一章 竜殺しのアラン


 竜は支配者だ。

 人は竜のために生き、竜のために戦い、竜のために死んでいった。

 竜は皇帝だ。

 十頭前後からなる竜の一族が数千数万の人を囲い、国を作っている。

 竜は暴君だ。

 一つの国を率いる竜は、別の国を率いる竜と戦っている。人間を駒として。

 マリアスは、国の名であり、王たる竜の一族の名であった。




 マリアス全体を臨める崖で。


「怖気づいたか……アラン」


「何に」


 ありふれた薄茶の旅装を纏い、それぞれ槍を担いだ二人が、国を見下ろしていた。


「おまえの故郷だ」


「それがどうした」


 一人は十代半ばの少年。背は低く、もう一人の胸までしか無い。暗い茶髪に緑の瞳、顔は中性的で整っている。場合によっては少女に見えるかもしれない――鋭過ぎる瞳と険がこもり過ぎる気配を無視できれば。


「なぜ進まない」


「……」


 一人は男。若くも年老いても見える。平均よりも高めの身長と、痩せても太ってもいない体型。声は低くかすれており、口調は単調だ。表情も薄く、一切感情を推し量ることが出来ない。


「進まないなら、私一人で行く」


「待て」


 アランと呼ばれた少年を背に歩き出した男は、立ち止まらない。アランは五年ぶりとなる国の全景をもう一度眺め、男を小走りで追う。


「怖気づいてなんかない」


 歩幅の無いアランに一切合わせようとしない男と出会って、五年。


「俺はアランだ。そうだろ、ゼータ」


 視線を合わせず、同じ道の向こうを見て。男――ゼータは感情を揺らさず答える。


「……ああ」




 マリアスは、大陸南東部に存在する内陸国。気候は温暖で、からりと熱い夏と屋外で寝ても凍死はしないほどの冬が巡っている。北部にそびえるクレイオ山脈が豊富な水を蓄えており、大小さまざまな清流を介し、豊かな自然や実りを受け取って人々は暮らしている。

 一年四季折々の花が咲き、それを鑑賞し暮らしに取り入れる健やかさを人々は持っている。

 竜の威光に恭順している影響もあって治安は大変良く、ほとんどの国民が闇とかかわることなく一生を終えていた。

 人々は竜の庇護の下、竜への信仰を疑うことなく、一生を終えていた。

 アランとゼータは、入国審査を潜り抜け、安いねぐらを確保し、夜を待って街へ繰り出す。わざわざ夜に出歩くのは、入国理由の観光のため、ではなかった。


(情報通りなら……もうすぐ)


 アランはいい加減慣れた戦いの予感に、静かに興奮する。その興奮に我を忘れないだけの分別はあるが、肉の手ごたえや血の臭いに惹かれていくのは、自分も認める事実だ。ゼータがアランに望んでいないとしても。

 ゼータはアランの師だ。ある出来事を経て出会い、悔しくも命を救われ、生きていくために戦いを教わっている。

 別に、命を狙われている訳ではない。己の内側に生まれた憎しみを飼い慣らすためだ。


――その憎しみは、いつかおまえを殺す


 ゼータはそう言った。だから、憎しみを捨てるか、憎しみと生きるか、今すぐ死ぬかを選べと。己に宿ったそれは、捨てられるほど小さくなく、死んで消えるほど清浄でもなかった。アランが生きることを選ぶと、着いてこい、そう言って手を取らず歩調を合わせず背を向けた。

 それから五年。アランは血に溺れつつあった。


(きっと、後悔してるんだろう)


 ゼータがマリアスに入る仕事を選んだのは、人をやめ化け物となりつつある自分をどうにかするためだろう。

 と、ゼータが合図を送った。国を越えて活動する盗賊一派『ブレット・ファミリー』を、虱潰しに殲滅するのがこの仕事。確かな情報筋で、この倉庫がマリアスでの隠れ家だと分かっていた。頷き、突入の瞬間までを数える。


(三、二、一――)


 二人で扉を蹴破った。


「ああん? んだテメーら」


「オレらを知っての狼藉ですかねぇ!?」


「ブレット・ファミリーって――」


 その名を頭で受け取った瞬間、アランは槍を抜き駆け出す。その勢いのまま、近くによって絡もうとした大男の首を刎ねた。


(今日はいい日、だったか)


 大男の最期の記憶を受け取る。

 頭のあった場所に血が吹き上がり、怒りと恐怖がアランに向けられる。既に武器を手に取っていた者もそうでない者も、臨戦態勢に移る。


(数は――十七)


 小さな蝋燭数本が頼りの薄暗がりの中、自分に向かう頭数を一瞬で把握する。

 剣をいなし、その奥の男をそのまま突く。


(数で囲めば一瞬? 甘いな)


 短剣を向けられ、それを持つ手首を落とす。吹き矢を躱し、後ろから忍び寄る斧男の喉笛を柄で貫通させた。


(こんなちびがどうして――よく思われる)


 正面と斜め左右後ろから、一斉に飛び掛かってくる。逃げ場など必要ない。正面の剣をいち早く飛ばし、自分と位置を入れ替える。真後ろの悲鳴を聞き流し、奥で逃げ腰になっていた五人を薙ぎ払った。


(死にたくない、か。……そうだな、皆そうだ)


 その返す刃で仲間を切らせた二人の首と右腕を一突きで落とす。


(仲間を斬って悔しいか。……悪いな、それが一番効率良かったんだ)


 数呼吸の内に半分以下となった盗賊たち。アランは末期の思いを受け止めつつ、半狂乱となっている残党たちを睥睨する。


「バケモノ! こいつがどうなっても――」


 武器を捨てて逃げ始めた背中を正確に刺していくと、そんな声が聞こえた。その顔は、吹き矢を撃っていた男だ。

 見れば十代中ごろの少女を人質に取っている。無視して残党狩りをした。


「十六」


 奪った命の数をつぶやき、吹き矢男を見ると、ナイフを持っていた右腕を失いのたうち回っていた。ゼータが少女を背に無表情で見下ろしている。


「十七」


 そのつぶやきと共に、アランは吹き矢男の心臓を抉った。

 彼が最期に想ったのは、小さな二人の子供の顔だった。


「ゼータ、そいつは」


「ブレット・ファミリーではない。初めから縛られていた」


 そう言いながら、彼女を縛っていた縄を切る。縄から解放されても、少女は大きく震えている。

 アランの客観的な部分が、少女は自分をどう見るかを分析する。血をかぶり肉片を纏った、吹き矢男が言う通りの化け物、だろう。今回の戦いはほとんど手を出さなかったゼータに、少女を任せる。

 ゼータも人付き合いを得手としていない。少しだけ息を大きく吐き、少女の目線に合わせた。


「娘、なぜここにいた」


「お、お礼を申し上げます……。助けてもらったのは……事実、ですから……」


 奥歯をカチカチ言わせながら、少女が言う。足を震わせながら立ち上がり、予想に反して血だまりを踏みつけながらアランの元へ歩み寄った。


「逃げる人まで殺してしまうのは、やりすぎではありませんか?」


 何かと思えば、説教だった。


「関係ないだろ」


「わたしも当事者です。人が人同士で殺し合うなんて――そんなのいけません」


 戦闘が終わり鎮めたはずの殺意が、吹き上がってくる。

 人の命など――屑以下の世界で、少女は何を言っている?


