青春ストッキング

真波のの

第1話

 あぁ、キスがしたいな。

 だって春だし。


 鉛筆の音が響く教室で、私は考える。それはもちろん、もう解いてしまった数学の公式のことなんかじゃない。

 考えるのはタニカンのこと。谷山寛太、略してタニカン。

 私のクラスの担任。独身、二十七歳。

 先生を好きになるなんて、ありふれてつまらない私の初恋。でも、好きになってしまったのだから仕方ない。

 私は思いの丈を先生にぶつける。時に可愛く、時に切なく、時に怒って、時に踊って。でも返ってくる言葉はいつも同じだ


「おう、俺も愛してるぞ! 2‐Cのみんなをな!」


 あーあぁ、つまらないなぁ。

 こんなに好きなのに、どうしてタニカンは私のことを好きじゃないんだろう。

 タニカンのどこが好きかっていうとね、まずは顔。とにかくバランスが良い。すべてのパーツが主張し過ぎず、かといって地味でもなく絶妙なバランスで成り立っている。イケメン過ぎない所も好ましい。少しだけ薄めの唇をしているくせに、実は舌が長い所も好きだ。なんだかエッチな感じがする。

 それに体のバランスも良い。それほど背が高い訳ではないのにスーツが似合うのは、やはり腕や足や顔の大きさや長さが絶妙なおかげだと思う。

 好きな人が、同じだけ自分を好きになってくれたら、世界は平和になる気がする。そしたら、苦しいことも全部耐えられる気がする。神様はどうしてそんな世界にしてくれなかったんだろう。

 でも好きと思ってもらえるだけじゃ幸せにはなれないか。世の中って面倒臭いな。

 机に突っ伏してぐるぐる考えていると、思考が私に圧し掛かってくる。

 楽しいことだけ考えていたいのに、向き合うほどに、私のなかは余計なもので溢れていてうんざりする。あぁ、考え出したのは私だったはずなのに、私の体はもう私のものじゃない。重たくて重たくて、顔を上げることが出来ない。ずぶずぶと思考の海に沈んでゆく。

 助けて。誰か助けて。

 ……なぁんてね。

 チャイムが鳴って、私はいともあっさり顔を上げる。


「後ろのやつは用紙集めてー」


 タニカンの声は良く通る。

 テスト用紙の左端にハートを書いて、折って隠す。タニカンが見つけて、苦笑いする姿が目に浮かんで、思わず顔がにやけた。

 うーん、我ながら気持ち悪い。

 授業後のミニテストはクラス中に不評だったけれど、席が一番後ろの私は大歓迎だった。

 ミニテストをタニカンに渡すために私は学校に来ていると言っても過言ではない。

 まぁ、今の所はね。


 席に戻ると「どこがそんなにいいのかねぇ」と、スカートから覗く細い足を組み替えながら青が言った。

 園山青とは一か月前、席替えをしてから仲良くなった。

 青曰く、「タニカンを見ている時の目がハート過ぎる」だったらしく、席替え三日目にして、私の気持ちはすぐにバレてしまった。

 小柄な青は、見た目は可愛らしいのに性格はさばさばしていて付き合いやすい。

 そのわりに流行りのものには敏感で、脳が食べ物と認識するのを拒否するような色のドーナツや、なぜかケーキのように飾られたサンドイッチを食べるため……というよりは、SNSにあげる写真を撮るために私を連れまわしたりするけれど、基本的には良いやつだ。


