第22話
翌日、菜々美は粧生堂の社員食堂にいた。今朝の九時過ぎ、課長の久野から「会社に来てほしい」と連絡があった。用件は会って話をするからと、菜々美の質問を受け付けなかった。それで何となく良い話ではないな、と想像がついた。
慧吾の事件はネットニュースにも載っていなかった。いまどき人一人が死んだことなど、報道の価値もないということなのだろうか。
考えてみれば菜々美自身も、会ったことがない赤の他人が殺されたというニュースよりも、芸能人の不倫報道のほうが興味をひかれる。たぶん、そういうことなのだろうと勝手に納得していた。
食欲はまったくなかった。一枚だけ残っていた食パンをかじって、支度を始めた。きちんとスーツを着て、普段以上に気合いを入れてメイクした。落ち込んでいると思われたくなかった。
午後三時半。ランチタイムを過ぎていることもあり、客の数はまばらだった。菜々美が知っている社員の顔もない。課長の久野がこの時間を指定してきた理由がよく理解できた。けれども、何となく人目を避けているようで気分が悪かった。
久野が社員食堂の入口に姿をあらわした。菜々美はわざと人目に付きやすいように真ん中の席に座っていた。予想通り久野がすぐに菜々美を認めて、こちらに歩いてきた。
久野は菜々美と目を合わさず、無表情を顔に貼り付けたまま脚を前に運んでいる。その顔を見ているうちに、、胸の内側に無理矢理押しこめていた嫌な予感がふたたび湧きあがってきた。
菜々美は椅子から立ち上がり一礼した。久野も小さく頷き、向かいの椅子に座る。菜々美も腰を下ろした。
久野がこれみよがしに大きくため息をついた。菜々美から顔をそらして横を向き、テーブルの上で両手を組んだ。向かい合っているだけでも不快だという態度を隠そうともしなかった。
ツイッターは相変わらず粧生堂を巡って炎上していた。久野がマスコミの対応に忙殺されていることはたぶん間違いがないだろう。だが、それだけのことで久野が感情を態度にあらわすような人間でないことは菜々美もよくわかっている。たぶん何か菜々美にとって決定的に不利な材料が出てきたのだろうと想像できた。
「小田島さん」
久野が眼鏡を中指で押し上げ、菜々美を見た。レンズの奥の目が鋭かった。「とにかく今日は何ごとも包み隠さずに話してもらいたいんです。約束していただけますか」
「もちろんです。ていうか、私は嘘なんかついていません」
菜々美はまっすぐに久野を見つめたまま、断言した。
だが久野は、そうですか、と熱のこもらぬ様子でひと言発しただけだった。菜々美の言葉などかけらも信じていないという顔だった。
久野はスマホをテーブルの上に置いた。
「今からの話は録音させていただきます。そのほうがお互いのためですから」
久野の言葉に、菜々美は動揺が顔に出るのを必死におさえた。久野の菜々美に対する不信感の根深さに驚きすら感じていた。
「結構です」
菜々美は意識して背筋を伸ばした。ぜったいに負けない、と何度も心の中で繰り返した。
「あなたは数日前、鬼頭主任に木嵜君の内定の経緯を訊いたことがありますね」
「あります」
あれは陽介とのランチで初めて不可解な内定の話を聞いた日だった。その後、リフレッシュルームで鬼頭主任とコーヒーを飲みながら話をした。
「なぜ、その時点で木嵜君の内定を知っていたのですか」
菜々美は眉をひそめて見せた。「ちょっと質問の意味がわからないのですが」
久野が、なるほど、とつぶやき
「あなたから訊かれたときは、鬼頭主任も特段気に掛けなかったようです。ですが、よくよく考えてみればそのタイミングであなたが木嵜君の内定を知っていたのは不可解なんです。なぜなら木嵜君の場合、あまりにも経緯が特殊だったので人事部経験の浅いあなたにはまだ話さないでおこうと、鬼頭君と示しあわせていたからです」椅子にもたれ、脚を組んだ。「なのに、あなたはそれを知っていた。しかもあなたは木嵜君と連絡は取っていないといっていました」
