第20話
翌日。
菜々美は新宿駅の新南口を出て、甲州街道を府中方面に歩いていた。
脚を前に運びながら右腕を上げ、腕時計を見た。午後五時、慧吾との待ち合わせの時間までまだ一時間あった。
昨日の昼過ぎ、ネットニュースを見たと慧吾から連絡があった。出張先の北海道からだった。普段とは違う菜々美の声に何度も「大丈夫か」と声をかけてくれた。そして本当は今すぐにでも東京に戻りたい、だけどスケジュールの調整ができない、と申し訳なさそうにいった。
無理をしないで、と菜々美は答えた。そう答えるしかなかった。
結局、慧吾は翌日のスケジュールをほとんどキャンセルして東京に戻ってきた。そして、どうしても外せないという夕方の商談を済ませてから会うことになった。
部屋の中でじっとしていると息が詰まりそうだった。だから早めに出て、百貨店でウィンドウショッピングでもするつもりだった。けれども新宿駅の人ごみを見て気分が萎えた。朝夕のラッシュアワーで混雑には慣れていたはずなのに、今は何となく見も知らぬ他人の人いきれがとても不快に感じられた。吐き気すら覚えた。
それによく考えてみれば、新宿の百貨店やドラッグストア周辺には粧生堂の営業マンや美容部員がたくさんいる。菜々美の同期で店頭に派遣されている社員も数名いた。自宅謹慎を命ぜられている菜々美が、ふらふらとウィンドウショッピングをしているところを見られたら、何を言われるかわかったものではない。
吐きそうになるくらい人の多い新宿で、菜々美の顔を知る粧生堂の人間と出会う確立なんて天文学的なものなのかもしれない。だが人間はついていないときほど、信じられないくらいの不運が起こるものだ。
菜々美は過去の経験からそれを知っていた。
待ち合わせのバー、『ジョーカー』は一階に派手なネオンを飾ったラーメン店の地下にあった。そろそろ空は薄暗くなっているけれど、まだラーメン店のネオンは点いていなかった。
菜々美は慧吾の部屋で会いたい、といった。誰の視線も気にすることなく慧吾に甘えたかったからだ。けれども出張が続いていた慧吾は、部屋がひどく汚れているといい、外で会うことを提案してきた。そして慧吾がオーナーをしている『ジョーカー』を指定した。本来は定休日だから貸し切り状態だし落ち着けるから、というのがその理由だった。
地下に降りる階段の脇に、『ジョーカー』の看板が置かれていた。灯りはついていない。
菜々美は階段を下りた。待ち合わせ時間にはすこし早いけれど、初めて来る店だったし、慧吾の店がどんななのかを見ておきたかった。
正面にガラスドアがあった。『本日休業』の札が掛かっているが、店内にはオレンジ色の明かりが灯っていた。奥に細長く右手にカウンター席、左にテーブル席が二つあるだけの小さな店だった。地下に他の店はなく、『ジョーカー』がフロア全部を使っているようだ。
菜々美はガラスドアに顔を近づけ、店内に目を凝らした。
店のいちばん奥に扉が見えた。その手前、カウンターのスツールの下あたりに黒い塊が見えた。塊はちょうどスツールの影になっていた。しかもガラスに店外からの光が反射して、それが何なのかよくわからなかった。
菜々美はガラスに鼻先がくっつきそうになるくらい顔を近づけた。じっと見ているうちにすこしずつ目が慣れてきて、塊の形がはっきりしてきた。
そして、それが何であるかに気がついた瞬間、ひっ、と息を呑んでいた。
菜々美はドアから後ずさりした。
黒い塊は人間だった。
靴の裏側をこちらに向けて仰向けに倒れ、ちょうど胸のあたりから短い棒のようなものが上に伸びている。棒の周りには染みのようなものが白っぽいシャツの上に広がっているのが見えた。服装からして男性だとすぐにわかった。
心臓が早鐘のように鳴り続けていた。鼓動が視界を揺らしている。とてつもなく嫌な予感が胸の内側に広がっていた。菜々美は男の着ているジャケットに見覚えがあった。
ドアを何度も叩いた。だが男が動く気配はなかった。取っ手を押しても引いてもびくともしない。鍵がかかっていた。
突然、菜々美の周りがぼうっと明るくなった。振り返って階段の先を見上げる。ビルの一階のラーメン店がネオンを点けていた。その明かりが地下の踊り場にまで差し込んできたのだった。階段の壁と天井に切り取られた四角い空は、いつのまにか真っ暗になっていた。
菜々美は顔を戻し、店内に目を向けた。
同時に目を見開いた。
薄い光が店内に差し込み、男の全身がはっきりと見えていた。奥に伸びた顔まで見える。
目を閉じていてもわかる長い睫毛、つんと尖った鼻の形、耳の上を短く刈ったヘアスタイル――もう、見間違いようがなかった。
