三章 はぐれ竜のゼータ


 マリアスの中心に存在する竜の宮殿、ネア・セリニ。そこには現在九頭のマリアスの竜が暮らしていた。

 十二ある石の祭壇が竜の御座だ。最盛期は全ての祭壇に対応する竜が存在したが、現在は三つの空きが存在する。そして、四頭が各々の理由で宮殿を空けており、今は五頭が鎮座していた。

 竜たちの御座に、会話は無い。身じろぎし鱗と石がすれる音、唸り声、魔法の駆動音である不思議な音が、時おり響く。

 同族の竜たちは干渉しあわない。お互いにとってお互いは“己の邪魔をしない同族”以上の価値が無いからだ。戦争で生まれる魔力を喰らうために出し抜き合う他国の竜の方が、よほど関わり合いが深い。

 同族と関わるのは、新しい竜を生み出すなどの特別な時。そして、今回のように、緊急事態が発生した時。


「戻った」


 マリアスの一族のみを素通りさせる天井が、一瞬の光を放ち出迎える。帰還した夕日色の竜は、御座の一つに音なく降り立った。


「して、あれは」


 中心にある御座で佇む白い竜が、無駄な言葉を挟まず問い詰める。


「恐らく逃げられた」


「無能が」


 淡々と無情に吐き捨てる白竜。

 白竜が言う『あれ』とは、国内で人間を乱獲していた身の程知らずの侵入者。魔力量が異常な高まりを見せその瞬間解析不能となる現象を観測したのだ。掠め取ったのが竜ならば、人間の器を越え膨れた魔力が変換される一部始終を記録できる。

 更に、他の縄張りの竜も、縄張りを持たないはぐれ竜も、侵入し派手に活動することはほとんど無い。竜同士での戦いは消耗する魔力の量が馬鹿にならないため、普通避けられるからだ。他人の庭で喰い荒らしたとすれば、それを許さない庭の主との戦いで、乱獲した以上の魔力を消耗することになる。


「あれだけではなかった」


 帰還した竜が、見たものをそのまま伝える。


「別の竜――一族ではない、侵入者もその場にいた。人間に化けて入国したらしい。『あれ』と戦っていたようだ」


「なぜそやつごと始末してこなかった」


「竜は魔力が潤沢、はぐれとすれば規格外の魔力を保有していた」


「ならば、急行した貴様は何を為したのだ」


「何も。『あれ』の姿は人間で、しかし魔法を自在に操っていた。人間は殺しかけたが、『あれ』の魔法は途切れ、身柄は竜にとられた。自分の炎だけで『あれ』を消せた確信はない、故に逃げられたと判断した」


「無能が」


 再び吐いて捨てた白竜。夕日色の竜も、そう言われても仕様が無い成果だと自分を評した。


「マグノリア、国を閉鎖せよ。更に入国記録を調べ、竜らしき人間を探し出せ」


「承知しました」


 マグノリアと呼ばれた竜が、人間へと指令を送る。


「アントリアー、警備隊を待機させ、マグノリアから情報が入り次第竜と『あれ』を拘束させよ」


「分かった」


 動き出すアントリアーには、も与える。


「人的被害はいくら出ても良い、貴様は現場で待機せよ。侵入者どもがマリアスの資源が奪おうとするならば、その前に貴様が収穫しろ」


「ああ」


 白竜は資源人間の強奪を許さない。冷たい怒りを侵入者たちに向けた。




 魔法でアランの全ての傷を癒したが、目を覚ますことは無かった。それどころか呼吸が弱まり徐々に衰弱している。

 また、この隠れ家の管理人によると、『凶悪な犯罪者が入国したことにより、国を封鎖する』とのお触れが出たとか。突如ソフィオーに現れた竜は、その犯罪者を直々に始末するために現れたそうだ。


