幼き願いの結実





「母上! 今日ね、お寺に来ていたお兄さんに遊んでもらったよ!」

「そう。よかったわね」

「うん! 虎松とらまつって言うんだって」

「……虎松?」

「うん。僕より十ばかり年上だった。剣術がすごく強くてね! それで、すっごく優しいの!」

「……そう。小太郎こたろうも剣術は得意ですものね」

母上はそう言って、泣きそうに、とても綺麗に笑った。






 五月。吹き抜ける風の気持ちいい時候であった。馬が3頭、草をかき分けて走っている。馬の上にはそれぞれ男が乗っている。一行は少しずつ減速し、ついに止まった。少し休憩するらしい。

 先頭を走っていた馬に乗っていたのはまだ十五になったばかりの少年だった。慣れた手つきで馬具から身体を外し、とん、と地面に降りる。しなやかな筋肉のついた、健康そうな男子だ。井伊虎松いいとらまつ。遠江の浜名湖のほとりにある井伊谷いいのやを治める井伊家の、若き当主である。


「近くの川まで水を汲みに行く」

「では、」

「よい。一人で行く。すぐ戻る」


 ついてこようとする従者をとどめ、虎松は一人で歩き始める。集落に入りさらに少し行くと、大きな門構えの屋敷が見えてきた。気持ちが逸る。

(このあたりは、松下がおさめている一帯だったはずだ)

 そして、この規模の屋敷となれば、その土地をおさめているものの屋敷に違いない。

 虎松は門の目の前で足を止めた。

「ここが、松下の家……」

 母のいるところだ、と思った途端、足がすくんだ。


 この先に、母上がいる。身体の底から嬉しさが溢れてきて、会いたい、と強く思う。それと同時に、すぐにその場を立ち去ってしまいたいような、逃げ出したいような心地もする。鼓動が早くなって、口の中がひどく乾いた。

 もし、自分が顔を出したら、母上はどんな顔をするだろうか。自分だとわかるだろうか。覚えているだろうか。いや、きっと分からないだろうし、覚えていないかもしれない。会いたい。でも今更、どんな顔をして? もう十年も顔を合わせていないのに。それに、突然の訪問は迷惑に決まっている。今日は諦めよう、と短く息を吐いて踵を返そうとした時、

「何か御用でございますか」

 突然声をかけられ、思わず固まる。振り返ると、乳母めのとらしき女が立っていた。

「あ、いえ。あの、少し、迷ってしまって」

 取り繕うように言うと、女はそうですか、と言いながら虎松の全身を検分するように眺めた。何か言わなければ、と思った。

「こちらは松下のお屋敷でしょうか」

「はい、左様でございます」

 やはりそうなのだ。やはり、母上がここに。

 虎松はごくりと唾を飲み込んで、精一杯人当たりの良い笑みを浮かべて乳母に言った。

「……でしたら、知っている道まであと少しのようです。助かりました」


 逃げるように足を進めた。どうして、と虎松は自問する。母上のことは、もう随分と前に諦めたつもりだった。会いたいという気持ちに区切りをつけたつもりだった。近頃の自分は、井伊家の当主になる男として強くあらねばと鍛錬を重ね、心身共に一人前になりつつある。もう弱かった昔の自分とは違うのだと、ようやく思うことができていた矢先のことだった。たったあれだけのことでこんなにも揺らいでしまう自分が情けない。焦りや動揺を落ち着かせるように、一歩一歩踏みしめながら、来た道を足早に戻った。

 