「人命より大切なものなんて、いくらでもあるだろ」


「そんなものありません!」


 炎に焼かれる街が、一瞬で炭になった戦友たちが。アランの視界の端でちらついた。


「お前だって竜が殺せば仕方ないって言うはずだ」


 いつの間にか震えが止まっていた少女が、毅然とした瞳を向けた。


「いいえ」


「……」


 殺意より驚きが勝り、黙らされた。動揺した顔を少女に見られることは、何よりも恥ずかしいことに思えた。


「帰るぞ、ゼータ!」


 血の臭いでむせ返る倉庫を足早に出て、宿へと急ぐ。この惨状の後始末は、別の人間の仕事だ。

 悠然とした歩調で追いついたゼータが、動揺を隠しきれない弟子に声をかける。


「国内で竜に異を唱えるとはな」


「……」


 アランは走り出し、さすがに歩いて追いつけず、ゼータも小走りする。


「そろそろ、アリスに戻るか?」


「その名で俺を呼ぶなッ!」


 叫び、相対し、槍まで抜いた。

 ゼータはそのまま止まる。


「俺は本気だ。ゼータ、あんただろうと殺す」


「震える槍相手だ、構えるまでもない」


 ゼータが指摘して、アランは初めて手が震えていることに気が付いた。


「そろそろおまえ自身と向き合え。――アリス」



     ―*―*―*―



 アリスは、マリアスに住む平凡な少女だった。歳は十一、家族は父母と妹。友達は近所に住む子供たちがたくさんいるが、恋愛感情を抱くまで好きなひとはいない。

 住む場所は、ソフィオーという西にある区画。職人を中心とし、それを支える職業の人間が多く集まる区画だった。

 父は運び屋で、屈強な彼が自慢だった。母は優しくて、妹ともども包んでくれる彼女が大好きだった。妹のミリーは三つ下で、少し生意気だが愛嬌がありかわいかった。


「アリスー、ちょっとお使い頼まれてくれないー?」


「いいよー。何買ってくればいいの?」


 母の他愛無い頼み事は、いつものことだ。一緒に行こうかと妹を見ると、窓辺でむにゃむにゃ言いながら気持ちよさそうに眠っていた。休日で家にいる父の膝の上で。


「インクが切れちゃってね。いつものでいいから」


「うん、分かった」


 アリスが素直に頷くと、母は笑顔で頭をなでながらお金を握らせた。額を見ると、インクひと瓶にしては多かった。


「お父さんもミリーも寝てるし、起こしたくないからね。これはヒミツのお駄賃、好きなお菓子でも買ってらっしゃい」


 途端に、顔を輝かせるアリス。妹にも秘密、というのが不思議と嬉しかった。


「いってらっしゃい、あまり遠くへ行っちゃだめよ。マリアス様が見ていますよ」


「いってきます! 竜の加護があらんことを」


 玄関先で母と共に、竜が住まう国中央の宮殿に祈りのポーズをとる。あなたに魂を捧げる、という意味合いがあるらしい。

 竜は守り神。家を出る時は、留守中の家や残った家族、出かける自分が無事でいるように、必ず竜に祈りを捧げる。

 この国に竜がいなければ、外国の暴竜にたちまち焼き裂かれてしまう。そう教えられていて、疑うことは無かった。


「いらっしゃい! おや、アリスちゃん」


「こんにちは。インクをひと瓶ください」


 まず顔なじみの文具店で頼まれ物を買い、残ったお金――店主がおまけしてくれて予定よりも多額だ――の使い道を考える。

 母の言うように、お菓子は素敵だ。甘い甘い、クリームがたくさん乗ったケーキだとか。チョコレートがたっぷり塗ってあるドーナツとか。

 そういう素敵な甘味は、近所でも売っている。しかし時々父がお土産に買ってきてくれるので、新鮮味が無い。


(ちょっと遠いけど、フラーゴラまで行っちゃおう!)


 物の売り買いならマリアス一の、フラーゴラ区。妹も含め父母と連れ添ってでしか訪れたことが無く、少し不安だが。


(わたし、もう十一歳だもん!)


 ちょっとくらい冒険しても、竜は許してくれるだろう。

 どんな甘味があるかな、とわくわくしながら意気揚々と歩き始める。

 フラーゴラの入り口に着いた、その時――


「竜だ」


 誰かが言い、空を見上げる。見ると、大空を夕日色の竜が横切っていた。皆に倣い、アリスも地面に膝をついた。

 竜はアリスの頭上を過ぎ、アリスが来た方向へ飛ぶ。そう、ソフィオーのある方向だ。

 ソフィオー上空辺りで停止して、竜は。


「え――」


 ここまで届く、熱風。竜は、眼下の街に炎を放っていた。あぎとから洪水のようにあふれ出る、金色こんじきの炎。空が竜と同じ色に染まりつつあった。


「アギオだ……」


 誰かがそう口にして、ああ、それがこれなんだ――と、アリスは空っぽの心で思った。

 アギオ、それは竜の洗礼。穢れた人の魂を清浄なる炎で天へと昇華させる儀式、だと聞いた。数十年に一度、穢れが国にたまり淀んだ時に、行われると。

 人の魂はきたない、だから聖なる竜に浄化されねばならない。アギオによって焼かれた魂は、まっすぐ天上へ上り恒久の光を得る。それは人の身で得られる最上の幸福だ――などと、教わった。

 竜が跪いたままだった。アリスの心は、これが幸せなことなのか、それとも恨めしいことなのか、よく分かっていない。

 やがて、始まりと同じように、竜はアリスの頭上を通り宮殿へと帰っていった。

 絡繰り人形に螺子が巻かれたかのように、アリスは立ち上がり、走り出す。ソフィオーは、家は、家族は――。

 途中で人にぶつかって、インク瓶を落とす。怒鳴り声を後ろに、ただ走る。

 よく知る家々は、金色の炎で崩れ落ちていた。アリスが熱の海に身を乗り出したが、止める者はいない。竜の炎にまかれて死ぬことは、幸福なことなのだから。

 家が燃える煙と熱波で頭が痛い。足元は靴を履いていても火傷しそうなほどだ。朦朧とした意識の中、家路を急ぐ。金色の世界は数えきれないほど通った道を異世界へと変えていた。

