二章 魂喰らいのアリス


 マリアス滞在三日目。アランとゼータはリータのある誘いを受けていた。


「せっかく革命団の仲間になったんです。他の仲間に会われませんか?」


「仲間じゃない。邪魔しないだけだ」


 アランのいらいらとした訂正も、どこか吹く風。あまりのリータのしつこさに、結局ゼータともども折れてしまった。


「みなさん、楽しい方なんですよー!」


(こいつ以上に濃い連中がいてたまるか)


 アランの内心の毒づきがリータに届くことは、きっと一生あるまい(ゼータには届いたかもしれないが)。

 リータはマリアス東部へ――幸いにも生家があった区画とは反対の地区に――二人を連れ出した。標識を見ると、ジュングラ区という名前を見つけた。


「昨日の場所とは違うのか?」


「あそこは本部です。重要な会議とか、革命団のお仕事や活動で使うんです。今日案内するのは、宿舎ですよ」


「そうか。俺たちのような部外者が襲撃すれば、一網打尽にできるな」


「何度も言いますが、あなたたちは仲間ですよ」


 自分たちはお前らとは違う――その度重なる主張も、リータには柳に吹く風だった。

 リータはここがそうです、となんの変哲もない集合住宅街を示す。この住宅街全てが『宿舎』なら――


(地下の穴倉生活はさせない、ということか)


 竜に異を抱く人間は、思ったよりも多いのか。

 住宅街の中で埋もれていた寂れた酒場に、リータは二人を導いた。店主の男一人の狭い店に、明るい鈴の音が響く。


「リータ……と」


「新しい仲間です。なんと、『竜殺しの師弟』のお二人です!」


 リータは無邪気に二人を紹介する。


「おお、あの高名な。お会いできて光栄です。私はヴィンス・ヘンレッティと申します」


 ヴィンスと名乗った男は、グラスと布巾を動かす手を止めず、恭しく頭を下げた。

 静かすぎる気配と、隙の無い立ち振る舞い。手のひらを見れば武器が分かるが、こちらには一瞬たりとも見せない。底の見えない腕利きだ。

 アランは不機嫌に、ゼータは淡々と名乗る。二人の挨拶を聞き届け、ヴィンスはカウンター内側に続く扉を開ける。酒樽や瓶棚に隠れるように、小さな扉が存在した。リータがそこをくぐり、アランとゼータも続く。

 扉の先には、もう一つの酒場が広がっていた。革命団は地下酒場が元だった、という話をアランは思い出した。表と違った広くにぎやかな雰囲気が、居心地の良さを空間に与えていた。

 あちこちに置かれた木の椅子と円卓。壁際の棚には様々な娯楽道具が置かれている。今は十数人が酒場のあちこちに散らばり、談笑したり食事したりと過ごしている。

 非戦闘員も多いが、戦士と思われる者たちは一人も漏れず侮れない気配を漏らしている。竜に喧嘩を売ろうとしている連中だ、人員も精鋭で揃えているらしい。


「お、リータちゃん! 今日は団長と一緒じゃないんだな!」


「こんにちは、ダリオさん! 団長はお仕事みたいです。今日はこの方たちを案内してて」


 こちらが頼んだ訳ではないがな――アランは口の中でつぶやく。

 ダリオと呼ばれた男は、ゼータよりも背が高い筋骨隆々の戦士だ。あちこちに刻まれた古傷が、激しい戦いを生き残ってきた過去を語る。


「アラン」


 リータがまたはしゃぎだすのに先んじて、名前だけ口に出す。


「アランか。そっちは?」


 ゼータはよそ見したまま答えようとしないので、アランがため息をつき教えてやる。


「ゼータ」


「よろしくな、アランにゼータ! リータが連れてきたんだから、団長が直々見出した精鋭ってとこだろう。ツワモノの気配がビンビン漂ってきてるぜ!」


 馴れ馴れしく肩を叩かれる。嫌そうに手で払うと、すまんすまんとまたがははと笑う。

 こういう人種は、アランもゼータも当然のように苦手だ。


「ダリオ君うるさいよー、もう! 新人さん嫌そうな顔してるじゃん!」


 その声につられ、また新しい出迎えがやってくる。病的を越えた白い肌と白い髪、血の色の目の若い女だ。左首から肩に紋章が刻まれている。


「紋章病?」


「やっぱ珍しい? そだよ」


 名前の通りの紋章が特徴の、不治の病。紋章が浮き上がった後、徐々に体から『色』が失われ、血すら透明となった時死を迎えるという。彼女は虹彩の色を失った後らしい。


「ソレーヌさん、お久しぶりです。お身体の調子はどうですか?」


「いやー、太陽がつらいねー。まぶしくってたまらない上すぐ焼けちゃう」


 明るく笑い飛ばす彼女から、影は感じられない。病の侵攻具合からして、片手の数も生きられないだろうに。


「ソレーヌさんがいるってことは――」


「いるよ、あそこ。――あ、夫のことね」


 ソレーヌが指した先には、細身の男が背を向け座っている。脇には書が何冊か置かれ、肩の小刻みな動きから書き物をしていると見える。


「ソレーヌさん、今は結婚してアイスラーって苗字なんですけど、結婚前はマリアスですっごく有名な歌姫だったんですよ!」


「リータちゃんったらもう、昔のことさっそくばらしちゃって!」


 ソレーヌという名前、歌姫――アランは知っている。


「ソレーヌ・エヴラール?」


 アランがマリアスにいた当時は、知らぬ者はいない人気絶頂の歌姫だった。アランが住んでいたソフィオーにも何度か公演に来ているが、半券が全く取れず、屋外から微かに歌を聞いたのみだった。

 そんな彼女が、まさか紋章病で余命いくばくもなくなっていたとは……。


「おっと、知ってくれてるか、ありがとう。アラン君――だよね」


 名乗ったのが聞こえていたらしく、握手を求めてきた。雲の上の存在と思っていた彼女の手を取りそうになったが、ぎりぎりで思いとどまった。利き腕を預けることは、よっぽどでない限りしたくない。