 馬を停めた場所まで戻ると、従者が申し訳なさそうな表情を浮かべて虎松様、と口を開いた。

「本日合流する手はずだった亥之介いのすけ様御一行ですが、到着が遅れているようです」

「そうか」

「彼らが到着するまでしばし逗留いたしましょう。我々を受け入れてくれるという寺も見つかりました故」

「よい。わかった」


 その日は横になってもなかなか寝付けなかった。昼間に訪れた屋敷を思い出し、それから、母との思い出を反芻する。


 虎松の一番古い記憶は、母の慟哭している姿だ。藁に包まれた塊にすがって、誰かを罵る言葉を吐きながらひどく取り乱して泣いていた。何と言っていたかは覚えていない。


 それから、乳母が泣いている姿。これはもう少し新しい思い出だ。

「そんな、虎松様があまりにもおかわいそうです」

 乳母はそう言って、虎松の小さな体を抱きしめてまた泣いた。


 まだ幼かった虎松は、何が起きているのか分からなかった。ただ、なにかよくないことが起きているのは肌で感じられた。成長して井伊家が置かれている状況を理解するにつれ、一つ目の記憶は父が殺された時のもの、二つ目の記憶は、母が別の家へ嫁ぐことが決まった時のものだと合点がいった。


 井伊は今では徳川の家臣だが、つい最近まで今川の支配下に置かれていた。当時絶大な勢力を誇っていた今川の支配は厳しく、今川の命に背こうものなら、どんな些細なことでも大きく罰せられた。具体的には、土地を奪われ、大切な家族を人質にとられ、そして、首をはねられた。井伊家の者で、今川にちゅうせられた者は少なくない。

 井伊の先代当主であった父も、今川に殺された者のひとりだ。あまりにも厳しい支配から逃れるため、表では今川への忠誠心を誓いながら、水面下で徳川と内通し寝返ろうと時期を見計らっていたことが見透かされてしまったのだ。君主への裏切りは死罪に値する。申し開きすらさせてもらえず、ただ、斬られたのだと聞いている。


 今川、徳川、井伊。三者ともに疑心暗鬼になっていた。徳川とて、井伊にふたごころがないか見破る術はない。徳川に従いますと言いながら、腹の底ではずっと今川に忠誠を誓っており、徳川に反逆する機会を狙っている可能性だって十分にある。

 そこで徳川が井伊の忠誠心を確かめるために出した条件が、「ひよ殿をこちらに嫁がせるように」というものだった。

 ひよは虎松の母で、すなわち、井伊の長になるべきものの母だ。井伊家にとって大切な奥方である。要するに人質だった。何事もなければひよは新しい土地で穏やかな一生を過ごすことになるが、徳川に背く意志が井伊にあると判断されれば即座にひよが殺されるという寸法だった。断れば、今川からも徳川からも敵とみなされることになる。そうなれば、小さな谷にある小さな家が生きのびていく術はない。


 それが、虎松が5歳になったばかりの時のことだった。

「母は行かなければなりません」

 あの日の母の声がこだまする。わかっている。井伊家の存続のためにはどうしても必要なことだった。もしあの時母が嫁いでいなければ、井伊は今ごろ滅びていただろう。

わかっているのだ。それでも、母には自分を選んで欲しかった。虎松にとってはたったひとりの母親だったのだ。他の何もいらないから虎松がいればいいと、そう言ってそばにいて欲しかった。自分の奥底に、そういう思いがある。自分で認めないわけにはいかないくらい、その思いは大きく、重くなっていた。


「難儀なものだな……」


 こんなに恋しく思うのに、母のことで覚えているのはごくわずかだった。泣いている顔はできれば思い出したくなくて、母を思う時に思い出すのは楽しかった思い出だ。寂しいときは丁寧に取り出して何度もなぞったせいで、目を閉じればすぐに思い出すことができる。

 手習いで覚えた漢詩を諳んじれば「虎松は賢いですね」といつもほめてくれたこと。怪我をして泣いていれば「痛いの痛いのとんでいけ、鶴のところに飛んでいけ」と唱えてくれたこと。どうして鶴なの?と聞いても、母は少し悲しそうに笑うだけで何も教えてくれなかったけれど、そう唱えられると不思議と痛みが和らぐような気がして、虎松はそれを唱えてもらうのが大好きだった。