「えー、かっこいいよー」

「んー、かっこ悪くはないけどさぁ。普通のおっさんじゃん」


 分かってないなぁ、と私は思う。かっこ悪くない普通のおっさんなんてなかなかいないのに。

 まぁ、そもそも青とは男の子の趣味はまるで合わない。

 青は男だか女だか分からないような中性的な男の子が好きなのだ。ジェンダーレス男子ってやつ。

 男の子の好みまで流行りに合わせられるのだから、徹底している。感心すらする。


「タニカンの魅力は私だけが知っていればいいのだ!」

「はいはい」


 青は大きな歯を見せて、にかっと笑った。青のこの笑い方が、私はとても好き。

 青と笑い合っている自分も好き。

 普通の女子高生っぽくて、とても好き。





「前田ってさ」


 廊下でタニカンに呼び止められて振り返る。


「璃乃って呼んでよー」


 と言うと、にっと笑ってタニカンは話を続けた。


「なんでいつもストッキング履いてるの? 珍しいよね」


 もちろん璃乃とは呼んでくれない。ちぇっと心の中で舌打ちをする。


「あぁ、バイト先の指定がストッキングなんです。履き替えるのが面倒臭いから、学校でもストッキング」


 それに最近の流行りのショートソックスは好きじゃなかった。ふくらはぎが目立つし、あまり可愛く思えない。

 青は上手に履きこなしていると思うけれど、私が履くと野暮ったくて似合わない。


「へぇ、なんのバイト?」

「カフェです。駅前の『オリーブ』」

「おぉ、あそこか! 俺毎日、目の前通っているぞ」

 

 はい、知っています。と、心の中で返事をする。


「でもストッキングって、それ絶対店長の趣味だろ」

「タニカン、おやじぃ」

「おう、もうおやじだぞ俺は」

「ストッキングは私の自由の象徴なのですよ」

「なんだよ、それ」


 ははっと、笑うとタニカンの目尻に皺が出来る。

 同じ長さの皺が三本、仲良く並んでいる。その皺が、堪らなく可愛い。


「ところで先生」

「ん?」

「愛しています。付き合ってください」


 今日はストレートに責めてみる。


「おう、俺も愛してるぞ! 2‐Cのみんなをな!」

 

 これで十七回目の失恋。

 くそう、タニカンめ。

 私がタニカンのことが好きだってことは、タニカンと青しか知らない。

 それは、私がママにしたはじめての秘密だった。





『璃乃ちゃんには出来ない』


 それがママの口癖だ。

 バイトをしたいと言った時、もちろんママは反対した。


「馬鹿ねぇ、璃乃ちゃんがアルバイトなんか出来る訳がないでしょう」


 ママは『馬鹿』もよく使う。心の底から馬鹿にしたように、口元だけで笑いながら言う。

 ママは顔の筋肉をあまり使わずにしゃべる。顔に皺が出来るのが嫌なのだ。ママは体中つるつるしているけれど、肌は年相応に劣化していて、見ているとなんだか不安な気持ちにさせられる。

 毛がない犬を見た時のような、不自然な気持ち悪さ。


「ママはね、璃乃ちゃんのことを愛しているのよ。心配しているから言うの。ママの言う事を聞いていれば間違いないんだからね」


 べたべたした笑顔。

 私はこの顔が世界で一番嫌い。

 反対されると分かっているのだから、始めから言わなければいいのにと思う。そう思うのに、私はママになんでも話してしまう。どうしてだろう。

 スカートを買っても、シャーペン一本買ったことでさえ、私は報告してしまう。そして「センスがないわね」と毎回馬鹿にされるのだ。

 私が買ったものはたいがい捨てられて、翌日にはママが用意した新しいものがラッピングされてダイニングテーブルの上に置いてあった。


『可愛いスカートを見つけたので、古い方は捨てておきました。こちらの方が璃乃ちゃんには似合いますよ。これを穿いて今度お茶に行きましょう。駅前に可愛いカフェが出来たのですよ』


『手が疲れないシャーペンだそうです。これで勉強がんばってくださいね。前回のテストは残念でしたね。勉強が出来ない璃乃ちゃんですが、ママは応援していますよ』


 手紙をびりびりに破って怒っても、自分が良いことをしたと疑っていないママは本気でなにが悪いのか分からないようだった。

 報告しないという選択肢を取れない私は、欲しいものがあるとママに頼むようになった。ママが買って来てくれるそれらは私の趣味のものではなかったけれど、自分が選んだものを捨てられるよりいくらかマシだった。

 私が頼みごとをすると、ママはとても嬉しそうだった。

 私がなにか新しいことを始めるのを、ママは嫌がった。

 ママの管理外で私が楽しんでいるのが許せないのだと気付いたのは最近になってからだ。

 ママはたぶん、私を愛していないのだと思う。私の瞳に映る、自分しか見えていないのだ。ママは自分しか愛していない。自分しか愛せない。可哀想なママ。

 私は違う。ママとは違う。

 タニカンのことは、絶対に、なにがあってもママにだけは知られたくなかった。

 なにを言われるか、分かったもんじゃない。

 でも、私のなかには正体の分からない罪悪感がずっとくすぶっていた。

 あぁ、そんな自分が嫌だ。早く大人になりたいな。

 誰にも、有無を言わせない人になりたい。


「アルバイトってね、ママとっても良いことだと思うの。璃乃ちゃんもね、もう高校生でしょう? そろそろ社会経験っていうのもね、積んだ方がいいと思うのよ。駅前の、あの可愛いカフェがね、アルバイト募集していたのよ。あそこなんていいんじゃないかしら。ママ、璃乃ちゃんにはああいう所でバイトして欲しいわ」