 ソレーヌはごめんごめんと明るく笑って手を引っ込める。それほど気に障っていないようだ。確かに安堵した胸の内の一部が、鬱陶しい。


「たー! やっぱりむっさいおっさんより麗しの歌姫のがアランの好みらしいな! アランは任せた、おっさんはゼータと飲んでくらぁ!」


 と、ダリオは有無を言わせずゼータの腕を引っ張ってカウンターへ連れ込む。無表情に少し呆れが混ざったゼータの顔が、アランにはおもしろく映った。


「あはは……そういうのがダメなんだよダリオ君ったらー」


 ソレーヌが苦笑をしつつ手を振った。ダリオが輝く笑顔で手を振り返し、部屋の隅々まで聞こえるような声で酒とつまみを注文した。


「わたしもご一緒してよろしいですか?」


「いいよいいよ、リータちゃんならいつでも大歓迎!」


 アランの意思はよそに、勝手に決まっていく。ダリオの相手をしてやるよりかはましと判断し、無言でソレーヌの席まで着いていった。

 だが、まだ落ち着いていたソレーヌの気配が一変し、すぐに後悔することとなった。


「る・う・くん!」


 書き物をしている小柄な男――夫だと言っていた――に、ソレーヌががばっと抱きついた。かけた声は余りにも甘い。


「うわおぅ! ――ソレーヌか」


 ずれた眼鏡を直しつつ、男は流れるようにソレーヌの手を握る。返ってきた声も、聞いているこちらが溢れる愛情で溺れそうだ。


「あんまり根詰めると喉が渇いちゃうよ。はい、愛情」


「おっと、もうこんな時間となっていたか! うむ、ちぃとばかり退屈させたか」


「ううん、ルーくんの真剣な横顔見るだけで、あたし胸いっぱいだよ」


「其方の眼差しは、われに多大なる集中力をもたらすらしい。見ろ、こーんなに解読文が増えたぞ」


 繰り広げられる二人だけの世界に、アランは白けた目を向けるしかできなかった。際限なくイチャイチャ世界を紡ぐ二人に、とうとうリータが咳払いをした。

 二人が同時にこちらに気づく。


「リータ殿! それと……」


「新入りのアラン君。そうそう、彼を紹介するんだった。置いてけぼりにしちゃってごめんね!」


 片目を閉じつつ両手を合わせるソレーヌ。色んな意味で、こんな人間だとは思わなかった。


「われは彼女、ソレーヌ・アイスラーが夫、ルトガー・アイスラーだ。妻ともどもよろしく頼むぞ、アラン殿」


「アラン・ノックスだ」


 彼女と同じく求められた握手を無視しつつ、不愛想に名乗った。

 改めて全体像を見る。三十代辺りの、黒髪に青い目を眼鏡で覆った、ひょろひょろとした男だ。先ほどまで向かっていた机の上の本の中身は、アランには読解できない文字らしき記号でいっぱいだった。

 言葉も文字も、国ごとで変わることは無い。特別な言葉を使うのは竜くらいだが、アランが学んだそれとも違っていた。


「彼は考古学者でねー。ちっちゃいころ時代がかった口調なら昔の言葉が分かるんじゃないかって練習して、その癖が抜けなくなっちゃったっていうかわいい人なんだよー!」


 ソレーヌがルトガーの腕に抱きつき、頬ずりする。


「相変わらずお幸せそうで……こっちも胸いっぱいですよ……」


 半分大真面目に大きく頷くリータ。アランは胸いっぱいというより胸焼けしそうだ。いや、既にしている。


「……こーこがくしゃ、それはなんだ」


 胸焼けをどうにかするべく、アランは話を逸らす。


「それはな――いや、少し話が長くなる。席についてくれ」


 と、ルトガーがアランとリータに席を勧める。飲み物の注文を聞いて、全員分が届いたところで語り始めた。


「考古学者とは。われらが生まれるずっと以前、どんな時代だったかを文献や自然から考察する『考古学』の学者だ」


 まだ文字が書かれていない場所に、『考古学』と書いた。


「われは現在流れておる『竜の時代』以前の、を専門に世界各地を回っておる」


「竜が、現れる前……?」


 人は竜に守られ、竜に生み出された――そう教わってきた。竜が現れる以前など、考えたことも無く、きっと考えさせることも拒まれてきた。


「アラン殿も驚かれたか。……いや、それが世間の常識だ、恥じ入ることは無いぞ。今の世界の“主”たる竜が、その絶対なる基盤を保つため、『真なる神』でない証拠を意図的に消してきたのだ」


 眼鏡の奥の柔和な顔に、鋭さが宿る。


「『竜の時代』以前にも、人は在った。人が在る場所に営みが在り、営みが在る場所に信仰が芽生える。。さて、人々は何をよりどころに生きてきたのであろう?」


 竜がいないなら、人は……。どうなっているのか、アランは見当がつかない。


「人々は、『神』を信仰していた。――今は『竜』と同義となっておるから、その差にピンとこんかもしれんがな。われら考古学者とて同じ、よって“竜ではない神々”に『アリカンド』という仮称を割り当てた」


 アランは新しい言葉を、疑問を抱かず刻んでいた。戦ごとや竜の討伐以外の事柄に興味を抱くのは、いつ以来だろう。


「竜が複数存在するように、アリカンドも一柱ではなかったらしい。らしい、というのは竜が一切合切の資料を焼き払ったから、だけではない。興味深いことに、アリカンドは人の前に決して現れず、直接的な支配とは無縁だったのだ。人々は証の無い存在の実在を疑わず、信じてよりどころにしてきた」


「人を焼かず、力を示さなかった?」


 思わず口をはさんだアラン。ルドガーは、力の無い妄想と変わりない存在の支配下に、人々は置かれていたと主張する。理解が許容から外れだし、アランは咄嗟に心の壁を張る。


「そんなものいらないだろう。人が屈服するのは力があるからだ。恐怖が無いなら、なんで絶対存在に従うんだ」


 強く手を握るアランに反し、ルドガーはあくまでも穏やかだった。竜の教えを諭す神官の目と似ていて、尚且つ決定的に違った。


「われは思う。――これは考古学全体の見解ではないのだがな。神が人を生んだのではなく、人が神を生んだ。先も申したが、営み在る場所に信仰が芽生えたのだと思う」


 その違いは、立っている場所。諭される者と同じく答えなど分かっていない――同じ目線だから、かもしれない。


「人は弱い。力に容易に屈し、欲望に歯止めなく従う。皆が皆そうなれば、人々が共に生きるなど夢のまた夢。人の上に人が立てば、秩序が生じるかもしれぬ。しかし上に立った人も弱い。だからこそ人は竜に従った」


