赤い傘

平 遊

赤い傘

ぼんやりと、窓の外を眺める。

今日は、雨。

昨日も、雨。

一昨日も、雨。

当然と言えば当然、今は梅雨。

どうやらこの雨は、今週いっぱいは続きそうだと、さきほどの天気予報でも言っていたっけ。

でも、俺はそう、雨が嫌いでは無い。

そりゃ、ピーカンの方が好きではある。

出かけるのも楽しければ、傘という余計な荷物も持たなくて済む。

だが、雨の日は、それはそれで楽しみがあるものだ。

たとえば、雨の降る音。

俺の後ろのキッチンで、妻が立てている水の音によく似ている。

そして、この水の音は、俺にとってはとても心地良い。

それから、傘。

晴れている日には、余計な荷物に他ならない。

それが、雨の日には、無くてはならない必需品になる。

(あ・・・・)

ふと、窓の外を通った赤い傘が、俺の記憶をくすぐった。

もう、何年前になるだろうか。

あれは、高校3年の夏。ちょうど、今くらいの、梅雨の時期。

当時、俺はこの、鬱陶しいだけの梅雨の時期が毎年待ち遠しかった。

高校の間の3年間、ずっと、梅雨の時期は、俺にとって『恋』の時期だった。

梅雨のみならず、雨の日は-傘の必要な日は-俺の『恋』の時間だった。


(まだ、か・・・・・)

バイトの休憩時間に店を抜け出した俺は、腕時計を気にしながら、いつもの場所をうろつく。

たった一度言葉を交わしただけ、それも、傘に隠されていない鼻と口と顎のライン、それから、綺麗なストレートの長い髪しか見ていないだけの女の子に会いたい。いや、すれ違うだけでもいい。

それだけの為に、雨や雪の日になると、俺はいつもの場所をうろついた。

目印は、真っ赤な傘と、ストレートの長い髪。

赤い傘は、いくら辺りが暗くなってきていても、はっきりと分かる程に目立つ。

その傘が、遠くから近づいて来るのを確認すると、俺は飛びださんばかりの心臓を宥めながら、そしらぬフリをして、手にした傘で顔を隠すように赤い傘に近づいて行く。

たった一度、言葉を交わした-あれを『言葉を交わした』と表現できるとするならば-のは、ほんのささいな出来事だった。


まだバイトを始めて間もない、高校一年の梅雨の頃。

校則では、バイトは「厳禁」。でも、見つからなければどうってこと無い。

バイトは兄貴の名前で雇ってもらっていたし、学生服とバイトの制服とでは、パッと見、印象も変わる。

「優等生」とはほど遠い学生だった俺が、ファーストフード店で、お客相手に笑顔全開なバイトをするなんて、学校側も思わないだろうと、タカを括っていた所に、同じクラスの「風紀委員」とやらの堅物女がやって来て、俺は慌てて店の奥へ引っ込んだ。

バレるはずは無いと思う。思うけれども、その女が俺のレジにやって来たら。

向かい合って注文なんてされてしまった日には、それでもバレないなんて自信はまったく無かった。

だいたいが、今日も制服の事で、その女に小言を食らったばかりだったのだ。

(あっぶねー・・・)

俺は無理矢理に同期のバイトと休憩を代わってもらって、店の外に出た。

「はぁ・・・・」

外は生憎の空模様で、大粒の雨がポツポツと降り始めて来たが、構わずに、傘を持たずにプラプラと歩き出す。

そして、たまたま、ブラついていた、あの場所で。

「あっ」

と、すれ違いざまに彼女が言葉を発したのだ。

明らかに、俺に向かって発せられた言葉だった。

「えっ?」

慌てて振り返った俺の目には、もう、彼女の赤い傘と、その傘に隠される寸前の彼女の顔の下半分と、綺麗なストレートの長い髪しか映らなかった。

「いえ、すみません。何でもありません・・・」

小声で言って、足早に彼女はその場から去って行った。

だが俺は、動く事が出来なかった。

何かが俺の中でひっかかっていた。

あんな綺麗な髪の女の子は、今まで見た事が無い。

なのに、どこかで会った事があるような・・・・

それから暫くは、登下校中、近所の女子生徒を注意深く観察していたが、彼女らしき人物はどこにも見つけられなかった。制服から判断しようにも、赤い傘の彼女はいつも私服。どう考えても、同じくらいの年だろうとは思うものの、いくら探しても、彼女らしき人物は見あたらなかった。

傘の必要な日以外は。


そんな理由で、俺は傘の必要な雨や雪の日になると、いつもの場所をうろつくようになった。

始めて彼女と会った、彼女と言葉を交わしたのと同じ時間帯に。

(今日こそは)

毎度、そんな事を思いながら、俺は赤い傘に近づいて行った。

何の事は無い。もう一度、今度はこちらから声を掛けて、傘に隠された彼女の顔を見たかったのだ。

だが、結果はいつも、すれ違うだけ。

「あの」でも、それこそ「あっ」でも、言葉は何でもいいはずなのに、すれ違う瞬間になると、喉の奥が乾いて声が出てこない。

最初は何故だか分からなかった。

別に、人並みはずれて【オクテ】な訳でもなかったし、女嫌いでは全く無かったし。

女友達だって、ごく普通に何人かはいた。

なのに、彼女にだけは、どうしても声を掛ける事ができない自分がいる。

最初の一年は、その理由がどうしても分からず。

次の一年で、薄々気づき。

高校最後の年、もうじき梅雨も明けようという頃になって、やっと自覚した。

(俺はもしかして、顔も知らないあの子に、恋をしているのか?)