 そう言い出したのは、私がバイトをしたいと言った翌日だった。

 ママは私がバイトしたいと提案したことも、それについて自分が馬鹿にして笑ったこともすっかり忘れているようだった。

 こんな時、ものすごく良いことを思いついた子供のようにはしゃぐ。

 ママの意見が百八十度変わることなんてよくあることなのでとくに驚きはしなかった。私は「分かった」とだけ返事をする。


「パパはどう思う?」


 家の中では存在感がまるでないパパに、一応聞いてみる。

パパは「んっ」とだけ口にした。その後に言葉が続くと思って待ってみたけれど、どうやらそれで終わりのようだった

 私はその日のうちにオリーブに電話をした。翌日面接をして、私はめでたくバイトを始めることが出来た。

 バイトはとても楽しかった。褒められることもあれば怒られることもあったけれど、どちらも自分の納得出来る範囲に収まっているということが、とても嬉しかった。

 正しい対応をすれば褒めてもらえる、失敗をすれば注意してもらえる。そんな当たり前のことが嘘のように嬉しかった。

 気分で言っていることが極端に変わったり、よく分からないタイミングで怒鳴られたりぶたれたりしない。まるで天国だ。

 週二から始めたバイトは、今では週四に増やしていた。家にいるよりずっと快適だった。

 それに、駅を利用するタニカンを時々見ることも出来た。

 外で見るタニカンの横顔は学校とは少し雰囲気が違って見えて、どきどきした。

 今日、とうとうバイトしていることをタニカンに話しちゃったな。

 いつか来てくれないかな。そして、どうにかこうにか仲良くなって、タニカンとキスがしたいな。

 やっぱり、春だし。

 バイトに向かう足取りは軽かった。





「ママね、ストッキングって嫌いなのよ。なんだか窮屈じゃない? 女性はいつまでも生足が素敵だと思うのよ」


 毎朝、毎朝、飽きもせずママは同じ言葉を繰り返す。

 いい歳をしたおばさんが、いつまでも生足でいるなんてみっともないと私は思う。

 ママはとにかく少女趣味なのだ。小花柄のひざ下丈のワンピースにレースのくるぶしソックスを合わせるのが基本的な恰好だ。

 ママが嫌いなストッキングを穿いていることが、私は少し嬉しい。

 バイトという正当な理由があるのも、とてもいい。余計な罪悪感がない。


「今日もアルバイトなの? 高校生にそんなに働かせるなんて、どんなお店なの?」


 この人は、なにを言っているのだろう。自分が働けと言った可愛いカフェじゃないか。


「璃乃ちゃんは優しいから言えないのでしょう? ママから店長さんに言ってあげるわよ。アルバイトなんてそろそろ辞めてもいいんじゃない?」

「やめてよ!」

 