「続報です。このひと月以内に入国し、滞在を続ける者全員に出頭命令が出ました。もちろんあなた方も対象です」


 管理人が、警備兵が配っていたという命令書を渡してくれた。対象者の名前、ソフィオーの住民を虐殺した旨が書かれている。竜直々の命令を表すお印つきだ。この印は警備、警察を取り仕切るアントリアー=マリアスのものだと教えてくれた。

 この中にピストの名は無かった。報酬を渡した後すぐに別の国へと発ったのだろう。

 マリアスが“虐殺犯”を血眼になって探すのは、十中八九アリスが魔力を派手に乱獲したのを気付かれたからだ。炎避けの結界を張ったので、ゼータの存在も勘付かれただろう。

 アリスはマリアスの縄張りを犯した。その罪は昔から死で贖うと決まっている。不法侵入のはぐれ竜、ゼータも同罪だ。

 竜のやることだ、出頭すれば最後、目的の侵入者であろうがなかろうが関係なく処刑だ。とばっちりを受けた他の対象者には気の毒だが、こちらの命には代えられない。少なくともアランの意識が戻って事情を聞き出すまでは、出頭できない。


「団長からです。アランさんを連れて今すぐ本部に来てほしい、とのことです」


 革命団にも悪いことをした。秘密を知って仲間に引き入れられた直後、竜に目をつけられてしまった。水面下で竜との対立を企てている以上、その手で売られることは無いだろうが、いまだ潜伏している彼らにとっては腹で抱える爆弾以外の何物でもない。