 金色の炎は、祝福のはずなのに。アリスには、ここが地獄に見えた。

 やがて。


「お父さん! お母さん! ミリー!」


 家族を呼び、気付く。玄関の辺りから黒焦げの腕が伸びていることを。

 指には、両親がつけている結婚指輪がはめられていた。

 この先のことは、意識が途切れていて覚えていない。




 アリスは奇跡的に救出された。炎が収まった後の真夜中のことだった。国営の孤児院がアリスの身柄を引き取り、そこが新しい家となった。

 アギオの瞬間ソフィオーにいた人々は、誰一人生き残れなかったそうだ。

 自分以外の家族がアギオでのは、とても名誉なこと。幸せな最期だったに違いない――そう笑顔で言われた。アリスは表面上胸を張り、同じような笑顔で頷いていた。だが、心に泥より粘ついた何かがこびりついていた。


(これがケガレ……なのかな)


 こんな気持ちを持ち続けるのは、つらい。だから“これ”を持っていた人たちを、竜は助けてくれたのだ――そう自分に言い聞かせ続けた。


(でも、本当に? お父さんもお母さんも、……ミリーも?)


 父母は大人だから大人の悩みがあるのだろう。しかし妹もこれを? 妹の心の中を想像した瞬間、びりりと思考にひびが入る。それ以上深く考えれば、壊れる――そんな直感だ。


(竜は、救ってくださったんだ)


 ひびを、周りの人たちや自分が信じるで覆い隠す。疑念を持てば、アリスは壊れる。だから、信じるしかなかった。

 その日から、これまでより熱心に竜を信奉した。竜の言葉を暗記し、竜が望む生活を送り、心の底から祈った。奥にある泥は、それらで蓋をできた。これでいいのだろう。


(これでいい。そう、竜を信じればいいんだ)


 この孤児院に住む子供たちは、竜に仕えるつかさとなるべく育てられる。多くは武官で、代理戦争の兵力として鍛えられる。

 代理戦争とは、他国の暴竜からの防衛戦だ。竜同士が戦えばどちらも無事では済まなくなるため、その竜の庇護下にある人間同士で戦う。

 己の奥底に眠る泥を振り払うため、無心に己を磨いた。やはり男には勝てないが、他と自分を比べている余裕などなかった。

 アギオから三か月が過ぎたある日、出征が決まった。


「マリアスの名の下、誇りと共に敵国を薙ぎ払って参ります!」


 ただの少女に毛が生えた程度の、少年兵。生きては帰れないだろうが、竜のために死ねるなら、これほど名誉は無い。


(お父さんとお母さん、ミリーと同じように)


 金色の炎に焼かれて浄化された、家族のように。


――ホントウニ、ソレデイイノ?


(竜のためなら)


 どこかから聞こえた幻聴を、確固たる信仰で跳ね飛ばした。




 アリスは幸か不幸か、後方で前線を支える役目だった。まともな鎧も着られない十一歳の少女、当たり前といえば否定できないが、前線で散りゆく戦友を思うともどかしい気分だった。

 食材を運び、火を焚く手伝いをして、怪我人が運ばれれば水を入れ――アリスはよく働いた。部隊で最年少ということもあり、よく可愛がられた。

 自分の居場所が出来た、そう感じた。後方部隊は、今は無い生家のように居心地が良かった。

 今回の戦争は小競り合いが続き、膠着状態のまま一年が過ぎた。アリスは一つ分歳を重ね、忙しくも満たされた毎日を送っていた。

 竜のために働けている実感と、家族同然の仲間たち。心のどこかで、この戦争がいつまでも続けばいいのに――そう願っていた。

 戦争は、思いもよらない形で幕を閉じた。

 希望の形をした、絶望によって。


「何か来るぞ――あれは」


「竜、竜だ。マリアス様だ!」


 マリアスの方角から飛翔する深紅の竜。後方部隊の全員が歓声を上げ、平伏ひれふす。

 後方部隊も、前線で戦う兵たちも、このマリアスから来た竜が当然に来たと思っていた。

 竜がそんなたちに賜ったものは。


「な、なんで……!?」


 あの日と同じ。


「なんで、味方ごと焼いてるんだ!?」


 金色の炎と、平等な死。

 アリスは、竜を呆然と見上げることしか出来なかった。これが、家族が味わったものだった――アリスは信仰で築いた蓋が砂のように崩れていくことを実感した。

 そこに救いなど無かった。喜びも、幸福も、光も。

 あったのは、死への恐怖。生を絶たれた絶望。

 竜が後方部隊の陣を発見した。その時、目が合った気がした。


 その双眸に、人は映っていなかった。


 映っていたのは、ただのゴミ


 それを確信して、底で揺蕩っていた泥が心を呑む。

 残った信仰が儚い抵抗を繰り広げ、身体が、思考が動かない。


「アリスッ!」


 いつか娘が生きていればアリスくらいだった――そうこぼした部隊長が、覆いかぶさる。その瞬間、業火に呑まれた。裏切りの炎が身体を焼き、剛健だった部隊長の断末魔の叫びがアリスの心を焼く。


 裏切られた。


 うらぎ、られた。


 竜。竜。リュウ。


 竜ッ!


 炭化した部隊長を振りほどき、首元を燃やす炎を髪ごと引き千切り、焼けた肺に更に炎を流す。


「竜ウウゥゥゥッ!!!!!」


 一歩進むごとに真っ黒に焦げた足が再生する。

 燃えた内臓は自らが発する熱で限界以上に動き出す。


 戦場全てを焼き尽くし、去り行く竜の背中を追う。

 身体は軽かった。素手でもなんでもいい。殺す、殺す、殺す殺す殺す殺す殺す!


