第21話

 菜々美はゆっくりと目を開いた。白い天井が見えた。

「小田島さん、聞こえますか」

 声のほうに目を向けた。ぱさついた白髪に顎の削げた初老の男が見下ろしていた。知らない顔だった。

 菜々美はベッドから起き上がろうとした。

「そのまま、そのまま。無理をしないで」

 男が胸の前で手のひらを動かした。

「大丈夫です」と答え、ベッドに上体を起こした。同時に周りを見回した。白い壁、消毒液のにおいもかすかに漂っている。それで菜々美は気を失ったあと、病院に運ばれたのだと理解した。

 改めて目の前の男を見た。痩せぎすの体格、どす黒い肌、膝の抜けた紺の安っぽいスーツ。ワイシャツの第一ボタンを外して緩めたネクタイもだらしない。年齢は六十歳くらいだろうか。全体的に乾いた感じの男で目だけがぎらぎらと輝いている。医者でないのはあきらかだった。

 男が上着のポケットからこげ茶色の手帳を取り出し、菜々美の前で上下に開いた。

「警視庁捜査一課のヒルカワといいます」

 菜々美は身分証に目を向けた。縦に開かれた手帳の下のページに警視庁と刻印された金色のバッジが輝いていて、上のページには制服姿の男の上半身の写真があった。『巡査部長 蛭川茂夫』と写真の下に表示されている。