 ともかく、ニルスの呼び出しを受けることにする。いつまでも出頭しない二人の手配が始まるのも時間の問題だ。となると、外に出るといった行動に移せるのは今だけだ。

 念のために、と二人分のローブを貸してくれた。顔を隠せということだ。管理人に短く礼を言って、隠れ家を後にした。

 ローブをかぶせたアランを背負い、本部への道を行く。先ほどよりも息が細くなっており、これ以上弱るなら呼吸補助の魔法が必要になる。

 望外の幸運を得られたのだろう、誰に見咎められることなく誰の注意を引くこともなく、二人は革命団本部へとたどり着けた。

 中央の会議室は、慌ただしい様相だった。マリアスの外でも活動している彼らの中の数人に、出頭命令が出たらしい。


「よく来てくれました。の対応は後程、エゲルセィスが呼んでいます」


 ニルスが速足で、奥のエゲルセィスの部屋へと導く。中には老竜の他、二人の男女――ソレーヌとその夫が待っていた。


「ルトガー・アイスラー、考古学者だ。考古学とは――」


「知っている」


 竜以前の時代を探求する者は、竜にとっては処刑対象だ。革命団に身を寄せていても不思議ではない。


「寝心地は悪いだろうけど、無いよりはましと思って……」


 ソレーヌが床に直接敷いた毛布に、アランを寝かせるように勧める。彼女の言う通り無いよりずっといい、アランを横たわらせる。


「時間は限られている……始めるとしよう」


 エゲルセィスが言った。ニルスが心当たりを聞いてみる、と言っていた二人だ。何か分かったのだろうか。


「どれどれ」


 エゲルセィスが眠るアランに口元をよせ、額の宝石を輝かせる。断言はできないが、調査系の魔法だろう。


「やはり……。お嬢さんを形作っていた魔力が、その源ごとごっそりと抜かれておるの」


「お、お嬢さん?」


「しー、そうだよ、声で分かってた」


 動揺するルトガーに、ソレーヌが耳打ちする。

 彼らは置いておくとして、魔力とそれを生み出す“源”が失われたとするなら。


「魂を?」


「その通り」


 竜にとっては、人間の魂ほど効率の良い魔力源は無い。人の奥深くにあり繊細過ぎるそれを扱うことが出来れば、アギオのような大規模な虐殺は無くなるだろう。


「お嬢さんが竜でも人でもない“何か”に成り果てた……そのゼータさんの予感は、当たっておった」


 エゲルセィスは眼を閉じて、地に伏せた。彼の魔力量はほぼ底をついている、あの魔法一つだけでもかなりの消耗だろう。


「お嬢さんはもともと、『魂喰らい』の才覚があった……。命を奪う瞬間魂を共鳴させ、一部を己の物として取り込む……。たまにおるのだ……そのような殺人者が」


 アランはよく漏らした。“血の味から離れられない”と。アランが啜っていたものが血ではなく魂だったなら、ゼータでも理解ができる。魂は魔力を作り出す。人の身体に魔力が増えると、単純に快調となる。魔力を一切合切失った人間が、今のアランの姿だ。


「『魂喰らい』で高まった魂は……にとって、この上ない美食だった……」


「ここからはわれが」


 ルトガーが話を継いだ。


「竜の時代の直前を、われら考古学者はこう名付けた。『悪魔の時代』と」


「悪魔?」


 ゼータには聞き覚えの無い言葉だった。


「竜の信仰ではこう伝えられているよ。『竜がいなければ、人々は悪魔に心を奪われ、破滅する』」


 ソレーヌが注釈を入れる。人間の間では一般的に広まっているらしい。広めた竜が知らないのも、おかしな話だが。


「『悪魔の時代』は、現在と比較できんほど危険な時代だった。法は存在した、されど秩序は形成されなかった。“悪魔の囁き”と呼ばれた現象が横行していたのだ。それを聞いた人間は狂い、身近な人間を、例え家族であろうと襲い掛かり殺した。殺し尽くした後、その殺人者も死んだ」


「悪魔とやらは、人間を唆し『魂喰らい』をさせた。十分肥えさせた後、その魂を喰らった」


「ゼータ殿、その通りだ」


 ルトガーが大きく頷く。


「悪魔の由来や正体は、いまだはっきり分かっておらん。しかし、“竜でない魔法を使える存在”は、確かに存在した。アラン殿は“悪魔の囁き”を聞いた可能性が極めて高い。魂が喰われた後だとするならなおのこと」


 聞きたいことは山ほどあるが、ゼータに――アランに必要な情報は一つ。


「魂を喰われたとして、元に戻る可能性は?」


 ルトガーがエゲルセィスを呼んだ。会話の主導権を譲ったようだ。


「いくら悪魔とて、命に宿る魂を残らず喰い尽くすことは出来ん……そのから魂を形成できれば、可能ではある……」


 可能と言い切らない。そして『悪魔の時代』の殺人者も、死んでいたらしい。可能性はあるが、難しい道なようだ。


「ふたつの竜がそばに在る……それが一つの奇跡。きみは命を捨ててでも、お嬢さんを救いたいか?」


 代償が必要、それも予想したこと。

 それが自分の命だとすれば――

 ゼータは即答する。


「いいだろう」


 アランと、アリスと。関わり抜くと決めた。自らの命が尽きるとしても、その誓いを反故することは一瞬たりとも考えなかった。

 エゲルセィスが大きく息を吐く。そこには慈しみや嘆き、無力感など様々な感情が混じっている。全く、本当に人間らしい竜だ。


「儂がしてやれることは一つ……お嬢さんの心的世界へときみを導くこと。帰り道は用意できぬ……不帰の旅路よ……」


「そこで魂の欠片に修復を呼び掛ける。一つの肉体に魂は一つ、私は消滅する」


「ああ……そうとも」


 眠るアランの表情を見る。どこか安らかな寝顔だった。

 このまま現実と戦わせず、穏やかに死なせた方がいいのではないか――それを考えなかった訳は無い。


(いいや、私の我欲だ)


 アランの脇に跪き、弱弱しく脈打つ心臓の上に手を置く。

 ゼータは、アランという人間が愛おしかった。家族と仲間を失った大きすぎる虚――それは愛され愛した証。その愛は自らが命を奪う相手にまで向け。そして、……ゼータにも、向けてくれた。