 腹に大きな衝撃が奔り、意識を失った。




 乾いた風が、アリスの頬を撫でた。

 草木も花も泉も、炎に焼かれた戦場跡で。

 ぼんやりとした頭のまま起き上がると、かけられていた毛布がずり落ちた。


「起きたか」


 声の主は、大岩に座る旅装の男だった。手元には槍が置かれている。

 辺りを見回すと、ここは小高い丘のようで、戦場を一目で見渡せた。

 黒、黒、炭と煙の黒。その一色だった。


「だ、れ……?」


 身体の隅々までに激痛が走る。


「おまえは幸運だった」


 どこがだ――言い返そうとしたが、血の味で粘ついた咳でかき消される。男がそばまで来て、水筒から水を飲ませてくれた。今まで食べたどんなお菓子よりも、甘美な味だった。


「名は」


「あり、す……」


「アリス。あの炎の中生き残れたのは、魔力に目覚めたからだ」


 突拍子の無い話。人に魔力など使えるはずがない。だって、それは竜だけが持つ――

 竜。


「竜は!?」


 激痛を無視して立ち上がろうとして、押さえつけられた。


「離せッ!」


「いない」


 男の声は大きくはなくとも、逆らい難い響きを持っていた。それでも尚暴れ、数十分を意味の無い問答に費やした。激痛が疲労へと変じ、身体がピクリとも動かなくなって、ようやく静かになった。


「魔力は身体の限界を外し、人外の力を与える」


 力の限り暴れたアリスを止めて、息一つ乱さない男は、淡々と語る。


「目覚めたばかりで歯止めを持たない魔力は、大方身体を消滅させる。私がいたのは幸運だった」


 つまり、男が魔力の暴走を止めなければ、身体ごと無くなっていたと。アリスはこの男に救われたということなのだろうが、恩着せがましくは感じなかった。

 そもそもこの男から内面の“想い”が感じられない。隠している、というよりは持っていない、ように感じた。


「魔力は身体の枷を越えた強烈な感情から揺り起こされる。魔力を目覚めさせるほどの感情は、死の恐怖や憎しみ――それが多い」


 憎しみ――その通りだ。竜が憎い。憎しみという名の泥が、魔力というものらしい。


「竜は人の魔力を命の糧とする。アギオや、この戦での攻撃は、魔力を呼び起こすほどの感情を採取するための狩りだ」


 竜は、人のことなど端から大事に思っていなかった。塵、せいぜい餌、としか……。

 ふつふつと滾る憎しみを、蓋をせず解き放さず、瞳に宿す。この憎しみが、武器となるのなら。


「わたしは……憎い。復讐する」


「その憎しみは、いつかおまえを殺す」


 そんなこと。


「どうでもいい。この憎しみを――お父さん、お母さん、ミリー、部隊のみんなを奪われた憎しみを、ぶつけられるなら」


 復讐する。死んだみんなのためではない。この泥を祓うために必要なのは、浄化の炎ではなく恨みの血潮。

 男が、槍を抜く。首筋に冷たい刃が当てられても、恐怖は全く感じなかった。


「おまえは危険すぎる」


「邪魔するなら――あなたから、殺す」


 睨み合いが続く。この男を殺せる算段など到底立てられなかったが、なぜか負ける気はしなかった。

 どれくらいそうしていただろう。先に口を開いたのは、男だった。


「死ぬか、生きるか、忘れるか――選べ」


 悩むまでもない。


「生きる」


 この憎しみは、忘れて捨てられるほど小さくなく、死んで浄化されるほど清くないのだから。


「そうか」


 一言つぶやき、槍を収める。背を向けて、彼は名乗る。


「ゼータだ」


「わたしは――アリスじゃない」


 振り返り、興味深そうにこちらを見る。


「アランだ。……俺は、アラン」


 アリスは死んだ。千切り取った長い髪と共に。

 復讐鬼、アラン。それが今の名。


「いいだろう。着いてこい――アラン」


 激痛は鈍痛にまで収まり、疲労は動けるまでに回復した。立ち上がって、ゼータの背を追った。



     ―*―*―*―



 あの日に捨てた名を、ゼータは呼気に乗せて蘇らせる。過去の自分の姿を幻視し、


(何を恐れることがある)


 少女アリスを睨みつける。

 あれから。

 ゼータに師事し、魔力という名の憎しみを味方につける方法を学んだ。竜について――竜を殺す方法について調べ、経験を積むため竜の懐に入り、単独でではないが『はぐれ竜』と呼ばれる裏切り者の竜を何頭か討伐した。


(強くなったんだ)


 竜の前に平伏すしかできなかった、昔の自分より。

 なら、何を恐れる? そう自問した途端、少女の幻影は消えた。


「俺自身と向き合う? 俺は俺だ。憎い奴を殺し、気に入らない奴を殺し、邪魔な奴を殺す。あんたが知っての通りの、血に飢えた化け物だ」


「おまえは……それでいいのか?」


「ああ、望んでこうなった。こうなれたのは、ゼータのお陰だな」


 昏く笑い、闇にうずもれた街を行った。




 真夜中、マリアスのとある酒場で。


「迅速な討伐、ご苦労さん」


「……確かに。金貨二十」


 ゼータは今回の依頼の仲介人、ピストが入国したと聞き、接触していた。懇意にしている情報屋でもあり、ブレット・ファミリーの隠れ家の位置を掴んだのも彼だ。

 報酬を受け取り、常の習わしとして酒を奢る。


「うぃーっ。オメーさんはいい酒くれるから上客だよ。竜殺しのゼータさん」


「無駄話が無ければ、良い情報屋だ」


「んな寂しいこと言うなよーカタブツが!」


 このように馴れ馴れしくされるのは苦手なゼータだが、ピストは他人との壁を乗り越え尚且つ不快にさせないことに長けている。人間不信気味のゼータが、こうして酒を交わすくらいに。


「竜殺しの坊ちゃんは――今日はいないか」


「先に宿へやった」


「そうだよなー、夜更かしは美人に大敵だからなー」


 本人がこの場にいれば殺されかねないことを口走る。


「んで、我が友よ。そんな暗い顔してんのは、また坊ちゃんのことかい?」


「……」


「図星か。だよなー、日に日にやっべー顔になってくもんなー」


 殺気は尖ってゆくばかり。竜ばかりか人を殺すことへの快感にも目覚めつつある。

 このままでは……。


「オメーさんが頼りだぜぇ? ゼータよぉ」


 だが、情けないことに。


「私は……弟子など」


「初めてだから分からないってかー?」


 肯定の証として、勢いよく酒をあおる。


「甘ったれんじゃねーぞヘボ師匠。世の親全員が一人目は初めてなんだ。オメーさんのおっかさんだってな」


 人の親を知らないくせに。ゼータは嫌な顔をそのまま出して、溜息を吐く。


「オメーさんはたぶんな、声かけがあっとー的にたりねーんだ。弟子の前だけでいいから感情出せ。『アラン! あの夕日に向かって競争だ!』でいい。『あいらびゅー弟子ィ!』なんてのも傑作だ!」


 人の気も知らないでケタケタ笑うピスト。だが、弟子との交流が足りないのも一つの事実だろう。

 ゼータは弟子を思う。

 このまま血に溺れてしまうと、待つのは破滅のみ。元々そうなる気があったが、結局嵌まってしまったのは師である自分の不手際だ。

 破滅は、本人だけの問題ではない。周りの人間も巻き込み、傷つけ、“悪”としていつまでも残り続ける。

 ゼータが彼を弟子としたのは、周りに残るだろうそんなアランが気の毒だから、ではない。そんな薄っぺらい同情心は、ゼータが一番理解できないものだった。

 アランアリスが抱く憎しみも、分かりはしないが誰よりも近くで見てきた。客観視し時には道具のように、時には盟友のように扱えるようになるのが理想だ。しかし、彼女のそれはあまりにも大きすぎて、とっくに本来の心を見失い、徐々にかき消されつつあった。