「気分はどうですかな」

「ええ、もう大丈夫です」本当はまだすこし気分が悪かった。けれども我慢できないほどではなかった。

 そうですか、と蛭川が表情を緩めた。目の横に深い皺が幾筋も刻まれる。

 扉がノックされ、医師とスーツ姿の三十代くらいの男が入ってきた。

 白衣にネクタイをきちんとしめた医師が、にこにこしながらベッドに歩いてきた。

「小田島さん、ご気分はどうですか」

 蛭川と同じことをいい、菜々美も大丈夫です、と答えた。その他に二三の質問に答えると、医師は菜々美に頷いた。

「問題ないですね。もうお帰りになられても大丈夫でしょう」

「そうですか」と菜々美のかわりに蛭川が答えた。

 医師が蛭川に振り返る。

「ただし、あまり無理をさせないでくださいよ」

 そういって医師が部屋を出ていった。スーツ姿の男はそのまま蛭川の隣に立った。目が細くてがっちりした体格の男だった。

「これも私と同じ捜査一課の者です」

 蛭川が男に顎をふった。男が身分証を示し「風間です」男がと小さく頭を下げた。

「お目覚め早々に申しわけないんですが、ちょっとお話しても宜しいですかな」

「あ、はい」蛭川の言葉に、菜々美は背筋を伸ばした。「その前に私のほうからいいですか」

「小田島さん、訊きたいことがあるのはこっちなんですがね」

 風間が鼻で笑うようないいかたをした。

 だが蛭川は、ほう、と意外そうに眉を上げた。「何ですかな」

 菜々美はちらっと風間に目をやり、蛭川を見上げた。

「慧吾は死んだのでしょうか」口にした瞬間、菜々美は泣きそうになった。唇をかんでこらえる。

「残念ですが、お亡くなりになっていました」

「何で……」菜々美は身体の後ろに手をついた。そうしないとベッドに倒れてしまいそうだった。「何で死んだのですか、殺されたんですか。だって、ナイフが胸に――」

「そんなこと、いまの段階でいえるわけないでしょう。小田島さん、あのねーー」

 そういった風間の肩に蛭川が手を置いた。

 菜々美を遮った風間の肩に、蛭川がぽんと手を載せた。それで風間が言葉を止めた。

「まあ、そのあたりを調べるために、我々はここに来ているわけでしてな」

 蛭川がいい、そう答えて、風間に顔を向けた。た。目顔で何かを指示する。

 風間がその場から離れ、壁に立てかけてあったパイプ椅子を両手に戻ってきた。ベッドの脇で開きくと蛭川が腰を下ろすした。風間も隣に座った。

「小田島さん、あらためて訊かせてもらってもいいですかな」

 菜々美は無言で頷いた。刑事たちの目力に押されて、言葉を返せなかった。

 訊かれたのは、制服の警官に話したのと同じような内容だった。おもに口を開いたのは風間のほうだった。慧吾の身元は持っていた免許証で確認が取れたようだった。

 風間の口調はどこか高圧的で、ちょっと感じが悪かった。こんな奴が粧生堂にいたら、一発でパワハラ認定のタイプだ。

 ひととおり質問を終えて、風間が蛭川に頷いた。

「ありがとうございました。大変参考になりました」

 蛭川が深々と頭を下げる。風間は動かず菜々美をじっと見下ろしている。本当に感じの悪い奴、と思った。

 椅子を片付け始めた刑事たちに、菜々美は声をかけた。

「蛭川さん、ちょっと私も訊きたいことがあるんですが」

「ちょっと、あんたねえ」

 歪めた顔を風間が振り返らせた。菜々美は風間を睨みつけた。あんたには訊いてない、と目でいったつもりだった。

 蛭川が風間に「まあ、いい」と手を動かし、菜々美を見た。

「何でしょう、答えられる範囲でなら構いませんがね」

「慧吾は…………殺されたんでしょうか」

 ほう、と蛭川が口をすぼめた。「なぜ、そう思うんですか」

「だって…………胸にナイフが刺さっていました」目の裏に、仰向けに倒れた慧吾の姿がはっきりと蘇ってきた。菜々美は頭を振って、それを払おうとした。

「ナイフを自分で刺したのかもしれませんよ」

 顔を上げると、腰をかがめた蛭川と真正面から目が合った。口元には笑みが浮かんでいるけれど、視線は鋭かった。

「それは、確かにそうかもしれませんけど…………」

 言葉を濁した菜々美に、蛭川が姿勢を戻した。

「まあ、いいでしょう。あなたは婚約者なんだから、それくらいは知っておく権利があるでしょうな」耳の裏を掻きながらいった。「我々は、これは殺人事件だと考えとります。被害者はナイフで胸をひと突きされていますが、切っ先が背中まで飛び出ています。自殺ではこれほど強く自分の胸を刺せませんわな」

 菜々美は口元に手を当てていた。ナイフが背中から突き出ていたという蛭川の言葉に、犯人の底知れぬ憎悪のようなものを感じた。

「しかしですな」

 蛭川がいちど片付けたパイプ椅子を、また広げて座った。「どうやって犯人があの店から出入りしたのか、さっぱりわからんのですわ」

 菜々美は一瞬、蛭川がいっていることの意味がわからなかった。あまりにも意外な言葉だった。

「店の鍵は被害者のポケットの中にありました。他に合鍵を持っているのは、『ジョーカー』の店長とビルを管理している不動産会社だけですわ。しかしそれらが使われていないことは、はっきりしておるわけでして」

 蛭川がいうには、店長には今日一日のはっきりしたアリバイがあった。しかも合鍵はいつも自分の財布に入れて持ち歩いているという。いっぽうの不動産会社の合い鍵は金庫に保管されているが、社長以外その暗証番号を知らず、しかも社長は七十代後半の高齢だという。とても三十代の被害者に、ナイフで背中を貫通させるほどの傷を負わせる体力はないとのことだった。

「小さな不動産会社なんですが、けっこう鍵の管理はしっかりしてましてな、金庫を開けた記録がすべて自動的に記録されるようになっていました。今日も我々が連絡するまで金庫を開けた記録はなかったですし、金庫の中に間違いなく鍵があったことは、他の従業員の証言からもはっきりしとります」

 そこまで話を聞いて、菜々美は気が付いた。

「あの…………確か、あの店の奥に扉が見えたんですけど」。

「あれは掃除機やら何やらが置いてある倉庫ですわ。とにかく店には、出入り口が正面の一か所しかないんですな。鍵に細工されたような痕跡がないかどうかは、今、鑑識が調べとりますけどな」

「それって…………どういうことなんでしょうか」

「何者かが被害者を殺害したのち、鍵のかかった店内から何らかの方法を使って逃げた、ということでしょうな」蛭川がどこか他人事のようにいい、苦々しげに笑った。

「監視カメラとか、そういうのはなかったんでしょうか」

「店の入口に設置されてるんですけどなあ…………」歯の間からしーっ、と息を吸いながら、蛭川が椅子に背を伸ばした。右腕を上げ、白髪に立てた指を動かす。「被害者が鍵を開けて店内に入ってから、小田島さんが店の前に現れるまで店を出入りした者はいないんですわ。映像は七十二時間分自動保存されていますが、それ以前にも不審な者はおりませんでした」

「じゃあ、犯人はどうやって逃げたんですか」

 口にしてから意味のない質問だと気がついた。最初に蛭川が「犯人の逃走方法がわからない」といったのを思い出した。

「それがわかったら、楽なんですがな」蛭川は腕時計に目を落とした。

「いや、ちょっと話しすぎましたな。もう夜も遅いですし、自宅にお送りしましょう。覆面パトカーだから目立ちませんし」椅子から腰を上げる。

「あ、ええと…………」

 壁の時計を見た。夜の十一時半を過ぎたところだった。

 菜々美はすこし迷ったけれど、結局、蛭川の提案に乗ることにした。幼い頃の経験から病院が嫌いで、早く病室から出たかった。

「じゃあ、部屋の外で待ってますんで。準備ができたら声をかけてください」

 そういって刑事たちは部屋を出ていった。

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