第10話 負けないで-最終話
あっと言う間にバッティング練習の準備ができた。イチローは久しぶりのマウンドの感触を確かめながら、ゆっくりとウォーミングアップを始めた。ボールが幾分手に馴染んでいない感触がする。それでも、肩は軽い。足も軽い。それよりも、マウンドに立っているのが気持ちいい。綾の目も勇気を与えてくれている気がする。
―――ようし、来い。
3年の崎森が打席に入った。イチローはじっと崎森を見据えた。今までに見たこともない落ち着きのある姿だった。ゆっくりとしたフォームからストレートを投げた。その球は低く地を這うように伸びて、低めに決まった。
―――よし。
次の球も低く決まる。
オイオイ、ドウシタ!
イチローだぜ!
バッティング練習だぜ!
打って行こうぜ!
野次とは裏腹に崎森の打ったボールは前に飛ばない。
―――よし、次、変われ。
監督の指示で緑川が打席に入る。何球かはヒット性の当たりになったが、イチローの判定勝ちという内容だった。
―――やるな、イチロー。俺が相手だ。
キャプテンの東が打席に入った。初球は膝元一杯に入った。東は手が出ずに見送った。そして、東の表情が変わった。真剣勝負の様相の中、イチローは淡々とボールを投げ込んできた。東の打球は、ついに内野の頭を越えることはなかった。
レギュラー全員を相手に投げ終わると、イチローはマウンドで一礼をして監督の元へ走り寄った。駆け寄ってきたイチローに向かって監督は笑みを浮かべながら言った。
―――たいしたもんだ。完全に俺の見込み違いだったな。イチロー、お前はすごいやつだ。
イチローは帽子を取って深々と頭を下げた。
―――勝手なことをして、すいませんでした。おかげで、努力することがどういうことかわかりました。
―――何を言うんだ。それは全部お前の手柄だ。
―――監督、ひとつお願いがあるんですが。
―――何だ、気味悪いな。お前のお願いというのは。
―――監督、オレを外野手に転向させてください。
―――何を言うんだ。お前はピッチャーでやれるじゃないか?
―――でも、江川が投げてるときは控えだし、それならずっと出てる外野のほうが面白いかなって。
―――いいさ、それでも。ただ、ピッチャーも続けてくれるな。
―――オレは何でもやりますよ。オレは、緑ヶ丘のイチローだからね。
得意満面のイチローを監督ですらたしなめることはできなかった。綾が小さく拍手している。ジローはいつものようにイチローを見ている。チームメイトはなかばあきれながら、それでも、いつものように野次が飛ぶ。その声はグラウンドの空高く舞い上がっていき、光の中に溶けていった。
グリーンスクール - 負けないで 辻澤 あきら @AkiLaTsuJi
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