「どうすれば……声は、届く?」


「あーん? ひたすら声かけるっきゃねーだろ」


 明確な答えを授けてくれる飲み友達に、酒を注いで無言で感謝した。




 宿で、一人。返り血で真っ赤になった服を捨て、体を清める。肌寒い季節に被る井戸水は、氷のように、霜のように、冷たい。

 顔にこびりついた血、足にこびりついた血、手から取れない血……。頭からかぶる井戸水が、自らが殺した死者の体温のように、怨念のように思えた。


(初めて……人を殺したのは、いつだっけ……)


 こんなことを考えるのは、ゼータがあんなことを言うからだ。毒づきつつ思索にふける。

 それは、たった二年前。そろそろ実戦に立たせてくれ、なぜ戦場に立たせてくれない。そうゼータを責め立てたからだった。

 全ての竜に死の痛みと絶望を味わわせる――そんな壮大な野望を生きる希望として、立っているのだ。竜に歯向かうどころか実戦一つにも立たせてくれないことは、アランに焦りを与えるには十分すぎた。

 腕に自信はあった。ゼータが口を酸っぱく『血に呑まれるな』と言っていたが、その本当の意味をまるで考えなかった。

 結局ゼータが折れ、抗争の助っ人として槍を振るった。

 その時、一人殺した。自分が竜に向ける憎しみと同じものが刻まれたその表情を、生涯忘れることは無いだろう。

 経験を積み、殺した命の数を重ね――だんだんと、アランは不思議な感覚を覚えていった。

 心臓を貫いた瞬間、刃で首を刎ねた瞬間。その人の怒り、絶望、恐怖、それだけじゃなく喜び、恍惚……あらゆる感情が自分に流れてくる感触だ。アランが死を与える瞬間、その人と……感覚、か? 直後に被る返り血が、母に抱かれたあの日と、父と手をつないだあの日と同じもの――それに思い至った時には、もう戻れなくなった。

 竜を一頭残らず殺しきる、その願いも疲労の果てに霞んだ。竜の支援を得てたった一頭を狩るだけで果てしない労力が必要で、狩りつくすなど現実の見えていない夢のまた夢だった。

 ならば、何のために生きればいい? 一つの理由だった家族は、亡い。

 父も、母も、妹も。死の中でしか出会えないなら――死に神になろうと仕方がないのではないか?


(それでいいか、か)


 いいか悪いかなら、悪いに決まっている。家族たちは、こんな有様の自分を望んでいない、言われなくても誰よりも理解している。

 だが。


(血を……)


 肌は井戸水に晒され凍えている。この震えを取り払うには、炎だけでは足りない。誰かの心臓が流し駆け巡らせたあの、ぬくもりが。


(すっかり化け物になったよ)


 暗闇の中誰にも届かない笑みを浮かべ、体を拭う。


(ゼータ……)


 依頼だけでは満足できず、血を求め彷徨うようになれば。きっと、師が止めてくれる。アランが振りまき続けた死という形代で。


(その時は、ゼータと……分かり合える、かな)


 この冷たさを。ぬくもりに飢えた喉を。汚泥そのものの魂を。


(受け止めて……もらえる、かな)


 新しい服に着替え、笑みに緩んでいた口元を引き結び、宿の部屋へ向かった。




 アリスという少女を捨てた彼を拾い、もう五年という時を過ごした。ゼータは月の無い夜道の陰に交じり、連ねた時を思い起こす。

 ゼータは元々流浪の中、気まぐれに人助けをしながら生きてきた。人助けをやめないのは、結果的に金――そして生きる糧となるからでもあったが、それを娯楽のように感じていたからだ。ゼータにとって助けた結果どうなるかは別の話で、だから善でなく偽善ですらない。

 そんな気ままな流浪の中で、一つの戦に立ち会った。竜に焼き払われる戦場を一つの結果として見送ろうとした時に、出会ったのだ。

 思わず背筋に怖気が奔ったほどの、心の叫び。今まで多くの人間を見てきたが、ここまでの感情の爆発は初めてだった。

 数秒も経たないうちに命すら喰い尽くす業火。驚愕しつつ反射的に暴走を止めた。持て余すのは目に見えている巨大な凶器を得てしまった彼女を楽にしてやろうと、何度槍を握っただろう。眠っているうちに、大きくならないうちに、まだ人であるうちに。

 結局決断は為らないまま、彼女は目覚めた。己に与えられた決断の時は、永久に去った――ゼータは悟った。だから決断を、選択を、彼女に与えた。

 彼女は最も難しい道を選んだ。アリスを眠らせ、復讐者アランの仮面をかぶった。あの人の身では収めきれない感情が焼いた、ずたずたの心を守るために。

 ゼータは深入りしてしまった。決断しないという最も残酷な方法で。アランを生んだ母がアリスなら、彼に生きる道を与えたゼータが父だ。だから放浪者は、最後まで関わり抜くと決めた。

 彼を弟子として、身に宿った力を使いこなす術を叩き込んだ。だが、力の源と向き合い制する術は、教えなかった。ゼータ自身感情に動かされることがまれで、内から滅ぼすほどのそれを御する方法など見当がつかなかったからだ。

 その結果、最悪の方向へ転びつつあるのが、今。

 確かに彼の生を支えた感情は、根元から死臭を帯び始め、輝きを放つ炎は輝きを吸い込む泥に呑まれ始めた。

 アランは自らが死を与えることに、快感を覚え始めている。

 人は何故他人を殺してはいけないか。答えは簡単、生存本能を持っているから。生きたいと思うのが自然だからだ。それを真っ向から奪い取る行為は、生存本能と併せ持つ共感が命の簒奪者の心を殺す。

 心が殺されれば、共感が死に、生存本能が壊れ、あの震えが走ったほどの炎が、完全に泥とすり替わる。

 そして、生きた心を持つ人間のみならず全ての生物の敵となる。


(これが、我欲エゴ――とやらか)


 アランが心を殺しきってしまったら。ゼータに選択の時が舞い戻ってくる。世界の敵となった弟子を生かすか、殺すか。

 そうなった時、ゼータは迷わず殺すだろう。死に神を生んだ責任、そんな理由は詭弁だ。

 あの炎に魅せられ、見届けるために彼を生かした、それに他ならないのだから……。




 翌日昼、アランとゼータは招かれざる客を迎えた。

 一人は背が高く爽やかな空気を纏った青年。金髪碧眼で、胡散臭いほどに整っている顔だ。もう一人は、昨日ブレット・ファミリーに捕らわれていた少女だった。昨日はじっくり見なかったが、赤毛でどこか田舎臭い雰囲気だ。