 ついカッとして、大きな声が出た。


「そんなに大きな声を出して馬鹿じゃないの? ママは心配してあげているのに。第一、高校生なんだから勉強にもっと力を入れるべきじゃないの?」

「いいから! とにかく余計なことはしないでよね! 成績だって落ちてないんだからね!」


 成績を理由にバイトを辞めさせられるのだけは、どうしても嫌だった。

 バイトがある日も、帰ってから毎日勉強だけはしていた。ママと顔を合わせる時間も減るので都合が良かった。

 ママはまだうだうだとなにか言っていたけれど「いってきます」と言って玄関を出た。

 誰も褒めてくれなくても、バイトをして勉強をしてきちんといってきますを言う私はなかなか良い娘だと思うのだけれど、そうでもないのかな。普通のことなのかな。

 ママは私のことを馬鹿だって言うけれど、私の高校は偏差値だって悪くないし、成績だって前から数えた方が早いのだから私は馬鹿ではないはずだ。きっと普通のはずだ。

 普通、普通……あぁ、もう、普通ってなんだろう。

 考えながら歩いているうちに、胸がいっぱいになって、苦しくて苦しくて、その場にしゃがみ込んだ。

 朝練をしている野球部の声が聞こえる。学校まではあと少し。でもどうしても歩くことが出来なかった。下を向いたまま涙が落ちると、ストッキングに丸い染みが出来た。


「おう、どうした?」


 心配していても、この人の声はよく通るんだな。

 こんなにまっすぐ人を見ようとしているのが、声だけで分かるなんてすごいなぁ。

 この半分でもいいから、ママも私のことを見てくれたらいいのに。

 ちゃんと、見てくれたらいいのに。


「おはよー、タニカン! 今日もかっこいいね!」


 こっそり涙を拭って、私は立ち上がった。


「お、おう。前田か。おはよう。お前、大丈夫か?」


 大丈夫だよ、タニカン。

 こんな声を私に向けてくれる人が、私の好きな人だなんてそんな奇跡が今ここにあるのだから。

 だから、私は大丈夫。


「えへへ、朝から食べすぎちゃった」

「なんだよ、びっくりさせるなよ。ちゃんと出してこいよ」

「やだぁタニカン。じゃあね、先に行くー」


 ストッキングの染みに気付かれたくなくて、私は走り出した。


「おいおい、無理すんなよー」


 後ろから声が響く。私は右手を挙げて応えてから、スピードを上げた。





 最悪だ。

 それは朝、タニカンから貰った元気なんて一瞬で吹き飛ぶくらいの衝撃だった。

 ドアのベルの音が聞こえて駆け寄ると、「いらっしゃいませ」と言って駆け寄ると、そこにはママと青がいたのだ。

 ママは朝の喧嘩なんてすっかり忘れている笑顔だ。

 なんで青とママが? 

 混乱したまま固まっている私に向かって青が口を開いた。


「お母さんが校門で璃乃のこと探していてね、バイト先知らないって言っていたから案内したの」


 私はこの場にふさわしい言葉を、やっとのことで絞り出す。


「あ、ありがとう?」


 じゃあ、と言いかけた青に向かってママが「良かったらケーキでも食べていきましょう? ここはミルクレープが美味しいのよ」と、誘う。

 バイト先を知らない設定はもう忘れてしまったらしい。


「ちょっと、迷惑だからやめてよ」

「あら、そんなことないわよねぇ?」

「あ、はい」


『ほらね』と、ママが口だけを動かして、勝ち誇ったような顔で私を見る。

そんな言い方をしたら断われる訳がないのに。


「空いている席いいかしら」


 返答も待たずに青の腕をひっぱり席に着いた。

 一度座ってしまったら、無理やり立たせて追い返す訳にもいかない。私は仕方なく水を運んだ。

 ママはいつだって、こうやって私の居場所を奪っていくんだ。

 二人は一つのメニューを覗き合っている。ママがなにか耳打ちすると、青が笑った。

 いつもの笑顔で。

 青が笑った。





 家に帰りたくない。

 ロータリー脇の花壇に腰掛けたまま、動くことが出来なかった。このまま電車に乗ってどこかに行ってしまおうかとも思ったけれど、そこまでの勇気は出なかった。

 結局二人は一時間ほどお茶をしてから帰った。

 帰り際「おもしろいお母さんだね」と、青が言った。その後のバイトはさんざんで、カップを二つも割ってしまった。

 七時過ぎの駅は、帰宅ラッシュで人通りが激しい。駅に呑み込まれたり、吐き出される人をぼんやり眺めていた。

 余計なことは考えないように、目の前を歩く人の年齢を考えるゲームをすることにした。三十歳以下と思われる人の年齢を考えるのは楽しかったけれど、おじさんとおばさんの年齢はちっとも分からなかった。

 大人に交じって、名門小学校のランドセルを背負った男の子が通り過ぎる。十歳くらいかな。私が落ちた小学校だ。

 そう、あの時もママは……余計なことを考えそうになって、頭を振る。

 あー、だめだめ。

 よし、次は十五歳以上で三十歳以下の人を探そう。そうそう、あのカップルくらいの――。

 そのカップルの正体に気付いて、私は固まった。

 カップルは私に気付くことなく通り過ぎる。

 特徴のある高い笑い声。りな先生だ。

 今年から入った新任教師のりな先生は、美人系と可愛い系の中間くらいの顔立ちで、スレンダーで背が高い。ついでにおっぱいが大きい。今、男子人気一番の先生だ。

 そして、そのりな先生の隣にいたのは、タニカンだった。



 