 昼に訪れた屋敷を思って瞼を閉じる。母は自分のことを覚えているだろうか。幼い頃に手放した子供のことなど、きっともう覚えていないだろう。だって、あれから十年も経っている。

 泣き叫ぶ母。諳んじた漢詩。痛いの痛いの鶴のところへとんでいけ。それから……。

 通り抜ける風が冷たい。体にかけた布をぎゅ、と握りしめる。

 空が白み始めていた。



 翌日、よく眠れなかった重たい体を起こし、寺の庭を歩いていた。このあとは道場を借りて体を動かそうか、とぼんやり考えていた時だった。

 あ!と叫ぶ声がして、そのすぐあとに左腕に熱が走る。どこからか石が飛んできて、それが当たったらしい。ぱたぱたと駆け寄ってくる足音がする。

「すまぬ。怪我はしていないか?」

 溌剌とした子供の声に顔を上げると、五、六歳ばかりの男子が慌てた様子でこちらを見ていた。石を蹴って遊んでいたらしい。虎松の腕にわずかに血が滲んでいるのをみて、あ、と声をあげる。

「平気だ、これくらい舐めておけば」

 治る、と言い終わる前に、小さな手に腕を取られる。そのまま、怪我の上にその手がかざされた。

「いたいのいたいの飛んでいけ、鶴のところに飛んでいけ」

 子供が真剣な表情で唱えたその言葉を聞いて、虎松は瞠目した。

 鶴のところに飛んでいけ、と、また繰り返される。

「鶴……?」

「うん。あ、これね、僕が怪我をすると母上がいつもしてくれるの!」

 なんで鶴なのかはわからないんだけど、と笑う子供を呆然と眺める。

「そなた、名はなんと言う」

「小太郎だよ! お兄さんは?」

「虎松だ」

 とらまつ、と小太郎は繰り返す。

「……母上はご健勝か」

「うん!」

 信じられない気持ちで目の前の子供を見た。なんとも言えない気持ちが沸き起こる。

「あ、虎松、剣術するの?」

 虎松が腰に帯びている刀をみつけて、小太郎がはしゃいだ声を出す。頷くと、パッと顔を輝かせた。

「じゃあ勝負しよう! 僕、得意なんだ」


 それから小太郎に付き合って体を動かした。小太郎は小さいながら、確かに筋がよく、強かった。このまま成長すれば、それはもう立派な武士に成長するだろう。体を動かすうちに、虎松の心の内は少し落ち着いた。

 小太郎の動きが少し鈍ってきた頃、休憩しようと声をかけた。並んで腰を下ろす。

「虎松は強いね!」

「おまえも、よく鍛錬しているね」

「へへ。強い人と手合わせするのって楽しいね」

 小太郎は嬉しそうに笑ってから、ぽつりと呟いた。

「兄上がいたら、こんな感じなのかなあ」

「小太郎は長男なのか」

「そうだよ。……あ、違うかも」

 実はね、と、小太郎は声をひそめる。

「僕には、本当は兄上がいるんだって」

「…死んだのか?」

「ううん。母上が前にいたお屋敷にいらっしゃるって」

「……そうか」

 一度落ち着いた気持ちが、またざわざわと騒ぎ出す。心臓が速いのは、運動のせいだけではなかった。

「母上がね、会いたがってるんだ」

 おとなの内緒話をきいちゃったんだ。だから内緒だよ。と小太郎は続ける。

「強くて、賢くて、優しい人だって言ってた。だから僕も会ってみたくて」

 いつか会えるかな、と言う小太郎に耐えきれず、その小さな頭に手を伸ばした。柔らかな髪の感触が、虎松の手のひらに甘く残る。

「そうだな。……うん、会えるよ」

 虎松が言えば、小太郎は嬉しそうに笑った。




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幼き願いの結実 @wreck1214

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