 アランアリスの想いは、ゼータが抱える虚を、満たしてくれた。

 だから。


「始めろ」


 ゼータは目を閉じ、人間より単純な構造の自分の魂が流れるのを感じる。

 かけがえのない弟子の内側へ。戻り道は無い。




 景色は黒で塗りつぶされ、音は耳鳴りさえ聞こえない。寄る辺も無く、香りも無い。五感が意味をなさない世界だ。

 ゼータは強く意志を込めて、己の身体を作り出す。次いで足場を作り、自分の居場所と存在を確保した。まだ何も為せていない今、虚無に呑まれる訳にはいかない。

 ここはアランの心的領域。核である魂をごっそり奪われた後なのだから、何もないこの光景は予想の範囲内だ。ゼータはここから“悪魔の食べ残し”を探さねばならない。

 ひとまず、一歩進む。ゼータが歩を進める想像しただけだ、周りは何も変わらない。このまま歩き続ける想像をしたとしても、その場を足踏みするのが精々だろう。

 かといって、確かな一歩を進むために己の領域を広げすぎると、魂の残り火を吹き消してしまいかねない。


(どうすれば……)


 いいや、この答えを、ゼータは既に得ている。


――あーん? ひたすら声かけるっきゃねーだろ


 どうすれば声が届くのか、それを訊ねて返ってきた友人の助言。

 彼はアランの前でもっと感情を出せ、とも言っていた。単純な造りの魂と疑似的な感情しか持たない竜には難しい注文だが、今は何としてでも乗り越えねばならない。


「アラン」


 まず、呼び掛けてみる。


「起きろ、悪夢は終わった」


 次に、よく夢にうなされる彼にかける常套句。


「稽古の時間だ」


 ゼータ自身と、恐らくアランも好む日課を誘う。


「……」


 弾は尽きた。


(これでは届かない)


 普段と同じ言葉では力不足だ。これだけでアランが満たされるのなら、こんな事態にはならなかった。

 いつも無言を貫く自身の心に、耳を傾ける。


「これは、私の我欲だ」


 心が届けた微かな声を、アランへの呼びかけに変える。


「おまえには、生きてほしい」


 アラン自身が望まなくても、ゼータはそう願った。


「おまえはよく言ったな。自分の心は泥にまみれていると」


 彼の苦しみを、理解しようとした。それは叶わず、ただ見ているだけだった。


「その通りかもしれない。おまえの苦しみは本物だ。だが、私は感じた。いくら泥を被ろうと変わらない、おまえ自身を」


 泥に苦しむアラン本来の心。どれだけ覆われ隠されても、その隙間から輝きが垣間見えた。


「手遅れではない。おまえは泥と同化しきっていない。まだ、やり直せる」


 本当に取り返しのつかない者は、自己否定などしない。泥で穢れていると苦しむことはない。


「おまえはきっと……また、『幸せ』になれる」


 孤児院の院長は言った。『幸せ』を見つけるには傷が深すぎたと。傷を癒すにはゼータは力不足だったが、今はゼータだけではない。革命団の人々は被害を受けつつも、アランを救うために協力してくれている。


「幸せに……なってほしい」


 人の言う幸せとは何なのか、ゼータにはよく分からないが。ゼータはアランを弟子にとって、徐々に成長していく姿を見て、自分の教えを一滴も零さず受け止める姿を見て、ついには自分に比肩する腕前を得た姿を見て、想いが満たされたのだ。


「おまえがいたから……私は」


 人に成れた。そう、言葉を繋げることが出来なかった。

 何故? それは恐れていたから。

 弟子の仇敵である竜の一つだと、彼に知られることを。

 弟子を裏切ることを。失望させることを。この関係が終わってしまうことを。


(ああ、ようやく分かった)