「昨日は彼女――リータを助けてくれたそうで。ちゃんと礼を言えずに失礼してしまったそうだね」


「どうでもいい」


 アランがそっけなく、心底どうでもよさそうにどうでもないという本心をさらけ出した。これで帰ってくれないかと小さく願いつつ。一方ゼータは関係ないと言わんばかりにだんまりだ。


「リータがブレット・ファミリーと騒ぎを起こしたのは、大胆なことに一度や二度でなくてね。とうとう拉致されてしまったところを、あなた方に助けていただいたのですよ」


 身内(だろう)が拉致されたというのに、青年は子供同士の喧嘩だったかのように軽い。


「本当に、ありがとうございました」


 続いて少女――リータが深く頭を下げる。昨夜突っかかってきた彼女とはまるで別人のように、しおらしかった。


「この一件の謝礼です。どうぞ、お収めください」


 と言って渡されたのは、金貨がつまった重い袋。十七人殺した報酬よりも、遥かに高い金額だ。


「何――」


「深入りするな」


 思わず何者か問い質そうとしたアランだが、ゼータに遮られる。確かに。迂闊な物言いを後悔した。


「わざわざ大金を下げてあなた方に会いに来たのは、深入りしていただくためですよ」


 だが、遅かったようだ。アランの先走りなど関係ない段階から。


「ご高名は聞いております。『竜殺しの師弟』ゼータさんと、アラン・ノックスさん」


 宿を突き止められた時点――いいや、リータを助けた時から、深入りは避けられなかった。


「我々はおまえたちのことなど知らない。面倒だ、行くぞ」


 ゼータに言われるまでもなく宿から出ようとしていたアランだが。


「竜を根絶させたいのでしょう?」


 その一言に、足を止めさせられた。まるで、呪縛のように。


「やはり思った通り。あなたはともかく、お弟子さんは私たちに興味津々なようですよ。我々の正体、知りたいですよね? アラン君」


 相手の術中にはまったことは悔やんでも悔やみきれないが、秘密という甘い誘惑には打ち勝てず、流砂のようにアランを呑む。


「これ以上の話は、場所を変えましょう。――来てくれますね?」


 唇を噛み、アランはゼータを盗み見る。彼は面倒くさそうに腕を組み、頷いた。


「分かった」


 ゼータが承諾し、青年の後ろに続く。リータが小走りで二人を追い、アランも苦い顔で宿を後にした。




 導かれたのは、何の変哲もない民家。誰かが住んでいてもおかしくない家具の充実度だが、暖かさよりも整いすぎた無機質さを感じられた。何より人や生活の気配が全くない。

 男は整いすぎた部屋の中で唯一異質な、巨大な暖炉の前に立った。飾り布に隠された突起を複雑に動かすと、暖炉の奥から留め具が外れる音が聞こえた。暖炉の中にあった扉を開け、全員に入るよう促す。

 階段を下り、曲がりくねった暗い一本道を進み、その先には……。


「革命団本部へようこそ。『竜殺しの師弟』のお二人を、歓迎します」


 広く清らかで明るい、聖堂のような空間だった。地下には違いなく窓が無いが、あちこちに白く強い光を放つ魔具――魔法をかけられた道具――がはめ込まれていて昼間の外の明るさだ。

 ここには十人ほどの人間が屯しており、本を読んだり話をしていたり、椅子に座って居眠りしていたり自由に過ごしている。扉からあちこち行けるようで、規模は計り知れない。


「申し遅れました。私は革命団にて首領を務めさせていただいている、ニルス・グランフェルト。少数で、一度はお二人のみで竜を討伐されたあなた方を、革命団に入っていただくためにお迎え参上いたしました」


「昨夜その女が囚われていたのも、お前らの差し金か」


 依頼を受けた時点から監視されていたのか、と問い詰めるアラン。


「いいえ、あなた方の仕事先にリータがいたのは、全くの偶然。彼女は時おりを起こすので、そばに置いているのですよ」


「そうなんです。たまたま喧嘩して……団長たちに助けてくれるのを待ってたら、あなたたちが来たんです」


 少しだけ罰が悪そうなリータ。信じ難いが、嘘とは思えない。


「革命団とはなんだ」


 ゼータが核心に切り出す。情報の端々から、竜をよく思わない者たち団体と判断できるが、この世界で許容され実在していることが信じられない。


「竜による支配を打開――融和、もしくは徹底抗戦にて行う、古き組織です。元はアギオや代理戦争の生き残りが作った地下酒場。それが大きく膨れ上がり、今このような形になっております」


 ニルスが案内するために歩き回る。彼の存在に気付いた者らは、挨拶を述べたり軍隊式の敬礼をしたりと、それぞれ敬意を表している。首領というのは全くの出鱈目ではなさそうだ。

 彼が一つの扉を開けると、土の地面の部屋で数人が武器を振るっていた。皆一様に、アランがどことなく親近感を覚えるぎらぎらとした目だった。


「この程度の人間が集まって、何が出来る?」


 アランもゼータと同様に思った。竜は一族、はぐれを一頭討伐するのとは訳が違う。そして、何よりも。


「大多数の人間も望んでいない」


 竜を崇拝し、竜の支配を当たり前と甘受している民衆たち。こうして竜を狩るものとなったアランも、二度のきっかけがなければそれに目覚めることはなかった。


「その通り。ですから、我々の戦いは始まってもいない」


 その疑問を予測していたかのように、軽く答えるニルス。そんな彼は、瞳の中に炎を滾らせた。


「我々は長く雌伏を続けた。竜の気まぐれで焼かれ、餌として守られてきた世を見ながら。その真実は眼に痛いものだ。人々は信じず過去という名の竜に支配され続けるだろう。だから我々は、少しずつ規模を拡大し、同志を集め――そしてついに、切り札を手に入れた」


 その言葉と同時に、最後の扉を開ける。中は今までの部屋、中心の広間よりも更に広く、高い。


「おや、ニルスだね……お客さんかい?」


 アランは思わず槍を抜いた。ゼータに止められる前に腕を下ろしたが、心臓が暴れている。


「紹介しましょう。この竜はエゲルセィス=マリアス。こちらは『竜殺し』のゼータとアラン」


 石灰色の鱗で覆われた、穏やかな声と気配を漂わせる竜。これまで見たどの竜よりも、年老いていることが分かった。


「エゲルセィスは、我々の意に共感してくれた同志であり、切り札。人々が信じる竜の神話を共に崩すと、約束してくれた」


「君らが『竜殺し』の……なるほどなるほど」


 目は濁った灰色――めしいているらしい。額の透明な宝石も、輝きが曇っていた。


「革命団は、恐らく二度と無い好機が来ている。故に――少しでも同志が、完全に共感してくれなくとも戦力が、欲しい。分かってくれるね?」


 ここまで知った以上、ただでは帰されないそうだ。竜まで見せられ、革命団全勢力を敵に回して脱出するか? 巻き込んでしまったゼータの意思を窺うと。


「アラン、おまえが決めろ」


 そう、任される。

 本当に革命団が何かを為せるか、何かを変えられるかは分からない。具体的に何を企んでいるのか聞いていないが、彼らが言う“戦いの出発点”へ世を導ける可能性は低いように思う。