 時にはアギオで、時には代理戦争で、人は竜に焼かれる。だが、これ以上ない楽園にいると信じ切っている。

 その理由は、人と竜の間にそびえる絶対的な差。アランが潜在的に恐れていたものを、改めて直視させられる。


「このわれの仮説、そして考古学観点からの真実が物語っていること……アラン殿、分かるか?」


 ルトガーがなにを証明したかったのか。アランは脳がはじき出した理論ではなく、直感をそのまま言葉とした。


は人に不要」


 竜がいなくても、神がいなくても。

 弱く頼りなくとも、人は都合のいい存在をよりどころにして立つことが出来る。それは人々の弱さと一体となっている強かさを信じる、ルトガーの仮説。

 今はアリカンドと呼ばれる神々を、竜は人々の記憶から焼き払った。それは人々が共に立つための柱を挿げ替えたという、考古学の真実。


「人は絶対的な力に庇護されなくても、人でいられる」


 人は弱い故に、強き竜に守られねばならない。それが竜の教え。

 ルトガーは満足げに頷いた。


「その通り。まあ、竜のいなかった時代が楽園だったとも、手放しには言えぬのだが……過去は過去、未来は未来だ。われが考古学者として革命団に出入りするのは、竜が消した過去を知りたい以上に、未来を信じたいから、なのだ」


 ふいに、隣で頷きながら聞いていたソレーヌの手を取った。


「今はもう一つ理由があるがな」


「んもう」


 再び惚気に入ろうとする二人を前に、アランは立ち上がった。


「興味深い話だった」


 胸焼けする光景が繰り返される前に、さっさとその場から離れた。

 竜は強く、人は弱い。それは今在るこの世界の真実だろう。

 しかし、その差は霧に隠れて想像も出来ないところから、霧が晴れて目視し捉えられるほどへと変化した。

 胸が弾むような気持ちを抱いたアラン。この感情の名が希望だと、彼は気づいていない。




 アランは一日で一番大嫌いな時間を迎えていた。

 眠ることは、嫌いだ。眠りに落ちる前も、その後も、目覚めも。睡眠は人間には必要不可欠で、集中力を切らせば命にも直結する。それでも大嫌いだ。

 仕方なく体と脳を休めるのだが、静かに体を横たえていると余計な考えで頭がぐちゃぐちゃになる。過去に死んだ大切な人たちの記憶、今日殺した明日があると信じていた者らの表情、遠くない未来にろくでもない形で死ぬだろう自分への思い。それらが交じり合って、傷跡を作らないように重みを乗せてくるような不快な感覚に襲われる。

 この世は楽園などではない。未来など死への暇つぶしでしかない。いくら理解しようと心のどこかは割り切れず、その部分がアランに苦しみを与えるのだ。

 苦しみでしかない就寝前の静寂は、それでもいつか眠りを呼んだ。

 アランはよく夢を見た。炎と父とも母とも判別できない腕の悪夢、部隊長の断末魔の悪夢、師に己の心臓を貫かれる悪夢――そういった分かりやすいものもよく見たが。

 竜を絶やし尽くし師に祝福されていると、いつしか家族が祝福の輪に加わり、寝食を共にした仲間が加わって、懐かしい故郷の家に戻っていて――そんな幸せな夢も見た。

 決して叶わない、アランの幸せ。何度目が覚めてあり得ないと何度確認して脱力と絶望で何度現実と向き合わされても、夢の中では何度でも騙された。

 幸福な結末から現実へ突き落される瞬間が、一番嫌いだ。眠っている時にしか幸福になれないと突きつけられ、あの感覚を現実に求め、決してもう戻ってこないと、諦めて。

 諦めきれない、夢という形で幸福を求める自分が嫌いなのだ。

 いっそ死んでしまえ。それが一番の幸福じゃないか? 分かっていても自分ではなく他人に死を振りまく。そんな自分に生きる価値などこれっぽっちも無いのだろうと自覚はしているが、憎しみを言い訳にその決断を先延ばしにしていた。

 こんなことを延々と考えさせられる。だから寝る前も眠りの中も起きた時も、嫌いだ。

 ゼータに眠りたくないと駄々をこねた時、餓死と同じように睡眠が不足することでも命を落とすと、淡々と諭された。

 そう言ったゼータが眠っている姿は、思い返せば一度も見ていない。夜はなかなか眠ろうとしないアランが意識を手放すまで起きており、夜明けには悪夢にうなされる彼を起こしていた。


(ゼータは、ずるい……)


 今夜の最後の思考は、師への文句だった。




 アランは高い場所から落ちている。激突の衝撃はいつまでもやってこない。この浮遊感なら空を飛んだっていいはずなのに、ひたすら真っ逆さまに落ちていた。

 どこから落ちたんだったっけ。ああ、人の道、人道ってやつだ。

 だから、落ちる先は奈落。奈落はあまりにも穢れた魂の行きつく場所。確か、浄化の化身である竜が罰として送る場所だと、孤児院の大人が言っていた。

 待っているのは永遠の責苦。この世には無いほどの痛みと苦しみ。そんなものは望んでいないが、それが自分の身に降りかかるのは当然だとも思う。竜が科した罰というのが一番気に食わないが、罰を受けて当然な人間なのだから、仕方がない。


――本当に?


(本当は)


――助けてほしいんでしょう


(そうだな)


 頭から落下しているアランの正面で、いつの間にかアリスが微笑んでいる。


――だって、あなたは頑張っただけだもの。家族や仲間への愛を全うしようとしただけ


(ああ。家族を殺したのが強盗なら、そいつに。仲間を殺したのが敵兵ならそいつらに。ただ、どちらも竜だったから、竜に復讐をするんだ)


 いくら敵が大きくても、それで奪われた虚が小さくなりはしない。


――あなたが殺したいのは、竜よ。なのに、なんでそんなに悲しんでるの?


 竜を殺して行きつく奈落なら、何の悔いもなく笑いながらそこへ到達するだろう。


(人を殺したから)


 アランが奪った命の大半は、人間だった。殺したいのは竜だったはずなのに、アランの手は人の血がこびりついている。


――なんでかしらね


(俺が……血を求めたから)


 命を奪う瞬間に感じる魂のぬくもりに、魅せられてしまったから。


――魂を喰らわなきゃ、あなたの魂は凍りついちゃうから


(魂を、……喰らう?)