 セックスって、どのくらいで終わるものなんだろう。

 部屋の電気が消えて、しばらく経つ。

 スマホの充電はとっくに切れてしまって、時間が分からなかった。あぁ、ゲームなんてやらなきゃ良かった。

 このまま二人とも眠っちゃうのかな。


 電車に乗り込む二人を、気付いたら追っていた。

 二駅先で仲良く降りて、三階建てのアパートに入っていった。一階の角部屋。近付いて確認する。

 一〇三号室。表札には見慣れた字で『谷山』と書かれていた。回り込んで窓の下にしゃがみ込んだ。

 まさか気付かれずに尾行が成功するなんて思わなかった。

 微かに話し声が聞こえるけれど、なにを言っているのかは分からない。緊張で苦しいくらいに心臓が鳴っていた……のは、はじめの三十分だけだった。

 頭上から洩れていた部屋の電気が消えて、不自然に音楽が流れ出したころには、状況を楽しんでいた。耳を壁につけて澄ませてみたけれど、音量が大きくてそれらしい声は聞こえてこなかった。

 そして今、完全に惰性で私はここにいる。

 

 自分で自分が不思議だった。タニカンのこと好きだったはずなのに。好きな人が壁一枚隔てた向こうで、たぶんセックスをしているというのに、なぜか少しもショックじゃない。

 相手が、りな先生だからかな。

 りな先生かぁ。タニカン、意外とやるな。

 なんて考えていたら、突然電気がついた。


「わぁっ」


 思わず声が出てしまったのは、音楽が鳴り止んだ直後だった。

 口を手で覆う。

 再び心臓が鳴りだした。

 気付いていませんように、気付いていませんように、気付いて――。

 願い空しく、ガラリと音がして窓が開いた。

 タニカンが顔を出す。

 下を向く。

 目が、合った。

 一瞬、驚いた顔をする。


「誰かいたぁ?」


 後ろからりな先生の声がした。


「いや、野良猫」


 私の目を見たまま、タニカンが答える。

 右手で窓を閉めながら、さりげなく左手の人差し指を唇につけた。「しー」の、ポーズだ。

 顔が見えなくなる直前、『待ってろ』とタニカンが小声で言った。





「ごめんな、まだテスト作りが残ってて」


 ドアの開く音がして、タニカンの声が聞こえてきた。死角になっているので、姿は見えない。


「うん、大丈夫。じゃあ、また明日」

「おう」


 ハイヒールのコツンコツンとした音が、ゆっくりと遠ざかる。完全に聞こえなくなってから、タニカンがひょっこりと顔を出した。


「おー、いたいた。野良猫め」

「……にゃん」

「つけたな?」

「……ごめんなさい」

「……入るか?」

「え! いいの?」


 絶対、帰れと言われると思っていた。


「今日だけだぞ」

「ありがとうタニカン! 愛してる!」

「なぁ、お前のそれって、実は口癖だろ」


 口癖? 口癖かぁ。そう言われると、そんなような気もしてくる。


「図星かよ。はぁ、だから女子高生は嫌なんだ」


 なぜかタニカンは溜息を吐きながら部屋に招き入れてくれた。

 玄関ドアを開けるとすぐ左手側にキッチンがあり、正面の開いたドアの奥に部屋が見えた。

 ベッドとローテーブル、テレビにパイプラック、そしてパソコンデスク。

 パソコンデスクの上は書類が散らばっていたけれど、全体的にシンプルで片付いた部屋だ。


「へぇ、わりと綺麗だね」

「まぁ、今日はな。適当に座ってて」


 ベッドに座ろうか迷って、下に腰掛けた。フローリングの上に黒い色の丸いラグが敷かれている。

 毛足が長くてふわふわする。


「一人暮らしの部屋って初めて入った。どきどきするね」

 