 ゼータが隠していたものは、感情だけではなかった。

 それは真実。ゼータであること。偽りの無い本当の姿。

 ゼータは領域を拡大させる。アランの居場所を圧迫するためではない、自分の居場所にアランを迎え入れるために。

 場所は、アランとゼータが初めて出会った、あの戦場跡。

 黒い煙が燻ぶり、血のような夕焼けに登っていく。何もかもが燃え尽き、命という命が蒸発していた。

 ゼータは人の姿を――数百年の時を越え――解き、本来の姿に戻った。

 二階建ての建物より大きな体躯は、その存在だけで周囲を威圧する。広げれば体長ほどの長さとなる翼の先端には、鋭い棘が鈍く光る。分厚く巨大なかぎ爪は、人など紙のように引き裂いてしまうだろう。

 鱗は夜闇の色。人間の武器だろうが同族の炎や牙だろうが容易く弾く、堅牢な鎧だ。額の宝石は深紅。人々の想いを蓄えて、又はそこに乗せて、ゼータの命と共に燃えて煌めく。

 壮絶なまでの殺気を感じ取り、ゼータは地を見下ろす。そこには竜への憎しみを全身に滾らせた、一人の人間が立っていた。


(アランを生み出したのは憎しみ。ならば憎しみを呼び起こせば、再誕する)


 燃える緑の瞳に、眼差しを注ぐ。アランが復讐者であり、ゼータが竜である以上、戦いは避けられない。

 避けられないならば、相手を殺すまで、止めない。


「来い、人間」


「行くぞ、竜」


 戦いの火蓋が落とされた。


(おまえがアランで、私がゼータなら……初めからこうなる運命さだめだった)




 先手を取ったのはアラン。残像が見えるほどの速度で跳躍し、ゼータの胸に槍を突き立てる。並の人間なら千切れて吹き飛ぶほどの威力を孕む剛槍は、ゼータの鱗一枚も傷つけることが出来ない。元来の頑強さに、硬質化の魔法をアランが狙った一点にかけ、寸分も動かず跳ね飛ばした。

 空中に飛ばされるアランを狙って、ゼータは竜の象徴である金色の炎を浴びせる。その熱量、噴出速度、どちらも並のはぐれ竜とは一線を画していた。ただの人間ならば身動きの取れない空中で骨も残さず溶けるだけだろう。だがゼータが手塩をかけて育てた弟子、アランは弾き飛ばされることも計算に入れて、華麗に一回転して体勢を整えていた。そして人の限界を超えた脚力で空を蹴り、ゼータの視界の外へと消えた。

 人知を越えた跳躍の行先は上。だとすれば狙うのは、防御魔法では跳ね返しきれない弱点、眼か宝石。頭を振ってその遠心力で翼を振る。その重さ、速度により幾重もの衝撃波を生み出しながら、アランを迎え撃とうとした。しかし、にアランはいたため、硬く棘もある翼の前面でなく被膜にぶつけてしまった。防御も間に合わず、被膜に大穴が出来る。

 アランはそのまま勢いを減じさせず、今度こそ頭部を狙って突進する。炎で吹き飛ばすには向こうが速すぎる、翼の大穴で動きも崩れた。

 しかし、彼の槍は届かなかった。不自然な軌道を描いて、地に落ちたのだ。

 ゼータは重力を操り、アランを絡めとった。魔力に目覚めていない人間なら、骨ごと潰れるだろう重さを加えている。その圧力にも片膝をついて耐えているが、彼の顔は苦悶で歪んでいる。

 ゼータは遠慮容赦なく、荒い息を吐くアランを踏みつぶす。逃がす隙は与えなかった、彼は足の下だ。

 足裏の感触は竜の身体だと鈍い。重力操作の効果圏からも外れている。ただ潰れて死んだとも思えない。この巨体からは想像も出来ないだろう軽やかさで跳躍し、炎を吐いて追い打ちをかける。