久野が、組んだ膝の上で細くて長い指を組み合わせた。「なぜ、木嵜君の内定を知っていたのですか」
菜々美はその言葉を聞いて、思わずぷっ、と噴き出してしまった。久野の刑事を気取った言葉遣いがどうにも可笑しかった。
「何か可笑しいのですか」久野が綺麗に整えられた眉のあいだに、深い皺を刻んだ。
「木嵜君から聞いたにきまってるじゃないですか。そんなの明らかなのに、大きな謎みたいな言い方をするなんて、ちょっと大袈裟過ぎて――」菜々美は笑いながらいい、肩を揺らした。
久野の顔がみるみる赤くなっていった。
「だってあなたは、木嵜君と会っていないといいましたよね」
「言おうと思ったんですけど、久野課長が私の話を遮ったんです。本当は、鬼頭主任と木嵜君の内定の話をした日のランチで、木嵜君から聞いていたんです」口元に手をやりながら続けた。「そのときに今、いわれているようなことも聞いていました。でも正直言って冗談だと思っていました」
久野は視線を左右にさまよわせた。眼鏡を押し上げ、オールバックの髪に手を当て、とたんに落ち着きがなくなった。一流大学を出て一流会社に入り、順調に出世の階段を昇ってきた苦労知らずの久野にとって、大学生に毛の生えたくらいの小娘に笑われるなど、プライドが許さないのだろう。
久野が横を向いて何度か空咳をした。最後に大きく咳をして菜々美に向きなおる。菜々美も表情を戻した。
「まあ、しかしですね。木嵜君の件はいわば〝会長案件〟です。ここまで騒ぎが大きくなってしまうと、内定を見直さざるを得ません。この点は会長にも了解をいただいています。そして、もちろん木嵜君本人も伝えています」
菜々美は身を乗り出し、テーブルに両手をついた。
「認めたんですか、木嵜君も」
久野が微苦笑した。「認めるも何も。何をかいわんやですよ」
「…………そうですか」両肩をがっくりと落とし、背もたれに体重を預けた。
やはりマスコミで報道されていることは本当のことだったのか――なぜ内定が出たのかもわからないといった陽介の言葉も嘘だったのだ。
「小田島さん、木嵜君も正直に話してくれています。あなたももう嘘はやめなさい」
落ち込んだ菜々美の姿を見て、久野は菜々美が観念したと勘違いしたのだろう。勝ち誇ったような笑みを口端ににじませて訊いてきた。
菜々美はその顔を見て、かちんときた。久野は私を陥れようとしている。
敵だ、と思った。
「あっ、久野課長。私は全然っ、嘘なんかついていませんから。それは最初から変わりません」わざと大袈裟に顔の前で手を振って、笑みを作った。
「…………そうですか」
久野が真顔になった。耳の端が赤く染まっている。
「そうです」菜々美も真顔で答えた。ここで弱気になったら負けだ、と思った。
久野が上着のポケットから折りたたんだ紙を取り出した。広げて菜々美の前に押し出す。陽介の履歴書のコピーだった。
「これは最後まで話さないでおこうと考えていました。私もできるだけ穏便に済ませたいと考えていましたからね」
菜々美は陽介の履歴書と久野を交互に見た。
「どういう意味でしょう」
「鬼頭主任から申し出がありました。彼女もこの騒動でずいぶん責任を感じていたようです。よくよく冷静になって記憶を辿ってみた結果、この履歴書の木嵜君と面接したときの木嵜君は別人だそうです」眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げ、「髪型や雰囲気はよく似ているけれど、完全な他人だといっています」
「そんな…………」
もういちど履歴書に目を落とした。陽介がすました顔をして菜々美を見上げていた。
どうして鬼頭主任はそんなことをいったのだろう、と思った。PCに保存された陽介の写真を指差して「ほら、間違いないでしょ」と菜々美に示したのは、ほかならぬ鬼頭主任だった。陽介のことを「よく憶えている」ともいった。
それに――
菜々美は履歴書から目を上げた。