倒れているのは慧吾だった。胸にナイフの柄が突き立てられ、その周りの白いシャツに赤い血が広がっていた。
死んでいる――菜々美は直感した。
あわあわと声にならない声が漏れた。両脚から力が抜け、その場に尻もちをついていた。恐ろしさのあまり、そのままの姿勢で脚を必死に動かした。ヒールが脱げ、スカートがまくれ上がり、ストッキングの爪先が破れた。ドアからすこしでも離れたかった。
階段のいちばん下の段に背中がぶつかった。いくらかかとで床を蹴っても、それ以上後ろに動けなくなった。
(助けて…………)
声を上げようとした。けれども唇が震えてうまく言葉が喋れなかった。歯がカチカチと鳴っているのが自分でもわかった。
「どうしたの?」
背後から声が聞こえた。
菜々美は上体をひねって振り返った。今ならどんな悪人でも天使に見えるような気がした。
階段を下りてきたのは陽介だった。半ほどで立ち止まり、腰をかかがめて細めた目を向けてくる。
「菜々美さん?」
再び階段を下りてきた。「どうしたんですか、こんなところで」
「陽介君っ」
ようやく声が出た。同時に視界が白く濁った。腕を上げ、震える指先を店の中に向けた。慧吾が、慧吾が、と何度も口にしていた。
菜々美の様子からただ事ではないと感じたのだろう、陽介が真顔になってガラスドアの前に走った。すぐに扉に手をかける。開かないとわかるとガラスに顔をくっつけるようにして店内を覗きこんだ。
同時に「わあっ」と叫び声を上げて、上体をのけぞらせた。
「死んでるんですか…………」振り返った陽介の顔は青ざめていた。
菜々美は顔を振り、「分からない…………」と答えた。認めてしまうのが怖かった。
「あの人がケイゴさん?」
何で陽介が慧吾の名前を知っているのだろう、と一瞬思った。そしてつい今しがたまで慧吾の名をうわごとのように呼び続けていたことを思い出した。
陽介の顔を見て、すこしだけ気持ちが落ち着いたのかもしれない。菜々美は陽介の質問に頷いた後で気がついた。
そうだ、警察…………
バックから急いでスマホを取り出し一一〇番にかけた。
通報してから五分も経たないうちに制服姿の警官がふたりやってきた。警官たちはドアの外から店内の状況を確認すると、すぐにビルの管理会社に連絡を取った。
警官のひとりに案内されて、菜々美は前の道路に停めてあったパトカーに乗った。その中で通報したときまでの状況を詳しく訊かれた。しばらくして陽介が同じパトカーに乗り込んできた。陽介も外で事情聴取を受けていたという。
隣に座った陽介がしきりに「大丈夫ですか」と声をかけてくれた。菜々美は頭の中が真っ白だった。何も話す気になれず、何となく窓の外に目を遣る。立ち入り禁止の黄色いテープの向こうには、すでに野次馬の人だかりができていた。
赤い回転灯を載せた黒い乗用車がやってきた。中からスーツ姿の男が二人降りてきて、駆け足で地下に降りていく。
涙は流さなかった。人間は心に強い衝撃を受けると、すべての感情が表情から消えてしまうことを知っていた。
しばらくして髪をスポーツ刈りにしたスーツ姿の男が助手席に乗ってきた。三十歳前後のその男は身分証を取り出し名乗った。だが名前は頭に入らなかった。陽介は別の刑事に呼ばれ、前に停まっていた黒い車に移動した。
「ちょっと見ていただきたいのですが」
刑事が上着の内ポケットからスマホを取り出し、画面を菜々美に向けた。
背中をシートから離して顔を近づけた。同時にどきりと心臓が跳ねた。青白い顔に長いまつ毛。画面には慧吾の顔が写っていた。
「店内にいた被害者です。誰だかわかりますか」
菜々美に視線を据え、たまま刑事が訊いた。
菜々美は激しい鼓動に耐えられず、胸元を手で押さえたまま無言で頷いた。被害者という言葉が心にひっかかった。
息を整えて、顔を上げた。刑事と目が合う。まだ心臓の鼓動は収まっていなかった。
「刑事さん、慧吾は…………慧吾はどうなったんでしょうか」
「胸をひと突きされています。正式な検死はこれからですが、お亡くなりになっているかと思われます」表情を変えず淡々と答えた。
刑事の言葉を聞いたとたん、さらに心臓が大きく跳ねた。視線がぐらりと揺れる。同時にエンジンの音や自動車のクラクション、街の雑踏の音が遠ざかっていった。
気分が悪い。視界が白く霞み、だんだんと周りが暗くなっていくのがわかった。
――小田島さん、大丈夫ですか?
刑事の声が遠くで聞こえたような気がした。
菜々美は気を失った。
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