 アリスは笑みを大きくして、満足げに頷く。


――あなたが喰らった魂の重みで、あなたは今落ちているの。罪が大きいからじゃないのよ


 これが罪の重さではないのなら。


(じゃあ、俺はいったいどこへ?)


 天地はもはや逆転し、アランはアリスと共に昇っていた。

 アランの問いに、アリスはくすくすと笑うだけだった。


――それを知るのは、まだ早いわ。だってその段階にいないもの


 アリスはアランの額に口づけを落とす。初めは痺れるように、やがて熱を持ちぼんやりして、意識が離れて思考が形を崩した。


――ソフィオーへ行きなさい。そこで あな は ……




 は、と目が覚める。朝日が目元に刺さり、秋の冷たい風が鼻腔をくすぐる。

 不思議な感じだ。と、こうまで気分よく目覚められるのか。


「起きたか」


「おはよう」


 毎度のように先に準備しているゼータ。アランは大きく伸びをして、新鮮な空気を思う存分吸い込む。


「今日、何か仕事はあるか?」


「いいや」


 分かり切っている答えを確認する。この安宿に泊まり贅沢をしなければ、半年ほどはゆっくりできる額が手元にあるのだ。


「どこかへ行くのか?」


「ああ」


 目覚めた瞬間からアランは、ある場所のことがひっかかっていた。


「ゼータは来なくていい」


「……そうか」


 六年前竜に焼き尽くされた地区、ソフィオー。今はどうなっているのだろう。




 街を歩くのは、六年ぶりとなる。孤児院に預けられた後は、戦場へ行くための訓練ばかりで、外へ出ることは無かったからだ。

 経路にあったフラーゴラで、たわむれに菓子を買い求める。あの日結局買えなかったそれを取り戻したかったから、かもしれない。人通りは多くあちこちに行列が出来ている。それに並ぶ気分ではなく、奥に引っ込んだ人気のなさそうな店でクッキーを一袋買った。

 歩きながらぽりぽりとクッキーを口に入れる。人気は無いらしいが、普段上等なものを口にしないアランには十分満足できる味だった。笑顔で街を行く人々を見ながら、甘くほろりと崩れる感触を味わう。

 ちょうどクッキーを食べ終えたところで、フラーゴラ区入り口に着いた。

 ちょうど、ここだった。アランは立ち止まり、西を見る。夕日色の竜がをする幻像が、目にちらつく。

 あの時のアリスがアランなら――一瞬そんな妄想が現れ、苦笑しつつ否定する。例え運や奇跡に恵まれ一人で討てたとしても、後に残るのは罪人の烙印と非難、アギオよりも規模が大きいかもしれない廃墟だ。そこに家族の笑顔は、無い。

 フラーゴラを後にし、離れるにつれ、人は少なくなっていった。六年前のアギオの前は、フラーゴラほどではなかったが生き生きとした街並みだった。


「そっちはソフィオーだよ」


 誰もが避けて通る道――ソフィオーへの近道――へ入ろうとすると、通りがかりの男に止められた。


「何かあるのか?」


「んや、治安が悪いからね」


 再建はされていないようだ。……そこに住んでいた人々が残らず焼かれてしまったのなら、当然だ。


「関係ないだろ」


 迷った末、槍は宿に置いてきた。得物があれば、見た目の若さを覆し声はかけられなかっただろう。


「そうかそうか、悪かったね」


 気分を害したらしい男が、言葉を投げて別の道に入っていった。

 男が言った通り“マリアスの治安の良さ”は陰に入り、だんだん人の負の感情が発する淀んだ空気で満たされてきた。外国の貧困街に共通する、独特のにおいだ。

 そもそも貧困街とは、アギオの跡地から生まれるものなのだろうか。唐突に土地が空き、寄る辺の無い人々が追いやられ、住みつき、拠点を手に入れ安定し、徐々に栄え、またアギオで焼かれる。そんな繰り返しを想像した。

 街を流れる空気だけではなく、見た目もがらりと変わっていた。アギオ前の名残を見せるものは皆無で、アギオがあったことを彷彿させる焦げた壁なども無い。

 街にあるのは、今にも崩れそうな石の家、乱雑に建てられた木の家、すぐに片付けられる屋台――そんな新しい人々の営み。

 想像はしていたが、実際に見て、アランはやるせなさやもどかしさ、悔しさを覚えた。

 優しい人々が焼かれ、残った場所を継いだ人々は淀んだ負の空気を垂れ流している。

 叫びたい。ここに住んでいたのは自分だった。ここはアリスの街だった。奪ったのは竜だと分かっている。だが変えたのは人間だ。


(ここは、俺の故郷じゃない)


 心の叫びは、居心地の悪さを余計に増大させた。この入り口で引き返してしまおうかとよほど思ったが、アランはソフィオーの中へ歩を進める。どこかにほんの少しでも、懐かしいあの場所の気配が残っていないか――確かめずにいられない、心の弱さだ。

 午前だというのに閑散として暗い景観、時おり聞こえるのは寂しい風と押し殺した声、ごみと吐しゃ物のひどい臭いがたまに漂ってくる。

 建物も街路樹も道さえ消え、が全く分からない。せめて、もう少し健やかな街だったら――故郷だった場所を歩くのは、これほどまでに苦しくはなかっただろう。

 この道は、失われたことを確かめ落胆するだけの苦行なのは分かっている。しかしどうしてだか、アランは奥へ奥へと分け入っていった。期待などしていないのに、傷つくだけなのに。