 背後から気配を感じ、背筋が凍る。泥と血で汚れたアランが雄叫びを上げて、突撃をかけている。恐らく踏まれる瞬間重力を逆利用して地面に穴をあけ、踏みつけの衝撃を緩和しつつ重力操作から逃れたのだろう。一瞬でも目を離した故、背後に回る隙を与えてしまった。気付いた時には硬質化魔法で防ぐには遅く、咄嗟に矛先を頭から首へと逸らした。急所の破壊は免れるも、槍は鱗を破り深く食い込むだけでなく、激突の瞬間生じた衝撃が内部を破壊する。

 血を吐きつつ地から震わす叫びをあげ、すぐさま距離を取るアランの体勢を揺るがす。空中移動が不可能な隙に、鱗を棘のように逆立たせた尾で叩きのめす。確かな手ごたえと、尾に血の生温かさが付着するのを感じた。

 叩きつけた先の地面で砂埃が収まると、ゆっくりとアランが立ち上がっていた。利き腕の反対側である左半身が、いびつな形と化している。


「負け――るかァァァ!」


 叫びと共に、左半身の形が急速に戻っていく。彼が爆発させている感情は、憎しみだけではない。意地――いや、それは誇りと呼ぶべきか。

 アランが身体を再生させている間に、ゼータも翼の被膜、首と内部に癒しの魔法をかける。一時の休戦を経て、再び激突する。

 ゼータが神速で腕から突撃し、人間の数倍の大きさを持つ衝撃波と共にアランを襲う。唯一の逃げ場を作っていた空中には、既に牙が並んだ口を配置させている。彼を噛み千切ろうとするが、顎は締まり切らない。顎の力とアランの膂力が拮抗しているらしい、上顎と下顎の間で支柱となっていた。そのまま炎を吐くが、逃がしてしまう。

 ゼータが炎を吐いている影で、アランは右足のかぎ爪を叩き折る。慣れない大きな身体の末端を狙われたが故、対処に失敗した。

 額の宝石を輝かせ、アランにではなくゼータ自身の身体全体に魔法をかける。アランからゼータの姿は見えず、ゼータが発する音はアランに届かない。誇り高い竜たちが――ましてや人間には――ほぼ使うことの無い、忘れ去られた隠れるための魔法だ。

 アランは目を閉じる。ゼータが隠れ逃げるためにこれを使ったのではないことなど、分かり切っている。見えず聞こえないなら、肌で感じ取るのみ。気を研ぎ澄ませ、どこから来ても対処し反撃するために、構えた槍と腕を下げる。

 三十、呼吸をした。アランが瞳をカッと開き、その場から飛びのく。地面の下から炎が噴射され、ゼータが地を割りながらアランを突き上げる。ゼータは空を飛び、アランは背に張り付く。音に匹敵する速さでの飛翔の中で、アランは何も仕掛けられない。そして、ついに振り落とされた。ゼータの全身が焼けた鉄のような熱を発したからだ。ゼータは回転し翼でアランをはたき落とす。槍で受け流し着地の準備をするが。

 戦場跡一面が、爆発した。ゼータ自身の気配が囮となっていたため、地面に仕込まれた魔法の爆弾に気付けなかったのだ。アランは完全に不意を突かれ、爆発をもろに受けた。

 それでも、アランは倒れなかった。竜に負けないという意志、師を越えるという意志。それらが彼の身体と心に力を与えた。アラン自身が挫けない限り決して折れない愛槍を杖に立ち、上空から突進してくるゼータを迎え撃たんと睨む。

 着地など全く考えていない全力の突進を、横から蹴りつける。蹴りを入れたアランの左半身が犠牲となり吹き飛ぶが、計算通りだ。

 ゼータは予想していたものと外れた反撃で、地面への激突点が防護魔法で固めていた頭から右半身となった。その予期せぬ衝撃で全ての魔法が剥がれる。素早く立ち上がろうとしたが、足が空を蹴った。こちら側のかぎ爪は砕かれている。

