛭川が背もたれに体重を預けた。「失礼ながらまだ社会人一年目で、大手とはいえ給料はたかが知れている。そんな中で結構な大金ですな。かなり無理をなさったんじゃないですか」

 菜々美はいったんテーブルに目を落とし、ふたたび顔を上げた。

「何を仰りたいんでしょうか」

「安里美さんの会社の経営状態をご存知でしたか」

「今は自己啓発本もブームですし、業績は順調に伸びていると聞いています」

「なるほど。聞いていた、と」蛭川が風間と顔を見合わせた。すぐに戻し、「決算書を見ましたか」

「質問の意味がよくわからないんですけど」

 風間が前かがみになり、広げた両脚のあいだにだらりと手を下げた。

「安里美さんの会社は、ここ何期か赤字決算なんだよ。銀行からの借り入れも膨らんでて、借り入れを返すために新たに借り入れるといった自転車操業だ。危ない筋から借りてるって話もある。アンタ、本当にそれを知らなかったのか」口元を歪めながらいった。

 菜々美は口を開けなかった。初めて聞いた話だった。

 菜々美の顔をじっと見ていた蛭川がソファから背を離した。

「小田島さん、今回の件にはまだまだ分からないことが多くあるんですわ。そもそも犯人がどうやって店を出ていったのかもわかっていない。『ジョーカー』には出入り口か一か所しかないですし、鍵にも細工をした痕跡がありませんでした」白髪に指を立て、そのまま掻き毟るように動かした。「とにかく我々も全力を尽くしますが、なかなか難しい事件ですわ。ですんで、小田島さんもできるだけ遠出は避けてもらって、いつでも連絡を取れる状態でいてもらえませんか。よろしくお願いします」

 蛭川がそういって頭を下げた。風間も倣う。

 菜々美は蛭川の薄くなりかけた頭頂部を、ぼんやりと眺めていた

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