 やがて。


「誰だ? ここはキミみたいなお坊ちゃんが入っていい場所じゃないぜ?」


「いーや、オレらを哀れに思って施しをもたらしに来てくださった、せーしょくしゃサマかもよ?」


「あー、そーゆーやつか。有り金全部置いてってくれるやさしーお方だな!」


 妙な連中の縄張りに入ってしまったらしい。いつになくぼんやりしていて、囲まれていることをようやっと自覚した。

 一人が乱暴にアランの肩を掴み、そうして歓声を上げる。


「ヒュー! こいつ、こんな髪のくせに女だぜ!」


 囲む男たちが一斉に盛り上がり、活気づいた。


「男のかっこしてやがっが、確かに上玉だな!」


「お嬢さん、お一人ですかい? お母さんとはぐれちゃったんでちゅかー?」


「こりゃせーしょくしゃサマに間違いねー! 有り金ばかりか女まで恵んでくださる!」


 この街に入り、今の今まで抑えていたものが、熱を放ちうずいている。抑え込む手が焼け、焦げているようだ。


「なんだいお姫様、怖くて声も出せないか」


「いんや、こんなゴミ溜めにわざわざ来てくれたんだ。誘ってんじゃねぇか?」


「そうみてーだな。据え膳食わぬは男の恥、っつーからなぁ……」


 野卑た下品な目の男たちを、熱が漏れた目で睨みつける。壮絶なまでの殺気に男たちは一瞬たじろぐが、命の危機を察する者はいなかった。


「い、今更怒ったって遅いぜ?」


「ぞくっと来たねぇ、痺れるぜ」


「我慢できん、やっちまおう!」


 通りに悲鳴が響き渡った。

 ここは“塵たちの”住処。ゴミ溜めにはゴミ溜めなりの秩序があった。多少の血は流れても、死人が出ることはまれだったのだ。


「……」


 静かになった通りで、アランは血に染まった両手を見ていた。周りには先ほどまで彼を囲んでいた男たちが、ある者は心臓を掴みつぶされ、ある者は脳漿をまき散らし、全てが事切れて倒れている。

 依頼で殺した人数など数えていない。自衛で殺した数も然り。

 これは紛れもなく自衛だ。だが、今までとは何かが決定的に違った。


――どう? この家族が眠る地で、人を殺した感想は


(……)


 アリスが心底おかしそうに、くすくす笑っている。


――どう? 竜にだけ向けていた憎しみを、人間にぶつけた感想は


 今まで殺してきた人間に、憎しみを向けたことは無かった。


(……きもち、よかった)


 憎しみが、泥が。今まで受け取ってきた殺した相手の苦悶を覆い隠し。奪ったという征服感、得たという恍惚感、それらの幸福感で魂が満たされていた。


――ええ、幸せでしょう? 死んだ家族が見ている前で、んだから


 竜を殺した後、少しの達成感はあれど、残る多くは虚無だった。圧倒的な力で同族を捻じ伏せる――なんという、快感。

 アリスの手がアランに重なり、同化する。やがて、腕が、足が、身体が。アリスへと裏返っていく。


「ようこそ、そしてこんにちは。魂喰らいのアリス」


 血だまりの中で、一人の少女が咲いていた。




「アリス・ノックス――ええ、憶えています」


 ゼータはマリアスに点在する国営孤児院を巡っていた。アランを引き取ったというここへ行きつくまで、半日を費やしてしまった。


「して、あなたは――」


「五年前、戦場で。あの後すぐ、戦争が終わったようだが」


 院長の彼女は、沈んだ顔で頷く。


「ええ。竜が直々にご出陣なさり、加勢へお出でになったのですが……ピエリア方の竜と交戦なされたそうです。戦いは激しく、あの戦争で帰った者は一人もおりません」


 ピエリアとは、五年前マリアスと戦っていた他国の名だ。

 ゼータは代理戦争での唯一の生き残りであるアリスを、どう処理したかを確かめに来た。万が一生存が発覚していれば、脱走兵という扱いになりかねないからだ。脱走兵は処罰、ほとんどは死刑を処される。だがアリスは、ゼータの予想通り死んだものとして扱われているようだ。

 知りたいことは知った。ここで帰ってもよく、本来そのつもりだったが……。


「アリスは……あなたから見たアリスは、どの様な人間だった?」


 院長は憂いを滲ませた笑顔を作る。


「危うい子、でした」


 アランはゼータに、最低限のことしか語らなかった。アギオで家族を失ったこと、すぐに代理戦争に徴兵されたこと。それだけ。

 孤児院を探し回ったのも“アギオで家も家族も失ったら普通そうなるから”で、アランはそこで世話になったと一言も言っていない。どんな思いで過ごしてきたのか、住んでいた町の名さえ教えてくれなった。

 いや、聞かなかった、か。過去については互いに不干渉を貫いていた。ゼータにも易々と教えられない秘密がある――それを言い訳に、アランの心の奥深くへ入らなかった。その結果アランが壊れつつあるなら、それは師としての怠慢だ。


「危うい?」


 院長が見たアリスは、家族を殺された直後。おおよそ、憎しみの爆発を無理やり抑え込んでいたころだろう。


「とても信心深い子だったのです。竜を信じ、竜の言葉を諳んじ、竜のお心に沿って生きる――でもそれは、家族を街ごと失った『虚』を埋めるための……例えば母親の胸で泣くことの、代理行動でした」


「代理行動……をする人間は、危ういのか」


 ゼータには、よく理解できなかった。それを見透かしたのか、院長は柔らかい笑みを浮かべた。


「失ったものは決して埋まらない。それを分かってもなお、求めずにはいられないのです。それが虚のカタチに全く合わない別物だとしても、それを理解していても。人は虚を空洞のまま抱えて生きていけるほど、強くないのですよ」


 虚の感触――ゼータが理解する数少ない感情だ。永久に失ったものを他のもので埋める――人の心とは、つくづく複雑だ。


「あの子の『虚』は大きく深く――感受性の高い子だったのですね――とても“人の手”では救えない。だからわたくしどもも竜に縋ったのです。あの子を助けて、と」


 信仰は生きる意味、居場所、仲間を与えるのだと。失ったものは戻らないから、代わりのもの――竜の教えという不形のもの――で埋めさせた。


「あの子の傷が癒えきらない内に――一生残る傷だったのでしょうが――出兵が決まり、戦場へ発ちました。そして、死んで……竜のために戦争で散れて、ある意味幸せだったのかもしれません」


 院長はにじみ出た涙を、そっと拭った。


(幸せに……)


 院長やこの国の民たちは、代理戦争で竜同士の激突があったと知らされたようだが、実際戦場を焼き払ったのは、マリアスの竜一頭だった。その裏切りに憎しみを閉じていた信仰が吹き飛び、アリスはアランとなった。


「あの子は、幸せを探すには傷が深すぎたのです。休むいとまを与えられればよかったのですが、結局竜の官として死なせてしまいました。英雄の一人として昇ったのですから、せめてわたくしだけでも、人としてのアリスを憶えていようと……」


 きっと竜も、人の子の幸せをお望みですから、と院長は付け加えた。

 ゼータは思う。アリスが幸せになるために必要だったのが時間なら、己がアランに与えた五年間は何だったのか、と。

 虚を理解し、傷を癒し。ゼータはそれをしなかった。思い至りもしなかった。

 ならば、今からどうすればいい?