(理想なんて……)


 そんなものをこんな世界で望むなんて。静かで激しい理想の炎は、ニルスの瞳の中で燃え盛っている。

 それを見て、アランは馬鹿らしさと、少量だが確かな恐れを抱いた。


(こいつは理想で死んでいくやつだ)


 アランの泥のようにどうしようもない思いと真逆の、清らかなる意志。持て余すのではなく、一点の曇りもなく共に戦うであろう心。

 ゼータは、それをアランに身に着けさせようとした。


「協力の約束は出来ない。――だが、敵対もしない」


 これが相手の思う壺なのだろう。

 しかし、敵の腹の中にいる現状、竜まで従えるニルス以下の戦力、口ぶりからして外国にまで広がっている勢力。それを加味すると、ゼータと二人であれ無傷で済むとは思えない。


「ええ、その答えで十分です。むしろこの場で無条件での協力をしてくる者は怪しい」


 この答えまで、ニルスの望み通りだったらしい。


「アラン君。君の噂を聞いて、リータから話を聞いて、実際会って、確信した。――君の孤独は、ここで払えるよ」


 柔らかい言葉を、ニルスは耳元で囁く。何が確信しただ、一体彼はアランの何を分かっている。敵対の意思は無いと言った以上、絶対零度の視線で睨みつけるだけで済ませた。


「よきよき、丸く収まったようだね……。しばし、席を外してくれないか。ゼータさんと話したい」


 老竜エゲルセィスが、地鳴りのように笑い、退席を求める。ニルスとリータ、いつも以上に不機嫌なアランが、部屋から出た。


「さて……」


 ろくに見えないだろう双眸は、しっかりゼータを捉えている。


「まさか、再び会えるとはね……」


「何の話だ」


「遥か昔でも、盲いていても、牙を交わした相手だ、ようよう分かる。風の噂で処刑されたと聞いていたが……ゼラ」


 ゼータは老竜を睨む。


「それを知り、どうするつもりだ」


「どうもしないさ。儂は無力なのだから……」


 この老竜は、本当に人間の様だ。諦念の想いを言葉の端に乗せ嘆息した。


「昔の馴染みだ。難しい立場に助言の一つでもくれてやろう……まあまあ、年寄りのお節介だよ」


 老竜は静かに床に這いつくばり、視線をゼータに合わせた。まるで大人が子供にそうするように。


「あの並々ならぬ憎悪に縛られた、お嬢さん……きみのお嬢さんへの情愛も、お嬢さんのきみへの思慕も、本物だというのに……哀れでしかたない」


 見えないくせに――見えないからこその、慧眼、か?


「はてはて、試練は近付く……。その試練の先の新しいきみたちと、きっと会えないのは、口惜しいのう……」


 もう一度、口惜しいのう、と繰り返し、目を閉じる。そのまま眠ってしまった。ただの年寄りの戯言と切り離すことは出来るが、ゼータは渋い顔で胸に言葉をしまった。




 ニルスは革命団の一人に耳打ちを受け、急用ができたと去っていった。この場に残されたのは、アランとリータ。居心地の悪い沈黙が、二人の間に流れる。


「あ、あの……」


「なんだ」


 アランが放ついらいらとした空気に我慢が出来ず、つい話しかけてしまった。


「昨夜、以来ですね……」


「それがどうした」


 アランから対話を続ける意思が微塵も感じられないが、沈黙よりはましだとリータは繋げる。


「わたしが昨夜言ったこと、分かりましたか? ……人が人同士で争っている場合ではないと」


「あれは争いじゃない。仕事だ」


 確かに、争いとは言い難い一方的な虐殺だった。血にむせ返ったあの空気を思い出し、リータは軽い吐き気を覚える。


「それともこう言いたいのか? 人間にかまっている場合じゃないから、人間から物や命を奪う人間は放っておけ、と」


「そうじゃないんです!」


「じゃあなんだ」


「……」


 リータが言い淀む。アランが遠慮容赦なく圧力をかけると、我慢できずに思いを吐き出した。


「あなたこそが、一方的に奪う存在に見えたんです」


 化け物、か。アランは予想していた答えを受け入れる。望もうが望むまいが、それが事実なのだから、否定せず肯定した。


「そうだな。だから俺を裁きたいって?」


「裁きたいんじゃありません。あなたはきっと――なんとなく、ですけど。泣いてた、気がして」


 アランは首を傾げた。そして、リータがなにを感じたのか推察するのが、途端馬鹿らしくなった。


「そう思いたきゃ勝手に思ってろ。俺が泣いてたなんて、初めて知ったよ」


 言葉を重ねようとするリータを、拒絶で封じる。折よく、扉の向こうからゼータの気配が近づいてきた。




 革命団本部とやらから、アランとゼータは無傷で返された。要請があれば可能な限り協力するという契約を交わし。

 ブレット・ファミリー討伐とリータ救出の報酬で、複雑にも過去に例がないほど懐が温かい。ゼータは好きにしろ、と一言置いてどこかへ行った。


(なんで、よりにもよってこの国で……)


 故郷をぶらつく気にもなれず、アランは宿の寝台に転がり、物思いにふける。


(革命団、か……)


 化石のように凝り固まったこの世界を、変えようとする者たち。理想をまっすぐ掲げる首領の気迫に怖気づいてしまった自分が、とことん情けない。


(いや、あれは侮れない。肉体よりも、意志が勝っているなら――)


 ゼータはよく言う。最後に勝負を決めるのは、心だと。それを軽視する者は、遅からず肉体的精神的、どちらかの死を迎える。

 心を軽視した末の死――それはつまるところ、生への執着の敗北ということだ。究極的に戦いは、最後まで立っていた者が勝つのだ。憎しみなどの感情で人の身体の限界を超えさせる魔力が存在するなら、尚のこと。


(生きる理由……)


 今の己には、本当にそれはあるのか? 強くなった、そう思い込んできたが、漫然とした光や希望の下に生きていたアリスと変わらない――いや、むしろ、劣っている?

 また、アリスの幻影がアランに立ち塞がる。


――あなたは、何のために生きてるの?


 幻影は無邪気にそう問いかける。いくら腕を振って払っても、霧のように凪いだままだ。


(竜に復讐するためだ)


――本当に?