そして、自分の鈍さを心から呪った。

彼女の姿を目にできるのは、もしかしたら今年が最後かもしれない。

(俺は、今まで何やってたんだ・・・・)

もうじき、俺はバイトを辞める事になっていた。

大学進学。でなければ、就職活動。

どちらにしても、本腰を入れないと。

だから、その前に、どうしても彼女に会いたかった。

彼女の事が知りたかった。

高校最後の夏。バイトの最終日。

タイムリミットは、程なくしてやってきた。

梅雨も終わりかけていたが、運良く天気は雨。

(今日こそは。)

俺の決意は、今までになく、固かった。


(ちっ・・・・なんでこんな日にまで来やがんだよ・・・・)

舌打ちをしたい気持ちを堪えて、俺はレジを離れた。

「休憩入りまーす」

隠れるように奥に引っ込みながらチラッと店内を見ると、やはり例の「風紀委員」の堅物女が店に来ていた。

何の因果か、3年間ずっと同じクラス。

3年間、あれやこれやと、小言を言われっぱなし。見間違うはずがない。

教師に俺のバイトの事をチクッた様子も無いし、バレていたとも思えないのだが、この3年間、その女は実によく、この店にやって来ていた。

その度に、俺は休憩に入り、店の奥に隠れなければならなかったのだが、まぁ、それも今日で終わる。

今日で終わりだから、今日くらいは来て欲しくは無い、とも思っていたのだが、来てしまったものは仕方が無いだろう。

それに、堅物女が来てすぐ休憩に入ると、ちょっとブラッと出かける時間帯が、ちょうど傘の彼女に会える時間帯なのだった。

(今日も来てくれよ・・・・)

傘を手に、店から外に出る。

差さなくてもいい程度の霧雨ではあったけれども、俺は傘を差して、いつもの場所に向かった。

(来た)

遠くから、赤い傘が近づいて来る。

いつものように、いや、それ以上に心臓はすごい速度で胸を叩いている。

反比例のように、俺はゆっくりゆっくり、傘に近づく。

そして。

アッという間に、すれ違った。

すれ違ってしまった。

足音は、俺の後ろをどんどん遠ざかって行く。

(終わった・・・・)

緩慢な動作で俺は傘ごと振り返り・・・・

考えるより先に、走り出していた。傘をその場に放り出して。

「あのっ!」

瞬く間に追い抜いて、彼女の前に回り込む。

「すいませんっ、俺っ、ずっとあなたの事が気になっていて、あのっ、お名前だけでも教えて貰えませんかっ!」

雨が目に入ったせいなのか、それとも、彼女の顔を見るのが怖かったせいなのか。

今となっては分からない。

彼女の前に立った時には、俺は固く目を瞑っていて。

言い終わると同時に、おそるおそる目を開けて、彼女の姿を確認したようで。

「あ。」

目の前の彼女の姿に、俺は知らず、声を発していた。

そこに居たのは、俺の知っている子だった。

いつも、クラスで会っていた子だった。

実によく、バイト先にやってきた女だった。

でも、俺の知らない姿だった。

「私の名前なら、知っていると思うけれど。」

照れたように、彼女は笑い、顔に掛かった長い髪を手で後ろに流す。

「あ、あぁ・・・」

赤い傘の彼女の正体。

それは、3年間ずっと同じクラスだった、「風紀委員」の堅物女。

きっちりと規定通りの制服に身を包み、一筋も乱れないほどにキツく三つ編みしたおさげ頭の、堅物女。

「知ってる、な。うん。知ってる。」

でも、正体を知ったその後も、俺の胸は激しく打ち続けたまま。

「あ・・・雨、上がってる」

言って、赤い傘を静かに閉じ、彼女が笑って俺を見る。

「・・・・うん。」

なんだか、俺は正面から彼女を見ることが出来なくて、さっきまで編んでいたなんて思えない程綺麗な彼女の髪の毛を見つめていた。


「あれ、また雨降ってるの?」

キッチンの片づけを終え、後ろからかけられた妻の声に、一気に思い出から引き戻された。

「あ、あぁ。そうみたいだな。」

「お買い物行きたいんだけどなぁ。止みそうにないよね。」

しょうがない、傘差して行ってこよう。

などと呟きながらも、妻は、後ろで1つに束ねていた昔と変わらぬ綺麗な髪をほどき、イソイソと出かける支度を始める。

「俺も付き合うよ。」

「ほんと?じゃ、行こう!久しぶりのデートみたいね。」

まるで、青春時代に戻った感じがして、妻のはしゃぎ振りがなんとはなしに照れくさい。

「おい、早くしろよ。」

照れ隠しににもならない声をかけると、俺は先に玄関へ出て妻を待った。

俺の黒い傘と、妻の真っ赤な傘を手に持って。

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