「アリスのお話を打ち明けられて、わたくしも少し気分が軽くなりましたわ。お礼申し上げます」


「私は、何も……」


 何も、為せていない。


「わざわざ訪ねてきてくださり、ありがとうございました。……最後に一つ。あなたから見たアリスは、どの様な子でしたか?」


 先の質問をそっくり返された。

 ゼータはこのような曖昧なものを言葉にすることが、とても苦手だった。


「優しい……」


 限界まで振り絞って出てきたのが、そんな陳腐な言葉。

 だが、出まかせではない。ゼータにとって。


「でしょうとも」


 院長が自分の子を自慢するように、胸を張った。




 その日の夜。アランは宿に帰ってこなかった。

 目を離すなと自分に言い聞かせたばかりなのに。ただ同行を拒まれただけで。

 ゼータは胸が不快にうずくのを感じた。これが怒りというものかと見当をつける。


(アランが抱えるものは、こんなものではない)


 こんな矮小な自己嫌悪とは、質も量も別物だろう。

 アランが置いていった槍と自らの槍を背負い、宿を後にする。


(私はまだ、何も為していない)


 このまま、終わらせるものか。




 その夜は宿を中心に探し回ったが、かすりもしなかった。何かをするには遅すぎる時間だったが、何もしないよりはましだろうと踏んでいた。

 待ちに待った朝を迎え、マリアスにて唯一人脈を紡いだ『革命団』本部に入る。


「おや? 早いですね」


 都合の良いことに、大量の書類を片付けているニルスを発見する。


「五年かそれ以前にアギオがあったのはどこだ」


 唐突すぎる質問に面食らうニルス。疑問を浮かべつつも明白に答える。


「ソフィオーという西側の地区ですが――ああ、何があったかくらいは聞かせてください」


 踵を返して去ろうとしたゼータは一瞬迷い止まった。


「アランが消えた。悪い予感がする、気をつけろ」


 それくらい教えるだけの義理と恩はあると判断した。だがそれ以上は無い。下手に巻き込ませては時間、そして彼らの命を浪費するかもしれない。

 制止を呼び掛けるニルスを扉で遮り、入国時頭に叩き込んだ地図を引き出す。最短距離を走り、昼前にはソフィオーにたどり着けた。

 外国なら貧困街と呼ばれるだろうそこは、アギオからの再建が進んでいない弟子の故郷。決定的なが起きるなら、ここ以外あり得ないだろう。

 朝の騒々しさは隣地区との境で遮断され、向こう側は葉擦れの音も朝露が落ちる音も無い無音が支配している。

 人が居住している痕跡はある。大方竜の庇護からこぼれ落ちた宛て無き人が、新しく住みついたのだろう。

 新しい住人は、どこへ行った?

 ゼータは足音を消し、気配を殺し、奥へと進む。この感覚は戦場ではない、だ。


(遅かったか)


 しばらく歩くと、空気に血の臭いが混ざり始める。ここまで住民の気配、そして戦いの痕跡が皆無だった。一体何が起こっている?

 血の臭いをたどり、やがて異音が混じった。ぴちゃりという水よりも重い液体が滴る音、どさりという重いものを落とす音。

 開けたその場所に――いた。


「あら?」


 積み重ねた死体の頂上にゆったりと座る、女王。


「誰かと思えば、ゼータじゃない。……なんで気付かなかったのかしら」


「おまえは……」


 異様、では済まされない。邪悪、でも足りない。悪夢のような光景だった。

 雨の日のように濡れる地面は真っ赤に染まっており、大勢の人間が地面の凹凸でできた水たまりを踏んでいる。人間たちは皆、意思の無い幽鬼のような表情と動きで、緩慢に地面に転がる死体を女王が座る山に加えていた。


「馬鹿ね、アリスよアリス。あれだけ一緒にいたんだから、多少見違えても分かってくれると思ったのに。……ま」


 アリスと名乗った女王は、紛れもなくアランの姿をしていた。アリスは血でべっとりと濡れた手で前髪を払う。


「あれだけ一緒にいたのに、あなたの正体が竜だなんて思いもしなかった私も、お馬鹿だったわね」


 アリスは頬杖をついてゼータを見下ろし、妖しく笑った。

 ゼータは見破られたことで確信した。このアリスは、自分の全てを使ってでも排除せねばならない敵だと。


「アランに――人間に魔力を使いこなす真似は不可能。竜も人間を乗っ取る真似などしない」


「乗っ取るだなんて……失礼ね。私はアリス、あなたのアランは、この私以外どこにも存在しないわ」


 敵の正体は不明。機嫌よく情報を垂れ流しているうちに、全てを把握せねば。

 アリスの言っていることは、全くの出鱈目とは思えない。虫食いの情報を与え、こちらが見当違いの解釈をするのを楽しもうとしている。

 だから、竜ではない。


「おまえの目的は? 人間を積み重ねて、何が楽しい」


「目的? あなたたち竜と、していることは一緒よ」


 足元でかしずいている内の一人に微笑みを向けると、その一人の表情に意思が宿る。


「は? ひ、ひぃぃぃ!」


 周りの状況に気付き、腰を抜かしよろめく。よろめく彼を人山の頂上にいたはずのアリスが受け止め――


「が、ハァ――」


 そのまま素手で心臓をえぐり取った。

 絶命した男を放り投げると、姿が揺らめき消え、次の瞬間には頂上に戻っていた。


「最も人の魔力が高まりやすいのは、死のその瞬間。彼の恐怖と絶望と痛み、おいしくいただいたわ」


 握ったままの心臓を林檎のように、心底美味だと言いたげに頬張った。


「おまえの目的は人間の魔力の採取……。竜でも人でもないおまえは、アランの“心の虚”に取り付き、アラン自身の憎しみ魔力と同調した――寄生虫か」


 アリスは口元を覆い足を震わせ、今までで最も楽しそうに笑った。


「寄生虫なんて表現だけはやだけど、借り物の感情しか持たない竜がよく“心の虚”なんて言えたわね。竜でも人間に近づきすぎると、感情魔力が芽生えるのかしら……?」


 舌なめずりをし、今度は歩いて死体の山を下りてきた。


「あなたの魂は、どんな味がするのかしら?」


 言葉で問う時間は終わった。後は、力で取り戻すだけだ。




 魔法とは、人の感情や心が世界に干渉する術。物理的に可能なことならば、達成までの条件や手順を省略し、この世に発現させることが出来る。竜はこの奇跡を独占するために、魔法の根源たる感情、心、そして魂を『魔力』と呼んだ。