 仕方なく答えるアランのごまかしは、アリスに通用しない。


(そうだな……。現実的に、そんなこと不可能だ。それに……はぐれ竜をいくら殺しても。例えマリアスの竜を皆殺しにしても)


 憎しみは貪欲に、生贄を求める。


(あんなに憎んだ竜をこの手で殺しても、何も満たされなかった)


 この虚は、全ての竜を根絶させたとして埋まるのだろうか。この泥は、全ての生者の血を啜ったとして祓えるのだろうか。

 心にぽっかり空いた、アリスのカタチをした虚。虚から腐った血のようににじみ出る泥。醜悪なそれらを目の前に突き出されて、アランは逃げることさえできない。


――分からないよね。家族のために生きて、竜のために生きて。どちらも失った抜け殻のあなたには


 虚こそがアランの中核なら。虚を隠して人間のように振舞う“抜け殻”という言葉こそふさわしい。ぼんやりとしてきた意識が、アランをそう評す。

 アリスがアランの手を包む。近くで見たその手は、血の臭いのする粘ついた泥に塗れていた。


――あなたアランは結局、わたしアリスなの


(ああ。いくら口調を変えて、体を鍛えて、槍を振っても)


――だから。わたしが守ってあげる


 微笑むアリスが、アランの手の甲に唇を近づけ――


 扉が乱暴に開く。


「誰かと話していたか?」


「ゼータ……帰ったか」


 アランは鈍った心を揺り起こし、気を張り巡らせる。


(ごっこ遊び、ここに極まり)


 自分との対話で忘我に陥ったザマに、自嘲が零れる。腕を組みなおし、鼻を鳴らした。

 鼻腔の奥に血の臭いが張り付いていた。




 二本の槍は激しく、時に華麗に、時に苛烈にぶつかり合う。国の中にいたとしても、稽古を欠かすことは無かった。

 アランはゼータとの稽古に、全身全霊を捧げる。裏をかいた薙ぎ、決死の一撃を余裕で返す突き、次への布石となる受け――ゼータは強い。十日間に一本取れれば奇跡、という歴然とした差が、二人の間にはまだあった。

 烈風を思わせる突きを躱し、業火に似た払いを止め、反撃は流水のごとく流される。彼の槍は、彼自身の表情や口よりも遥かに雄弁だった。

 彼の槍は、彼の生き様だった。

 戦いの中に在って、血の海の中に在って、その中だからこそ凛と咲く赤い花のように。血の海に融け腐っていくアランとは真逆に、ゼータはであることを決して見失わなかった。

 そんな生き様を見せ、語る。師の高潔な槍と相対することで、アランはまるでその人生の一部になったかのような錯覚を覚えた。だから、この稽古の時間が一番好きだ。

 素直な思考を頭の半分で流し、言葉なく槍を交わし続ける。


(この時が……)


 ゼータはアランとの稽古に、全身全霊を注ぎ込む。正攻法だからこそ受け難い薙ぎ、轟然とした激烈なる突き、本気で入れるつもりの一撃に返ってきた受け――アランは強い。少しでも油断すればたちまち一本をもぎ取られるところまで、二人の差は縮まっていた。

 狼を思わせる突きを躱し、獅子に似た払いを止め、反撃は蝶のごとく流された。彼の槍は、彼自身の表情や口よりもはるかに素直だった。

 彼の槍は、彼の心だった。

 戦いの中に在るがため、血の海の中に在るがため、彼の心は死と血で染まっていった。敵を敵と断じて穿つゼータとは真逆に、敵を一つの命であることを決して忘れない。アランを蝕むのは、命を取り返しのつかない場所まで送ったことへの罪悪感だ。

 そんな心を見せ、語る。弟子の清純な心と相対することで、ゼータは自分が持っていないはずの“人らしさ”を得たかのような錯覚を覚える。だから、この稽古の時間が一番好きだ。

 雄弁な思考を頭の半分で流し、言葉なく槍を交わし続ける。


(この時が……)


 長かった試合に、一つの決着が訪れた。ゼータの槍はアランの首筋を触れ、アランの槍はゼータの心臓上を突いた。どちらが先とも判断できない、全くの同時だった。今回は引き分けらしい。


「次は……勝つ」


 荒く息を吐き玉のような汗を落とすアラン。


「そうしてみろ」


 ゆっくり息を整えつつ汗を拭うゼータ。


(ずっと続けばいいのに)


 二人は思う。交差した思いは、互いではなく同じ場所を見つめた。




 稽古の後、槍の手入れをしつつゼータは物思いにふけった。


(マリアスに連れてきたのは過ちだったか?)


 このままにしておけば、アランは潰れる。避けられない破滅に一石を投じるために、帰郷させた。

 思わぬ出会いがあった。竜への憎しみを伝え継ぎ、何らかの形にしようとする集団――噂には聞いたことがあったが、誰もが鼻で笑う、そんな伝説だった。

 アランの憎しみが目覚めたその時、そこにいたのが自分ではなく例えばニルスであれば……もしかすると、その分岐点の先がリータという少女かもしれない。

 そんな『もし何かが違えば自分を救ってくれたかもしれない存在』と出会い、アランの心に揺れが生じたように見える。現状維持からの脱却が目当てだったが、何か途轍もなく嫌な予感がする。

 復讐は人にとって、この上なく無情なものだ。誰かに穿たれた虚を怒りなどの感情で埋め、決して埋まらない中身を探し、やがて疲れ、破滅に身を投じる。そうして死んでいった人間を、ゼータは飽きるほど見てきた。

 感情は強く激烈なほど、人を蝕む。

 アランの場合、彼を動かしていた苛烈なまでの竜への憎しみは、現実という名の無力感が風化させている。虚は枯渇した憎しみの代替品として、血を選んだ。命を吹き消すその瞬間の、罪悪感を。

 その感情の名が罪悪感だということを、きっと彼は気づいていない。人を殺めるという背徳感、後悔、征服感などがそれと交じり合い、この上なく甘美な蜜として彼の虚を埋めてしまった。

 ゼータ自分は相応しくなかったのだろう、アランを導く者として。人を破滅から引き上げる者として。


(いや、こうなる前にマリアスへ連れてくれば……)


 もっと早く彼ら革命団と出会っていれば。


(そもそも、この予感は……?)


 外出から部屋に帰った時を、うっすらと、本当に僅かだが、感じた気がする。気のせいと(ピスト辺りに)言われれば、そう捨て去ってしまうくらい微かに。

 それを完全に拭い取ることが出来ないのは、その瞬間から“嫌な予感”が漂い始めたからだ。あの時のアランの虚ろな眼差しも気になっている。

 取れる対処は一つ。


(奴から目を離すな)


 たった一人の、かけがえのない弟子から。

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