 倒れた竜は、額の宝石を砕かんと飛び掛かる人間を、見た。




 額に槍が刺さるゼータと、片腕と片足を失ったアラン。どちらも動くことが出来なかった。


「魔力源は――破壊した……。竜は……これで、おしまいだ……」


「そう……だな」


 アランの瀕死の宣告に、ゼータが応えた。


「俺も……そうだ。――もうすぐ、死ぬ……」


「……実戦ならば――引き分けだ」


 アランは痛みが去っていくのを感じた。代わりに、全力の戦いを経た爽快感と、全力の師に引けを取らなかった達成感が、やって来た。

 竜であることを隠されていたこと、竜であるゼータそのものへの暗い想いは、命を燃やし尽くした戦いで昇華してしまった。竜であってもゼータはゼータ、そのアランらしからぬ綺麗な理屈がすんなりと胸の内に入ったのだ。


「そうだったな……ゼータは、俺を迎えに来てくれたんだ」


 ここが現実ではないことを思い出すと、完全に痛みが引いた。身体を見下ろすと手足が戻っている。


「ゼータ、ありがとう。聞こえてた、全部。生きてほしい、ってのも。幸せになってほしい、ってのも。俺は……人殺しの俺は、そんなこと願っちゃいけないと思ってた。けど、ゼータは願ってくれるんだな……」


「その……通りだ」


 ゼータは竜の目で――人の姿である時と、同じ目だ――アランを優しく見た。竜だろうが人だろうが見たことのない、微笑みを浮かべているような気がした。


「人を殺めた苦しみを忘れず……殺めた数以上の人間を……助ける。――おまえなら、できる」


 一人が死んだとしても、多くの命と釣り合うことはない。これは、殺人者が出来る、きっと唯一の贖罪だ。


「そんなに簡単なことだったのか……。うん、そうしてみる。俺は、生きてみるよ」


 アランは立ち上がり、ゼータの額から槍を抜く。自分と同じように、傷が癒え元に戻る光景を心に浮かべるが――。


「ゼータ?」


 彼の命の根源である宝石は、砕けたまま。消え入るような息も、そのままだ。


「おい、ここは俺の心の中なんだろ? ならなんで、ゼータは治らないんだ」


“ゼータの領域”であった戦場跡が、砂のようにさらさらと崩れ始める。その奥には“アランである”漆黒の心の内側しかない。


「おまえが、おまえを……取り戻した。ならば……私の居場所は、消える……」


 一人の人間に魂は一つ。他人が入り込む隙間は無く、他人が侵入したなら消し去らねばならない。


「消える……? なんだよ、ふざけるな。ゼータ、ゼータ!」


 戦場跡が消え、ゼータは落ちるように闇へと消えていった。

 一人取り残されたアランも、一瞬意識が飛んだ。




「ゼータッ!」


 気が付くと、高い天井と広く明るい空間の場所にいた。薄い毛布の上に寝かされていたようだ。


「アラン殿!」


「となると、ゼータさんはやり遂げたか……」


「よかった……」


 この部屋には他にも知った者らが居るようだが、誰でもよかったしどうでもよかった。

 肝心なのは、アランの傍らで倒れるゼータ。呼吸、脈、心臓の動き、体温。どれも無かった。


(こんな結末――)


 認めない。

 ゼータは分かっていた。アランが魂を取り戻すと、そこにいる別の魂は消し去られることを。


(ふざけるな、ふざけるな――)