「久野課長、課長も面接には立ち会ってらしゃいますよね。課長も別人だとお考えですか」
「ええ、もちろんです」
「この前、会議室に私が呼ばれたときは、そうは仰っていなかったですよね。よく憶えていないと課長は仰いました」久野の目に一瞬だけ躊躇いが浮かんだのを見逃さなかった。きっと久野は同一人物かどうかに自信がないのだ。
けれども久野は、話の途中から手を振って否定した。
「憶えている、いないは水掛け論になってしまいます。そんなことより、あなたに訊きたいことがあるんです」
うまく逃げられた、と思った。でも久野のいうとおり、憶えている、いないをここで言い合ってもらちが明かないと菜々美も思った。
「何でしょうか。訊きたいことって」椅子に座りなおして、背筋を伸ばした。
「前に木嵜君の履歴書の写真のデータが加工されているという話をしたと思います。憶えていますか」
「憶えてます」
確か、久野の知り合いの社内のシステム担当に調べてもらったという話だった。
「今回の騒ぎがありましたので、正式に社内のシステム担当に調査を依頼しました。そして画像の加工作業が、小田島さん、あなたのPC上で行われていたことが判明しました」
久野がテーブルの上に覆いかぶさるようにして、顔を近づけてきた。「あなた、これをどのように説明するのですか」
「有り得ないです」菜々美は上体をのけぞらせ、大きく首を振った。「そんなこと有り得ません」
「有り得ないと言われてもねえ…………」
久野が渋面を作った。「もう言い逃れできませんよ。この件はすでに上層部にも報告していますから」
「やっていません」声を上げ、テーブルを両手で叩いた。離れた席で打ち合わせをしていた二人がそろってこちらに目を向けた。
知ったことか、と思った。
「やってもいないことを認めるつもりもありませんし、説明のしようもありません」わざとフロアに聞こえるように大きな声でいった。
「ちょっと小田島さん、落ち着いて」
久野が周りを気にしながら、椅子から腰を浮かせた。両手を前に出し、手を上下に動かす。
「鬼頭主任はどこですか。鬼頭主任と話をしたいんですけど」菜々美は椅子から立ち上がった。こうなったら人事部のフロアにまで行って、直接鬼頭さんと話すしかない、と本気で思った。
「鬼頭さんは、休んでいますから」
久野の言葉に脚を止め、振り返った。「休み? こんなときにですか」
「たぶん心労が溜まっていたのでしょう。鬼頭さんは自分の証言があなたを追い詰めてしまうのではないか、とずいぶん心配していましたからね」椅子に腰を戻しながら久野がいった。
菜々美は複雑な気持ちだった。鬼頭さんを信じたい気持ちは今でもどこかにあった。けれども、鬼頭の証言に納得できないところもあるし、自分だけいい子の立場に収まろうとしているようにも思える。
肩を上下させて大きく深呼吸した。すこし冷静になろうと思った。椅子に戻り、また久野と向かい合う。
「もういちど言わせていただきます。私は言われているような替え玉入社などに、いっさい関わっていません」
「小田島さんの考えはわかりました。しかし、会社としては粛々と調査を進めるだけです」久野はオールバックに撫で付けた髪に手を当て、乱れた髪を整えた。「今日までは休暇扱いとしていましたが、調査結果が出て社内で正式に処遇が決定するまで、自宅謹慎とします」
「ちょっと待ってください、それじゃ私が――」
久野が手のひらを菜々美の前に突き出した。
「これは会社の決定です。異議意義をはさむ余地はありません」椅子から立ち上がり、ネクタイを直す。「決定しだい次第、私から連絡をします。それじゃ、本日はご苦労様でした」
一礼して社員食堂の出口に歩いていった。取りつくしまもなかった。
菜々美は久野の痩せた背中を、ただ眺めていることしかできなかった。
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