 魔力を生み出す人間にも、無論魔法の使用は可能だ。ただし、魔力を司る領域の大半が『無意識』と呼ばれる部分にあるため、無意識が維持する身体面の奇跡を起こすことが限界だ。

 竜とは、人から離れた魔力が物質化した存在。肉体という複雑な機構を“省略”しているため、魔力が無意識に縛られることは無い。身体の限界を超える奇跡は無論、竜の姿を隠し人に化けるといった奇跡も可能だ。

 ただし、魔力を生み出す『魂』を、完全に再現することが出来なかった。故に生命を維持させるためにすり減っていく魔力は、人間から奪うことで補給せねばならない。魂の造りからして人間より遥かに単純なため、複雑な心の動きや感情を持たず理解もできない。

 そして、今目の前に立ち塞がる女王は。

 人間のように事態の推移を楽しみ、竜のように魔力を根源から操る。そのような“化け物”がこの世に存在するなどと、人間の数倍の時間を生きてきたゼータでも聞いたことがない。

 結局何一つ分からないままだが、このアリスは例え止めねばならない。アランが人を捨てた結果、ゼータの選択の時が再び巡ってきたのだ。

 ゼータは槍を構え、下半身の発条ばねで超速の突進をし、頂上のアリスを狙う。アリスはくすりと笑い、かき消える。それも予想の範疇、山を崩し一回転し、自身の背後を槍で振り払った。


「さすがね」


 やはりそこにいたアリスは腕で槍の柄を止め、手刀でゼータの首元を払った。アリスを蹴って手刀を避けると、背後から破砕音が聞こえた。そのまま地面に降り、浮遊するアリスに死体の一つを投げた。

 今度は消えず、死体を跳ね返してアリス自身も迫ってくる。迎撃すべく衝撃波で死体を散らすと、赤黒い血で作られた槍を持ちアリスが突撃してきた。ゼータが槍で打ち返そうとしたが、血の槍に当たった部分が腐食し崩れ落ちる。身をひねり避けると、地面に巨大な穴が出来た。それでも掠ってしまい、脇腹に浅い傷ができる。そこから皮膚が腐り始め、焼いて腐食を止めた。

 背後からの気配を、もう一本背負っていたアランの槍で切り払う。血の槍を持ったアリスだったが、今度はこちらの槍が折れることは無い。既に防護魔法を施し、腐食魔法を弾くように強化していた。受けた槍を力づくで地面に打ち下ろし、抵抗しようと振り上げるアリスの力を逆利用し、上空へ飛びあがる。すぐさま反転、空中を蹴りやっと見上げたアリスの頭上から両断するべく槍に渾身の力をこめる。アリスが身をよじるも、左腕を巻き込み落とす。

 血が噴き出し、アリスが顔をゆがめる。痛みや失血の影響はあるらしい。


「やってくれたわね……!」


 アリスが飛びのき、ゼータから距離を取る。片腕で血の槍を掲げると、遠巻きに囲んでいた人々が、先の緩慢な動きとは真逆の機敏さで襲い掛かってきた。ご丁寧にも一人一人、血の剣を持っている。アリスほどではないが全員が気を抜けない腕前を持っている。囲まれかけて離脱し、それでも人間離れした連携で包囲を試み、決して一人では向かってこない。アリスをちらりと見やると、誰かが運んだ片腕を傷口に当てていた。細胞を活性化させるらしき魔法で、修復を試みている。戦線復帰も時間の問題だ。

 もはや一人の手には余る。最終手段を考えたその時。


「助太刀しましょうか?」


「嫌な予感って、嫌すぎんだろこれ!」


「竜が考える奈落とはこういう光景でしょうか」


 声の方へ一気に離脱すると、そこにはニルス、ダリオ、知らない女性が剣を構えている。


「せっかく二人で楽しく遊んでたのに……」


 アリスが興を削がれたように不機嫌な顔を作った。腕を再生させ、再び両手持ちで槍を構えている。


「アランに何かが取り付いた。取り巻きは完全に奴の支配下だが、生きてはいるらしい」


 手早く状況説明しつつ、全員の武器に防護魔法をかける。


「全員ソフィオーの住民か。ならばなるべく殺さず、足止めしよう」


「命には代えられませんがね」


「オレたちゃ人間の味方、なんとかしようぜ姉御!」


 三人はそう声を掛け合いつつ、操られた住民たちの相手を始めた。ニルスは革命団の精鋭を連れてきたらしく、数に勝る住民たちと互角以上の戦いを繰り広げている。


「仕切り直しは済んだかしら? 行くわよ」


 誰にとって幸運か、アリスは乱戦を選ばず木の家の屋根に軽く飛び乗った。ゼータも追って跳躍する。足場の材質は低級で、慎重にせねば崩れてしまうだろう。

 再びぶつかり合う二人。アリスがアランであることを主張するのは全くの嘘ではないことを痛感する。魔法の使用はともかく、白兵戦の立ち回りはアランと同一だった。

 ゼータが牽制で薙ぐと、アリスはかいくぐりゼータの懐に飛び込む。槍が血の短剣に変化し、心臓を貫こうと力を籠める。その数瞬前、ゼータが勢いよく屋根を踏み抜き、足場全体を崩した。短剣は空振りし、体勢を崩しかけながらゼータの腹を蹴る。蹴りを槍の柄で受け止め、アリスを弾き飛ばした。アリスは空中回転し体勢と距離を整える。その合間に短剣を槍へと変化させた。

 室内の調度品は最低限だが、狭い。ゼータは槍を短く握り直す。

 次に動いたのはアリスだった。神速にまで達した全力の突進だ。ゼータが反射的に左へ避けると、止まらずそのまま木壁を崩した。造りの甘い家はそこからゆがみ始め、ゼータは崩落に巻き込まれかける。屋根の穴から脱出した時、アリスの気配を一瞬見失っていた。その大きな隙に、木片石片が一斉にゼータを襲う。槍を大きく振ってまとめて払うと、石片を陰にアリスが迫っていた。首を狙った本命の一撃を、空を蹴ってなんとか肩にずらす。右肩を血の槍が貫き、同時に腐食が始まった。

 手から力が消え、槍を落とす。


「さよなら」


 凶悪に笑うアリスが、そう言いつつ最高速度で心臓を狙う。


(ここだ――!)