「ふざけるなッ!」


 冷たいゼータの胸倉をつかみ、思いっきり殴る。ゼータは人形のように、無抵抗に床を跳ねた。


「おい、起きろよ! 俺に生きてほしいんだろ!? ならあんたが見てないでどうする!」


 歌が聞こえる。美しく、悲しく、聞いているだけで胸がいっぱいになる――そんな歌が。


『祝福があなたを輪廻へと導きますように。あなたの到着にあたってあなたがあなたを迎えますように』


 ところどころ歌詞が異なるが、これは鎮魂歌の一つ。葬儀の最後に歌われる曲だ。


「ゼータ! ここに戻ってこい! 俺だって、あんたに生きてほしいんだ、幸せになってほしいんだ……!」


『そしてあなたを再びこの世界に導きますように。祝福があなたを迎えますように』


 アランはゼータを力なく殴る。何故こんなに容易く届く? ゼータなら、決してこんな生ぬるい拳を認めなかった。


「なあ、一緒に生きよう――ゼータぁ……!」


 涙が零れる。家族が死んだ後には我慢した涙が。仲間が死んだ後には蒸発した涙が。


『かつて貧しかった魂と共に、あなたが永遠のやすらぎを得られますように』


 涙が、彼に落ちて。

 アランは飛び退く。を防ぎ、防いだまま呆けたように口を開けた。

 ゼータが立ち上がり、稽古の時のようにアランの次の攻撃を待ちつつ身構えていた。


「来ないのか?」


「……ゼータ」


 さっきまで死んでいたゼータが、生き返った。


「ほうほう……綱渡りは、どうやら無事に終えたようだ……」


 気にしていなかったが、ここは革命団のエゲルセィスがいる部屋だ。何故かルトガーとソレーヌの夫婦も一緒だ。


「何が起きた」


 ゼータにも分かっていないようだ。彼は構えを解き、そのまま固まっているアランの手を下ろさせた。


「魔法とは想いの業……お嬢さんならば、ゼータさんの魂を消さず……きっと放出してくれると信じていた……」


 老竜は本当に人間らしく、おかしそうに笑っている。


「放出した魂を元の身体へ導いたのは、わが妻ソレーヌの力だ。彼女の歌声が人の力は、魔法の域にまで届いているのだ」


 ルトガーがソレーヌの肩を抱く。


「まあ、ゼータさんの魂が、竜特有の単純というかたくましいものだったからね。本来の死者を楽園へ送る歌をちょちょっと改造して、元の身体に戻りますようにー、って願っただけだよ」


 楽園とは、竜によく仕えた清らかな魂が昇る場所。ソレーヌが、照れくさそうに頭をかきながら言う。


「確証があったわけじゃない。失敗する方が普通。少しでも本気じゃなかったり油断してたら、成功しなかった。こんな作戦考えるなんて、エゲルセィスせんせはさすがっ!」


 作戦とやらを事前に知らせなかったのは、アランが作戦を意識してゼータが蘇る可能性によりかかることを防ぐため、だったらしい。

 軽く騙され、偽らざる本心を見物されてしまった。しかしアランが目を覚ましゼータが蘇った以上、彼らには返せぬ恩が出来てしまった。


「……礼を言う」


「……ああ」


 ゼータも不承不承といった感じだが、深く頭を下げた。アランも苦い顔をしながら、ゼータに続いた。


「仲間なのだから当然であろう。ははは!」


 ルトガーが細い線に似合わない豪快な笑い声をあげた。ソレーヌも彼に抱かれながら笑っている。


「ひとまず儂の役目は終わった……後は頼んだぞ……」


 エゲルセィスは穏やかに、アランたちに丸投げすると言い置いて眠ってしまった。


「ゼータ」


「なんだ」


 そんな彼らが、面倒で仕方がない。


「俺たちは何が何でも革命団に協力しなきゃいけないらしい」


「そうなったな」


 そんな彼らだからこそ、自分たちは救われた。


「奪った命を償う……こういう人たちが一緒なら、やり遂げられるかな」


「そうかもな」


 師と、そして仲間たち。


「俺……生きてて、よかったよ」


 アランは、一人ではなかった。

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竜楽園のA しろ茶とら @hazuki_sirochatora

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