 キッチンにいるタニカンに向かって言った。


「いいか。こんな夜中に一人暮らしの男の部屋に入ったらいけません」

「あはは、なにそれ。説得力ゼロ」

「うるさい」


 と言いながら二つ持ったマグカップの一つを手渡してくれた。

 タニカンが向かい側に座る。

 半ズボンとTシャツ姿のタニカンは全然先生に見えなくて、すごく不思議な気分だ。

 マグカップにはホットミルクが入っていた。


「あれ、コーヒーの匂いがしたからコーヒーかと思った」

「コーヒーは俺だけ」

「コーヒー飲めるのに」


 文句を言いながら口をつけてみたら、予想外に美味しかった。少し甘くて優しい味がする。

 マグカップが温かくて、自分が冷えていたことに気が付いた。


「で?」

「ん?」

「なんか用事があったんじゃないの?」


 そうか。そうだよね。家まで来たのだからなにか用事がないとおかしい。


「それとも、ただのストーカー?」

「ち、違うもん! 今日はすごく嫌なことがあって、家に帰りたくなくてぼーっとしてたらタニカンとりな先生が歩いてるの見つけて思わずつけちゃっただけだもん。ってか、タニカンりな先生と付き合ってるんだね。すごいね、やるねタニカン」

「言うなよ?」

「……」

「言わないで下さい」

「あはは、言わないよ」 

「で、嫌なことって?」


 タニカンが、急に真面目な顔になった。

 ここがもし学校のなかだったら、私はいつものように笑って誤魔化したかもしれない。

 でもここはタニカンの部屋だ。私とタニカンしかいないこの空間が、少しだけ私を素直にさせた。


「親といると、苦しいんだよね。ママといると、私はいつかおかしくなっちゃう気がする」


 話し出したら止まらなかった。

 ママとのこれまでのことを全部、タニカンに話した。

 いざ言葉にしてみると、どれも小さな問題のように思えてきた。

 いや、私にとってはどれも大きな問題なのだけれど、でも傷が残るような暴力を振るわれた訳でもないし、ご飯を食べさせてもらえない訳でも物を買ってもらえない訳でもない。自分が不幸だと悲観するには贅沢すぎる環境のような気がした。

 だから、想像出来てしまう返答を聞きたくなかった。


『思春期は親が面倒に感じるもの』

『親にならないと親のありがたみは分からない』

『育ててくれたことに感謝しなくちゃいけない』


 そんなこと分かっているし、好きになろうと努力しているから苦しいのに。

答えを聞く前から、私は後悔していた。

 言わなきゃ良かった。


「親なんて、あと数年の我慢だよ。大人になれば、親と付き合っていくかどうかは、自分が選択出来るから。俺はダメだったな。嫌いじゃないけど、ダメだった。二十歳から、もう七年会ってない」


 タニカンの口から出たのは予想外な言葉だった。


「ご両親と、会ってないの?」


 タニカンがゆっくりと頷く。


「妹は子供が産まれてからまた付き合っているみたいだけどな。俺はどうかな。二年前、もう吹っ切れたと思って電話で話したけど、やっぱりダメだった。手の震えが止まらなくて。許すとか、許さないとかじゃないんだ。限界まで受け入れたから、これ以上は無理だって体が拒否してんだな」


 意外だった。タニカンは普通の家で、普通に愛されて育ったとばかり思っていたから。

 タニカンがまだ傷付いている子供に見えて、「なにがあったの?」とは、聞けなかった。


「まぁ、いつでも話は聞いてやるから。それ飲んだら今日は帰れ」

「うん、分かった」


 ゆっくりと、もう冷めてしまったホットミルクを飲みほした。

 カップを持って立ち上がると、ベッドの脇に置かれた小さなゴミ箱の中身が目に入った。まるめて捨てられたストッキングは、なんだかとても生々しい。 私の足を包むそれとは、別物のように感じられた。

 あぁ。やっぱり、してたんだ。

 なんで今さら? ショックを受けている自分に動揺する。


「どうした?」

「ううん、なんでもない。カップ洗っておくね」

「おう、ありがとう」

「ねぇ、タニカン」

「ん?」

「いつか、キスしようね」

「な、なに言ってんだよ!」

「あはは、動揺してるー」

「大人をからかうな!」

「あはは」


 笑いながら、のど元まできた涙が引くのを待った。


「お前に言われると、ちょっと困るんだよ」


 笑い声に紛れてタニカンが言った言葉は、聞こえなかったことにしてあげた。

 時計を見るとちょうど十一時になった所だった。電話を借りて謝ってすぐに帰って……機嫌が良ければまだ怒られない時間かな。突然送別会をやることになったことにしよう。

 理解のある親モードになっていてくれると助かるんだけどな。

 数年の我慢、数年の我慢。

 心の中で繰り返すと、戦う勇気が湧いてくるのを感じた。

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