 ゼータは落とした槍を蹴り上げアリスの腕にぶつける。止めの瞬間に油断した隙をついた結果、血の槍はあらぬ方向を突いてアリスは完全に体勢を崩した。空中に足場を作り、アリスの胴を掴み空中へ投げ飛ばす。

 面を喰らうも、アリスは勝利を疑わなかった。ゆるりと減速し、止まったところで浮遊する。遥か下で傷口に手を当てるゼータだが、あれほど深い傷を負わせたのだ、例え竜でも槍を振るえるまで治るのは数日後だ。

 睨むゼータをいたぶろうと浮遊をやめるが、なぜか落下しない。ゼータが空中に縫い付ける魔法を使っているらしい。魔力から繋ぎ止められているため瞬間移動も出来ないが、数呼吸分で解除可能だ。ゼータらしくない悪あがきを不審に思い、眉をひそめたところで、影が差す。


「な、に――!?」


 身体が動かないためを確かめられないが、これほど巨大で濃い影を作る存在は、一つ。

 ソフィオーの怪しげな気配を察知したマリアスの竜は、六年前ここで行ったように、金色の炎で全てを焼き払った。




 ゼータの加勢に参じた革命団の三人は、住民たちの足を折ることで制圧していた。


「あっちは偉く派手にやってんなぁ」


 血の剣を落とした住民を後ろ手にねじりながら、ダリオは二人がいるはずの崩壊した民家を見る。一瞬影が見えて、次は空中戦に移ったようだ。


「首領、あれほどまでに厄介な連中を引き入れて。しっかりと調査したのですか?」


 女性が一人を縄で縛り、手の汚れを払う。


「これは余りにも予想外だったね。調査不足では――皆」


 最後の一人を行動不能にさせたニルスが、上を見るように促す。濃い影で朝の太陽が隠され、その影の主に三人は死を覚悟する。


「竜!」


「アギオ!? いや、違う!」


「だがすることは一緒のようだ。逃げる場所は……」


 無い。

 どうすることも出来ないまま金色の炎が吐き出され――


「な――にが、起こってる……?」


 炎はニルスらが戦っていた小さな区域を円状に避け、周りだけを焼いている。炎が途切れ竜も帰ったところで、辺りに大勢の悲鳴や呻き響く。足元を見ると、住民たちが我に返っていた。


「助かった……よう、だが……」


 ニルスが崩れた家を見ると、ゼータが火傷だらけで炭化しつつあるアランを横抱きにして歩いてきていた。


「彼――いや、彼女……?」


 ニルスが女にしか思えない声と口調だったアランを思い出す。


「生きてはいる」


「そうか……こちらも、全員無事だが……」


「詳しい話は後だ。休める場所を」


「隠れ家の一つが近くに。案内しましょう」


 ニルスが後で人を呼ぶから治療を頼む、と言い置いて先導する。


「アラン君も、あなたも。魔法を使っているように見えたが……」


 戦いの様を盗み見されていたようだ。人間だと言い張るのは、もう手遅れだ。


「私はいわゆるはぐれ竜だ。人間と敵対する意思は無い」


「私にも革命団にも、それで十分です。竜の炎から守ってくれたのも、あなたですね。だがアラン君は……?」


 あの炎を恐らく直撃して息がある理由は、魔力に目覚めた人間なら分かる。しかし人々を操りあの悪夢を作り上げるのは?


「何かが取り付いた。少なくとも竜ではない」


 竜以外で魔法を扱える存在……心当たりを探るが、ニルスにも見当がつかない。が、手掛かりはあるかもしれない。


「エゲルセィスとルトガー……うちの考古学者に話を聞きましょう」


 古きを知る人間と古竜なら、どうだろうか。

 小さな民家の前に立ち、ニルスが招き入れる。女が一人出迎え、瀕死のアランに目を丸くした彼女が寝室へ案内してくれた。


「医者はいらない。私が治療する」


 人払いをし、ゼータは己の命を削り奇跡を発現させる。




 全て、己で為したことだ。

 アランはまどろみの中、血を浴びた感触、喰らった心臓の味、確かに己を満たした快感を思い返す。

 人には扱えることの無い現象の数々――その力を与えたのは確かにアリスだったが、人々を殺し尊厳を踏みにじったことに疑問も躊躇も無かった。あの女王はアリスであり、アランに他ならなかった。

 全てが終わった今、虚ろの海を漂うアランに残ったのは、虚無。そこから生まれるものは何もない。憎しみも、寂しさも、怒りも、焦燥も、後悔も、悲嘆も。何もない。

 喜びも嬉しさも安らぎも無い。あれほど求めた快感も無くなってしまったが、未練も無い。これから待つものが永遠の虚無だとしても、不安も無かった。罪を犯したことへの自罰的な諦念でも無い。

 アランを作っていた憎しみが跡形もなく去り、五感、想い、自分であることを次々と手放す。

 何もかも捨てたアランの中で、最後にひっかかったのは、師の心。

 憎しみが消えた今、竜だろうが何だろうがどうだっていい。肝心なのは、化け物となり果てた自分を止めたこと。

 炎に焼かれ死へと堕ちそうになった時、腕を取って引き戻したこと。別にその時命も捨ててよかったが、死なせないという想いが掴まれた腕から直に伝わってきた。あんなに強く、厳しく、手助けも最低限で、口下手で、不器用な師が。こんな弟子を救おうとしてくれた。

 それだけで十分だ。


(十分だ)


 最後に師が与えてくれた満足を手放し、アランは完全に虚無と同化した。

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